ノート:孔子/過去ログ1
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述而不作
[編集]「述べて作らず」、「作者」ではなく「述者」と孔子は言われてますが、それを「儒教の創始者」と言い切って良いのでしょうか? 「作者」と主張しているのは康有為のような異端中の異端だけだと思うのですが。 どなたか最新の研究動向を知っている人おられませんでしょうか?。--218.230.234.218 2006年1月14日 (土) 2006年1月14日 (土) 10:52
- 「先王先賢の教えを述べて儒教(後世そう呼ばれる新しい思想体系)を作った」わけですから、「創始者」のままでよいと思います。「述べて作らず」との整合が気になるのでしたら、そういったことを追記するとか。--井上経介 2006年1月14日 (土) 12:39 (UTC)
- 孔子は教団を作ったようですがその集団が儒教を形成したわけではなく、唱道者とはいえないでしょう。 Kzhr 2006年1月14日 (土) 14:39 (UTC)
- では、いったい誰が儒教の祖となったのでしょうか。「いつの間にか自然と形成された」なんてことはないでしょうし、孟子や董仲舒が創始者だとすれば、キリスト教もパウロが創始者だということになってしまうでしょう。--井上経介 2006年1月14日 (土) 23:25 (UTC)
- キリスト教はキリストを神として信仰する宗教であって、キリストが創始者とはいわないと思うのですが。またもしキリストを創始者とする考え方でいくと、周公や三代の聖人が創始者となるのではないですか?立場としては孔子はパウロに近いのでしょう。単に儒家という「学団」の創始者というべきだと思われます。221.190.140.188 2006年1月15日 (日) 01:30 (UTC)
- 問題は、儒教であれキリスト教であれ、その歴史上で最も重大な画期はどこだったのかだと思います。唐虞の伝説は孔子の遙か以前からありましたし、それを理想としたのは何も孔子だけではありませんが、「仁」を徳目として唱えたのは孔子が初めてです。パウロはキリストを待っていたが、キリストはパウロを待っていなかった、そういうことではないでしょうか。--井上経介 2006年1月15日 (日) 06:27 (UTC)
- 儒教が孔子なくして成立しなかっただろうことは事実でしょうが、それをして彼が儒教を成立させたのでもありません。仏教やキリスト教、イスラームのようにその唱道者自身の教団がその後の宗教に密接な繋がりが有る様なのは儒教にはありません。老荘をして道教の始祖に結びつけるようなものです。 Kzhr 2006年1月15日 (日) 06:42 (UTC)
- 繰り返しになりますが、ではいったい誰が儒教の祖となったのでしょうか。まさか「いつの間にか自然と形成された」なんてこともないと思います。
- 「その唱道者自身の教団がその後の宗教に密接な繋がりが有る様なのは儒教にはありません」とのことですが、どのように密接に繋がっていないのかを説明してくださると幸いです。また、老子は実在が疑われているだけでなく、その著書とされる『老子道徳経』と後世の民衆宗教道教とは別物なので孔子と比較することはできないでしょう。--井上経介 2006年1月15日 (日) 13:15 (UTC)
- 儒教ですが、儒学、儒家思想に関して言えば孔子が祖であると言っていいと思いますが、宗教的な側面からは孔子を祖ということはできないと思います。詳しくはありませんが宗教的な孔子の崇拝というのは、孔子自体が意図して形成した物ではないというのがあったと思います。上記の文を一読した限りでは学問・思想からみた孔子と、宗教的な意味での孔子の捉え方ですれ違いを起こしているような気がしました。いかがでしょうか?-利用者:Ananda/sig 2006年1月15日 (日) 15:15 (UTC)
- あの、218.230.234.218ことDokutouです。前回ログインめんどくさくて、IPのまま投稿しました。こんなにもめると思わなかったのですが、議論を進めるために具体的にどの研究によって意見を述べているかを明らかにしてはどうでしょう。wikiは基本的に論争の場ではなく、時の研究成果を反映させる場でしょうから。(どの研究成果を反映させるか、という論争はあり得るでしょうが。)ですので最初に最近の研究ではどういう捉えかたしているのかな、という意味合いのことを書いたわけです。といいながら不勉強で、言っている本人が研究を満足に挙げられないのですが。そして最新どころか何百年前のものを引っ張って恐縮ですが、私自身が強い引っかかりを覚えたのは、朱子注をたまたま覚えていたからです。「述而篇」冒頭の注に「述、旧を伝うるのみ」、「作、則ち創始なり」とあります。つまり「作らず」は「創始ではない」ということですよね。ですので「創始者」ということばが引っかかりました。井上様もKzhr様も儒教が「儒」と呼ばれるシャーマン的な職種における様々な知識・伝統を体系化して成立した、という基本的な知識は共通のものだと思います。そこからの解釈が違う。わたしは体系化したという点を記事に反映させるなら、「大成者」という言葉の方がよいのではと考えます。ちなみに「創始」とは、「新たに物事をはじめること」で、「大成」とは「多くの資料などを集めて一つの秩序だったものにすること」だそうです(大辞泉)。いかがでしょうか。--Dokutou 2006年1月15日 (日) 13:21 (UTC)
- あなんさんへ。ご指摘ではっと気付かされました。確かに私は、本項や別項「儒教」もそうしているように、祭祀としてより思想としての儒教を念頭に置いていましたので、その所為かもしれません。ただ、もちろん各地の孔子廟は孔子の遺志によるものではありませんが、孔子廟は孔子だけを崇拝していればよいという独自宗教の施設ではありませんし、その意義は思想としての儒教の副産物くらいではないかと思います。
- Dokutouさんへ。偉そうなことを言っておきながら私も最新の研究成果は紹介できません。しかし、『孟子』萬章章句下にも「孔子は之を集めて大成せりと謂ふべし」とありますので、「大成者」はよい表現だと思います。--井上経介 2006年1月16日 (月) 03:42 (UTC)
- 他の百科事典などを見ると、「開祖とされる」とか「祖師として仰がれた」とか後世の視点に立って記述される例が多いです。儒家にしろ儒教にしろ、その後の歴史的展開の中で孔子やその思想に対する解釈は多様化していきましたが、孔子を大本の師匠としたことは変わらなかったとはいえるでしょう。「創始」という言葉がなじまないのは儒教自体の性格にあると思います。身分や年齢による秩序の構築を志向し、その根拠を昔の時代に求めているのですから、昔からあるものを利用しようという主張であって創造とか変革とは本来、かけ離れています。それを敢えて改革者だといいきったのが康有為ら今文学派であって、そのような見方は儒学史上の一部の立場であるといわねばならないでしょう。221.190.142.18 2006年1月16日 (月) 05:08 (UTC)
まず井上様、当方の意見に賛同してくださりましたこと、孟子について教えてくださりましたこと合わせてお礼申し上げます。他の方々もわたし質問につきあってくださりありがとうございました。 現時点での小結論が出たと思われますので、暫定的に「「儒」と呼ばれるシャーマン的な職種における様々な知識・伝統を体系化し儒教を大成させた」という一節を挿入しました。もっと良い文案があると思いますが、案をお持ちの方は是非再修正お願いします。失礼します。--Dokutou 2006年1月17日 (火) 13:47 (UTC)
系譜
[編集]系譜の節で旧字が多用されていますが常用漢字に変えても差し支えありませんか?--代言人 2006年2月3日 (金) 12:23 (UTC)
