ノート:富加町のポルターガイスト
この記事は2010年4月13日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、削除となりました。 |
中立性について
[編集]「中立性の確保のため」としていますが、どうも中立的な観点について誤解されているようです。中立的な観点の趣旨は「いかなる観点にも立たない」ことですから、ある観点について執筆者の主観で批判ないし擁護することは、その時点で中立的な観点に反していると言えます。本項目で言えば、主題となっている現象が超常現象である(ではない)という前提に立つこと自体が中立的な観点に反しています。執筆するなら、出典Aではこのように書かれている、出典Bではこのように書かれている、という紹介に留め、特定の出典のスタンスを論じるべきではありません(それは当該出典ないしその著者の項目でやるべきです)。
ついでながら、ウィキペディアへの自己言及がありますので、改稿の際は除去願います。また、プライバシーを云々するのであれば、そもそもイニシャル表記する必要もなく、役職名のみの言及で足りるはずです。--郁 2010年3月14日 (日) 09:43 (UTC)
加筆。中立性を実現
[編集]夕刊フジのサイトの情報を加筆しました。 霊界探訪さんが書いたのは態度留保的な説と佐藤愛子の説(心霊主義的な説)二つでしたが、私のほうで定常波説(ウォーターハンマー説)、後づけバイアス説、コンデンサ説なども幅広く紹介しました。
霊界探訪さんの『新・トンデモ超常現象 56の真相』の性質についての解説文は、最初に表示して強調する必要はなく、refに送り込んで、脚注として表示するぐらいでちょうどいいと思います。--Feepleed 2010年3月15日 (月) 03:53 (UTC)
私の加筆によって、自然科学者や専門家の諸仮説も紹介し、様々なタイプの解説がこの記事に含まれるようになりましたし、霊界探訪さんの記述も、佐藤愛子は、、、、と述べた、佐藤は、、、、と判断した、という表現で、Wikipedia:中立性に合致した表記法を結構守っているようです。また、と学会本の解説も私のほうで脚注化しました。これらの作業でこの記事の中立性はほぼ確保できたと思います。よって中立性タグははずします。--Feepleed 2010年3月15日 (月) 04:09 (UTC)
- 先のコメントで述べたように、本項目で出典そのものやその著者のスタンスを云々すること自体が不自然です。もしやるなら、出典や著者の項目で、そのことに言及している資料を基に行うべきです(でないと、単なる独自研究と変わらない)。
- 今回の変更点は以下の通りです。
- 出典の記述変更。脚注をまとめ、テンプレートにより表示を統一しました。また、ほとんどセンテンスごとに付けられていたrefを段落の最後に付けるようにしました。
- 独自研究の排除。初版執筆者の独自研究と思われる部分を除去しました。殊に出典や著者のスタンスに関する言及はすべて除去しました。一部コメントアウトしていますが、理由はコメントアウト部に書いた通りです。
- 伝聞調の排除。百科事典に伝聞調はふさわしくありません(基本は「だ、である」。参照:Wikipedia:表記ガイド)。引用と判断できる部分を除き、伝聞調は排除しました。文意は変わっていないはずです。
- 参考文献の除去。出典以外の参考文献がないため除去しました。
- 他、微修正。主に書式統一。箇条書きは同一の書式に変更。読点の連続は引用部を除き三点リーダーに変更。強調は基本的に不要ですから冒頭以外は除去。役職名・職業名と併記された英字表記はなくても文意に影響がありませんので除去し、文意が損なわれない範囲で手を入れました。
- 正直、バランスを考えると佐藤愛子の節はもっと簡潔にすべきだと思いますが、書籍が手元にないため手を付けられませんでした。というか、書籍紹介の場ではありませんので、構成を変え、現象を先に持ってきてまとめ、それから各出典における考察という形にした方がいいかもしれません。--郁 2010年3月21日 (日) 11:02 (UTC)
このノートの形式についてのやりとりなど
[編集]- さて、先のコメントから一週間以上が経過し、霊界探訪さんによる編集もありましたが、ノートへのコメントがありません。私が差し戻し等をしないのは編集合戦にしないためです。ノートでの合意なしに編集を強行されると、対話拒否とみなさざるを得ません。--郁 2010年3月29日 (月) 09:13 (UTC)
- 上記各セクションに自署名を追加したので、申し訳ないが、郁さんの上記文章を各セクションに振り分けてください。テーマごとに区別して論じましょう。--霊界探訪 2010年3月29日 (月) 16:56 (UTC)
- とりあえず2010年3月22日 (月) 09:01 (UTC)のコメントをコメントアウトの上、署名と共に各セクションに転記しました。
- 最後に、他利用者のコメントに割り込む形でコメントするのは止めてください。どこまでが誰のコメントなのかが分かりにくくなり、議論の妨げとなります。--郁 2010年3月31日 (水) 10:30 (UTC)
- 上の郁さんの各コメントに、時間を遡って郁さんの署名をつけてくれないか? そうしないと、私のコメントが、郁さんのどれにつけたものか分からなくなってしまう。テーマは枝分かれするので、スレッド感覚で話を深め、細かく個別に合意点や妥協点や改善点を見出し、ひとつひとつ具体的な作業をすすめたいから。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 11:45 (UTC)
- お断りします。わざわざ箇条書きにして何についてのコメントかも先頭に付記しているのですから、分けてコメントするぐらい誰にでもできることでしょう。必要なら別に節を立てれば済む話です。--郁 2010年4月1日 (木) 03:29 (UTC)
