ノート:小松天皇
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小松天皇の没年について
[編集]小松天皇の没年については、下記の3説があり、いずれとも決めがたいが、小松天皇の嫡孫である三浦芳聖の著書に書かれてある(3)説を採用した。
(1)1377年(天授3年)崩御説
南朝紀伝「天授三年宗良親王の御子、興良親王、北朝のとらはれとなり、年久し。今重き病を受け給ひて歌一首を詠みて父御子に送り給ふ。いかに猶なみだを添えて分けわびん親に先だつ道芝の露」
(2)1376年(天授2年)崩御説
井伊谷宮略記「親王の第一子興良親王は、今川氏の為に秋葉城にとらはれ給いて、父親王に先立つ事九年、天授三年北京にて幽囚の裡に薨ぜられ、第二子尹良親王は親王薨じて十一年の後、応永三年信濃浪合にて逆徒のために戦没せられ、御父子の熱血王事に注ぎ尽して腹余瀝無し・・・」父・宗良親王は、1385年(元中2年)薨去。その9年前は、1376年(天授2年) となる。
(3)1375年(天授元年)崩御説
『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(143頁要約)「船山御陵(愛知県豊川市八幡町上宿)は、1411年(応永18年)辛卯年の小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に松良天皇が建立した菩提陵で、地元では春秋二季「天皇神社」の旗を掲げて祭礼を行う慣例になっている。」1411年(応永18年)から36年(37回忌)を引くと1375(天授元年)となる。
この外に、決め手となる資料があれば教えて頂きたい。 --超世志 2008年11月30日 (日) 05:57 (UTC)