- すみませんが、よろしくお願いします。--井上経介 2006年2月8日 (水) 12:26 (UTC)
訂正について
[編集]子孫・系譜を除く本文のほとんどを訂正させていただきました。実績の中のシャーマニズム・宗教性について訂正していないのは、ここは意見の分かれるところだからだといっておきます。訂正の内容は東京大学に現存する図書資料を参照し、講義で知ったことを加味したものです。全体として、やや批判的な内容になっていますが、原典たる論語を参照した結果そうなった、とだけ申しておきます。根拠は(『論語』)として指し示しておきましたのでご参照ください。また、司馬遷をはじめとする孔子没後の儒家の記述には虚実が混ざっているため、扱いに注意が必要です。本文では史記の孔子世家を根拠としておられましたが、孔子世家は捏造の最たるものです。それから「昌平」「文宣王」等の用語に補足を付けさせていただきました。最後に(ノート参照)についてですが、”発明”と記述したのは、漢の儀礼体系はそれまでの儀礼体系(すなわち秦)などとは全く別に儒家が独自に考え出したものだからです。高祖・劉邦は農民の出であり、その部下も身分が低く宮廷儀礼を知るものは皆無でした。そこで儒家は孔子が自らの王朝を開くことを夢想しながら捏造した儀礼体系に頼らざるをえなかったということです。以上です。2006年12月20日(水)
- 加筆ご苦労様です。いくつか疑問がありますので、お答えを賜れますでしょうか。ウィキペディアにおいては書き手の見識よりも、"具体的な論拠"が重視されますので、そのあたりもご留意のうえ、お答えください。
- 漢代の儀礼が儒家の「発明」である点、また『史記』孔子世家がデタラメであるとおっしゃっていることについて、何か先行論文等の典拠があってそうおっしゃっていると思います。ご教示ください。
- 「東京大学に現存する図書資料」を利用したとおっしゃいましたが、東大にしかない貴重な史料を使用されたということでよろしいでしょうか。後学のためにも、ご教示くだされば幸いです。また、その史料をどのように使われたのでしょうか。
- 以上です。よろしくお願いします。Aboshi 2006年12月20日 (水) 15:35 (UTC)
1、についてですが、直接的には授業プリントと東北大学の浅野祐一先生の研究を参考にしました。
2、については語弊がありました。誤解を与えてしまったことを平に誤ります。すみませんでした。これはレポート作成の際に図書館を利用して、そのときに読んだ本を参考にしたという程度のもので深い意味はありません。(先ほど挙げた浅野先生の著書と関口先生の著書を比べる、といったものです)私は、まだ学部生で、持ち出し厳禁の貴重な資料に触れたことはありません。2006年12月21日(木)
- ご誠意あるご回答、大変うれしく思います。
- さて、浅野裕一先生のお名前が出てきましたが、やはりそうでしたら出典(著者・論文/書籍名・発表元・発表年)を明確にするべきでしょう。ウィキペディアはそ書き手が何者なのかわからないという特性上、内容の信用性が読み手に一切保証できないため、出典を明確にしておくことが特に求められます。また、浅野先生の研究はたとえ優れているといっても紀元前以来の深く長い孔子論の末尾に位置するものです。最終的な目標は、ある一つの見解についてまとめるのではなく、その長い研究史がわかりやすく概括されていることにあるというように考えてください。
- とはいえ、残念ながらウィキペディアにおいては記事数はよく増えたものの内容についてはまだまだ発展途上でし。私が述べた問題点についてきちんとなっている記事はまだまだごく少数です。また、「孔子」という記事においてあなたが浅野先生の論を中心に記事を加筆されたことは大きな進展であることは間違いありません。Wikipedia:スタイルマニュアルやWikipedia:出典を明記するなどをご覧になって、よりよいウィキペディアの加筆をしてくだされば大歓迎です。将来卒業論文を書く上でも、「まとめる」力をつけておくことは必ずあなたに益することになりますよ。Aboshi 2006年12月22日 (金) 12:53 (UTC)
おっしゃるように出典の明記に甘さがあったように思います。孔子について興味があるのなら浅野先生の研究ぐらい知っているだろうといった類の慢心、そして、自分の常識を押し付けるようなおこがましさもあったように思います。また、歴史の有機性を無視し、恣意的に組み替えることは歴史を殺すことであるということも考慮しておくべきでした。ただ、歴史の痕跡を見る視点は多様であるべきであり、かつ、歴史的痕跡と齟齬を引き起こさない類のものでなくてはならないということを孔子世家の批判をつうじて言いたかったのだと理解していただきたいと思います。ところで、市販の本では浅野先生の「孔子神話」(岩波書店)が一番良くまとまっているようです。他にも「諸子百家」(共著・岩波書店)や「古代中国の文明観」(岩波新書)も参考にはしましたが、今回の編集の内容は本書に依拠しているといっても過言ではないのでここに挙げておきます。類書(というより普及版)としては「儒教-ルサンチマンの宗教」(平凡社)があります。ご一読ください。孔子を肯定的に見る著書が本流の中、あなたに孔子について考えるための新たな材料を提供してくれることは間違いありません。視野を広げるのに役立ちますよ。(当然、孔子に関する他の著書も参考にしなければいけませんが)その上で本文の訂正をしてもらえたら、と思っています。また、同書に依拠して儒教の欄にて徳治主義の矛盾についても以前に編集させていただきました。さて、これ以上の質問を受けることもないでしょうから、これで一段落とさせていただきます。再び訂正することがあればノートを活用させてもらいますが、それまでは見ることもないでしょうから書き込みに対する応答は期待しないでください。 2006年12月23日(土)
- ご紹介ありがとうございます。またニアミスした際にはよろしくお願いしますね。Aboshi 2006年12月24日 (日) 03:14 (UTC)
導入部
[編集]導入部(冒頭の説明文)が冗長ではないでしょうか。導入部は、読み方や概要説明にとどめ、詳細な内容は解説本文に記述したほうが百科事典としてわかりやすいと思います。皆さんのご意見をお聞かせください。--Hotsuregua 2007年1月28日 (日) 12:57 (UTC)
「導入部が冗長」とのことですが、それでは具体的にどのように編集すれば良いと考えているのでしょうか?「導入部」の内容は、実績・功績・子孫・系譜・関連項目のどの項目にも一致しませんし、それを無理に組み込むことは体系性を失うことにつながりかねないものであり、逆に百科事典としてのわかりやすさを犠牲にするものであると思われますが(鳥の項目に蛙が出てきたら驚くでしょう)。以前にそういった編集が孔子に関してなされているのを見たことがあるので付記しておきます。こういった論理的でない構成は論外として、どのような編集の仕方が良いと思っているのでしょうか?2007年1月28日 (日)
- わたしはHotsureguaさんの編集を支持します。特に挿入する必要があるとも思いませんが、挿入するなら、「孔子像の変遷」といった章を設けるなどし下に移す方がよいと感じます。--Tears for Asia 2007年1月29日 (月) 16:21 (UTC)
- なるほど、新しい章を設けるのは良い案ですね。「孔子像の変遷」でも良いですし、簡単に「人物像」でもいいかもしれません。参考までに、日本の歴史上の人物ではしばしば「人物」という節が設けられているようです。--Hotsuregua 2007年1月30日 (火) 13:25 (UTC)
