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問題点の指摘

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2017/05/27

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記事本文にもテンプレートで記入していますが、独自研究の指摘です。記事本文で指摘したのが5/27 0:12(UTC)でしたので、その時点から7日以内に対応がなされなければ、当該記述を削除することを予告しておきます。

大乗仏典では、(九次第)滅尽定は声聞乗のことであるという見解で一致する<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大方等大集經』 (T0397_.13.0338a01: ~): 諸仁者。若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。依此定得三解脱門四無礙辯。不得四攝事四梵住三不護。乃至不得一切智智。是名禪平等聲聞縁覺如來共諸仁者。若復有人。先修大乘退入聲聞乘。是人入初禪乃至入滅盡定。得三解脱門四攝事四梵住。不得三不護。乃至不得一切智智。是名禪平等聲聞縁覺如來共。</ref>。

独自研究である理由:【(九次第)滅尽定】という丸括弧の意味が不明。イコールという意味かもしれないが、だとしてもその論拠不明。この大方等大集經からの引用部分には九次第という語は無い。大方等大集經は仏典の一つにすぎないので、これのみをもって「大乗仏典では○○という見解で一致する」とは言えない。--Leonidjp会話2017年6月2日 (金) 02:58 (UTC)[返信]

丸括弧は後述の滅尽定との混同を避けるために付記したものだが除去した。記述を一部改めた。--118.83.141.44 2017年6月3日 (土) 17:09 (UTC)[返信]
IP利用者氏はこの箇所に編集を加えたようですが、その後も独自研究性は維持されていることが、Ryo 625さんの指摘により明らかです(参照)。これもまた、このテンプレートによる指摘から7日以内に対応がなされなければ記事から除去する用意があることを告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 01:15 (UTC)[返信]
6/4から7日以上経ちましたが対応がなされませんでした。この箇所は告知通り削除しました。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 03:27 (UTC)[返信]
編集した。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 14:25 (UTC)[返信]
この件、IP利用者の編集によってこうなりましたが↓
[[大方等大集経]]は、声聞乗以後の行について見解が一致しない者も、滅尽定が声聞乗のことであるという点では一致するとしている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大方等大集經』 (T0397_.13.0338a01: ~): 諸仁者。若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。依此定得三解脱門四無礙辯。不得四攝事四梵住三不護。乃至不得一切智智。是名禪平等聲聞縁覺如來共諸仁者。若復有人。先修大乘退入聲聞乘。是人入初禪乃至入滅盡定。得三解脱門四攝事四梵住。不得三不護。乃至不得一切智智。是名禪平等聲聞縁覺如來共。</ref>。
この編集をしたIP利用者によると、「記述は出典にそって編集してある」のだそうです(編集要約欄参照)。どの文言が、その出典たる大方等大集経のどの文言に「沿う」のか説明してもらえますか?--Leonidjp会話2017年6月19日 (月) 07:43 (UTC)[返信]
特に、「一致」という文意を、出典の経文のどの語が担っていますか。--Leonidjp会話2017年6月19日 (月) 07:46 (UTC)[返信]
提案  これ、「〜一致するとしている」となって文が終わり、その後に脚注が書いてあるわけですが、脚注の後に更に言葉を続けて、こんなふうにしたらどうでしょうか。
〜一致するとしている〈脚注〉という説があるが、信頼できる情報源において検証されている説ではない。
--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 01:15 (UTC)[返信]
「検証されている説ではない」よりも「支持されている説ではない」のほうが良いですかね。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 01:17 (UTC)[返信]
これが一番いいかなと思いますが、どうでしょう↓
〜一致するとしている〈脚注〉という説があるが、信頼できる二次資料において支持されている説ではない。
--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 01:24 (UTC)[返信]
>特に、「一致」という文意を、出典の経文のどの語が担っていますか。
『若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。…(中略)…。若復有人。先修大乘退入聲聞乘。是人入初禪乃至入滅盡定。』の太字部分です。一字一句一致しています。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 03:10 (UTC)[返信]
>「検証されている説ではない」よりも「支持されている説ではない」のほうが良いですかね。
「検証されている説ではない」でも「支持されている説ではない」でもなく、『当たり前すぎてわざわざ説かれることは少ない説』ですよ。大乗仏教が批判の対象としたのは、滅受想定をもって成道とするような説一切有部の中の一派であったはずで、後代の密教でも左道密教と批判された勢力があったわけです。
藤本説のように滅受想定は釈迦のみが達したというのは、批判される側も馬鹿にするなといいそうな説です。それでは仏教になりません。仏神教です。もちろん、当初は滅受想定は危険につき立ち入り禁止とした主旨が誤まって伝わった可能性がありますが。立ち入り禁止にしたところで、逆順を含めて本意不本意に入ってしまう者が後を絶たないのだから、その救済を図ろうというのが大乗仏教の本旨のひとつでしょう。
『大方等大集経は……』としてあるので、今のままで構いませんよ。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 03:10 (UTC)[返信]

(インデント戻します)
>>>>特に、「一致」という文意を、出典の経文のどの語が担っていますか。
>>『若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。…(中略)…。若復有人。先修大乘退入聲聞乘。是人入初禪乃至入滅盡定。』の太字部分です。一字一句一致しています。
コメント あなたのその回答は、「是人入初禪乃至入滅盡定」という11文字が、あなたの書いた脚注の中に2回出てきているということを示しただけでしかないですよ。
「同じ文言が二回出てくる」ということと、「AさんとBさんの見解が一致する」ということとは、それぞれ別の事柄です。あなたがこの箇所の脚注を出典として用いて記事本文に記入している事柄は後者です↓。

大方等大集経は、声聞乗以後の行について見解が一致しない者も、滅尽定が声聞乗のことであるという点では一致するとしている。

では改めてたずねます。

  1. 「声聞乗以後の行について見解が一致しない者」というのは、脚注の中のどの語のことですか?
  2. 「滅尽定が声聞乗のことである」という見解は、脚注の中のどの語が担っていますか?

