ノート:小林清親
「最後の浮世絵師」について
[編集]この版[1]における「最後の浮世絵師」に関する記述について、下記の理由により必要部分のみを抜粋して脚注化しました。文章ごとに説明します。
- 「清親は「最後の浮世絵師」と形容・・・、上述の土屋光逸は・・・亡くなっている。」
- この文の前半と後半は直接の関係は無く、一文にする意図が不明。また、土屋光逸が「最後の浮世絵師」と形容されていることでもないため後半を削除。
- 「国立国会図書館サーチにて・・・7人がヒットする。」
- 「その点からしても・・・」
- 出典の無い評論、あるいは、編集者の意見であるため削除が妥当。
少なくとも、他に「最後の浮世絵師」と形容される人物がいることは明らかで、これは複数の研究者による異なる視点からのことと考えられます。また、没後も活動していた浮世絵師がいたことをもって小林清親が「最後の浮世絵師」という形容がなされていることを否定するものでもありません。ここで重要なのは「最後の浮世絵師」と形容されたことであって、それ以外の情報は本文内に記載する重要性は低い(ので脚注化する)ということです。--みそがい(会話) 2020年5月2日 (土) 01:40 (UTC)
「昭和の広重」との形容は正しいか
[編集]この版[2]の注釈3において、「それゆえに、大正末から太平洋戦争頃まで、清親を「昭和の広重」と形容することがあった[17]。」(出典文献:山梨絵美子「清親と明治の浮世絵」『日本の美術』第368号、pp.65-66)となっていますが、正しいのでしょうか。小林清親は大正4年没であり、主な作画期間は明治時代ですし、説明文の年代関係からしておかしいです(昭和になっていないうちに「昭和の・・・」とは言わないでしょう)。「明治の広重」なのではありませんか。--みそがい(会話) 2020年5月9日 (土) 14:37 (UTC)
- この版[3]で修正されました。--みそがい(会話) 2020年5月18日 (月) 14:31 (UTC)
「最後の浮世絵師」について(2)
[編集]この版[4]における「最後の浮世絵師」に関する記述について、下記の理由により変更しました。
「清親は「最後の浮世絵師」と呼ばれることがある[19][20]が、同様の表現は、彼以降の複数の絵師にも用いられており[注釈 6]、また、21世紀時点で、現役の浮世絵師(鳥居清光 [注釈 7])長谷川貞信 (5代目)が活動している。」
この文章は前段、中段、後段に分かれています。
- 前段:出典に基づき妥当な表現です。
- 中段:この編集[5]でも書きましたが、他にも同様の形容をされる人物がいることは出典からうかがえることです。しかし「小林清親」記事における記述としては本来不要な付加的情報(無くても前段を理解する上で影響は無い事柄)であり、重要度は低いと考えられますし、それらの記述が清親が「最後の浮世絵師」と形容されたことそのものを否定するものではありません。
- 後段:現役の浮世絵師がいることと、「最後の浮世絵師」と形容されることも同様に別の話です。「最後の浮世絵師」という形容は、浮世絵の衰退(たとえば小林忠監修『浮世絵の歴史』p.160)とともに語られるべきものであって、現役の浮世絵師がいることにより否定されるものではありません。
これら3つの事柄をひとつの記述にまとめることは、Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に抵触するおそれがあります。この場合、中段、後段の部分は前段を否定する印象を与えるおそれがあります。編集者の意図がどこにあるのか分かりませんが、私がこの版[6]で削除した出典なき評論部分がそれに相当するのでしょう。
繰り返しになりますが、小林清親が「最後の浮世絵師」と形容されたことは出典より明らかであり、本来はその記述だけで十分と考えます。同様に形容された人物がいたことは明らかですが、清親の記事本文中には敢えて記述する必要は無い部分については脚注化し, 冗長な記述(発言等)は削除します。現役の浮世絵師については関係ありませんのでこれも削除します。--みそがい(会話) 2020年5月18日 (月) 14:31 (UTC)
青鞜には関わっていません
[編集]この版[7]まで記されていた、「1911年(明治44年)、平塚雷鳥らが創刊した雑誌『青鞜』の編集委員を務めた。」は、誤りであることを指摘しておきます。確かに複数の文献での年譜、
- 山口県立萩美術館・浦上記念館(2012:249)
- 練馬区立美術館・静岡市美術館(2015:205)
等には記載されていますが
- 吉田(1976:139)
- 那珂川町馬頭広重美術館(2015:115)
等には載っていません。 なぜ誤りと言えるのかですが、『青鞜』本誌に記載がないからです。娘の歌(哥)津子は通算52号の内、計23本の署名記事がありますが
- 井出文子(1993)『青鞜』解説・総目次・索引.富士出版.
清親の名前は、歌津子の回想を除き、一切出てきません。2巻1号(1912.1)に「青鞜社の人々」という写真がありますが、女性9人だけで男性はいません。そもそも『青鞜』は、らいてう等、女性の主張の場ですから、編集部に男性(それも老人)がいるはずが無いのです。『團團珍聞』と『二六新報』での清親の役割はポンチ絵を描くことなのに対し、文芸誌である『青鞜』には、清親の居場所なぞありません。この誤った情報の初出がいつかまでは調べていませんが、誰かが哥津子と清親を取り違えて執筆し、それ以降の人が、その内容を、原典を調べず、無批判に書き写すことによって、情報が拡散したようです。--Falcated(会話) 2021年8月28日 (土) 03:26 (UTC) 一部修正。--Falcated(会話) 2021年10月20日 (水) 01:59 (UTC)