- 私も以前に新しい章を設けるということは考えたのですが、導入部を分割するといった機能を果たす”良い”項目は、なかなか思いつきそうにないので編集を断念したことがあります。Hotsureguaさんのいう「人物像」もオーソドックスで良いとは思うのですが、導入部の分割を果たせそうにありませんし、Tears for Asiaさんのいう「孔子像の変遷」も項目自体としては悪くないと思いますが、導入部の分割という機能を果たせそうにありません。「導入部(冒頭の説明文)が冗長ではないでしょうか」という初めの命題に答えるような編集は難しいものですね(少々批判的な文章ですが、、Tears for Asiaさんに対してもHotsureguaさんに対しても悪意はないのであしからず)。私も編集自体には賛成なのですが(編集に反対かのような印象を与えていたのであればそれは誤解です)、機能的な項目でなければ無理に挿入する必要はないと思っています。逆に言えば整合性を失わない編集は望むべきことであり、新しい項目を加えても良いと考えています。ただ「整合性を失わない」といった通り、項目の内容が重複したり、項目と内容が矛盾するような類の編集は避けるべきであると考えているわけです。当然ですが。ところで、ここでの議題は「編集するか否か」ではなく「導入部は冗長か」ということなのではないですか?少し論点がずれているようですが。かく言う私もずれていますが(笑)2007年2月4日 (火) 13:02(UTC)
インデント戻します。申し訳ありませんが、やはり導入部には不要と思います。定義部分に加筆するような性格のものではないからです。そもそも孔子に称号を与えたのは玄宗だけではなく、下の方にも触れていますように「衍聖公」という称号も時の与えられています。これだけでなく様々な称号が累加する形で歴代皇帝から与えられています。何も「文宣王」だけに触れる必要はなく、称号について触れるなら、以前誰かが加筆した「衍聖公」などを生かす形で編集する方が良いかと思います。その点で今の状態は整合性を失していると言えるでしょう。さらに「孔子に文宣王の名を与えたのは~」はそれ以前の文章と何らリンクしていません。「孔子は出世欲の塊として有名だったのである」という一節も特段定義部分には必要無いと感じます。これはHotsureguaさんはじめ、多くの方が同意されるのではないでしょうか。
またわたしが設けるなら「孔子像の変遷」という項目はどうだろうと申し上げたのは、上のこともありますが、この項目があまりに浅野裕一研究に依拠しすぎており、まるで学会の定説であるかの如き誤解を読者に与えかねないことを危惧するからでもあります。試みに伺いますが、孔子研究についてどの程度研究史を当たられましたか。(つまり浅野氏以外の孔子研究をどの程度読まれましたか。)その一端をご紹介いただければと思います。わたしの所感を述べれば、詳しい研究史整理をしたわけではないですが、浅野説はやや特異であり、全面的には支持されていないと感じます。今勢いのある研究者であることは全く否定しません。しかし『孔子神話』は1997、『儒教ルサンチマンの宗教』は1999に出版されていますが、その後に出た研究においてそれほど取り入れられていない。たとえば歴史系の研究者堀敏一『中国通史』(2000)では、浅野氏のような孔子及び儒教に対する否定的なものは一切触れられません。中国文学系の井波律子『奇人と異才の中国史』(2005)でも冒頭で孔子を取り上げていますが、「挫折や失敗に屈することなく、ときにはユーモアをまじえつつ、自分の思想を伝えようとする孔子」と述べ、オーソドックスな孔子像を提供しています。さらに中国哲学系の溝口雄三氏ほかの『中国思想文化事典』(2001)でも「(孔子は)自分が聖人であると自認したりすることはなかったようである」と書き、孔子の人間性を否定することはありません。だからといって浅野説を書くなと言っているのでは断じてなく、「孔子像の変遷」という中に諸説と一緒に放り込む形にした方がスタンダードな記述になるのではと申し上げているのです。
議題の設定に関してですが、無論「冗長かどうか」が問題ですが、Hotsureguaさんやわたしは冗長だと考えているので、当然どうすれば冗長でないかという解決策まで提示するのが責任だと考えます。それで別に一節設けるという案が提示されているのです。ご理解いただけましたでしょうか。
最後に、署名をされるようお願いします。--Tears for Asia 2007年2月4日 (日) 14:42 (UTC)
- 逆鱗に触れたようですね。さて、本題に移りますが、貝塚 茂樹著「孔子」(岩波新書)や石川 忠司著「孔子の哲学」(河出書房)などを読みました。しかし、白川静さんの「孔子伝」でも「史記」の内容を否定している、ああ、やはりそうなんだというように「浅野史観」を強めるような読み方をしたために「浅野史観」に偏ったものになったものであるということを認めます。私は浅野先生の考えが論理的であると思ったので、それを軸に孔子に対する考えを形成したわけです。ただ、「その上で本文の訂正をしてもらえたら」と言っている通り内容の変更を否定しているわけではないので、不適切だと思われる部分があるのであれば出典を明記の上、訂正してください。それがWikiでしょう。私に文句を言うのではなく、行動してください。子供じゃあるまいし。また、「文宣王」にだけ触れているのは私が編集する以前から「文宣王」の記述があったからです。それに軽い注釈を付けただけのことです。別に私が整合性を崩したわけではありません。単なるあなたの思い込みですよ。そういうところが論理的でないわけです。ちなみに「大成至聖文宣王」は孔子が得た最高の位ですから、そういう意味では”特別”なんですけどね。それを知っていて編集したのかどうかは定かではありませんが「衍聖公」よりは”特別”そうですよね。まあ、あなたの言う「誰かが加筆」した「歴代皇帝から与えられ」た「様々な称号」という点では「衍聖公」も「文宣王」も対等なものなんですけどね。どちらが「整合性を崩している」ということは論理的にいって不可能ですよ。また、「整合性を崩す」とのことですが「衍聖公」に記述を加えていたら同じことをあなたは逆に言ったでしょうね。あなたの理屈では「文宣王」も「衍聖公」も同格の関係にありますから。偶然私が「文宣王」に注釈を付けただけですからね。「リンクしていない」と思うのであればふさわしい形で編集してください。前にも触れましたが、現在の項目では移動させても整合性が落ちるだけだから暫定的にそこに置いているだけです。Wikiでは他人同士の共同作業という性質上、整合性に欠ける部分が生まれるのは仕方のないことです。その不整合性を解消するような編集を目指して編集するわけでしょう。「冗長」な部分もその一つに過ぎません。序文については私自身も冗長だと思っていますが、以前に無理な編集をした人がいたので釘を刺しただけのことです。現在よりも整合性の低い編集をした人がいたのです。編集を否定しているわけではありません。編集自体は必要な作業であるし、現在の不完全さを解消するようなものは進んでするべきです。また、確かに「隆道公」「殷紹嘉候」「殷紹嘉公」「文聖尼父」のように呼び名が膨大にあるのに「文宣王」を特別視するのはどうか?というのも一つの理屈ではありますが、そう思うのであれば訂正してください。本文を書かず、非難だけをするというのは真に卑怯な行為であり、道義に反します。実際にあなたの言う「孔子像の変遷」といった項目で編集してみてください。本文の批判をしたからにはそれが義務でしょう。編集する学力すらないのであれば非難する権利はありません。今の状態は岡目八目といったところでしょうから、知識があるというところを見せてください。「浅野説を書くなと言っているのでは断じてなく、「孔子像の変遷」という中に諸説と一緒に放り込む形にした方がスタンダードな記述になるのではと申し上げているのです」というのは、あなたの考えですから、そのようにした方が良いと考えているのならそうしてください。むしろ、ここまで言ったのであればそうするのが義務なのではないですか。