- 上の郁さんの各コメントに、時間を遡って郁さんの署名をつけてくれないか? そうしないと、私のコメントが、郁さんのどれにつけたものか分からなくなってしまう。テーマは枝分かれするので、スレッド感覚で話を深め、細かく個別に合意点や妥協点や改善点を見出し、ひとつひとつ具体的な作業をすすめたいから。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 11:45 (UTC)
- 上記各セクションに自署名を追加したので、申し訳ないが、郁さんの上記文章を各セクションに振り分けてください。テーマごとに区別して論じましょう。--霊界探訪 2010年3月29日 (月) 16:56 (UTC)
郁さんの3月21日11:02の編集について
[編集]ページ番号
[編集]私の執筆箇所にせっかく記述してあったページ数などの情報をすっかり消去してしまい、検証可能性を悪くしています。佐藤愛子の出典はp.47からp.84の38ページにも及んでいます。たとえばこの記事を読んでいる人が、ある日自分自身の目で出典と照らし合わせて文章内容を検証しようと思った時に、もし郁さん方式のようにページ数が書いてなければ、実際上は検証はひどく困難になってしまいます。佐藤愛子は小説家で、あの本は、小説的な文章技法もそれなりに用いていて、記述の順序は出来事の時間順どおりにはなっていませんからなおさらです。 たしか、Wikipediaの方針では、出典表示は検証可能性を重視し、ひと目でページ数まで確認できるほうが良いという結論になったはずです。Wikipediaは電子媒体ですので行数は長くてもいい、紙の印刷物とは異なるから神経質にならなくて良い、という判断になったはずです。
今回はたまたま250ページほどの文献ですが、Wikipediaで使われる文献も、ものによっては600ページや1000ページに及ぶものもあります。まともな学術的な文献やまともな歴史文献になればなるほど大部で、ページ数が膨大になります。Wikipediaの出典表示のページ番号を削ってしまうとは何事でしょう。検証不能になってしまうではありませんか(怒)。 今後そういう出典表示の圧縮活動は止めていただきたいものです。 ともかく、私が最初に投稿した加門と佐藤愛子による調査は、私が最初に検証可能性まで配慮してせっかくページ情報まで書き込んだのですし、その形式のほうが検証可能性の点で優れていますので、最初の出典表示の形式に戻すことにします。
ただし、Feepleedさんの夕刊フジの加筆箇所に関しては、郁さんが変更した形式のままにしておきます。こちらの出典原文はわずか4ページしか無いようですから、原文を検証したい人にとっても、さほど困難ではないでしょうから。--霊界探訪 2010年3月21日 (日) 17:23 (UTC)
- ページ番号について - Wikipedia:検証可能性は検証容易性ではないことを指摘します。長大な資料を飛び飛びに出典としている場合でもなければ、同一出典から細かくページを指定した脚注は不要です。--郁 2010年3月22日 (月) 09:01 (UTC)
- 妥協点として、佐藤愛子の本をいくつかのブロックに分け、{{Cite book}}である程度すっきりと表示することを検討してみることにする。--霊界探訪
- 妥協点の、佐藤愛子の本をいくつかのブロックに分けつつ{{Cite book}}ですっきり示す作業を行いました。--霊界探訪 2010年4月2日 (金) 02:04 (UTC)
江原啓之の箇所
[編集]佐藤が描写している、江原啓之の霊視の箇所を勝手にコメントアウトしないように。あれでも私のほうで、原著に記述されている現場情報を、それなりに懐疑的に読みつつも、情報を無視はせず盛り込み、中立性は確保し、かつ百科事典形式から極端に逸脱しないように、かつ原文そのままのコピーにならないように、と、かなり苦心して記述しています。 そのあたりのことに疑問があるなら、ご自身の目で出典を確認してみてください。ご自身の目でみれば、「ああ、なるほど、こう書くのもしかたないだろう」とか「こういう記述のしかたもあってもいいだろう」と思えるはずです。佐藤愛子の本は、近隣の市町村などの図書館なども探せば無料で読むこともできるはず。そのわずかな努力すらしないままで、他人が苦心して書いた、出典も明記して中立性も満たしている文章を、安直に独自の判断でコメントアウトしないようにしてください。--霊界探訪 2010年3月21日 (日) 17:23 (UTC)
- 江原啓之の箇所 - Wikipediaは百科事典を創るプロジェクトで、書籍紹介の場ではありません。特定人物の発言は引用する必要のある場合を除いては不要です。要旨を地の文で説明すればたいていの場合は事足ります。--郁 2010年3月22日 (月) 09:01 (UTC)
- 江原の霊視のくだりは、もう少し記述を圧縮する方向で検討する。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 05:04 (UTC)
この記事ではむしろ伝聞調が適切
[編集]Wikipedia:表記ガイドは考慮すべきガイドラインにすぎません。それに対して、Wikipedia:検証可能性のほうは公式ルールで、こちらのほうが重要です。この記事では、ローカルルール的に判断し、伝聞調を採用すべきです。著者により記述はバラバラであり、ウィキペディアンが検証できるのは、「...と書いてある」ということや、「述べている」といったことまでだからです。この記事ではそれを素直に記述すべきです。
