ノート:太平天国の乱
明らかに不適切と思われる表現が多かったので,本筋に影響を与えない範囲で訂正・削除しました。変更は以下の5点。
①「結果として、漢民族大衆を吸収して雪だるま式に膨れあがった太平天国軍は何度も清軍を打ち破った、というよりも各地で賊に豹変した漢民族が官兵をリンチした。さらに、道中で抵抗する城の住民の皆殺しを行ったり、武州で美女を集めたりと、徹底的な略奪や加害行為を繰り返し、清を根元から崩壊させる役割を存分に果たした。なお、太平天国を美化するキャンペーンが往々にして張られるが、これこそは虚偽を真実とし、真実を虚偽とする卑劣なプロパガンダの嚆矢であろう。事象のさまざまな側面を検討しないプロパガンダは歴史への正しい見方とはいえない。」
→「結果として、漢民族大衆を吸収して雪だるま式に膨れあがった太平天国軍は何度も清軍を打ち破った。また,太平天国軍は道中で抵抗する城の住民の皆殺しを行ったり、武州で美女を集めたりと,徹底的な略奪や加害行為も繰り返した。このことは清を根元から崩壊させることになった。」
②「太平天国はほとんどが華南人(東南アジアやオセアニアに居住する華人も彼らが主力である)なので華北に遠征すれば気候の違いで体に悪い影響がある事が自明だったからである。それと同時に華中華北においては、雪だるま式に膨れ上がる反乱軍の主体である火事場泥棒的民衆が、華南ほどには確保しにくい事情があった。」→「太平天国はほとんどが華南人なので華北に遠征すれば気候の違いで体に悪い影響がある事が自明だったからである。それと同時に華中華北においては、雪だるま式に膨れ上がる反乱軍の主体である民衆が、華南ほどには確保しにくい事情があった。」
③「1853年5月8日、太平天国軍は北京に対し、自称北伐軍を発した。途中いくつかの城を落としながら進んだが、心配していた気候の違いによる兵士の体調不良、そして火事場泥棒的民衆の補充不足が顕著に表れ始め、1855年5月3日に清軍に大敗し北伐軍は壊滅した。」→「1853年5月8日、太平天国軍は北京に対し、北伐軍を発した。途中いくつかの城を落としながら進んだが、心配していた気候の違いによる兵士の体調不良、そして兵の補充不足が顕著に表れ始め、1855年5月3日に清軍に大敗し北伐軍は壊滅した。」
④「その後の太平天国は組織を維持するための略奪先が無くなり、火事場泥棒が雪だるま式に膨れあがった性質が弱点として顕著に表れ、」→「戦果がなくなった太平天国軍は兵糧の確保に困難を来すようになり,急激にふくれあがった組織は内部の結束における弱点が顕著に表れ、」
⑤「現中国や世界各地に点在する華人は、この太平天国の乱を評価している。本質は推して知るべきであろう。真実を虚偽とし、虚偽を真実とする人達は、どこであっても同様のことを繰返す可能性が高い。」→削除
--222.8.169.54 2005年1月16日 (日) 21:53 (UTC)
ご苦労様です。222.8.169.54氏のこの度の訂正支持します。Dokutou
執筆課題(06/02/14時点)
[編集]- 文章が紋切り型
- 図表一切無し(他力本願)
- 記載漏れ
- 聖庫、洪秀全の大同思想、日本に与えた影響、滅満興漢、長毛賊・長髪賊、キリスト教理解と儀式、評価、後日談・逸話(洪天貴福や他の王の行方、石達開伝説、劉永福の黒旗軍)、中共への影響
- 南京の呼称や年号記載の統一
- 史料紹介不要?