--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 04:12 (UTC)[返信]

IP利用者氏へ。あなたが、あなたの書いたこの脚注内の漢文(下記)を日本語としてどのように読んでいるかが不明なので(まだ誰にも開示されてませんので)、この漢文を貴方流に書き下しした文をここに披露してみてもらえますか?

<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大方等大集經』 (T0397_.13.0338a01: ~): 諸仁者。若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。依此定得三解脱門四無礙辯。不得四攝事四梵住三不護。乃至不得一切智智。是名禪平等聲聞縁覺如來共諸仁者。若復有人。先修大乘退入聲聞乘。是人入初禪乃至入滅盡定。得三解脱門四攝事四梵住。不得三不護。乃至不得一切智智。是名禪平等聲聞縁覺如來共。</ref>

--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 04:41 (UTC)[返信]
(IP利用者氏へ)。くれぐれも、この漢文を途中で省略したりせずに、先頭から最後まで書き下ししてみてください。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 04:50 (UTC)[返信]

>では改めてたずねます。
>1. 「声聞乗以後の行について見解が一致しない者」というのは、脚注の中のどの語のことですか?
それは『若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。…(中略)…。若復有人。先修大乘退入聲聞乘。是人入初禪乃至入滅盡定。』の太字部分です。
>2. 「滅尽定が声聞乗のことである」という見解は、脚注の中のどの語が担っていますか?
それは『若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。…(中略)…。若復有人。先修大乘退入聲聞乘是人入初禪乃至入滅盡定。』の太字部分です。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 16:36 (UTC)[返信]
>この漢文を貴方流に書き下した文をここに披露してみてもらえますか?
直読みで解釈しました。声聞乗が滅尽定というのは浅学の者が誤解しないようにとってつけたようなもので、主要なテーマは仏教フレームの理解促進でしょう。脚注していない後段では逆順を含む様々なパターンについて述べていますね。リベラルアーツ的にみれば精神科医療の教科書のようなものでしょう。逆順は九次第を経ません。いきなり狂奔・横死と隣り合わせです。私も1人実地に面識しており、他に2人ほど伝聞しています。『港町十三番地』や『大ちゃん数え唄』を作詞した石本美由起さんなんかもそうではないですかね。石本さんは若い頃に病いに悩まされたようです。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 16:36 (UTC)[返信]
>>>>1. 「声聞乗以後の行について見解が一致しない者」というのは、脚注の中のどの語のことですか?
>>それは『若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。…(中略)…。若復有人。先修大乘退入聲聞乘。是人入初禪乃至入滅盡定。』の太字部分です。
コメント つまりあなたは、「退入聲聞乘」の後に「行聲聞行」という4文字が有るか無いかという差が、「声聞乗以後の行についての見解」の差であると認識しているわけですね? その認識が正しいということを支持している二次資料はありましたか? yes or noでお答えください。
また、「若復有人」の4文字を貴方流に書き下ししてみてください。これの意味が、文全体の文意に関わってくるので。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 00:19 (UTC)[返信]
>>>>2. 「滅尽定が声聞乗のことである」という見解は、脚注の中のどの語が担っていますか?
>>それは『若復有人。先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行。是人入初禪乃至入滅盡定。…(中略)…。若復有人。先修大乘退入聲聞乘是人入初禪乃至入滅盡定。』の太字部分です。
コメント 「是人入初禪乃至入滅盡定」という11文字は、「是人」が「初禅ないし滅尽定」に「入る」と言っているだけであって、滅尽定と声聞乗の関係についてはには何も言ってないでしょう。なぜなら、「是人入初禪乃至入滅盡定」という11文字には「乗」の字すら入っていないですから。逆に、声聞定について述べた文にも「定」や「滅尽定」の字は無いです。
「是人入初禪乃至入滅盡定」という11文字の主語が「是人」であって、この「是人」は「退入声聞乗」という状態にある人だから、その人が滅尽定に入ったら、それは滅尽定が声聞乗であることを意味するのだ、とあなたは言いたいわけでしょう? しかしそもそも、特定の「定」と特定の「乗」の関係が如何なるものであるかについて、この脚注内の経文では何も述べられてないでしょう。この経文ではあくまでも、「退入声聞乗」とされている「人」が「滅尽定に入る」としか言われてないのだから。
退入声聞乗とされている人が滅尽定に入るからといって、〈滅尽定とは声聞乗のことである〉とは言えないのは、警察官とされている人が熟睡するからといって、〈熟睡とは警察官のことである〉とは言えないのと同じことです。
熟睡と警察官は別々の概念であるのと同じように、滅尽定と声聞乗も別々の概念です。この別々の2個の概念が「実は同じだ」という趣旨のことを、いったいどの資料が言っているのですか? すくなくとも、貴方がこの脚注に書いた大方等大集経からの引用文は、この2概念が「同じだ」とは言っておらず、単に「退入声聞乗とされている人が滅尽定に入る」としか言っていないでしょう。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 00:19 (UTC)[返信]
取り消し線と下線で訂正。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 00:34 (UTC)[返信]
そもそもIP利用者氏は、この「退入声聞乗」の「退入」ってどういう意味だと解釈してますか? その解釈の根拠となる資料も併せて挙げてください。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 00:38 (UTC)[返信]