誰が現場に行っても、まったく同じ報告書が提出されるような単純なテーマなら(例えば10円玉の直径は何mmか、○○年のオリンピックの男子100m走の優勝者 等々)、断言調で記述すればよいでしょうが、 ポルターガイスト現象のようなテーマに関しては、取材者ごとに記述が極端に異なります。取材者が、ある証言者から聞き出したことを、主観で文章としてまとめた、とか。取材者が過去の記事を読んで解釈して再構築して書いたとか。常に取材者の主観や解釈や判断が入り込んでいます。取材者本人が目撃したことですら、つきつめると、常に目撃者の主観が作用して、パターン認識に影響しています。このような種類のテーマでは、唯物論者の側も、心霊主義者の側も、世俗的な新聞記者の側も、全員、主観の影響を受けています。全員が、自分の世界観に合致する情報ばかりをピックアップして強調して伝え、自分の世界観に合致しない情報を無意識のうちに無視したり、意識的に無視します。それに、盲人は音や手触りのことばかり報告して対象の色彩のことは無視し「色なんてものは無いさ!」みたいな報告をし、聾唖者は対象物が出していた音のことは報告してくれない、というようなことも起きます。盲人が「色なんてこの世にないさ!」と報告書に書いたからといって、百科事典であろうが、「この世に色は無い。(出典....)」、と断定口調で書くわけにはゆかない。「盲人Dは、この世に色は無い、と述べた。(出典....)」と書くほうがよい。取材者の立場や先入観・世界観によって記述が異なってしまう事象・現象については、百科事典であろうが、やはり伝聞形式で書く、ウィキペディアンはある文献にそう書かれているということを検証したにすぎない、もっと分かりやすく言えば、ウィキペディアンは文字列を見たにすぎない、インクの染みの列を見たにすぎない、という前提で書くほうが無難でしょう。結局、間主観性の世界、複数の主観が並立している世界。どこまでいっても平行線。各人自分の意見を言うばかりで、相互に合意しない世界です。夕刊フジの記者も、科学者たちはそれぞれ独自の説を述べるだけだった、といったことを書いているでしょう。
結論として、ポルターガイスト現象は、とりわけデリケートなテーマですので、杓子定規に「...だ」「...である」などと、あたかも絶対の真理であるかのように記述してしまうより、伝聞形式で「佐藤は....と書いた」「佐藤は次のように描写している」「加門は...と述べた」といったように記述しておくほうが無難です。--霊界探訪 2010年3月21日 (日) 17:23 (UTC)
- 伝聞調について - 霊界探訪さんの独自の見解に過ぎません。基本的には引用時を除いて伝聞調は不要です。そもそも「とりわけデリケートなテーマ」や、だ・である調が「あたかも絶対の真理であるかのように記述」ということ自体が主観に過ぎません。少なくとも、それらの論拠となる資料の提示がない限り、私の見解は変わりません。--郁 2010年3月22日 (月) 09:01 (UTC)
- 独自の見解ではありませんよ。Wikipedia:中立性に照らしても、そうなります。Wikipediaでは紹介する説・意見との距離をとらなければなりません。政治問題だとか、哲学問題だとか、議論が多く複数の説が乱立している領域の各説を紹介するところでは、Wikipediaは地の文を一部は用いつつも、しばしば伝聞調になっていますよ。Wikipediaでは「伝聞調は用いてはいけない」という公式ルールはないのです。乱立する説を併記するのですから、そうなるのが無難です。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 05:30 (UTC)
- この場合中立的な観点を持ち出しても変わりません。先のコメントでわざわざ引用時を除いているのは何故だか理解していますか? そして引用の要件は理解していますか? 方針やガイドラインではなく法律上の問題で、引用の要件から言って、主題を説明するのに不可欠な場合以外は、原則として出典からの転記はしてはならないことです(不要な転記そのものが著作権侵害にあたる可能性がある)。それに伴い、その不可欠な引用時を除いては必要なくなります。--郁 2010年3月31日 (水) 10:30 (UTC)
アルファベット
[編集]自治会長は、佐藤の原著をよく読むと、必ずしも自治会長の役職として発言しているばかりではなく、ただの一住民として発言している場面も多いようなので、役職名だけよりはアルファベットも併記したほうが良いだろうと思う。プライバシーにもっと配慮するのなら、「自治会長のA氏」とかB氏のほうがいいかも知れないが。--霊界探訪 2010年3月21日 (日) 17:23 (UTC)
- アルファベットについて - 江原啓之の部分と被りますが、人物の発言は基本的に不要ですから、「誰の」発言かを明記する必要もありません。--郁 2010年3月22日 (月) 09:01 (UTC)
- 誰の発言かを特定することは、もちろん大切。工学部教授の発言なのか、新聞記者の発言なのかの違いは重要。wikipediaに「発言は不要」などというルールはない。Wikipediaに「事実に関する意見も書け」というルールはある。意見や見解は発言の形で書くのがよい。絶対の真理として地の文に書いてはまずい。--霊界探訪
- ただし自治会長は本当は「自治会長B氏」「B氏」あたりがいいと思う、というのは今後いつ自治会長の人物が入れ替わるかも知れないから、だが当面「自治会長」でもよいかも知れないとも思う。ちょうどいい具合にアルファベットを除く編集をした人がいたので、そのままそれを受け入れ採用することにする。--霊界探訪
- 他のセクションで言及したように、出典からの転記が必要かを精査する必要あり。また、敬称は不要です。--郁 2010年3月31日 (水) 10:30 (UTC)
- ただし自治会長は本当は「自治会長B氏」「B氏」あたりがいいと思う、というのは今後いつ自治会長の人物が入れ替わるかも知れないから、だが当面「自治会長」でもよいかも知れないとも思う。ちょうどいい具合にアルファベットを除く編集をした人がいたので、そのままそれを受け入れ採用することにする。--霊界探訪
- 敬称がいらないことは了解した。「...氏」は止めることにしよう。
