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ノート:小川宮

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諱について

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「元服を遂げないまま死去したため、諱は命名されていない。」との更新が行われていますが、こちらはどういう根拠に基づいていますでしょうか?戦国武将の元服名などとは違い、皇族の場合一般的には、幼少時より実名としての諱は持っているように思います。安徳天皇や六条天皇も、元服前に死んでいますが、諡だけでなく諱も持っています。 典拠がある場合は、それをお示しいただければと思います。--CalendrierChien 2009年9月22日 (火) 11:20 (UTC)[返信]

六条院と安徳天皇の場合、元服が親王宣下に先行しています。親王宣下が元服に先行しています。ふたりとも周囲がその誕生を待ちかねていた皇位継承者として生を享けていますので、将来天皇になるべき人として乳幼児のうちに親王宣下を受けます、親王宣下には諱が必要ですので宣下と並行して諱の命名も行われます。やがて元服にふさわしい年齢になってからおもむろに元服が行われます。ふたりとも不幸にして元服を遂げる前に早世してしまったというだけです。社会全体から見れば、こちらのほうが特殊なのです。戦国大名に限らず、中世では元服と同時に諱を命名されるのが当然の習慣です。皇族だけが特別ということはありません。
小川宮の場合は、六条院などのような恵まれた条件下にはありません。そもそも、父親の後小松院にしてからが「正統な王家ではない」と指を指される血統の出身です。門跡寺院に入寺して法親王になる場合を除けば、いつまでも部屋住みのまま放っておかれます。外戚や乳人など、しかるべき後見人がいれば、とりあえず元服だけ済ませて、親王宣下を受ける機会を待つ、という選択もありえますが、それができなければ、俗人のまま一生を終えて系図にはただ「皇子」とのみ記されるか、出家して法名を名乗り「僧なにがし」と記されるかのどちらかです。小川宮は、兄の称光院の心身に異常がありましたから、万が一兄が男子を残さずに死去した場合は代わって皇位を継げるように、兄が男子に恵まれた場合はすぐに出家させてしまえるように、父親の配慮で20歳を超えるまであえてどっちつかずの状態に置かれていたものでしょう。
元服を遂げることができないために諱を名乗ることもなかった皇族の例としては、後嵯峨院の例があります。彼は土御門院の皇子ですが、誕生の翌年に承久の乱が勃発し、父親が土佐に配流されたために母方の親類に引き取られます。鎌倉幕府は乱の戦後処理として後鳥羽院とその子孫から皇位継承権を剥奪し、後鳥羽の兄の後高倉院とその子孫を新しい天皇家として擁立しましたので、彼は貴族社会から忘れられた存在として成長し、諱を命名されることも元服することもありませんでした。ところが、彼が23歳になった年に、後高倉の子孫は絶えてしまい、鎌倉幕府はやむなく当時生き残っていた後鳥羽の子孫のなかから彼を皇位継承者に選びます。仁治3年(1242年)1月20日、元服、命名(諱邦仁)、踐祚が1日のうちに行われるあわただしさでした。
あえてもうひとつ挙げるなら、後崇光院の例があります。彼の元服と命名(諱貞成)は応永18年(1411年)4月4日、40歳の時のことでした。彼の場合、祖父崇光院や父栄仁親王の不遇により元服も出家もできずに成長する一方、兄治仁王が男子に恵まれないためにこの時点で元服することになったものと考えられます。
とりあえずの参考資料として、米田雄介編『歴代天皇年号事典』(吉川弘文館、2003年)を挙げておきます。『群書類従』第5輯(続群書類従完成会、1997年)所収の「本朝皇胤紹運録」も参考になると思います。--呆庵入道 2009年9月25日 (金) 12:20 (UTC)[返信]
失礼!六条院と安徳天皇とでは少し事情が違いましたね。六条院の場合は、父親の二条院が重病になったので急遽親王宣下と踐祚が執り行われたという経緯がありますので話が別かもしれません。安徳天皇の場合は皇后を母とし前太政大臣を外祖父として生まれた長男ですから記述を訂正する必要はないものと思います。--呆庵入道 2009年9月25日 (金) 13:30 (UTC)[返信]
おっしゃることは理解できましたし、あえて記述を削除するほど否定的な見解を持っているわけではありません。ただ、御記述の中にもあるように、一般的には皇族、特に天皇の一世二世の子孫の場合、親王宣下と諱のほうが強い相関があるので、この場合「元服していないので諱がない」とすることが、はたして妥当かどうかと考えています。「親王宣下、元服とも行われていなかったため、諱はないと思われる」等の記述のほうが、よくはないでしょうか?--CalendrierChien 2009年9月26日 (土) 02:54 (UTC)[返信]