>>>>この漢文を貴方流に書き下した文をここに披露してみてもらえますか?
>>直読みで解釈しました。
コメント 直読みってどういう方法のことかピンときませんが、貴方の言うように実際に漢文を「解釈した」なら、解釈後は頭の中で漢文が日本語に置き換わっているのでは?(また、そうでないと、漢文を日本語で解説できないはずだと思いますが。あなたは漢文の解説を日本語で沢山書いていますよね。記事にもノートページにも)。その、頭の中で漢文から置き換わった日本語を書き下し文として披露してみてくださいと私は言っているのですが、まさかとは思いますが、あなたはこの脚注内の漢文の書き下しをご自分で作る能力が無いということでしょうか?(作る意志が無いのと、作る能力が無いのとは、違います。作る能力が無いのではないということを示すためには、実際に作って披露なさるだけで充分です)。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 00:19 (UTC)[返信]
たとえば、あなたがこの脚注に引用している「若復有人」という四文字の漢文にしても、試しにこれをGoogle翻訳に発音させてみると、中国語(現代中国語、おそらく北京語でしょうね)では「ルオフーヨウレン」というような音になりますね(Google翻訳で試してみてください)。これが大方等大集経の漢訳時の中国語発音と同じ音だと仮定してみましょうか。ではその仮定をふまえてあなたに尋ねますが、この「ルオフーヨウレン」ってどういう意味ですか。「ルオフーヨウレン」は明らかに日本語ではありません(例えば『コンニチワ』なら日本語と言えますが)。ですから、「若復有人(ルオフーヨウレン)ってどういう意味ですか?」と日本語で問われて「ルオフーヨウレンです」と答えても回答になっていないし、「若復有人です」と答えても回答にはなってません(ただの同語反復でしかない)。「漢文の○○はどういう意味ですか?」と日本語で問われたなら、その回答は日本語でなければならないわけです。そして、あなたが出典として採用している漢文をあなたが書き下し文として披露すれば、その漢文の各語句をあなたが日本語としてどう捉えているかが漏れなく判明するわけです。あなたはそれを「判明」させたくないのですか? なぜ?--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 01:45 (UTC)[返信]
>もそもIP利用者氏は、この「退入声聞乗」の「退入」ってどういう意味だと解釈してますか?
日本語でも「出入り」といいます。「入り出」とはいいません。
>「若復有人です」と答えても回答にはなってません
世の中、色んな「人が有り」ますから。「復(また)か」も日本語の日常語になってますし。それが「若復有人」でしょう。
出典は、ちゃんと聲聞行を行じた(つまり九次第の次第を知って行じた)「先修縁覺乘退入聲聞乘行聲聞行」の人は、己の立ち位置をよく自覚するが、「先修大乘退入聲聞乘」という人は滅尽定まではいいけれど、その後の認識を誤まるという意味が行間から滲み出ています。ただし、後者の人も一切智智を得たという僭越なことは言わないというのでしょう。私は後者にあたる人を実地に1人知っていますが、彼の場合は一切智智を得たみたいなことまで匂わせていたみたいですが。私はリベラルアーツの知見を交えて僭越ながら再々忠告したのですけれど、その後、彼は脳にかなりのダメージを受けたようです。今どうしているのでしょうか? --118.83.135.128 2017年6月21日 (水) 07:40 (UTC)[返信]
>>>>そもそもIP利用者氏は、この「退入声聞乗」の「退入」ってどういう意味だと解釈してますか?
>>日本語でも「出入り」といいます。「入り出」とはいいません。
コメント そうすると、この脚注内の「退入」というのを、あなたは「出入り」と読んでいるわけですか?
>>>>若復有人
>>世の中、色んな「人が有り」ますから。「復(また)か」も日本語の日常語になってますし。それが「若復有人」でしょう。
コメント それだけだと、繋げると「またか人が有り」となるのだけど、「若復有人」の4文字をあなたはそう読んでいるということでよろしいんですか? 若の字はその読み方に入ってませんが、どうなってますか?--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 07:58 (UTC)[返信]
両方ともだいたいそんなところです。リベラルアーツは枠組みの方を重視しますので。後者は"若"を入れると、「若(も)し復(また)かという人が有って」といった具合です。部派の経典によると、釈迦は死ぬ前に「善なるものを求めて出家した」と語ったことになっていますが、リベラルアーツの立場からみると、大乗仏教の特に浄土教などは、仏道修行に引き込むことが果たして善なることなのかというアンチテーゼを潜ませているとしか思えないところがありますし。何かと批判されるインドのラジニーシというグルは、死ぬ前に側近の弟子たちに「こんな馬鹿馬鹿しいことに引き入れてしまって本当に申し訳ないことをした。許して欲しい」と言ったそうです。私はそのグルの方に何かしら正直さのようなものを感じてしまいます。--118.83.135.128 2017年6月21日 (水) 19:18 (UTC)[返信]
>>両方ともだいたいそんなところです
了解しました。このIP利用者氏は、この大方等大集経の「退入」という二文字を「出入り」と読み、「若復有人」を「もしまたかという人が有って」と読んでいるのだそうです。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 22:27 (UTC)[返信]
この大方等大集経からの引用部分は、乗と定との関係については直接には何も言っていない、という指摘(参照)および、【「行声聞行」という四文字の有無が「声聞行以後の行についての見解の相違」を意味している】という説を支持する二次資料が無いですね、という指摘(参照)に対しては、IP利用者からは未だに反応が無いです。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 22:27 (UTC)[返信]
報告 上記2017/06/21 22:17(UTC)で指摘されている問題点には対応がなされないまま40日余り経ちました。従いまして、この問題点は解消していませんから、独自研究性は解消していません。--Leonidjp会話2017年8月5日 (土) 22:46 (UTC)[返信]
報告 上記2017/06/21で指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。従いましてこの箇所は、上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 01:02 (UTC)[返信]

