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ノート:小山田信茂

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個人的見解ですが

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小山田氏がある程度武田氏から独立した存在であったのは確かだと思います。そうでないと説明のつかないことがほとんどですので。安芸毛利氏が国人盟主から戦国大名へ移行した際に、多くの国人衆は家臣へと編入されました。小山田氏もそれと同様に武田氏の家臣団(もしくは重要な一門衆)として取り込まれている最中だったのではないかとも。
小山田氏に関しては、江戸時代の武田氏の名誉を復興させる動きの中で、一方的に貶められた印象もぬぐえないので、その辺りの事情を勘案することも必要だと思っています。笹子峠からの発砲を良質な資料の中から発見することはできませんし。「甲陽軍艦」についての歴史的記述があてにならないことは証明済みですからね。ただ「武田家臣の心の中」を見るという意味では価値のあるものだと思っています。
編集合戦っぽくなっていますが、冷静にお話されることをお願いいたします。 しんぺい 2006年5月10日 (水) 15:02 (UTC)[返信]

富士講の通行税に対する武田氏の干渉などが記録として残っているようであり、郡内に関しては、武田と小山田の二重支配に近い形であったようです。Nubolari 2006年10月16日 (月) 15:13 (UTC)[返信]
ちなみ小山田信茂の項に書き込むのは初です。誤解無き様。Nubolari 2006年10月16日 (月) 15:25 (UTC)[返信]

長篠合戦

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小山田信茂が出陣した事実はありませんので、修正しました。Nubolari 2006年10月16日 (月) 15:10 (UTC)[返信]

弥三郎信有

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現在では信茂の別名とされた信有は、信茂の兄とされて天文19年に父の信有とともに弥三郎・藤乙丸(信有・信茂)兄弟が勝沼の大善寺を訪問しているとする記録も残っている事や弥三郎信有の死没日が明らかになっている事から修正を加えました。ただし、信有が小山田氏代々の当主の名乗りと言う説もあるため、信茂が兄の死後に信有を名乗った可能性もあるので別名については保留します。--水野白楓 2007年2月24日 (土) 03:56 (UTC)[返信]

「小山田氏の立場」について

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小山田氏の立場ですが、本項ではなく本来なら小山田氏のほうに著述されるべきですね。私も整理加筆に参加したいのですが、なかなかできません。というのは、小山田氏と穴山氏に関しては研究史が華やかで、IP氏は「郷土史家によるデタラメ」とおっしゃられますが、実は国衆論・戦国大名論として地域史に留まらない重要性をもつ分野であります。であるがゆえにすべての論考を参照し把握してから加筆するのが遅くなってしまっているのですが、穴山氏の河内領、小山田氏の郡内領に関しては守護武田氏の直接支配が及ばず、国衆を家臣団化することで広域支配を実現していたことが指摘されています。領民にとっても、国衆こそを国主と考える意識があったようですね。穴山氏と小山田氏は武田家中における立場が異なり、穴山氏が武田一門に列するのに対し、小山田氏はあくまで譜代家老に過ぎません。

ですから小山田氏の国衆としての自立性は、武田一門の穴山氏に比べれば守護武田氏への従属性は強いものでありますが、あながち間違ってもいないものと考えます。小山田・穴山両氏の立場は、武田滅亡時におけるそれぞれの離反をどう評価するのかを思考する際にも重要な情報ですから、きちんと著述しておきたいところです。

とりあえず、IP氏が「史実に反したデタラメ」とおっしゃられてる点が気になりましたので、上記の諸点を付言しておきます。--でここ 2010年9月4日 (土) 07:27 (UTC)[返信]

「小山田氏の立場について」が、「北条氏より381貫100文の知行を認められて(略)等が根拠として挙げられている。」で始まっていますが、何の根拠だかわかりません。 文章として普通におかしいので、主語(独立関連)を追加すべきと考えます。 NakanishiK 2010年9月13日 (月) 12:43 (UTC)[返信]