- 菊池秀明氏の研究未消化--Dokutou 2006年2月14日 (火) 02:26 (UTC)
太平天国文字について
[編集]「国はくにがまえの中を玉ではなく王とする文字、囯等を作った。」という記述が「宗教・思想的側面」の段に見えるのですが、いったいこの記述の出典はなんでしょう? 太平天国より古い用例では玉よりも王のほうが多いようです。 Kzhr 2006年2月14日 (火) 17:31 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。言われるとおり該字は『正字通』にありますね。本文も訂正しておきました。--Dokutou 2006年2月15日 (水) 09:36 (UTC)
- 訂正内容拝見しました。ただ、太平天国が意図して王の国を使ったのでしょうか。当時それを使うのが普通でそれに従っただけならば特記するに及ばないようにも思われます(でもそうしたら國になるのでしょうか)。 Kzhr 2006年2月16日 (木) 00:58 (UTC)
- 度々ご意見ありがとうございます。ご意見を検討させていただくために、ちょっと調べて返答が遅くなってしまいました。ただあらかじめ申し上げますと、太平天国関係の史料で影印のものは持っておりませんので、どの程度の頻度で彼らが使用していたかはこれまでのところ調べがつきませんでした。この時代においてどの形態の「国」を使用したのかについては、ある丁度目処がついたかと思います。清朝の実録については影印本を所有していますので、調べたところ、たとえば「又諭前據總理各國事務衙門奏遵議設立學習外國語言文字學館、爲同文館」(『穆宗毅皇帝実録』巻五十七)とあり、公文書では「國」を使用するのが一般的です。またちょっと時代が下るのですが、康有為という人物の「明袁督師廟記」にも「自壞長城而國亦殄滅」とあり、個人の文章であってもあらたまったものを書く場合は「國」を使用すると思われます。個人の感じ方ですのであやふやですが、わたしが史料を読んでいてほとんどは「國」を使用しているように思います。ですので太平天国はあえて使用したといってよいのではないでしょうか。
- 元々この「国」に関する部分はIP氏が挿入したものなのですが、彼(もしくは彼女)はフォントから推測するに恐らく中国語Wikiから持ってきたのだと思います。それをわたしが整理するときに曲解して使用したのが顛末です。書き直しの際、わたしも削除することを考えたのですが、IP氏への負い目もあり、そのままにしておきました。もしどうしても気になるようでしたら、削除してください。取り急ぎ、上記の件、お答えします。--Dokutou 2006年2月16日 (木) 14:38 (UTC)
- 訂正内容拝見しました。ただ、太平天国が意図して王の国を使ったのでしょうか。当時それを使うのが普通でそれに従っただけならば特記するに及ばないようにも思われます(でもそうしたら國になるのでしょうか)。 Kzhr 2006年2月16日 (木) 00:58 (UTC)
調査ありがとうございます。康煕字典に正字通の引用があってそれには「俗」とありますね(囗4画)。杉本つとむ『異体字とは何か』(日本語講座I、桜楓社、1978)によれば「宋元以来俗字譜」に「[囗<王][1]」が収録されているようです。扨、「俗」とはなにか、といえば、改まった場所では使うに適さぬ字であってそれ以上ではありません。洪秀全は科挙にいっていたようなので「國」を遣った可能性もありますが太平天国の参加者たちは「[囗<王]」を遣っていた可能性もあります。あえて、というのは明白な意思ですが、「[囗<王]」のほうが普通だというのであればそれは意思ではなく、わざわざ書くことでないと思いコメントアウトすることにしました。 Kzhr 2006年2月18日 (土) 05:56 (UTC)
- 本記事の訂正および新たな視点でのご指摘ありがとうございました。大変勉強になりました。とりあえずはIP氏が何か新たな根拠でもって修正するまで該当箇所については書き改めないようにしたいと思います。
- ただわたしが「あえて」と申し上げた理由をもう少しだけ説明したいと思います。実は章炳麟の小学について調べていて偶然思い至ったのですが、わたしが調査したのは紙媒体の史料ばかりでした。そこでGoogleで「太平天国 銭」で検索をかけたところ太平天国銭が写真にて公開されていました。(Yahooオークションでは2千円弱で買えるようです) それをみるとどの銭も「[囗<王]」を使用していました。無論清朝に限らず歴代王朝の銭はいわゆる繁体字をどれも使用しています。(残念ながら「國」を使用した古銭はなく、朝鮮古銭にのみ発見しました) 貨幣は国家の顔とも言えますので、俗字を使用するわけはありません。すなわち太平天国は「[囗<王]」を俗字として使用したのではないと思います。そもそも俗字か否かの判定には当然国家権力が介在していますが、太平天国は清朝が俗字としたものを「あえて」俗字ではないものとして使用したと解釈すべきではないでしょうか。新字の作成、新たな元号の制定、新たな貨幣の造鋳は現政権に対し異志を抱いていることを明確化すると共に、自勢力の範囲がどの程度かその流通を以て測るバロメーターともなっているからです。この場合、新字作成というよりも新認定でしょうか。(元号については、わたしの加筆した孔子紀年をご参考ください) 残念ながら、写真の古銭が本物かどうか確認する術がないこと(あらためて探した研究書馬定祥『太平天国銭弊』1983にも同様の図があり「[囗<王]」を使用していましたが)、古銭以外の証拠がないことから以上の推理は机上の空論と言わねばなりません。ですが、「あえて」ということばを使用した理由の一端をわかっていただければ幸いです。恐らく上記の文に乱文・無理解が多々含まれていると思われますが、ご容赦ください。失礼します。--Dokutou 2006年2月18日 (土) 11:07 (UTC)
