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ノート:孫武

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孫武の息子についての記述のうち、出典となっていた『呂氏春秋』、『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』には、いずれも見当たらないため、出典は削除しました。(宋代の文献にはあるらしいのですが)
生年なども出典が不明のため削除しました。218.179.202.4 2007年1月17日 (水) 08:47 (UTC)[返信]

孫武の三子については、『新唐書』巻73下表第13下宰相世系3下の孫氏の段に「憑生武,字長卿,以田、鮑四族謀爲亂,奔呉,爲將軍。三子:馳、明、敵。」とあることが根拠のようです。 --210.237.3.131 2007年1月21日 (日) 12:38 (UTC)[返信]

遥か後代の文書に載っているだけで信憑性という点ではかなり疑わしいと思います。いちいち書く必要はないと思います。「また、孫武は三人の息子がいたといわれ」以下の文章は削除したいと思います。二週間ほど待ちます。らりた 2007年11月5日 (月) 09:11 (UTC)[返信]
>一説では息子達と共に斉に帰国したという。ちなみに俗説では、夫差は孫武を引き止めるために呉郡冨春県を与えたが、それでも孫武を止められなかったという。
このような「一説」「俗説」とだけ書いて出典を示さない部分も問題です。要出典としましたが、出典が示されなければ削除すべきでしょう。三人の息子については、後世の家系図に初めて出てくる信憑性の怪しいものだと分かる形であれば存続しても良いと思います。--てぃーえす 2007年11月5日 (月) 21:55 (UTC)[返信]

孫武の伝記はほとんど史書に残っていないので、楚との戦いのあたりの記述はどうも馮夢竜の『東周列国志』か、海音寺潮五郎か鄭飛石の小説が出所、のような気がします。出所が小説以外にないことがわかれば削除すべきであろう記述はずいぶん多いです。史記には孫武が楚の戦いで何をしたのか、全く書かれていません。功績があったと書いてあるのみ。中国語版も中国の大河ドラマ「孫子大伝」あたりが出所の、怪しい記述が大量にあります。金谷治先生がサジを投げているように、孫武の事績は学界ではほぼ不明とされているので、そこを明記しました。『東周列国志』は三国志演義の類ですし、海音寺の小説は後書きでフィクションの部分が相当多いことを明言しているものです。歴史小説を出典に使うのはダメでしょう。本来なら参考文献からも海音寺「孫子」は削りたいのですが、一応孫子の父子まわりの記述を宋代の史書から発掘したのはこの本なので、敢えて残しました。もちろん削っても構わないです。--中根東竜 2011年7月24日 (日) 02:00 (UTC)[返信]