2017/06/04

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IP利用者氏が先日記入した(参照参照)この2点のテンプレートについてですが、

{{疑問点|title=そういう説では声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の他、波羅蜜、回向など仏教の多くの基本用語が全く説明できなくなる。|date=2017年5月}}
{{疑問点|title=それでは十大声聞とか言われる仏弟子のほか、仏典に登場する菩薩などが全く説明できなくなる。|date=2017年5月}}

この“|title=”以降のところに「○○が全く説明できなくなる」という主張がありますけれども、この主張の意味するところと、この主張の根拠が不明瞭なのですが、皆さんはこの主張を理解しておられますか?

なお、当該テンプレートを含む段落を、現在の版からそのまま引用しておきます↓。

九次次第とは、[[パーリ語仏典]]では9つの定を置く形で説明が保たれており、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、空無辺処(定)<ref>ākāśānañcāyatana-samāpatti</ref>、識無辺処(定)<ref>viññāṇañcāyatana-samāpatti</ref>、無所有処(定)<ref>ākiñcaññāyatana-samāpatti</ref>、非想非非想処(定)<ref>nevasaññānāsaññāyatana-samāpatti</ref>、想受滅<ref>saññāvedayitanirodha</ref>となり、この最後だけが[[釈迦]]が'''初めて'''到達した仏教に特徴的な定だとされる<ref name="naid130004027834">{{Cite journal |和書|author1=[[藤本晃]] |date=2005 |title=パーリ経典に説かれる「九次第定」の成立と構造 |journal=印度學佛教學研究 |volume=53 |issue=2 |pages=891-888 |naid=130004027834 |doi=10.4259/ibk.53.891 |url=http://dx.doi.org/10.4259/ibk.53.891 }}</ref>{{疑問点|title=そういう説では声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の他、波羅蜜、回向など仏教の多くの基本用語が全く説明できなくなる。|date=2017年5月}}。[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]]では、釈迦は[[入滅]]にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている<ref>藤本晃 『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』 サンガ、2015年、274頁。</ref><ref>この場面は、[[中村元]]訳『ブッダ最後の旅 - 大パリニッバーナ経』(岩波文庫)では169-170頁に記載されている。</ref>。[[藤本晃]]は、滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした[[阿羅漢]]でなければできない禅定であり、凡夫の禅定者にとっては非想非非想処定が最高の境地であると述べている<ref>藤本晃 『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』 サンガ、2015年、209頁、260-269頁。</ref>{{疑問点|title=それでは十大声聞とか言われる仏弟子のほか、仏典に登場する菩薩などが全く説明できなくなる。|date=2017年5月}}。[[竹村牧男]]によれば、[[部派仏教]]では人間は釈尊にはほど遠く、修行しても及ばないと考えられており、修行の最終の地位は[[阿羅漢]]であるという<ref>竹村牧男 『「覚り」と「空」』 講談社、講談社現代新書、1992年1月、118頁および125頁。</ref><ref>竹村牧男 『インド仏教の歴史』 講談社、講談社学術文庫、2005年7月、133頁および140頁。なお、本書4頁によれば、本書は、竹村牧男『「覚り」と「空」』(講談社現代新書)の再刊である。</ref>。

以上。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 01:15 (UTC)[返信]

本日このテンプレートがIP利用者氏によってすこし加筆されたようです(参照)。--Leonidjp会話2017年6月6日 (火) 22:11 (UTC)[返信]

IP利用者氏へ。結局、何がどのように「説明不能」であるのかを具体的に明示してもらえますか? その明示がないと、このテンプレートの主張する内容自体が意味不明なままなので。--Leonidjp会話2017年6月26日 (月) 08:15 (UTC)[返信]