言うだけ言って何もしないのでは正に口先だけだけのペテン師と何も変わりません。ただ、それが「スタンダード」であるというのは主観的な思い込みであり、一種の仮象であるということを認識した上でのことですが。方法は相対的なものであり、その一つの形式に過ぎないわけでしょう。また、「別に一節設ける」というのは私も以前に考えましたし、誰もが行き着く帰着点であると思います。それが普通の発想なのでしょう。そこまでは誰でも思いつきます。十人に聞けば十人とも思いつくのではないですか。この段階で「解決策を考えた」というのはおこがましいのではないですか?簡単な編集の内容だけ考えて「解決策を考えた」というのはおこがましいのではないですか?具体的な編集の内容・調節の細部まで言及して「考えた」と言えるのではないですか?また、具体的に編集をしてみるとバランスが悪いといった問題が出てきます。言うは易し、行うは難しといったところでしょう。実際に本文の編集をしてみてください。「ご理解いただけましたでしょうか」とのことですが、上述のことをわかった上でからかったというのが本当のところです。そして、正直なところ、ここまで感情的な応答があるとは思っていなかったので驚いているというのが本音です。こんな口論は小学生のとき以来です。また、実を言うと私の専門は医学であり、年も若く若輩者もいいところです。孔子については全学のレポート作成のオマケ位に考えていたので、ここまで言われるとは思っていませんでした。というよりもインターネットで手に入る学術的情報がほぼ皆無であるので、いいかえれば専門家が皆無であるので追求されることもなかろうと思っていました。編集しているのはオタクや学生が主でしょうから。厳密に言えば「大成至聖文宣王」の名を与えたのは武宋であって、「文宣王」を与えた玄宗とは別人なのですが、私が編集する前の編集を書き変えるのが面倒だったのでそのままにするという手抜きもありました。この文章を見た人の中に専門家がいたらぎょっとしたでしょうね。いなかったからそのままなのでしょうが。自分の文章に間違いがなければそれでいい位の軽い感覚で編集をしていたのも事実です。こういった編集は利益にならないオタク的作業であるし、友人や彼女との関係に亀裂が入るほど熱中するものでもないので甘く考えていたのかもしれません。暇な人が暇な時に適当に編集する場所くらいに考えていたのかもしれません。事実いい加減なものが多いですしね。それゆえ、面倒なことを言われることはないだろうと思っていました。(会話の公理、特に関係性の公理に反していますが)高校の時に数学のできない同級生を駄目だな、と馬鹿にしていたのを思い出します。理Ⅲに現役で入ったということで自信過剰になっていたのかもしれません。門外漢としては自信過剰でした。実は、高校時代(東北大の近くの高校といえば「二」しかありませんからわかる人はわかるでしょう)に授業をサボって東北大に行ったことがあり、そのときに浅野先生の授業をもぐりで聞き、感銘を受けたのです。本人は「自分は悪徳の持ち主」などとジョークをおっしゃっていましたが、授業内容は理路整然、素晴らしいものでした。しかし、東大と東北大、医学部と文学部、私の持つ人生という天秤は左に傾いたわけです。父も医者、兄も医者ときては逃げるに逃げられないという雰囲気でした。東北大に行きたいなどといったら反対されるのが目に見えていました。兄と一緒に通うのが理想的と父も考えていたようです。両親からどんな大学かは聞かされていたので、やはり行きたくなったというのもあります。兄に教授の良し悪しが聞けるという利点もありました。そして、会えなくなった分だけ自分の中で浅野先生が大きくなり、ここに至ったということが言えるかもしれません。事実、浅野先生の著書は可能な限り入手しました。最後に「署名をされるようお願いします」とのことですが、私はアカウントを持っていないので不可能です。こういう経験は初めてなのですが、ネットトラブルというのは不快なものですね。これで口論が終わるのであれば幸いです。今感じていることは、大学で似たような考え・能力の人間と話しているのが一番快適だということです。これで終われば、もう二度と話す機会もないでしょう。おそらく私たちの間には、実社会上の接点はないでしょうから。社会的属性も全く違ったものでありましょう。あなたが東大の教授もしくは学生だったら話は別ですが。最後のジョークです。さようなら。(私は口論を終わらせたいと思っているので、この文章に答える必要はありません。ただ、本文の非難をここまでした以上は、本文の編集・追加を行うのは当然の義務であると思います。できれば、あなたが口先だけの中身のない人間でないということを証明して欲しいと思っています。愚か者ではなく、豊富な知識を持っているということを証明して欲しいと思います。そうでなければできないものと解釈します。編集する力がないものと解釈します。そのように解釈されても仕方ありませんよ。それだけでなく、あなたの知性・論理性を疑うことにもなります。また、訂正・追加を行った場合はノートに記載するようお願いします。ご理解いただけましたか)2007年2月5日
- 長々とどうも。いろいろありますが、
- まず一つ目、要点のみ簡潔に書きましょう。東大がどうしたとか、浅野さんの講義をきいたとかどうでも良いことを書いてリソースの無駄遣いしないでください。理Ⅲを現役で受かったとか、「おそらく私たちの間には、実社会上の接点はないでしょうから。社会的属性も全く違ったものでありましょう。あなたが東大の教授もしくは学生だったら話は別ですが。最後のジョークです。さようなら」とか、読み直してみて恥じ入りませんか。だとしたら、非常に稀少な感性をお持ちのようですね。得意気に書き込んでいるお姿を想像して、PCの前で爆笑しました。閑話休題。さて要領を得た文章を提示できるかどうかは、その人の能力をはかる目安の一つです。何度も投稿されてるようですが、推敲した結果がこれでは、学歴を出した時点でそれとの落差を読み手に感じさせ、この程度の執筆能力しかないのか、としか思われないでしょう。正直、今後あなたのレポートを読まされる指導教官の方が気の毒でなりません。
- 次に、別に先日の投稿において「逆鱗」ということばを使用されるほど何ら特に感情が高ぶったりしていません。今でも怒りという方向に感情が向かっているわけではありません。正直に言えばうんざりという感情の方が近いでしょう。「逆鱗」ということでいえば、それはむしろあなたの方ではないのですか。再読すればわかるように、先日の投稿は何もあなた個人についてコメントしていません。事実・典拠と自らの考えを淡々と書いているだけです。しかし一方であなたは「非難だけをするというのは真に卑怯な行為であり、道義に反します」とか「口先だけだけのペテン師と何も変わりません」「からかった」といった誹謗中傷を書いています。他者に対するマナーを守ることは、Wikipediaの中だけでなく、実社会でも守られるべきものです。本当に東大生かどうかは興味ありませんが、あなたがそう書くことで、東大理Ⅲの人はそういうマナーを遵守しようとする意識が希薄なんだなとの印象を与えかねません。そういった自分の言動の与える影響を予測し得ない時点で、あなたの精神成長度が窺えます。もう少し理知的な文章を提示できるようになってから参加されるよう切に希望します。
- さらに編集についてですが、編集の方針について意見の食い違いがあった場合、Wikipediaでは編集するのではなくノートでの話し合いをすることになっています。でなければ、編集合戦が発生しその記事は管理者の方々によって保護となり編集できなくなるからです。たとえば医業類似行為といった記事のようにです。こういった理由からわたしもHotsureguaさんもリバートせず、ノートにおいて意見を集約しようとしたのです。あなたがHotsureguaさんの編集を無にしてしまった時、Hotsureguaさんがリバートせずノートで呼びかけたのはWikipediaのルールに全く従ったものですし、その後私が同じく編集しなかったのもルールに従ったものです。にもかかわらず、「本文を書かず、非難だけをする」といった批判は全く当てはまりません。不満があるなら、「編集合戦を恐れず編集する」「保護をするな」というルールにすべきだと掛け合ってください。ルールが変われば躊躇無く従います。まぁ、あなたが提案しても一蹴されるでしょうが。「子供じゃあるまいし」という安っぽい煽りをする前に、ルールを学びましょう。