- だが人物が特定できないのはダメに決まっている。Wikipediaのどこにも「誰の意見なのか、誰の発言なのか分からないように書いていい」などとは書いていない。こんなことは当たり前のこと。
- だから、私は佐藤の文献の場合「....、という主旨のことを述べた」という言い回しで問題を回避した。
- 問題は唯物論狂信者が根拠にしたがる「と学会本」の扱いだ。地の文形式で書くようにするとSINOBUさんのように、出典に書かれていないのに、地の文に「検証可能性を満たしていない.」だとか「再現性が....」だとか「......ということが分かる」などということを書く人がでてくることだ。これはもうWikipedia:独自の研究そのもの。「と学会」本のように、レトリックを駆使して、論理を2転3転させ読者の印象操作を繰り返す文献の場合、文章をわずかに変えただけでもニュアンスが変わってしまう。SINOBUさんのようなメチャクチャな用語変換をする人がしゃしゃり出てきて、勝手に用語をどんどん変換していってしまうと、どうしても編集競合のようになってしまう。そうなると、最後は引用形式で、著者自身はズバリこう言っている、という形で決着をつけざるを得ない。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 11:37 (UTC)
- 問題は唯物論狂信者が根拠にしたがる「と学会本」の扱いだ。
- 「と学会」本のように、レトリックを駆使して、論理を2転3転させ読者の印象操作を繰り返す文献
- SINOBUさんのようなメチャクチャな用語変換をする人
Wikipedia:中立的な観点をよく読んだほうがよろしいかと。ついでに言えば、これはWikipedia:個人攻撃はしないにも反していると思いますよ。
ところで郁さんと私は、これまで霊界探訪さんの編集姿勢の「ここがおかしい」、「ここは中立的ではない」と何度も具体的な問題点を指摘しているわけですが、それに対して何の具体的反論も行わないのは反論が出来ないからだと解釈してよろしいのでしょうか。--SINOBU 2010年3月31日 (水) 14:27 (UTC)
その他
[編集]その他の箇所(「と学会」本に関する説明など)の改変については、郁さんの努力も汲んで、部分的には残すことにします。--霊界探訪 2010年3月21日 (日) 17:23 (UTC)
- と学会について - わざわざコメントアウトで残す必然性がありません。既述ですが、出典や著者のスタンスを本項目で言及すること自体が不自然きわまりないことです。場合によっては対象への偏見を疑われる可能性もあります。
- 参考文献について - 出典が明記されているのに参考文献として挙げる必然性がありません(参考文献はあくまでも「参考」文献)。書誌情報を明記したければ{{Cite book}}を使えば済む話です。
- ここにあったコメントは本コメント直下に移動。--郁 2010年3月31日 (水) 10:30 (UTC)
- 強調について - 強調を多用すると可読性を損なうだけでなく、読者の意識誘導を疑われることもあります。原則的に冒頭の定義部分を除いては強調を用いるべきではありません。
- 読点の連続について - このような表記は一般的にはあり得ません。--郁 2010年3月22日 (月) 09:01 (UTC)
- (追加)書籍からの転記と思われる部分が、必要性、主従関係、明瞭区別性といった面から引用の範囲を超えている(即ち著作権侵害)可能性があります。初版からですから、場合によっては削除した後再立項が必要となるかもしれません。この点も検討願います。また、第三者の意見も聞きたいため、コメント依頼を提出しました。--郁 2010年3月30日 (火) 03:42 (UTC)
その他についての会話の続き
[編集]- 【強調について】ある程度減らしてみます。ただし、まさに議論の焦点となっている現象(それがただのデマであれ、本物であれ)くらいはインデックス的に太字にしておかないと可読性が極端に落ちますので、一部は残します。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 05:36 (UTC)
- 【参考文献について】出典として用いた(=実際に参考にした)書籍を末尾に「参考文献」としてリストにし、関係はあるけれど今のところ出典として用いてはいない文献を「関連文献」としてリストにするのがWikipediaの習慣では?そのほうが親切でしょう。{{Cite book}}はいろいろ機能上の欠陥があるし。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 06:36 (UTC)
- この際ですから調べ直してみました。私の勘違い部分もありました(先のコメント括弧内)が、出典で明示されているなら参考文献不要という見解は維持します。Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方を参照してください。「出典が参考文献の節(後述で説明)に記載されている文献である場合」と分けて書かれていることから、脚注と参考文献に二重に記述するのは望ましくないでしょう。テンプレートについては当該ノートでどうぞ。少なくとも8,000以上のページで使用されているテンプレートに機能上の欠陥があるというなら、迅速に修復しなければなりません。--郁 2010年4月1日 (木) 03:29 (UTC) 2010年4月1日 (木) 05:56 (UTC) 霊界探訪による署名補記
著作権について
[編集]コメント依頼出てたのに気付きませんでした。下の節にも書きましたが、霊界探訪氏は出典とされる加門正一氏の文章の一部分だけを抜き出し、「2~3種類の解釈が同居しており、葛藤が起きている」「と学会や編集者の圧力で自由な記事が書けないのかもしれない」と、明らかに原著作者の主張をゆがめた解釈を行っています。また、結論部分の節ではない調査段階の節に書いてあった文章を「加門の結論」として引用するなど、明らかに正当な引用では無いと思います。--SINOBU 2010年3月30日 (火) 19:53 (UTC)