それはここ Wikipedia:コメント依頼/118.83.135.128#被依頼者のコメント に明示済みであることは知っているはずだ。ちょっと白々しすぎませんか。--118.83.146.234 2017年6月26日 (月) 17:42 (UTC)[返信]
何を仰いますやら。そのコメント依頼に何かが「明示済み」であるのを知っているのは、そのコメント依頼の存在を知って読んでいる人だけでしょうに。ノート:定をこれから読む人の全てがそうである保証などないのだからこそココへ明示すべきなのです。
それから、そのコメント依頼に明示済みというのは実は間違いです。あなたが今日時点でそのコメント依頼に記入しているのは、「狂死・横死」だの「カルト出現の可能性」だのという貴方の持論についてだけであって、「○○が説明不能になる」という貴方の主張に関しては貴方は何も記入してません。昨日の今日ですよ。あなたはそのことを覚えているはずだ。ちょっと白々しすぎませんか。--Leonidjp会話2017年6月26日 (月) 23:37 (UTC)[返信]
報告 経過をまとめておきます。#2017/06/04の冒頭で挙げた2個の疑問点テンプレートは、IP利用者の編集によって分量が増え、そのテンプレートの直後に、IP利用者が要検証テンプレートを加えています(差分)。
前者については、“|title=”以降の文言の意味が不明であることが#2017/06/04冒頭にて指摘されており、上記6/26にも、
結局、何がどのように「説明不能」であるのかを具体的に明示してもらえますか? その明示がないと、このテンプレートの主張する内容自体が意味不明なままなので。
と当方から説明を催促していますが、現在も説明がなされていませんので、“|title=”以降の文言は意味不明なままであり、従ってテンプレートの設置の趣旨が不明です。後者については、やはりこのテンプレートの設置の趣旨をIP利用者がここで説明することをしていません。
設置の趣旨が不明なテンプレートは除去します。
もしかしてこれはWP:VAN#タグの不正使用に該当しませんでしょうかね。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 03:24 (UTC)[返信]
報告 この疑問点テンプレートの設置の趣旨をここで尋ねてきましたが、設置者からの具体的な回答はありませんでしたので、設置の趣旨が不明ということで、当該テンプレートは削除しました(差分)。--Leonidjp会話2017年8月9日 (水) 14:05 (UTC)[返信]

2017/06/09-1

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この編集定#大乗仏教における滅尽定の解釈の節に指摘した問題をここにも示しておきます。

{{信頼性要検証範囲|title="霊友会"|滅尽定については、異なる複数以上のサンスクリットの漢訳として用いられており、滅受想定と同義の漢訳の他に、ubhaya(to)-bhāga-vimųka からの翻訳がある|date=2017-05}}<ref name="metsu">平川彰・編纂 『仏教漢梵大辞典』  霊友会 、740頁「滅尽定」、及びその対照逐訳。</ref>。この訳語としての{{信頼性要検証範囲|title="霊友会"|滅尽定(ubhaya(to)-bhāga-vimųka)|date=2017-05}}は、[[菩薩]][[十地]]の第六地(般若波羅蜜)<ref name="hara">『大乗仏典 8巻 十地経』荒牧典俊訳 (中央公論社) 210頁</ref>において入定し、第七地(方便波羅蜜)<ref name="hara"/>で入出定するようになるとする<ref name="ju">『大乗仏典 8巻 十地経』荒牧典俊訳 (中央公論社) 222-223頁</ref>
  • ref name="hara"の脚注にて出典とされる荒牧典俊訳『大乗仏典 8 十地経』210頁には、菩薩十地や第六地という語は無い。第六地が般若波羅蜜である旨も書いてない。(6)などという丸括弧付きのアラビア数字は並んでいるが、それが菩薩十地なり十地のそれぞれを指すなどとはそこには書いてない。
  • この段落の冒頭から続く文脈に基づけば、「ubhaya(to)-bhāga-vimųkaの訳語としての定」なるものについてこの210頁が言及しているかのように読めるが、この頁に1個だけある「定」の字は単に「禅定」としか書いていないので、何の訳語であるかという情報はここには載っていない。
  • 出典とされる『大乗仏典 8 十地経』210頁には、方便波羅蜜が第七地である旨は書いてない。
  • ref name="ju"の脚注にて出典とされている『大乗仏典 8 十地経』222-223頁には方便波羅蜜という語は無い。ただし第七地で「かの菩薩」なる者が「第七の菩薩の地(くらい)」にあるときに「入定しては、また出定する」旨が223頁に書いてある。
  • この段落の冒頭から続く文脈に基づけば、「ubhaya(to)-bhāga-vimųkaの訳語としての定」なるものについてこの222-223頁が言及しているかのように読めるが、この222-223頁にある「定」は【あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)】という意味であり(222頁末尾)、訳注(392頁)によればそれは「最高位の禅定」であって非想非非想処に属するものだそうである。つまりこの222-223頁にある「定」の原語は同頁と訳注に載っていないので、「ubhaya(to)-bhāga-vimųkaの訳語としての定」について説明しているこの箇所の文意は独自研究。--Leonidjp会話2017年6月9日 (金) 07:06 (UTC)[返信]
  • この問題の部分(上述の灰色引用部分)では、入定したり出定したりする主体が何であるかは全く書かれてませんが、出典とされる荒牧典俊訳の本の当該頁ではその主体は「かの菩薩」という者であることが明示されてます。ですから、主体を特定しない一般論として「第○地で入定/出定する」というような表現も不可能でしょう。すくなくとも、この荒牧典俊訳の本だけを出典とする場合は。--Leonidjp会話2017年6月9日 (金) 23:41 (UTC)[返信]