- 編集そのものについて。「適切だと思われる部分があるのであれば出典を明記の上、訂正してください」と書いてあるあたり、本当に理解していませんね。繰り返しますが、そもそも定義部分における最近リバートされた部分は不要である、しかしその部分を残したいのであれば、別途下に章を設けるべきだと言っているのです。つまりわたしが編集するのなら、Hotsureguaさん同様、削除します。わたしが編集するということはそういうことですよ。それではあなたが不満があるそうなので、ノートでつき合っているのです。この根本的な部分を頭に叩き込んでください。また第2次案の別途章を設けるというものについては、浅野説だけに依拠した加筆をするのは不適切だと言っているのです。典拠として、孔子研究に疎い方でも簡単に読める単行本の例を三冊も提示しています。わざわざ中国学における三分野から一つずつ選んでいます。これの意味するところを捉え切れていないようですね。どれも孔子の人格について、浅野さんのような捉え方をしていません。白川静さんとて同じです。『史記』の記述に疑義を提出しつつも、やはり孔子の人格について非難を加えていません。白川さんのいうことを本当に理解されていますか。たとえば「『史記』などにしるす物語は、すべて虚構である。孔子は恐らく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう」(26頁)とあります。他の石川忠司さんとて、浅野説のような立場を取ってないでしょう。どこをどう読めば、「やはりそうなんだというように「浅野史観」を強めるような読み方」ができるのでしょう。あなたの読んだ少ない孔子研究の本の幾冊かを比べるだけで浅野説の特異性が窺えるのではありませんか。それも理解できないのですか。本当に理Ⅲですか。わたしの知る東大院生の方々は優秀で人格もまともな人が多かったと思いますがね。もしご自分が「優秀」であるとお考えならば、すでにこれに対する反論の方法は分かりますよね。浅野説が非常に広く支持されているという典拠を提示するしかありません。提示されたら一つ一つ私が調査して差し上げます。ここまで言及すれば分かるように、「典拠を示していない」のは、そちらです。理解できましたか。
- 署名について。署名はアカウントを取らなくとも可能です。Wikipedia:ノートのページでは投稿に署名をするを参照してください。しかしこんなこと数日編集歴あれば気づきませんかね。--Tears for Asia 2007年2月5日 (月) 18:32 (UTC)
- 長々とどうも。いろいろありますが、
長々とどうも。Wikiに詳しいようで。「怒りという方向に感情が向かっているわけではありません」と言うわりには「一蹴されるでしょうが」「精神成長度が窺えます」「気づきませんか」「気の毒です」などといった感情的な表現が目立ちますね。そのことに「気づきませんか」。そういった表現に「精神成長度が窺えます」。自分だけは客観を保っているという主観でしょうか。全くもって「気の毒です」。こんな単純なことに気がついていないようなので、思わず「PCの前で爆笑しました」。この表現も感情表現ですね。「理知的な文章」を提示するほど高い「執筆能力」があるわけではなさそうですね。私の文章力をどうのこうの言う前にあなたの文章力を高めることが先決だと思われます。マナーについて「実社会でも守られるべきものです」とのことですが、実社会でそういうことをする人はまずいないでしょう。また、私はこの文章で「要領を得た」表現をすることを目指していません。「推敲」と言っていますが、推敲というよりは書きたいことを書き加えていったに過ぎません。まあ、ここまでオタク的に調べるとはなかなか立派です。私としては、論理的に編集・追加をしていただけるのであれば何も言うことはありません。頑張ってください。ところで、私は「浅野説が広く受け入れられている」などとは記述していませんがね。それは、あなたの非論理的な思い込みです。理解できましたか?「浅野説」に都合良く読んだのは認めてますし、それに適合しないものは受け入れていないことも認めています。本文全体の論旨を受け入れて読んでいるわけではないのですよ。わかりませんでしたか?多数決で浅野説が不利なのもわかっています。ほとんどの本は浅野説に合致しませんからね。それでも浅野説が良いと思ったから記述したわけです。色々と言っているようですが、文系の内容をWikiのためにそこまでオタク的にやる気はおきんのですよ。Wikiのルールを厳密に調べて編集するのはWikiに入れ込んでいる人でしょう。私は、ふらりと孔子を編集しただけであって、そこまでやる気はないわけです。だから、あなたの言ったWikiのルールを知らなかったわけですがね。それよりも勉強するべきことがあるのでね。それゆえ「本文の非難をここまでした以上は、本文の編集・追加を行うのは当然の義務であると思います。できれば、あなたが口先だけの中身のない人間でないということを証明して欲しいと思っています。愚か者ではなく、豊富な知識を持っているということを証明して欲しいと思います。そうでなければできないものと解釈します。編集する力がないものと解釈します。そのように解釈されても仕方ありませんよ。それだけでなく、あなたの知性・論理性を疑うことにもなります。」などと言ったわけですがね。また、編集合戦になることはないと思いますよ。私はもう本文に手を出す気はないので勝手にどうぞ。私もあなた同様「うんざり」しているので。これで”証明”する環境が整ったわけでしょう。今は休みだからこんなことをしていますが、平日にこんなことをする余裕は普通ないでしょう。まあ、社会生活を犠牲にすれば可能でしょうが。適当にやっていることはわかってもらえてると思いましたがね。三・一のように左右の人間が主観を押し付けあって保護の対象になるようなことはないですよ。まあ、こういった項目は中立を装っても先ほどのあなたのように主観が入るものですけどね。出典が左に偏るとかね。私の主観で編集した孔子をあなたの主観に塗りつぶすだけで終わらないことを祈っています。孔子に関する情報を追加して充実させてください。以上。2月6日
- 発言の際には署名をするようにお願いします。最初のうちは真面目な議論が交わされていたのに、結局よく分からない方向に脱線して最終的にこのような結果になっていることを大変遺憾に思います。Kuro-hato 2007年2月6日 (火) 11:37 (UTC)
品性を疑うような発言が多いのが大変気がかりですが、孔子という項目の主旨に外れた議論は個人のノートのページでやってください。またご自分の発言を編集なさるのはノートにおいてはマナー違反です。それと署名してください。Kuro-hato 2007年2月6日 (火) 12:31 (UTC)
マナー違反だとは知りませんでした。書き忘れたことを付け足したつもりでしたが、失礼しました。「品性を疑うような発言」といった感情的表現から苛立っているのが伝わります。署名しないことにも苛立っているのでしょう。署名しないのはルール違反なのはわかっているのですが、署名しないのは私の”意地”です。私はこれでWikiをやめる(といっても孔子と儒教しか編集していませんが)と決めているので、ここで署名しても変わらないという判断のもと”意地”を貫くものです。2月6日