- いえ、出典の一部分を抜き出し、自身の都合に合わせて解釈することは、マナーに反することですし、ほめられたことではありませんが、著作権侵害とは言えません。引用部を改変等しているなら同一性保持権の侵害ですが、そうではなく、単に「特定箇所を引用しないこと」は著作権侵害ではありません。まあ、そのような引用に独自の見解を付け加えたなら、独自研究でしかありませんが。--郁 2010年3月31日 (水) 03:48 (UTC)
原著者の主張の一部を切除して逆の意味の文章として「引用」するのって、著作権法が定めている同一性保持権の侵害行為だと思うんですけど。--SINOBU 2010年3月31日 (水) 10:58 (UTC) 一部修正--2010年3月31日 (水) 11:41 (UTC)
- それは無理筋です。引用をつまみ食いして自身の都合のいいように解釈することはしばしば行なわれていることですが、それだけでは同一性保持権の侵害とはなりません。この場合の「切除」は、引用の一部を故意に除去するなどして切り張りするような行為を指し、あるセンテンスの前半ないし後半を引用しないことではありません(でないと、引用も同一性保持権の侵害と言う解釈が可能になってしまう)。--郁 2010年4月1日 (木) 03:29 (UTC)
加門正一氏の調査について
[編集]「新・トンデモ超常現象56の真相」において加門氏は、住民の証言を個別に検証して部屋の中で起こる異音については家鳴りや水道管のウォーターハンマー音である可能性を指摘し、それ以外の現象についてはどれも住民以外の第三者のいない場で起きたあいまいな証言ばかりであることを指摘し、それを踏まえて「事件で起こったほとんどの不思議な現象はあまりにあいまいか、あるいはそれなりの原因を見つけることが出来ます」と結論を書いています。
それにもかかわらず、富加町のケースの説明をせずに海外の話に摩り替えて逃げたかのように記述しているのは明らかな歪曲でしょう。加門氏の結論は「本物の超常現象が発生したとの証拠は何も見つからなかった」(=つまり超常現象ではない可能性が高い)という一文に集約できます。これのどこが「苦しげに述べるにとどまっている」という記述に繋がるのか、理解に苦しみます。--SINOBU 2010年3月26日 (金) 19:09 (UTC)
勝手に集約してはいけない
[編集]たしかに加門は疑義を多めに提示してはいるが、同時に「ある住宅で不審な音がする、物が飛ぶ、幽霊を見る、霊能者が霊視したら過去の自殺事件が明らかになる、という事件の進み方は、これまで欧米で報告された多くのポルターガイスト事件と似たところもあります。従って、事件が本物のポルターガイスト事件であることも否定できません」という表現も、「霊能者が『霊能力』でこの情報を得たのなら、これは超常現象の可能性があります。偶然にしては符合しすぎていると思われます」という表現も織り込んでいる。つまり、加門自身の心の中に、2~3種類の解釈が同居しており、その間でゆらいだり、葛藤が起きている。つまり、一文に集約できない。(一部の言説だけ太字にで強調されているのは、もしかしたら加門の原稿によるものではなく、「と学会」側や出版社の方針による編集なのかも知れない。本の形式自体が「と学会」のやりかたに支配されていて、加門はアウェイぎみで不自由を感じているのかも知れない)いずれにせよ、現にあれこれゆらいでいる見解の中からウィキペディアンの勝手な判断で一部だけ選択しそれに集約することは、単にそのウィキペディアンの認知バイアスや世界観を持ち込んでいることにすぎない。
さらに勝手に集約してはいけない、独自の研究になってしまうから。
再度出典を精査し、加門の多面的見解をできるだけ忠実に、もらさないよう(かつWikipediaの著作権判断に抵触しない形式で)表示させた。--霊界探訪 2010年3月29日 (月) 16:43 (UTC)
- 原文の一部の表現だけを抜き出して自分の都合のいいように解釈しないでください。
- 従って、事件が本物のポルターガイスト事件であることも否定できません→従って、事件が本物のポルターガイスト事件であることも否定できませんが、解明されたポルターガイスト事件も多く、それらはすべてイタズラだったことも判明しています。
- 霊能者が『霊能力』でこの情報を得たのなら、これは超常現象の可能性があります。偶然にしては符合しすぎていると思われます→私は、(引用者注:霊能者が)事前に現場周辺の情報収集をしたのではないかと疑っています。
- だいたい、結論の節でもない調査過程の部分の文章を抜き出して「2~3種類の解釈が同居しており、その間でゆらいだり、葛藤が起きている」と言い出すのはおかしいでしょう。調査段階では予断を排してあらゆる可能性を考慮するのが当然であり、加門氏は「『超常現象かもしれないし、そうでないかもしれない』という中立の立場で調査を行った」と表明しているに過ぎません。その一方で結論の節では揺らぎは無く、「本物の超常現象が発生したとの証拠は何も見つからなかった」「事件で起こったほとんどの不思議な現象はあまりにあいまいか、あるいはそれなりの原因を見つけることが出来ます」と、明確な結論を出しています。
- そもそも、「もしかしたら加門の原稿によるものではなく、「と学会」側や出版社の方針による編集なのかも知れない。本の形式自体が「と学会」のやりかたに支配されていて、加門はアウェイぎみで不自由を感じているのかも知れない」などと、執筆者が一言も言っていないことを言い出さないと否定できない時点で、霊界探訪さんの主張は完全に破綻しています。--SINOBU 2010年3月30日 (火) 18:39 (UTC)