指摘から1週間以内にこの問題群に対処がなされなければ、書き換えるか削除します。書き換えや削除に連動して文脈が変わらざるを得ないときは、他の部分にも変更が及ぶ可能性があります。--Leonidjp会話2017年6月9日 (金) 23:41 (UTC)[返信]

訳注者は、九次第の第八である非想非非想処定の次の滅尽定と混同してしまったのであろう。九次第の滅尽定が第六にくるはずのないことは自明である。私もまた、十地経を読んだ20年ほど前に、滅尽定がなぜここに出てくるのか著しく混乱したもののひとりである。十地経は発心+九次第定の経典であると思い込んだからである。しばらくしてそうではく、それとは別で、その後に続くあくまで十波羅蜜の経典であることを理解し、仏教の信じ難いほどの壮大なフレームにただただ途方に暮れ、慌わてふためいたのであった(リベラルアーツ的にみれば、詳述するかどうかの違いがあるだけでオリエント起源の宗教に共通のものなのだが)。フレームを理解してもなお、なぜここに滅尽定が出現するのか不明のままであったのだが、なんのことはない、平川彰・編纂の『仏教漢梵大辞典』によれば、滅尽定には全く意味の異なるサンスクリット原語があって、同じく「滅尽定」という漢訳があてられてしまっていたのである。独自研究はむしろ訳注者の方ではなかろうか。--118.83.141.75 2017年6月10日 (土) 16:11 (UTC)[返信]
IP利用者氏はここを編集したようですが、新たな出典は示されなかったことが確認できました。未だに荒牧典俊の本の210, 222-223頁しか出典が無いのが明らかなので、それを出典にする限りで確実に言い得ることのみに縮減しなければなりません。
>>なぜここに滅尽定が出現するのか不明のままであったのだが、なんのことはない、平川彰・編纂の『仏教漢梵大辞典』によれば、滅尽定には全く意味の異なるサンスクリット原語があって、同じく「滅尽定」という漢訳があてられてしまっていたのである。
コメント この210, 222-223, その訳注という現状の出典に載っている滅尽定とか定という語の原語はこの頁に載ってませんので、原語は不明です。ですから、IP利用者氏が提示している平川彰の辞典のなかの「ubhaya(to)-bhāga-vimųka」がこれの原語であるか否かは知りようがありません。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 22:56 (UTC)[返信]
荒牧氏の当該頁を出典とする限りで確実に言えることのみに限定した文意に書き換えました(参照)。なお、この件に関係する訳注(同書392頁、84番)は、222-223頁に出てくる「あらゆるまよいの存在が滅尽する定」なるものが「九次次第の滅尽定とは異なる滅尽定」であるとは言ってません。
なお、210頁は滅尽という語自体が無いので、210頁は出典から外してもよいと思います。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 00:03 (UTC)[返信]
報告 ついでなのでここで告知しておきますが、ノート:菩薩#2017/05/26-2およびノート:四禅#2017/05/29においても、IP利用者氏が一次資料のみを出典とした経典解釈を掲載し続けようとしている様子が伺えます。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 04:48 (UTC)[返信]

コメント ubhaya(to)-bhāga-vimųka は ubhaya(to)-bhāga-vimukta の綴りまちがいでしょうか。もしそうなら、これはふつう「倶分解脱」または「倶解脱」と翻訳される語ですね。『漢訳対照 梵和大辞典 改訂版』の280頁に ubhayato-bhāga-vimukta が載っていますが、そこでは漢訳として「倶分解脱」と「倶解脱人」が挙げられています。倶解脱は智慧と禅定の両面を具えた阿羅漢の解脱ということで、法蔵館の『新版 仏教学事典』の「解脱」の項では「阿羅漢で滅尽定を得たもの」と解説されています。そういう意味で倶解脱の原語が滅尽定と訳される場合があるのは理解できなくもないですが、もとより ubhaya(倶)+ bhāga(分) + vimukti(解脱)という構成なのですから、nirodha-samāpatti と異なる概念なのは当然と思います。しかし「如来如去性に関わる原意」とは何に依拠したものでしょうか。--Doomreaper会話2017年6月21日 (水) 15:23 (UTC)[返信]