これで終わりといいつつまだしばらくお付き合いいただけそうですね。お付き合いいただきありがとうございます。浅野先生の講義を直接聞かれたことがあるのですね。うらやましい限りです。その貴重で特別な経験が今後の人生の糧になることを願ってやみません。 また大変高級なご学歴をお持ちのようでその知性が文章からにじみ出ています。またそれに甘んじることなく何度も追加編集したのですね。謙虚な態度に感銘を受けました。今後も文章力などご精進なさることをお勧めします。 あなたがノートに書かれた文章は手を加えず記録しておき10年後にあらためて読んでみてはいかがでしょうか。印刷して財布に入れておき思い出したときに読んでみるのも良いでしょう。あなたの人生を思慮深いものにするためにこれほど効果覿面なことはないでしょう。また、あなたのご学友や家族に見せてみても良いでしょう。多くの方はあなたに賛同してくれるでしょうし、その人が真にあなたのことを思ってくれている賢い方なら賛同の意を示した上できっと適切なアドバイスをしてくれることでしょう。 ログインアカウントの作成方法や署名の付け方は不慣れな方には難しく感じることもあるでしょう。いずれ慣れてきたら挑戦してみたらいかがでしょう。実際やってみれば「ああなんだそんなことだったのか」という程度の手数です。一度覚えてしまえば今後何かと役することが多いものですよ。--Hotsuregua 2007年2月7日 (水) 09:18 (UTC)
ノート編集の提案
[編集]繰り返しますが、孔子という項目の主旨に外れた議論は個人のページでやってください。更に、上記における孔子と全く関係ない部分を削除することを提案します。Hotsuregua、61.44.83.11両氏以外でここを御覧になった方々の意見をお聞きしたいのですが、いかがでしょうか。Kuro-hato 2007年2月8日 (木) 18:32 (UTC)
- 個人のページではないので、削除はルール上まずいと思います。議論終了しているものと一緒に過去ログにしてしまえばよいのではないでしょうか。わたしの発言で必要な箇所を指摘してもらえれば、再度投稿しても良いですし。--Tears for Asia 2007年2月9日 (金) 13:57 (UTC)
仰るとおり過去ログ化が適切なようですね。似たような事例もいくつかあるみたいですし。ただやり方がよく分からないのですが…。Kuro-hato 2007年2月9日 (金) 14:00 (UTC)
笑いを噛み殺して読んでいた第三者ですが、匿名氏が自分の正当な意見を批判を恐れたWikipedia側が隠そうとしたと誤解しないように、しばらく残しておいたらどうでしょう。適当な期間の後、過去ログ化すれば良いと思います。その方が、匿名氏の人生を思慮深いものにするためにも良いかも知れません。 Zorac 2007年2月9日 (金) 15:15 (UTC)
匿名氏の人生観と孔子の項目のノートの本義は別段関係ないものですので、そのご意見は容認しかねます。個人のノートでやってください。Kuro-hato 2007年2月9日 (金) 15:22 (UTC)
記事編集の再提案
[編集]まず最初に断りますが、今後ノートにおいて署名をしない、あるいはマナーに欠ける意見に対して、私は以前のようなことを繰り返さないためにもいかなるコメントも返しませんし、即「方針文書の要熟読」といったブロック依頼を提出します。つき合うだけ時間の無駄だという考えに達しましたので。ご理解ください。
さてすでに申し上げたように、最近編集された定義部分は以前の状態に復すべきだと考えます。この点意見に変更ありません。わたしはこの程度の分量であれば、単に削除でよいと思いますが(以前の方がシンプルなりにまとまっていたと思っているため)、もし単なる削除に抵抗ある方がおられるのであれば、下に章を設けて移すのも一案だと存じます。設けるのであれば、『史記』などの記載が考証の積み重ねによって疑義を挟まれていることと、孔子の人格に対する見方を分けるべきでしょう。後者については、弟子たちによって聖人化されていく過程や近代以降「打倒孔家店」・「批林批孔」というスローガンに代表されるような権威失墜まで簡単にまとめてみてはどうかなと思っています。浅野説はその最後に「近年出土した資料を駆使し、孔子の人格に否定的な見方を提示する研究者もいる」といった一文を追加すればよいかと思います。いかがでしょうか。--Tears for Asia 2007年2月10日 (土) 05:50 (UTC)
- では、お任せしてもよろしいでしょうか。私としては正直なところ浅野説がWikipediaでわざわざ取り上げられるほど学会を席巻した学説とも思えない部分があるのですが、後世への影響ではなく人間としての孔子にスポットを当てた大変興味深い研究だと思います。Kuro-hato 2007年2月11日 (日) 14:51 (UTC)
- コメントありがとうございます。上のご意見からすると、削除でも良いとお考えでしょうか。理解し損ねていたらご指摘ください。Kuro-hatoさんと同様、自分も浅野説を取り上げる必要もないかなと感じています。京大の池田さんが『自然宗教の力』pp49-51でわざわざコメントしているように、浅野説はインパクトはあったと思うのですが、まるで広く受容されているかのごとく定義に加筆するのは誤解を与えかねないでしょう。したがって、わたしの第一希望は削除した方が良いのではというものです。ご面倒でしょうが、再度可変IP氏加筆部分を削除するかどうかについてご意見いただければ幸いです。--Tears for Asia 2007年2月11日 (日) 15:23 (UTC)
とりあえず削除してよいのではないでしょうか。Kuro-hato 2007年2月12日 (月) 09:31 (UTC)
- あとできればこのノートを過去ログ化していただけないでしょうか。やり方がよく分からなくて…。Kuro-hato 2007年2月12日 (月) 09:36 (UTC)
- 多忙のため、随分ご無沙汰しました。この一週間、削除に対し反対意見無かったようなので削除しました。過去ログ化自体は反対ではありませんが、残しておいた方が良いという方もおられるようなので、合意を得てからの方がもめないかと存じます。取り急ぎ。--Tears for Asia 2007年2月19日 (月) 12:41 (UTC)
章「事績」について
[編集]章「事績」の記事を見ますと、「疑わしい」「疑問の残るところ」「不自然」などの記述ばかりであり、これでは一体何が孔子の「事績」だったのか分かりません。私はこれが専門でもありませんので、どなたかお詳しい方が加筆・修正してくださいませんでしょうか。--井上経介 2007年3月10日 (土) 15:28 (UTC)
- 学術文の書き方や、加筆前に研究史を調べるといった基本的なことを知らない人が加筆すると変になるという典型ですね。仮に浅野さんご本人が百科事典の「孔子」の項目を受け持ってもこんな風になることはないでしょうね。自説以外の説にも気を配った編集をなさるでしょう。半可通編集の後始末は大変そうだな。とりあえず修正依頼を出してみてはどうでしょうか。--218.221.5.194 2007年3月13日 (火) 18:06 (UTC)
少し調整してみました。確かに史記・論語の内容を出来すぎだと批判しながら反証に論語を挙げるなど変な部分が目立ちますね。歴史上に大きな足跡を残した人物であることには間違いないのですから、賛美する内容や批判する内容があるのは当然ですが、それらを同じ文で纏めようとするとおかしくなります。神格化された孔子の来歴に対する疑問を呈するための新しい節を造ってはどうでしょうか。Kuro-hato 2007年3月14日 (水) 09:32 (UTC)
- とりあえず、封号を追加してみました。--Tears for Asia 2007年3月14日 (水) 19:09 (UTC)
外部リンク