小川宮の境遇については、後小松院が、祖父後光厳院の異常な踐祚の経緯が尾を引いて、皇后にふさわしい家柄の女性を妻にすることもできず、皇子を皇太子に立てることもできない、著しく権威に欠けた天皇だったという要素も考慮する必要があるでしょう。

それはそれとして「中世の皇族が諱を命名される要件は、元服か親王宣下かのいずれかであり、いずれも満たしていない小川宮は、諱を持っていなかったと見てほぼまちがいない」という点では見解の一致を得たものと思います。残る相違点は、曖昧なぼかした表現を用いて記述するか、断定的な表現を用いて記述するか、という点だと思います。私は、あえて断定的な表現を用いるべきだと思います。小川宮が諱を持っていなかったこと持っていたことを示す明証がとりあえず現時点では提示されていないことが第一の理由です。論理学では「なかったこと」を証明しようするのは「悪魔の証明」と呼んで忌むべきこととされていると聞いています。第二の理由はWikipedia:素晴らしい記事を書くにはに「曖昧な記述は避ける」と明記されていることです。要は、記事を書く際の決断力と責任感の問題だと思います。私はそういうレトリックでリスクヘッジをする必要は感じません。--呆庵入道 2009年9月28日 (月) 11:21 (UTC)[返信]