- SINOBUさんこそ、加門が言ってもいないことを書き加えたり、SINOBUさん独自の用語に変換しすぎです。SINOBUさんの<独自の研究>部分はコメントアウトしておきました。 結局、Wikipediaは複数のドグマ(教条)同士を競わせて最後にひとつの結論を出すような場や、ひとつの見解だけを強調する場ではありません。Wikipediaは公式ルールにもとづいて、各出典に書かれている説を中立的に、A説は「■■×」と言っています。B説は「○×△」と言っています。C説は....というように、4つでも8つでも各説を中立的に記述してゆくだけです。結局それに徹するよりしかたない。--霊界探訪 2010年3月31日 (水) 05:16 (UTC)
霊界探訪さんのやっている行為こそがまさに「本人が言ってもいないことを言っているかのように書く」行為そのものです。私はあなたがやっている編集の問題点を上でいくつか指摘しました。
- 結論部分ではなく他の部分に書かれていた文章を引用する際に「同書、同章の結論部では結局、加門正一は「予算不足で今回は詳しい調査に手が回りませんでした」と言い訳を述べ」と、虚偽の記述を行い、加門の調査全体に信頼性が無いかのように見せかける。
- 一連の文章の一部分だけを切り取って原文とは全く逆の意味の文章に見せかける。(「従って、事件が本物のポルターガイスト事件であることも否定できません」)
- 文章の後半で否定されている文章前半部分の仮説を著者の主張だと強弁する。(「霊能者が『霊能力』でこの情報を得たのなら、これは超常現象の可能性があります。」)
- 「と学会や出版社の圧力で加門が自由に原稿を書けないのかもしれない」という何の根拠も無い仮定で他者の編集を否定する。
これらの具体的な問題点指摘に対して霊界探訪さんは、何ら実のある反論を行うことが出来ていません。Wikipediaの編集者としては、あまりにも問題点の多い態度だと思います。
ついでに言えば、上で郁さんの指摘している、むやみやたらにページ番号をつける、伝聞調にこだわる等の問題点も含め、霊界探訪さんの行っている編集はWikipedia日本版の他の記事と比較して、あまりにも異質すぎで、百科事典の記事としてはおかしいと思います。--SINOBU 2010年3月31日 (水) 11:30 (UTC)
どうも自覚なさっていないようですね。
そもそもことの発端はSINOBUさんが「ポルターガイスト」の記事に中立性を欠いた独自の研究を投稿したことなのですよ。
SINOBUさんは、2008年2月7日 (木) 16:39の投稿時[1]に、SINOBUさん独自の世界観に基づく独自の研究を投稿していた。
SINOBUさんは富加町のポルターガイストの箇所に、『住民以外の第3者は具体的なポルターガイスト現象の発生を確認しておらず、ニュースとなったのはあくまでも「住民の起こした騒動」であることに注意が必要である。』などと、独自の研究によるレッテルを書き込んでいた。
「住民以外の第3者は具体的なポルターガイスト現象の発生を確認しておらず」という表現は、SINOBUさんがたまたま自分が見た限られた範囲の情報を自分で合成して、主観で作りだした文章だ。加門もそんな言い回しを使っていない。まさしく独自の研究だ。
2003年および2004年、すでに超心理学者の小久保秀之らは報告書を発表し、奇妙な現象を報告していた。(Hideyuki KOKUBO, Mikio YAMAMOTO, Tatsu HIRUKAWA, Case Report on Anomalous Electro-Magnetic Signals: Research of Poltergeist Incident in Gifu, Japan, Proceedings of 2nd PSI MEETING , UNIBEM, Curitiba, Brazil, April 2004)
小久保氏の言っていることは、単なる印象や証言にとどまらない。調査結果は測定器の記録、グラフ上の事実として客観的に残っている。小久保秀之は富加町の町営住宅の住民ではない。つまり住民ではない人の、科学的な手法によって何やら奇妙な現象も記録されている、ということだ。しかもその論文は2004年の段階ですでに存在して公表されていたのですよ。
それにもかかわらず、SINOBUさんは勝手に独自の研究を行い、ポルターガイストの記事の富加町のポルターガイストの箇所に「住民以外の第3者は具体的なポルターガイスト現象の発生を確認しておらず」などと、SINOBUさんの主観をもとに、誰がそう言ったのか不明の文章で、まるで究極の事実であるかのように強引に書き込んでしまった。これがひどく中立性を欠いていた。
つまり、ポルターガイストの記事に、SINOBUさんが中立性を欠いていて、かつ出典を欠いた記述を書き込んだせいで、Wikipediaの読者たちは、その事実誤認の、SINOBUさんの独自の研究の文章、レッテル貼りを2年間も読まされつづけるハメになった。
私はある日、Wikipediaのポルターガイストの記事を読んでいて「住民以外の第3者は具体的なポルターガイスト現象の発生を確認しておらず....注意が必要である」という押し付けがましい記述を見つけた時に、この文章は非常にウサンクサイぞ、これは怪しい、独自の研究の可能性が高いと睨んだ。
というのは、まともな研究者や学者や記者というのは、慎重なので、そういう種類の発言「......は存在しない」などと、存在を否定する発言はよほどのことがない限り行わない。網羅的に調べなければ決して分からないことを、安易な推測で発言したりはしないのだ。まともな研究者・学者・記者というのは、「自分はさほど網羅的な調査を行っているわけではない、あくまで狭い領域を調べただけだ。自分の知見や経験なんて限られている」との自覚がある。もっと謙虚なのだ。だからまともな研究者・学者・記者は、何か書くにしても「○○年の△△市のPにはAがある。Bもある」「○○の場所で、△△日にPを行ったら、Qも起きた。」「AにはPの面もあったと言えるのではないだろうか。」「....という学者は、...について....と書いてはいる」といったような、かなり場面限定的で慎重な表現を積み重ねてゆくことで論文・本・記事を組み立てる。