[編集]最近、清朝の頃に作成された孔子の族譜が発見されたんですが、外部リンク貼っても良いですかね。ただルール上貼れても、しばらくするとリンク切れになる可能性は捨てきれないんですが。まあ結構貴重な写真なので、興味ある人はリンク貼る/貼らないは別にしても覗いてみてください。研究している人でも役に立つかもしれません。--Tears for Asia 2007年3月31日 (土) 04:16 (UTC)
儒教の勢力に付いて
[編集]>前漢前期まではあまり振るわなかった
に要出典が張られましたが、儒教の項にもそう書いてます。あまり振るわなかったという表現がまずいでしょうか?出典は必要ならば挙げますけど。あと、焚書坑儒が儒教にあまり影響を与えなかったというのは言い過ぎでした。らりた 2007年8月24日 (金) 09:06 (UTC)
- らりたさんは、よく分かっているのではないでしょうか。ご自身で言われた通り、あまり降るわなかったという表現はまずく、焚書坑儒が儒教にあまり影響を与えなかったというのは言い過ぎでしょうね。RIPU 2007年8月25日 (土) 03:31 (UTC)
- えーと、言いすぎとは言いましたが、焚書坑儒以前から法家や道家の方が勢力は強かったですよ。現在の文面ではあたかも焚書坑儒以前は儒教が支配的であったかのように読み取れてしまいます。武帝代に儒教が国教化されたというのもこれは現在の研究ではほぼ否定されています。また元代は明らかに国教ではなかった訳ですが。らりた 2007年9月7日 (金) 08:03 (UTC)
- 焚書坑儒以前は儒教が支配的であったとはどこにも書いていません。また国教化は、武帝代から進んだということです。完全に国教化された時期を特定する方が無理があります。どうも極端な0か100思考をされているように思いますが如何でしょうか。RIPU 2007年9月7日 (金) 17:42 (UTC)
- 衰退という言葉は元は勢力が強かったが、弱くなったことを示す言葉です。これを使うとあたかも焚書坑儒前は勢力が強かったかのように読み取れますが、実際にそれほど強い勢力があった訳ではありません。そこの所を誤解しないような文章にしてくださいと言っています。
- そして国教化が武帝代から進んだということですが、いわゆる五経博士が全て武帝代に設置されたということはほぼ否定されていますし、董仲舒が儒教を国教化すべしと建言したという『漢書』の記述も疑問視されています。武帝期に儒教が官学となったのは間違いありませんが、国教化とは言えません。その所を区別しないといけません。国教とはある時点で皇帝・王・政府がこれをもって国の宗教とするという宣言を出し、それを民衆側も受け入れて初めて国教となります。徐々に国教化するというのは有り得ません。
- もう一つ、「清朝が滅亡するまで儒教は国教の座を保持し続け」とありますが、元代には明らかに国教ではありません。らりた 2007年9月8日 (土) 09:02 (UTC)
- 出典お願いします。RIPU 2007年9月9日 (日) 01:46 (UTC)
- 焚書坑儒以前は儒教が支配的であったとはどこにも書いていません。また国教化は、武帝代から進んだということです。完全に国教化された時期を特定する方が無理があります。どうも極端な0か100思考をされているように思いますが如何でしょうか。RIPU 2007年9月7日 (金) 17:42 (UTC)
- えーと、言いすぎとは言いましたが、焚書坑儒以前から法家や道家の方が勢力は強かったですよ。現在の文面ではあたかも焚書坑儒以前は儒教が支配的であったかのように読み取れてしまいます。武帝代に儒教が国教化されたというのもこれは現在の研究ではほぼ否定されています。また元代は明らかに国教ではなかった訳ですが。らりた 2007年9月7日 (金) 08:03 (UTC)
インデント戻す。この場合、双方とも加筆者といえると思うので、どちらも依拠する研究の提示が必要と考えます。なお参考までに研究例を挙げると一般向けに書かれた鶴間和幸『中国の歴史3』(講談社、2004)に「景帝期まで儒者が表には出ていなかった」(p250)という言及があります。--Tears for Asia 2007年9月9日 (日) 02:00 (UTC)
- 論文そのものは手元に無いので工具書からの引用になってしまいますが、『中国歴史研究入門』(ISBN 481580527X)、P63、64より。括弧内はらりたの補注。
- 「漢の武帝が董仲舒の対策を採用し、五経博士を設置した結果、儒教が唯一の正統思想としての地位を確立するに至った。この通説的「儒教の国教化」理解に対しては、関口順[2000](「『儒教国家論への異議」)が指摘するとおり、二つの方向から異論が提出されている。すなわち、○1 武帝期に董仲舒の建策により国教化されたという理解への疑問、○2「国教化」の条件=認定指標に対する議論である。」
- 以下、全部を引用すると長くなりすぎるので部分的に
- 「五経博士の設置に関する『漢書』の記載が後代に付加された伝承に過ぎないと断じた福井重雄[1967](「儒教成立史上の二三の問題-五経博士との設置と董仲舒の事跡に関する疑義」)である」
- 「この指標を元に板野は(中略)、光武帝の時代こそが国教化の完成期だと理解する。」
- 「西嶋定生[1970b](「序説-東アジア世界の形成」)[1974](『秦漢帝国』)もまた(中略)その時期は緯書の皇帝観が確立される王莽時代であるという。」
- 「これに対して渡辺義浩[1995](『後漢国家の支配と儒教』)は(中略)在地勢力に儒教が受容される後漢期をもって儒教の国教化が完成したと主張する。」
- 以上です。らりた 2007年9月9日 (日) 12:03 (UTC)
- Tears for Asiaさんへ。前漢の6代皇帝が景帝で、7代皇帝が武帝だからその通りでしょう。 武帝の時代には儒者は表に出てきていたと言うことですね。
- らりたさんへ。以前儒教が盛んだったからといって、必ずしも法家や道家を凌駕しているとまでは言えないと思いますが、もう少し誤解のない表現もできそうです。また国教化については、やはり完全に国教化された時期を特定するのは無理があるようですね。一切異論のない通説はありませんが、少なくとも私は権威ある学者ではないし、この場で結論を出すこともできないと思います。国教化の時期など詳しい内容に関しては儒教の項に譲りたいと思います。よろしければ誤解の少ないよう変更しますので、しばらくお待ちください。RIPU 2007年9月9日 (日) 15:33 (UTC)
- 老婆心ながら述べると、ノートでけりがつく前に本文を変更するともめる原因になるので、先に依拠する研究論文なり、研究書を示した方が良いかと。--Tears for Asia 2007年9月9日 (日) 18:27 (UTC)
- 何についての研究書を示すと言うのですか?6代皇帝が景帝で7代皇帝が武帝のものですか?RIPU 2007年9月10日 (月) 06:01 (UTC)
- それも含めてこれまで主張されてきたもの、及び加筆の根拠としたもの全てです。100以上あるというのなら、その主要なものだけで結構ですよ。他の方は提示されたようですし、そちらも提示するのが筋かと思います。提示されないと他の人間は主張・加筆と典拠の間の関係を調べることができません。Wikipediaでは加筆する側が典拠を提示するというルールがあります。
- 後署名はわざわざ手書きせずとも、編集画面のすぐ上部にある右から2番目のアイコン「時刻つきの署名」()を押すと「
--~~~~
」が挿入されて、ハイフン、名前、投稿日時になります。こちらの方が簡単です。--Tears for Asia 2007年9月10日 (月) 06:15 (UTC)- 皇帝の系譜について誤解されているのではないでしょうか。出典を示すまでもありません。また、国教化については、上記の通り、漢書の五経博士の設置が通説的理解なのでしょう?それに、私はこの場で国教化の時期の特定をするつもりはないと言っているのですが。2007年9月10日 (月) 10:53 (UTC)