ご説明頂いた内容について、呆庵入道様がご自身の学説としてご発表なさるのなら、「決断力と責任感の問題」ということになるかと思うのですが、ウィキペディアでは、内容に関する三大方針の1つとしてWikipedia:独自研究は載せないが掲げられているように、自説を披露するための場ではないとされています。「小川宮が諱を持っていなかったことを示す明証がとりあえず現時点では提示されていない」のなら、それは記述すべきではないのです。ただ、呆庵入道様がおっしゃっている内容については、理解もできますし、またご編集なさる前の内容のほうが妥当だったとも思えないので、文案のご提案をさせていただきました。もし、断定的にご記述になりたいなら、それはご自身の研究論文やWebなどで実施して頂くこととして、本項に関してはWikipediaの性格上、難しいと言うことについてご理解いただければと思うのですが、いかがでしょうか?--CalendrierChien 2009年9月29日 (火) 00:38 (UTC)[返信]
ああ、これは失礼いたしました。「小川宮が諱を持っていなかったことを示す明証がとりあえず現時点では提示されていないことが第一の理由です」では、まるっきり意味が通りません。「小川宮が諱を持っていたことを示す明証がとりあえず現時点では提示されていないことが第一の理由です」に訂正させていただきます。話を混乱させてしまいまして申し訳ありません。
小川宮が諱を持っていないことについては、中世の皇族一般の例を多数提示することによっていわば帰納的に証明することは充分可能だと考えます。現に、多数と言わず、後嵯峨院と後崇光院のふたつの例を挙げただけでCalendrierChienさんには小川宮が諱を持っていなかったということを理解していただきました。また、独自研究などではないことは、すでに相当に信頼性のある参考文献を挙げていることからご理解いただけるものと思います。なお、一世王・二世王であっても、親王宣下が元服に先行するのは当人が皇位継承を確実視された一部の特殊なケースだけです。親王宣下が元服よりも相当の年数先行してなされるのは、皇位継承候補としての特殊なケースです。おっしゃるところの「強い相関」なるものが具体的にどんなものなのか、私にはよくわかりません。--呆庵入道 2009年10月2日 (金) 15:10 (UTC)--呆庵入道 2009年10月2日 (金) 15:36 (UTC)加筆[返信]
親王宣下と諱の件については、議論を拡散させてしまっているようで、申し訳ありません。また、私の提案している文案についても、必ずしも妥当であるとは考えておりません。ただ、現状の記述の内容は、あくまで呆庵入道様の個人的な推論に基づくもので、ご提示いただいた資料についても、「小川宮に諱がなかった」ことについて、記述していないように見受けられます。「小川宮に諱があったのかなかったのか」については、呆庵入道様のおっしゃっていることについて、理解もできますしそうであった可能性も高いように思われます。しかし、問題にしているのは、「小川宮に諱がないとウィキペディアの記事に記述することの妥当性」であり、この点において賛同しかねる旨、申し上げております。ご存じのとおり、ウィキペディアでは新たな学説を証明することを求められているのではなく、すでに発表されている内容に基づいて記述することとなっている以上、元服が唯一の諱の命名機会でないことを考え合わせると、「元服を遂げずに死亡した」ことを超える範囲の記述は、難しいのではないかなと考えております。--CalendrierChien 2009年10月3日 (土) 06:25 (UTC)[返信]
CalendrierChienさんよりお招きがありましたので、恐縮ながら一言。元服と親王宣下の話はとりあえずさておき、原則論を言えばCalendrierChienさんの主張の方がWikipediaのルールには則っています(諱なしが事実であったかどうかは私には現時点では判断できません)。
Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料にある「ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません。」という記述がある以上、呆庵入道さんの「中世の皇族一般の例を多数提示することによっていわば帰納的に証明することは充分可能だと考えます。」という主張はおそらく通らず、独自研究と判断されてしまう可能性を阻止できません。逆に言えば、たとえ1冊でも「小川宮は元服も親王宣下もせず諱は無かった」という記述が既存の文献(啓蒙書でも論文でも)の中に一言でもあれば、(それが真実かどうかや文献の信憑性そのものとは関係なく)その部分を出典として明示することで記述を付け足すことは可能ということになります(この辺のルール自体、すべての記事に適用されているわけでもなく、私自身も時折釈然としないことがあるので、呆庵入道さんの気持ちも十分分かるのですが…。ただ一応ルールなので従わざるを得ません)。
現時点でそれが明記された文献が見つからない場合には、少なくとも(確実とはいえないまでも)小川宮に諱が無かったであろう蓋然性が高いこと自体はこのノートでの議論における呆庵入道さんの説明で分かるようになっていますので、この場合本文の記述はたとえば「元服を遂げないまま死去しており、諱が命名されたかどうか不明である。(あるいは疑わしいとか)」あたりとし、脚注として同様な例の後嵯峨院・後崇光院などの説明を挿入しておいて、読者への判断材料を示しておくのが良いのではないでしょうか。後になって明記された文献が見つかれば「○野○助によれば元服を遂げておらず諱は命名されていないという<ref>『小川宮』(○野○助、××出版、2009年、ISBN XXXXX)。</ref>。」というような記述に書き換える(書き足す)ということになります。いかがでしょう。
余談ですが、1404年生まれで1425年没ということは、享年は22ですね(現在本文には21歳で死去となっていますが)。それと『室町人の精神』(桜井英治、講談社学術文庫、ISBN 9784062919128)92ページによれば、この人物の読みは「こかわのみや」になっています。勧修寺経興亭のあったあたりは元々「こかわ」もしくは「こがわ」と呼ばれていたようです。--トホホ川 2009年10月3日 (土) 11:49 (UTC)[返信]
私もお招きを受けたので参上した次第なのですが、トホホ川さんのご提案が一番適切なものではではないかと考えられます(この時期の皇室・公家社会の研究はまだ十分ではないため、今後この問題に触れた論文。書籍が出る可能性もあると思われますので、将来追記できる可能性は高いと考えます)。--水野白楓 2009年10月3日 (土) 13:37 (UTC)[返信]

(インデント戻します)お二人のご意見をいただき、呆庵入道さんの蓋然性の高いご意見は脚注とするという、トホホ川さんの編集案にて決着できればと思うのですが、よろしいでしょうか?--CalendrierChien 2009年10月4日 (日) 06:56 (UTC)[返信]

トホホ川さんのたいへんわかりやすいご説明をいただいて納得いたしました。ありがとうございました。しばらく時間をいただいて新しい記述について検討したいと思います。またCalendrierChienさん、水野白楓さんにも貴重なご意見ありがとうございました。--呆庵入道 2009年10月4日 (日) 12:36 (UTC)[返信]

(インデント戻します)呆庵入道様にここまでの議論を踏まえた再編集と、記事の充実を行っていただけたので、この問題は解決したかと思います。ご協力ありがとうございました。--CalendrierChien 2009年10月10日 (土) 02:49 (UTC)[返信]

うまい具合に解決したようで何よりです。「こかわ」の読みも加えていただき、ありがとうございました。--トホホ川 2009年10月10日 (土) 12:05 (UTC)[返信]