- ありがとうございます。「敢て」を判断するためには太平天国の文字使用についてある程度調べる必要がありそうなので意義について保留することにします。 Kzhr 2006年2月18日 (土) 14:16 (UTC)
アロー号事件
[編集]よく知らないのですが、アロー号事件も同時進行で…という記述は時期的にありえないのではないですか?--Yoxi 2008年8月19日 (火) 16:43 (UTC) 失礼、言葉足らずでしたが、全体としてはそうなんでしょうが、書かれている位置が(あるいは書かれ方が)よくないのでは?総括とクロノロジカルな描写が混ざっているような
犠牲者数に関して
[編集]第二次世界大戦の総犠牲者数が6000万といわれているのに対して、太平天国の乱で4000万は無いでしょ、いくらなんでも。当時の清の一割の人口ですよ?--らりた 2008年12月3日 (水) 12:33 (UTC)
- 狭間直樹等『データでみる中国近代史』有斐閣、5ページによると、1840年には総人口4億、1873年には3億5000万とあります。同ページに、総人口は太平天国のため70年代にかけて減少したとあります。太平天国は中国の人口最密集地帯であった湖広、江南を直撃したため、犠牲が多かったという話は聞いたことがあります。--ポコポコ 2009年8月23日 (日) 13:56 (UTC)
- 追記ですが、同書には太平天国の乱の犠牲者数自体は明記していませんので、私からは上記は記事に反映させません。太平天国史の統計的研究、中国人口動態史の研究あたりをあたる必要があるでしょう。私がそれを出来るかは確約できませんが・・。一応参考意見として。--ポコポコ 2009年8月23日 (日) 14:04 (UTC)
- こちらのページにも書いてありますが、「単に国家統制力が衰えて登録数が減っただけ」と「戦争による犠牲者」という違いかと。らりた 2009年8月24日 (月) 12:17 (UTC)
- 『データでみる中国近代史』にあったのは、推定人口数の話題であり登録人口数の話題ではありません。1億何千万と死んだというのは私も少しどうかとは思いますが、これ以上は学術的に権威が担保される、具体的な研究例を見つけないと進みようがないと思います。--ポコポコ 2009年8月26日 (水) 11:48 (UTC)
- こちらのページにも書いてありますが、「単に国家統制力が衰えて登録数が減っただけ」と「戦争による犠牲者」という違いかと。らりた 2009年8月24日 (月) 12:17 (UTC)
- 英文版は「Autumn in the Heavenly Kingdom: China, the West, and the Epic Story of the Taiping Civil War」著者Stephen R. Plattを典拠として推定2000万としていますね。何も書いてないのも変ですから、これを載せておくのも一案ではないでしょうか --125.215.127.83 2013年5月12日 (日) 06:25 (UTC)
囯
[編集]The Taipings did not use the characters 國 or 国; instead the used 囯, which is an uncommon variant which subtly omits a dot stroke from the variant 国. The actual name is 太平天囯. -- 李博杰 | —Talk contribs 2010年1月6日 (水) 03:49 (UTC)
上帝という訳語について
[編集]モリソン訳の聖書では、ゴッドを神と表記しました。「上帝」という訳語は、1840年出版のギュッツラフ訳です。おそらく、洪秀全はギュッツラフ訳聖書を見て、上帝という言葉を使ったのでしょう。ご存じのことと思いますが、中国語聖書は、その後、上帝版と神版のふたつの聖書が流通して今日まで来ています。hirokuro 2020年7月16日 --Hirokuro(会話) 2020年7月16日 (木) 13:35 (UTC)
分割提案
[編集]分割提案のやり方がわからなかったのでこの提案を読んで誰か賛同してくれる方がいらっしゃったらお願いします。さて。太平天国の乱と太平天国のページは日本語以外の言語版では分割されているのがほとんどです。私個人としては「太平天国」と「太平天国の乱」は、国(未承認だが)と事象の違いがあると思っているので、分割すべきでないかと思いました。--氷の名無しさん(会話) 2022年10月30日 (日) 07:30 (UTC)