- 何についての研究書を示すと言うのですか?6代皇帝が景帝で7代皇帝が武帝のものですか?RIPU 2007年9月10日 (月) 06:01 (UTC)
- 老婆心ながら述べると、ノートでけりがつく前に本文を変更するともめる原因になるので、先に依拠する研究論文なり、研究書を示した方が良いかと。--Tears for Asia 2007年9月9日 (日) 18:27 (UTC)
インデント再度戻します。皇帝の系譜が間違っているとかいっているわけではありません。これでも時代は違えど中国を専門に研究している者ですので、皇帝の即位順を間違うような単純ミスはしません。ここで言っているのはこの記事の具体的な事柄についてではなく、Wikipediaのルールについてです。Wikipediaに加筆するにはまず検証可能性をクリアしないといけません。それをクリアしても依拠する文献が信頼できる情報源かどうかというハードルを越える必要があります。更に学説とは変動するものですから、近年の研究を踏まえているかどうか、加筆者が正確に理解しているかどうか周囲が検討する必要あります。たとえば「日本人の祖先は騎馬民族だった」と強く主張する人が過去にいても、もしそれが現在の学会で広く受け入れられていなければ、あえて書く必要はありません。少なくとも現在でも学会では通説になっているかのごとき書き方をしてはいけません。しかしその主張をここ近年の論文で主張されているのかどうかは、典拠を提示してもらわないと周囲には不明です。研究していればそれとなく分かりますが、周囲にとって明示的でなければ検証とはいえませんから。なにも難しく考えることはなく、誰のどの論文あるいは研究書を読んだか書かれれば良いだけです。無論検討する際に、不明な点があればどの頁かまで細かく尋ねる可能性はありますが。今は検討の準備段階と考えてください。儒教の趨勢という事柄そのものを判断する以前のことを言っています。--Tears for Asia 2007年9月10日 (月) 11:40 (UTC)
- 国教化の時期を武帝期に置くのが「従来の定説」ですが、これに疑義を抱く論の嚆矢となったのが、平井正士氏の「董仲舒の賢良対策の年次に付いて」(1941年)です。これに続く形で私が上に挙げたような論が多数出されています。そしてこれに反論して「武帝期の国教化」を説く論もまたいくつかあります。その代表としては佐川修氏の「武帝の五経博士と董仲舒の天人三策に付いて-福井重雄氏『儒教成立史上の二三の問題』に対する疑義-」(1967年)が挙げられます。
- 所が、『中国歴史研究入門』では「儒教の国教化」として一節を設けていますが、この「武帝期の国教化」の論を一つも取り上げておらず、「武帝期の国教化」を否定する論で占められています。これからすると「武帝期の国教化」は少なくとも定説・通説の地位からは完全に降りた物と看做されていると考えていいと思われます。(もちろん著者・編者の意図や考えが混じりこんでいるでしょうが。なお当該部分の著者は籾山明氏。)
- 以上からして、武帝期から儒教勢力が伸張し始めたのは明らかでしょうが、「武帝期の国教化」は少なくとも現在の学界の通説的理解からは離れたものと考えます。
- ただこれらのことはご指摘の通り、儒教の項に書くべきことと思えます。ですので余裕があるときを見て、少し加筆を加えたいと思います。この項目では簡単に「漢代に至り、国教化された」とでもしておけば良いのではないかと思います。この文面ならどの説に従っても誤りではありません。
- あと、もう一つ。常に国教であった訳ではないのは明らかなので「時代により変動はあったが」などと書いておいたほうが良いと思います。らりた 2007年9月10日 (月) 11:48 (UTC)
- 更にもう一つ追加ですが。
- >景帝期まで儒者が表には出ていなかった
- ということに付いて。武帝期になって儒家官僚が採用し始められたことは確かなのですが、それの実効性に付いても疑義が出されています。平井氏は武帝治世の37年間に於ける儒家の公卿(三公九卿)に占める割合はわずか1.9パーセントに過ぎず、武帝期に主要な活躍をしたのは張湯に代表されるような法家官僚であったとしています。らりた 2007年9月10日 (月) 12:10 (UTC)
- 一週間ほど経過したのですが、片方の方からしか典拠を示してもらえなかったのはちと残念です。まぁ忙しいときもありますからね。当方も意識しないとずっとWikipediaを覗かないこともあります。さて加筆方針ですが、武帝期に国教化したというのは、言い切らない方が良いと思います。堀敏一さんの『中国通史』も疑問を呈しています。鶴間さんも言い切るのは妥当ではない感じ、以前紹介したような文にしたのだと推測します。すぐ後に「武帝の時代になって、儒教国家への選択の第一歩がなされた」と続けていることから、武帝期はきっかけなんだけれども・・・というニュアンスかと思います。転じて中国では[1]のように、国教化とは書いてませんが「罷黜百家独尊儒術」がそれに当たるのですが、日本ほどは武帝期国教化を疑問視する雰囲気一色ではない感じですかね。要するに国教化に関してはぼかしておくのが賢明でしょう。最近溝口さんが『中国思想史』という本を上梓されたようなので、それを読んでみて使えそうなら加筆しておきます。図書館には購入申請出しましたし。個人的には「焚書坑儒」の実相について研究はどう展開してんのか、という方が関心有ったのですが、それもまたの機会に調べます。9/15の加筆のように「衰退した」と言い切って良いのか等、引っかかるので。『しにか』で特集やってたのは記憶の片隅にあるのですが、近所にないので、これも加筆に時間がかかります。以上。--Tears for Asia 2007年9月17日 (月) 14:53 (UTC)
- 焚書坑儒に関しての研究を探していたのですが、見つかりませんでした。ただ一つ、ネット上で儒家の経典が失われたことに関して、焚書よりも項羽の咸陽焼き討ちの方に原因を求めるという話が見つかりました。ネット上の文責が定かではない状態のものなのでウィキペディアに載せることは不可でしょうが、参考までに。
- そして、私が前回の書き込みをしてから実に二週間がたちましたので、文面を改めたいと思います。もし改めた後の文章に問題がある場合にはこのノートにてご質問をお願いします。らりた 2007年9月25日 (火) 12:22 (UTC)
- まずおわび。『しにか』に書いてあったのは「焚書坑儒」の特集じゃなく、始皇帝のそれでした。湯浅邦弘さんが「焚書坑儒」について書いてあるけど、儒教の伸張についての直接的言及はなし。余談ながら、つまみ食い的に書くと、中国古代において書籍が失われた契機を3つ上げていて、「焚書坑儒」・「項羽の阿房宮放火」・「劉向の古典整理」とのこと。ただそのうち影響力がもっともあったとしているのが「焚書坑儒」といいたいらしいです。また調べついたら報告します。--Tears for Asia 2007年9月28日 (金) 11:35 (UTC)
- 以前触れた『中国思想史』ですが、ようやく入手できたので簡易報告。儒教の国教化について、特に目新しいことはありません。国教化は前漢を通してゆっくり達成されたとしています。ただこれは東洋史の人間の見解で、中哲系は武帝期に国教化されたという見解が支持されているとありました。この本の古代部分を担当した池田知久さんは「(儒教国教化は)董仲舒と武帝が短期間のうちに行ったことではなく、前漢全期にわたる儒教重視の積みかさねの結果、最後に到達したものと考えたい」(p65)と書いています。以上。--Tears for Asia 2007年10月28日 (日) 13:54 (UTC)