というわけで、ポルターガイストの記事のを読んだ時に、(その時は投稿者の名前も意識していなかったが、ともかく)投稿者のひとりに、唯物論を狂信して独自研究を投稿するクセを持つ人がいるにちがいないと睨んで、Wikipedia上の同事件の情報が不正確になっていると感じ、もっと調べてみることにした。あれこれ調べてみたら、案の定、その文章は出典を正確に用いていないし、他にも同事件について調べてみると、いろいろな情報が出てくるわ出てくるわ、やはり出来事に関する情報類は、その某投稿者(=SINOBUさん)の主張とは異なっていた。
せっかくいろいろ情報が集まってきたので記事を書くことにした。それがこの富加町のポルターガイストの記事だ。記事を書きながら、どこかから唯物論の狂信者が現れて、間違った独自の研究を書き込んだり、ズケズケ、ドカドカと荒しをするかも知れないな、と思いつつ情報を公開した。そうしたら案の定、また、自分の特定の世界観で独自の研究の文章を生み出して、自分の主観をあたかも絶対的な真実であるかのように、おまけにわざわざ冒頭の定義文のところに書き込んで荒らす人がいた。それがSINOBUさんだった。やはりWikipediaにはこういう唯物論狂信者が多いのか、と思ったが、念のためにポルターガイストの過去の履歴をじっくり調べてみたら、何のことはない、問題の独自の研究を投稿していたのは、同一人物、SINOBUさんだった。結局、基本的にはSINOBUさんが暴走し、ポルターガイストの記事にデマのレッテルを書き、この富加町のポルターガイストでも荒しを行ったということになる。
あくまで一般論として読んでいただきたいが、Wikipediaでは狂信的な人ほど、わざわざ記事の一番冒頭の定義文のところに自分の主張を、おまけに出典もつけずにドカドカと書き込む傾向がある。普段から複数の世界観を切り替えることができ、考えが凝り固まっていない人、柔軟な思考を駆使できる人、謙虚な人は、Wikipediaに投稿する時も、あえて2~3のタイプの異なる説明を、中立的に距離感を持って、記事の中ほどや後半にひかえめに書き加える。
結局、ポルターガイストの記事内の富加町のポルターガイストの短い説明文に、SINOBUさんが、中立性を欠いた独自の研究で主観的なレッテルを貼ったのが、そもそもの原因とも言えるのですよ。
SINOBUさんには、今後は、ひとつの世界観に凝り固まって勝手に情報を合成すること、独自の研究を書き込むことは止めていただきたい。公式ルール違反で、デマ情報源ともなり、他のウィキペディアンにとって迷惑だからだ。
SINOBUさんには、今後は、出典に基づいて、出典に忠実に、そしてもっと各説との距離を置いて書いていただきたい。SINOBUさんに限らず、(普段、個人的生活でどういう世界観を持っているかはともかくとして)、Wikipediaでは唯物論とも距離を置いて書くことが必要。少なくともWikipediaの投稿時には思考を切り替えて、唯物論を狂信しない状態で、中立的に、距離を置いた文章を書くべきだ。
SINOBUさんのレッテルのせいで、2年間もの間、誤った印象を読者の人々に与え続けた分をとりもどし、中立地点までもってゆくには、一旦、強めに補正する必要があった。2年間の非中立性を取り戻すには、「と学会」本のデタラメな傾向を指摘しておく必要があると感じた。あの本の洗脳を受けている人はかなり多いから。たしかに私のほうも、多少やり過ぎの点はあったかも知れない。それはお詫びする。
行き過ぎの記述は、すでに消去されているようだ。
今後は互いに、公式ルールを守って、出典に忠実に、そして中立的に、各説・各世界観とは距離を置いて、A氏は.....との見解を示している、B氏は.....との見解を示している、Cさんは.... 、というやりかたで紹介してゆくのがよい。
--霊界探訪 2010年4月1日 (木) 04:29 (UTC)
- 霊界探訪さんは私が行った編集を「原文にはそのような表現が無いから独自の研究だ」と主張していますが、出典元の記述を要約すれば、表現が多少変わってくるのは当たり前のことでしょう。ダラダラとした文章を書くよりも、短く的確な文章を書くのが百科事典の記事としては当たり前のことです(Wikipedia:素晴らしい記事を書くには)。それどころか、一字一句元の表現どおりに引き写すのは「盗作」となり、著作権法上問題のある行為です(これは郁さんも指摘していること)。
- Wikipediaでこのような「原文を丸写しして伝聞調で書く」という編集を行っているページは霊界探訪さんの作成した富加町のポルターガイスト以外には無いはずですが、自分の編集方針が他のページと食い違っていることに疑問は感じないのでしょうか。
- 繰り返しますが、私と郁さんは霊界探訪さんの編集方針の問題点をきちんと具体的に示してきましたが、霊界探訪さんは「原文どおりに丸写ししないと独自の研究だ」という自分独自のルール解釈以外に根拠の無い主張を繰り返すのみで全く具体的な反論を行っていません(少なくとも私はそう感じます)。特に、「出典に書いてあると称して原著者の主張と全く逆の内容を書いている」という指摘に対して全く反論が無いのはどういうことですか。「原文の一部分だけを恣意的に抜き出して切り貼りし、自分の都合のいい文章に改変する」というのはある意味盗作よりも悪質な行為です。
- これ以上、自分ルールを主張するのであれば、霊界探訪さんへのWikipedia:コメント依頼も止む無しかと思いますが、郁さんの意見を聞きたいところですね。--SINOBU 2010年4月1日 (木) 07:50 (UTC)