vimųka は vimuka のはずで代用したものです。ụ はラテン文字にあるのでそのはずです。「倶分解脱」というのは分からないでもないですが、心解脱・慧解脱・倶解脱の倶解脱と同じものですかね違うものですかね。法蔵館の記述は混乱するのでひとまず置いておいて、ubhaya(to)-bhāga-vimuka の梵英訳は如来如去性を地でいく訳になります。ちゃんと記述したのに誰かに隠しタグを付されたので解除しておきます。--118.83.135.128 2017年6月21日 (水) 18:53 (UTC)[返信]
コメント IP利用者氏の編集によって、「如来法性にかかわる原意」という文言の出典としてspokensanskrit.deが本文に現れたようですが(差分)、spokensanskrit.deは単語の「原意」を特定してないと思います。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 22:39 (UTC)[返信]
コメント 心解脱・慧解脱・倶解脱の倶解脱と同じですね。サンスクリットに u でも ū でもない u という母音があるとは知りませんが、『仏教漢梵大辞典』の表記が特殊なのでしょうか。"in both ways - portion - letting go"を以前コメントアウトしたのはわたしですが、これは ubhaya(to)-bhāga-vimuka という複合語の構成要素をSpoken Sanskrit Dictionaryで検索した結果を並べただけですよね。ubhaya(to)-bhāga-vimųka の語意を解説した他の文献を参照せずに、Spoken Sanskrit Dictionaryの検索結果だけで ubhaya(to)-bhāga-vimuka の全体的な意味を云々するのは独自研究に該当するのではないでしょうか。また、"letting go" は vimuka ではなく vimoka(ヴィモーカ)の検索結果ですよね。Spoken Sanskrit Dictionaryでvimukaを検索すると、vimuka の登録がないためか、似た綴りの vimoka がヒットするようになっているようですね。--Doomreaper会話2017年6月21日 (水) 22:41 (UTC)[返信]
確認したところ、ubhaya(to)-bhāga-vimuka の誤りでした。いつになく力強い筆致で _ をメモっていたのできっとそうなんだろうと思っていたら、その下の行にメモした単語の ā のバーでした。心解脱・慧解脱・倶解脱の倶解脱(-vimukta)とは、恐らくビフォー・アフターのような違いがあるのでしょう。そうなら本文の記述ともうまく合致します。もしそうなら、昔の人というのは子音1字の違いで意味に違いを持たせていたわけで、現代人とは大違いで驚きます。(旧: 118.83.135.128)--118.83.135.142 2017年7月4日 (火) 18:42 (UTC)[返信]
コメント 某所で『仏教漢梵大辞典』740頁「滅盡定」を確認したところ、ubhaya(to)-bhāga-vimuka ではなく ubhaya(to)-bhāga-vimukta となっていました。Digital Dictionary of Buddhism (ユーザー名 guest で利用可能)の「滅盡定」でも梵名に ubhayato-bhāga-vimukta, ubhaya-bhāga-vimukta を挙げています。そこに列挙されている出典のひとつ、Buddhist Chinese-Sanskrit Dictionary (Hirakawa) 0740 は『仏教漢梵大辞典』740頁ですね。--Doomreaper会話2017年7月18日 (火) 18:52 (UTC)[返信]
報告 上記2017年6月21日 (水) 22:39(UTC)で示したとおりspokensanskrit.deは梵語の原意を表示してないので、同サイトのみを出典として梵語の原意を述べている記述は削除しました(参照)。--Leonidjp会話2017年8月9日 (水) 14:16 (UTC)[返信]

2017/06/09-2

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IP利用者による数ヶ月前のこの編集によって、下記の部分がコメントアウトされていますが、これは載っていないほうがよいものなのでしょうか? なおこの部分の脚注(ref name="岩波仏教辞典513")は現在の版では訂正されてref name="総合仏教大辞典687"となっています。

無心定には、無想定と滅尽定とがある<ref name="岩波仏教辞典513"/>。無想定は、[[凡夫]]や[[外道]]が真の[[悟り]]と誤認して修めているが、滅尽定は聖者が修めているものである<ref name="岩波仏教辞典513"/>。無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定(nirodha-samāpatti)では、[[有頂天]]にもとづき心と[[心所]]法は決められた間において止滅する<ref name="智慧の眼をひらく">{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|pages=132、索引16}} 全面的な再改訳版。(初版『大乗仏教入門』1980年、改訳『智慧の眼』1988年)''The Opening of the Wisdom-Eye: And the History of the Advancement of Buddhadharma in Tibet'', 1966, rep, 1977。[[上座部仏教]]における注釈も備える。</ref>。[[阿羅漢]]においては、順次ではなく一地を飛ばして高い段階の定を修める<ref name="岩波仏教辞典513"/>

以上。--Leonidjp会話2017年6月9日 (金) 07:06 (UTC)[返信]
誤字訂正。--Leonidjp会話2017年6月9日 (金) 07:09 (UTC)[返信]
さらに訂正。--Leonidjp会話2017年6月9日 (金) 07:10 (UTC)[返信]

"無想定"つながりだけの、文意が全く通らない情報の合成。岩波仏教辞典の流れからは、ダライラマが凡夫や外道になりかねない。除去しても構わないのではないか。--118.83.143.21 2017年7月8日 (土) 19:37 (UTC)[返信]
>>"無想定"つながりだけの、文意が全く通らない情報の合成。岩波仏教辞典の流れからは、ダライラマが凡夫や外道になりかねない。
コメント これは当人の思う結論を発表しているだけであって、その結論に至るロジックは説明されていない。従ってこの箇所をコメントアウトすることがなぜ必要であるかについての説明にはなっていない。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 23:29 (UTC)[返信]
報告 コメントアウトすべき理由が具体的には示されなかったので、このコメントアウト状態を解除し、各々の文を、それにふさわしいと思われる節へ移しました。位置がおかしければ、ご随意に編集ください。--Leonidjp会話2017年8月9日 (水) 13:57 (UTC)[返信]

2017/06/19-1

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IP利用者が2個記入したこちらの要検証テンプレートについて。

  • {{要検証|title=この類の知見から自ら成道したとして、狂死・横死する人がいる。当方の知る限り今世紀に入って2人ほど伝聞しているが、出典の著者や出典採用者はそうした事象に責任が持てるのか?|date=2017年6月}}

