ノート:寛容

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冒頭部について[編集]

現在の日本に最も欠如しているのがこの寛容である。 という部分ですが、主観的な文章なので削除しようかと思ったのですが、コメントアウトする形で「個人的にはこの記述に異論なしとする人も多そうですが、百科事典として中立的・客観的であるかどうかには大きな疑問があるように見受けられます。あえて削除しませんのでこれを活かす方向で行きたいです」との記述があり、一旦は削除を思いとどまりました。しかしどう考えても主観的な文章でしかなりえないような気がするのですが、残すべきでしょうか?個人的には削除でよいのではないかと思うのですが。--あんも騎士 2008年3月5日 (水) 01:20 (UTC)[返信]

コメントアウトしたAnexus6です。まだ編集に慣れておらず、迷ったため他の方の意見も欲しいと思いましてこのような形になりました。確かにどう考えても主観的であり、私も削除を検討したのですが「…現在の日本に最も欠如しているのがこの寛容であるという議論もある。」という書き方にもし出来るのであればスマートかなと考えた次第でした。ただそのような議論が存在する事実がある、というソースも特にありませんので…。確かに現状では削除が一番妥当かな、とは思います。--Anexus6 2008年3月5日 (水) 01:40 (UTC)[返信]
一番最初の定義を書いたInabasanです。削除はひとまず保留しておいて「日本における寛容論」の項目を作り(十七条の憲法の上位クラス)、そこに移した後で要出典にしておくのはどうでしょうか。ただ現段階の記述の仕方では、検証可能性を満たしていませんから、その後も出典の明記が見られないようならば削除もやむを得ないかもしれません。--Inabasan 2008年3月5日 (水) 03:20 (UTC)[返信]
統計的に根拠が無いならばわざわざ記載するべき事柄とも思えません。恣意的な表現ですし残す必要性は無いと思います。--M.Katsuno 2008年3月5日 (水) 05:09 (UTC)[返信]
  • およそ百科事典的でない記述であり、削除すべきだろうと思います。まず第一に、「現在の日本に寛容さが欠如している」「欠如しているものの内、寛容さが最たるものである」と何をもって判断できるのか、それを示さずこの文章だけポンと置いてあるだけで、これでは主観的・恣意的という指摘はもっともです。第二に、そもそもこの文章は寛容について語るかのような体裁をとって今の日本がどういう国であるかを(主観的に)語っているに過ぎず、「寛容とは何か」の説明になってません。「Wikipedia:日本中心にならないように」の観点からいっても、この記事に記述しておく有用性のある文章ではないと考えます。--Kurokani 2008年3月5日 (水) 08:46 (UTC)[返信]


何故削除しないのか疑問です。中立的な観点に反することは削除するべきだと思います。 --Taikan 2008年3月5日 (水) 10:30 (UTC)[返信]

(削除に賛成)明らかに「主観的な視点で書かれている」客観性を欠いた一文です。筆者の意向…以前の問題でしょう。 このように物議を醸し出すような「刺激的な一文」を書く時点で、筆者の適性が疑われます。同じ書くにしても、もう少し適切な表現に置き換えるべきですし、それが出来ないのであれば少なくとも現時点では削除すべき一文であると思います。--220.145.175.28 2008年3月5日 (水) 11:54 (UTC)[返信]

(要出典にして一定期間後に削除)私はこの一文が中立的な観点に明確に反するとは思いません。仮にそういうきちんとした統計的データがあるならば、もう少し穏やかな表現にする必要はあるとは思いますがむしろ記載すべきではないでしょうか(もちろん、それが単なる一作家の私見であったりする場合には典拠の信頼性が低いということになります)。ここで問題になるのはやはり検証可能性を満たしていないということだと思います。私は3日間の期間を空けて3月8日まで様子見、それまでに信頼性のある統計的な出典が示されないならば削除を提案します。--Inabasan 2008年3月5日 (水) 14:23 (UTC)[返信]
(削除)この記事の作成者はInabasanさんです。記事作成時点において、中立的な観点に反しないことや、統計的データの存在を明示する責任は記事作成者であるInabasanさんご自身にあります。私は、Inabasanさんから個人の主観以外での中立的な観点に反しない論拠、出典、統計的データなどが提示されない限り削除すべきと考えます。また、現状の記述は雑多な項目の列挙、転載にとどまり、百科事典の記事としては不十分と考えますので、今後内容の充実が図られないならば記事自体の削除も検討すべきでしょう。N Shimofuri 2008年3月5日 (水) 15:18 (UTC)[返信]
私は問題箇所になっている部分については執筆しておりません。--Inabasan 2008年3月5日 (水) 15:27 (UTC)[返信]
2008年3月4日 (火) 21:42、60.41.81.89によっての追加であることを確認しました。事実の誤認をお詫びします。もっとも記事自体の削除検討まで含めて、私の意見は変わりません。N Shimofuri 2008年3月5日 (水) 15:38 (UTC)[返信]

この点については私の書き方が誤解を与えるものだったのかもしれませんので釈明させていただきます。はじめにこの項目の定義を書いたのは私ですが(新規作成という意味です)、問題になっている箇所は後から私の定義に付記されたものです。「はじめに定義を書いた」の部分が誤解を与えてしまったようで申し訳ありません。また十七条の憲法の箇所も私の担当部分ではありません。もうひとつ、当該項目は相対主義から分離中のもので確かに執筆中のものですが、この点についてはスタブの掲載により利用者にそのことを伝えることを意識しています。検証可能性独自研究の禁止、中立的な観点の公式三原則を満たしており、削除には該当しないというのが私の判断です。また、Wikipediaでは、中立的な観点の項目に、「われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。」という記述が(絶対的なものではないと思いますが)あります。このことから考えて、現在問題箇所になっている文章を、中立的な観点を理由に即刻削除することは不適当であるというのが私の意見です。私が繰り返し検証可能性の方を理由に挙げているのもこのためです。追記:執筆中に事実の確認をいただいたようなので安心しました。今後記述に曖昧さのないように気を付けます。--Inabasan 2008年3月5日 (水) 15:44 (UTC)[返信]