- 結論から先に言うと、できれば霊界探訪さんには、いったん編集の手を止め、方針文書およびガイドラインの再度の熟読と、多くの記事およびそのノート(特に論争的な主題を扱っている記事のノート)などを第三者的視点から読んでほしい。場合によっては議論に参加してもいいでしょう。もし、霊界探訪さんの主張が、多くの利用者から見て妥当なものであれば、論争の多くは収束するだろうし、もしかしたらガイドライン等に取り込もうと言う動きが起きるかもしれません(書き方で分かる通り、そんなことはあり得ないと私は考えますが)。コメント依頼については、少々微妙に思います。多少は妥協の姿勢を見せているところもあります。しかし、著作権法上の問題を指摘しているにもかかわらず、一切反論・コメントすることなしに編集を重ねていることには、強い懸念を表明します。--郁 2010年4月2日 (金) 09:20 (UTC)
- コメント依頼を見て参りました。上記の霊界探訪さんの発言により、現状では著作権侵害による記事の削除といった危惧が高まっています。それを防ぐためには、大変申し訳ありませんが霊界探訪さんには一端手を休めていただいて出典の適切な使い方についてご理解いただく必要があります。表現には著作権があり、それを侵害しないために工夫をなされたSINOBUさんの意図をご理解下さい。また、出典に基づく記述を独自研究と呼ばないようにお願いします。その上でWikipediaの各種の基本方針を再読し、ガイドラインや草案にも目を通して他者に敬意を払い、レッテル貼りを控え、他人を安易に荒らしと呼ばないで下さい。それらがなされないままに記事の編集、議論を継続することはWikipediaに実りをもたらさない結果となります。
- 利用者に対するコメント依頼については、現状ではまだ必要ないものと考えられます。ただし、現在指摘されている点で改善なく具体的な問題が引き起こされた時には残念ながら周囲に意見を求める必要があるでしょう。--Sikemoku 2010年4月2日 (金) 14:29 (UTC)
- 結論から先に言うと、できれば霊界探訪さんには、いったん編集の手を止め、方針文書およびガイドラインの再度の熟読と、多くの記事およびそのノート(特に論争的な主題を扱っている記事のノート)などを第三者的視点から読んでほしい。場合によっては議論に参加してもいいでしょう。もし、霊界探訪さんの主張が、多くの利用者から見て妥当なものであれば、論争の多くは収束するだろうし、もしかしたらガイドライン等に取り込もうと言う動きが起きるかもしれません(書き方で分かる通り、そんなことはあり得ないと私は考えますが)。コメント依頼については、少々微妙に思います。多少は妥協の姿勢を見せているところもあります。しかし、著作権法上の問題を指摘しているにもかかわらず、一切反論・コメントすることなしに編集を重ねていることには、強い懸念を表明します。--郁 2010年4月2日 (金) 09:20 (UTC)
トップに中立性タグを加筆しました。霊界氏は一週間近く沈黙を保ってますし、このまま議論に応じないのであれば著作権的に問題のある記事として削除ですかねえ。--SINOBU 2010年4月7日 (水) 19:03 (UTC)
- 傍からやりとりを観察していた者です。記事の現状は中立性には抵触していません。不適切なタグを貼らないように。Wikipediaではノートでの挑発に乗ってこないとか相手のことが気に入らないからといって、強引に記事が中立性を欠いているとしてしまうような、こじつけ的な判断はできません。中立性の定義をよく読むべきです。客観的に見ると、むしろ霊界探訪氏のほうが律儀なまでに中立性を実現しようとしており、中立性には問題はありません。まあ、別の点で物議を醸している面はあるようですが。それはそれで別問題でしょう。--Womcon 2010年4月9日 (金) 09:52 (UTC)
- 本記事の編集内容に問題があるのは、複数の参加者から指摘されており、コメント依頼も出されています。勝手にタグを除去しないでください。--SINOBU 2010年4月10日 (土) 01:07 (UTC)
- 確かに議論はあるのは認められますが、{{中立性}}や{{観点}}タグを貼れるのは中立性に問題がある時だけです。タグは内容に応じて使い分けなければなりません。出典の示し方に問題がある場合は{{参照方法}}タグ、世界的観点が欠落している場合は{{国際化}}タグ、というように状況に応じてタグは使い分けなければならないのであり、不適切なタグを貼ってはいけない。初期の版[2]は中立性に問題があったと認められますが、それはすでに過去の話です。第三者から客観的に見て、Feepleed氏の加筆と、郁氏の指導と、霊界探訪氏の修正によって、現在では中立性の問題は解消しています。複数の出典に基づいて複数の説が中立的に書かれているからです。他の点に関する議論は議論でノートで進めること。仮にタグを貼るとしても、別の適切なタグを選んで貼るように。--Womcon 2010年4月10日 (土) 02:42 (UTC)
- 本記事の編集内容に問題があるのは、複数の参加者から指摘されており、コメント依頼も出されています。勝手にタグを除去しないでください。--SINOBU 2010年4月10日 (土) 01:07 (UTC)
お二人とも、記事の状態がいかなるものであっても、差し戻し(あるいはタグ除去)は直ちに止めてください。編集合戦は全保護を招くだけです。
なお、既述の通り本項目は初版から著作権法上の問題があると指摘しており、これについて異論が出ていないため、近日中に削除依頼を提出する予定です。--郁 2010年4月10日 (土) 04:45 (UTC)
- Wikipedia:削除依頼/富加町のポルターガイストにより削除されました。なお、同じような内容で再作成されるのは反対します。再作成されるならば、がらっと変わった構成になっていて、諸々の問題をはらんでいないようなものであることを望みます。--Lapislazuli-star 2010年4月19日 (月) 15:37 (UTC)