これを記入した人に訊ねますが、これは、Wikipediaのの記事を読んだ人が「狂死・横死」するという可能性を提示することによって、特定の資料をの出典として採用することを思いとどまらせようとするものですか?--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 15:16 (UTC)[返信]

読んだ人がというより、信じ込んだ人がですね。当方は、いわゆるテーラワーダ仏教に対する見方をここ2、3年で180度変えまして、結構狂奔者を出しているのかもしれないと考えてみるようになりました。また出たよと捨て置かれるのではないかと。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 18:51 (UTC)[返信]
「信じ込んだ人」も「読んだ人」に含まれますね、原理的には。読まないと信じ込めないので。そのことを一応確認しておきます。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 21:52 (UTC)[返信]
報告 このテンプレートが貼付されたことについて、Wikipedia:コメント依頼/118.83.135.128を提出しました。被依頼者のコメントと第三者のコメントが記入可能ですので、よろしければどうぞ。--Leonidjp会話2017年6月25日 (日) 06:10 (UTC)[返信]
>>この類の知見から自ら成道したとして、狂死・横死する人がいる。当方の知る限り今世紀に入って2人ほど伝聞している
コメント テンプレートに記入されているこの主張自体が、信頼できる二次資料において未発表の説なので独自研究。テンプレートの設置そのものが独自研究に基づくという事態。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 03:52 (UTC)[返信]
テンプレートに個人的な知見や意見を書くのはルール違反ではありません。臨済宗に飽いたら、今度はサンガですか。いいでしょう。サンガは英仏あたりの民間のよからぬ筋からの資金援助があるのではないかと、私も眉をひそめていたので返答しておきましょう。
藤本説というのはリベラルアーツからみても、教皇に32人の衛士をつけるバチカンからもクレームが来そうな内容ですよ。藤本説では、釈迦は天部で安逸を貪っていたことになります。その意味では他宗教からのクレームはないかもしれないが、これは明らかに仏法の誹謗ですよ。--118.83.143.21 2017年7月8日 (土) 19:37 (UTC)[返信]
>>テンプレートに個人的な知見や意見を書くのはルール違反ではありません。
コメント テンプレートの設置の根拠についての議論であることをお忘れなきよう。単に“title=”以降に個人的な知見が書いてあるかどうかというだけの問題ではありません。テンプレート設置の根拠が「個人的な知見」しかないなら、独自研究に基づいたテンプレート設置ということが明らかです。
>>臨済宗に飽いたら、今度はサンガですか。
コメント Leonidjpは「臨済宗に飽いた」と自称してません。IP利用者は議論相手の内心を勝手に描写する癖がありますね。
>>藤本説というのはリベラルアーツからみても、教皇に32人の衛士をつけるバチカンからもクレームが来そうな内容ですよ。藤本説では、釈迦は天部で安逸を貪っていたことになります。その意味では他宗教からのクレームはないかもしれないが、これは明らかに仏法の誹謗ですよ。
コメント この主張が無出典ですので独自研究。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 23:37 (UTC)[返信]
報告 このテンプレートは2個とも削除しました。理由は上述のとおり、設置根拠が独自研究でしかなく、他の利用者に対する脅迫的言動をも含むため。--Leonidjp会話2017年8月9日 (水) 13:36 (UTC)[返信]

般涅槃のくだりについて

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Leonidjpさんのこの編集での疑問点にお答えします。

  • わたしが参照している中村元訳『ブッダ最後の旅』2015年8月発行の第51刷では169-170頁でまちがいありません。奥付を見ますと第42刷で改版となっていますので、それ以前の版とはページが異なるかもしれません。
  • 記事の「釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている」(差分)は、出典である藤本晃著『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』の274頁の般涅槃の記述の要約です。『ブッダ最後の旅』のほうは出典ではなく、原典訳での該当箇所を示したおまけのつもりでした。要約が不正確、あるいは過度に簡略化されて曖昧で誤解を招くとお考えでしたら、転載にならぬよう出典の表現を流用せずにご自分の言葉で書き換えるか、別の信頼できる情報源に基づいて記述を改めるのは一向にかまいません。--Doomreaper会話2017年6月13日 (火) 13:17 (UTC)[返信]
Doomreaper様、ご応答ありがとうございます。42刷で改版となっていることは知りませんでした。それ以前の版よりもページが増え、内容も変わっているのだろうと思います。
私は今日、同書の25刷を参照しまして、そのバージョンの当該ページが出典たりえない(出典として載っているべきものが載っていない)場合には、出典無効タグなどを複数の記事で付けました。もしそれらのタグの付いた箇所を発見なさった場合に、42刷以降のバージョンを用いて出典をお書きになる場合は、それぞれの出典無効などのタグは消して頂いてかまいません。
例の脚注が藤本氏の本の要約であったこと、承知いたしました。私自身は、藤本氏の説が『ブッダ最後の旅』の当該ページに対する解説として適切なものであるかどうかを判断する能力が今のところありませんので、この脚注の扱いはDoomreaperさんにおまかせします。脚注に付けた疑問点範囲テンプレートは除去しておきます。--Leonidjp会話2017年6月13日 (火) 13:35 (UTC)[返信]