ノート:対偶 (論理学)
●●例文の変更を提案●● >例えば「平家にあらずんば人にあらず」(「平家でなければ人でない」)は「人は平家である」の対偶だが、明らかに両者の意味は異なる[1]。
- 文1「平家にあらずんば人にあらず」
- 文2「人は平家である」
これは、例として、効果的ではない(だからこそ[1]の注釈を誰かがつけたのだと思う)。原著者は「明らかに~異なる」と述べているが、「明らか」と言えるのか疑問。科学的な話をすれば、文1も文2も正しくない(源氏でもヒトなのだから)。一方、平家の人々が平家以外の人々を「人」として認めないという価値観を持っていたとするならば、文1も文2も、平家の人々の価値観に沿うものである。すなわち、日常語においても、文1と文2は同じ意味をもつと解釈できるはずである。
●そこで、別の例を提案する。これは、対偶を取ると意味が逆になる例として、よく知られたものであるので、wikipediaへの掲載にも適していると思う。
- 文3「叱られなければ、勉強しない」
- 文4「勉強すれば、叱られる」
文3の対偶は、文4であり、両者の文意は等しくなるはずである。しかし、通常の意味解釈では、両者の意味は、大きく異なってしまう。すなわち、文3は、「叱られない」ことが「勉強しない」ことを引き起こすと解釈でき、普通の<親子のやりとり>として理解できる。一方、文4は、日常的解釈によれば、「勉強する」ことが「叱られる」ことを引き起こすと聞こえてしまう。「勉強する」という本来賞賛されるべき事をしたがために、「叱られる」という罰を与えられたという、<親子のやりとり>としてはあり得ない文意になっている。文3と文4の違いが鮮明であり、例として分かりやすいと私は考える。
なお、この場合、対偶を取ったことにより、文が暗示していた時間的前後関係が入れ替わってしまったために、日常的解釈が大きく異なる文ができあがったと理解することができる。
- 上記の無署名の意見に賛同します。
- 文1「平家にあらずんば人にあらず」が不適切な例であるという上記の説明は妥当であり、さらに付け加えるなら、文1の例によって示唆されるのは、論理概念と日常言語のズレというよりは、「特定の文学的表現がただしく理解されるかは受け手のその作品に対する理解度に依存する」という問題でしょう。平家物語について全く知らない受け手は、文1と文2「人は平家である」はどちらも単に誤りであると理解するでしょうし、平家物語によく通じた受け手が文2を聞けばそれを文1と同じ意味を持ったヴァリエーションであると理解することがあるでしょう。
- 上記の提案がなされた2010年7月28日から記事の該当箇所は数度の編集を経ていますが、根本的に改善されたとは言いがたいことから、上記提案のとおりに変更します。 Floreal(会話) 2013年4月4日 (木) 22:40 (UTC)
でも「よく知られた例」って言ってるからには出典がなきゃダメなのではないですか?現時点ではただの個人研究になってますけど。--218.217.103.154 2013年9月1日 (日) 08:17 (UTC)
数学セミナー2007年7月号に載ってそうですよ(http://commutative.world.coocan.jp/blog/2007/07/post_270.html によると)。「よく知られた」という表現については根拠(出典)が必要なので、本文では消すべきと思います。(ただ、例文の解説全体が出典に基づいている必要はあるんでしょうか?そうだとコピペ+表現の変更しかできなくなりそうです。)また、現在の本文では「日本語の統語の特性によるものである。」となっていますが、別に日本語に限った話ではなく、暗示されている時間関係が混乱の原因なので、削除した方がいいと思います。とはいえ、適当な出典を見つけられないので編集はやめておきます。
以下を本文より削除
[編集]よく知られた例では「親が叱らないと子どもは勉強しない」(文1)といったものがある。これは「子どもは勉強を怠りがちなものであり、親が「勉強しろ」と叱らなければ子どもは勉強をはじめない」と一般的に理解される文章である。しかし文字通りに文1の対偶を取ると「子どもが勉強すると親が叱る」(文2)となる。これは普通「子どもが勉強すると(子どもが勉強したことに対し)そうしないよう親が叱る」と解釈される文章であり、文1とは指示する状況が全く異なる。[要出典]
これは、文1と文2が単なる因果関係だけではなく時間的な順序関係をも含意しているためであり、日本語の統語の特性によるものである。文1に対して「子どもが勉強しているなら親は叱った」(文3)をとれば、文3は(日本語としてやや不自然ではあっても)文1と同じ真理値を持っており、文1の対偶命題の日本語表現として適切であるということができる。[要出典]
※不適切なので削除しました。子供に読ませる価値がありません。 ノートがあるのですから確実に表記できないものは公開しないが鉄則です。
例文3「子どもが勉強しているなら親は叱った」 「親が叱った」と「親は叱った」では助詞から「親」の意味が変化し論理が不成立になります。
またノートに先述なされている 文3「叱られなければ、勉強しない(だろう)」は、文4「勉強すれば、叱られない(だろう)」が正です。 「叱られなければ」は「叱られる」の未来推定、「叱られない」も未来推定で、口語省略です。
時間順列に見えますがこれは「叱る」という概念が持つ意味そのもので日本語の用法には関係しません。日本語は言語ではなく概念語ですから、概念に違和感があれば論理しか成立していない形而上です(ここでは親が人間ではなくなっています)。ビジネスシーンで公用される社会語が日本語の標準です。精度を越える大きいor緻密な概念を扱った時に齟齬の原因になり、数学や経済学などのごく単純な概念論では十分でも人間と会話できない言葉に価値はありません。浮動小数演算のオーバーフローと同じです。人間を確かに表現できないなら論理式で十分です。
- 命題「AならばB」
「親が叱らないと子は勉強をしない」
- 対偶「BでないならAでない」
「勉強する子は親に叱られない」
- 逆「BならばA」
「勉強しない子は親に叱られる」
- 裏「AでないならBでない」
「親が叱らなくても子は勉強をする」