ノート:小牧市/過去ログ1
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市名の由来
[編集]信長公記に、小牧山と記載されている。また、小牧山を、小真木山とも言い替えて記載されている。また、徳川実紀の小牧・長久手の合戦の項目に、小牧、小牧山、と記載されている。
1級史料の記述を削除して、諸説を掲載するのは、おかしいですね。 こちらは、出典を明示しているのに。
出典明示のない諸説が削除されるのは、当たり前です。--梁山泊智多星呉用 2007年8月30日 (木) 07:02 (UTC)
- それ、由来ではないですね。安土桃山時代には小牧山と呼ばれていたという史実だと思います。信長が小牧山と名づけたとあるなら別ですが。「帆巻き→小牧」説ですが、聞いたことあるし、小牧市自体が唱えてる説なので掲載して問題ないと思います[1]。--Monaneko 2007年8月30日 (木) 11:29 (UTC)
最後に、はっきりしたことはわかっていない。 とありますが?これで由来ですか?こちらは、1級史料の小牧の使用例の初出ですよ?
それから、小牧市役所HPの転載はやめてください!出典の明示のない由来は、困ります。--梁山泊智多星呉用 2007年8月31日 (金) 09:08(UTC)
- (上記の梁山泊智多星呉用さんのコメントに署名がなかったので追加しました。)内容がいくら一級史料の事であっても、この内容では単なる史実に過ぎないと思います。清須市でも書きましたが、それでは載せる意味はないと思います。またそもそも内容が市名の変遷(例えば元は違う市名であったが、現在は「小牧市」に変わった)であればこの見出しであっても良いと思いますが、指摘を受けて見出しを「市名の歴史」に変えるのもおかしいと思います。--満月 2007年8月31日 (金) 01:05 (UTC)
ホマキ山は、明治刊行の尾張名所図会からと判明しました。よって、信長公記の記述のほうがはるかに古いため、ホマキ山説は、由来として成り立ちません。小牧市役所にも、この旨通知しておきました。--梁山泊智多星呉用 2007年8月31日 (金) 01:14 (UTC)
- 語源と史実は異なります。ちゃんと記述を読んで下さい。帆巻山説を語源の一つとして挙げているのであって、由来とはしてありません。--満月 2007年8月31日 (金) 01:36 (UTC)
1級史料の記述の意図的な感情による削除は、ダメです。--梁山泊智多星呉用 2007年8月31日 (金) 01:51 (UTC)
- 傍から見させていただいてますが、お二人とも第三者が確認できる資料を基に編集を進めていらっしゃるようで、好感が持てます。ただ問題は、編集時に一方が他方の記述を削除するケースが散見されるという「方法論」の方ではないかと。まずは相手の記述も極力活かす方向での編集をお心がけになることから始められ、また本記事を査読依頼に出すのもよろしいかと。--61.197.7.53 2007年8月31日 (金) 01:53 (UTC)
※1級史料の記述の意図的な感情による削除は、ダメです。--梁山泊智多星呉用 2007年8月31日 (金) 02:00 (UTC)
- 毎度毎度思うんですが、「一級史料」ってなんですか。歴史学にそんな用語はないはずですが。 -- NiKe 2007年8月31日 (金) 02:08 (UTC)
- 私個人はどちらの資料がより正当性を有するかの判断がつくほどの知識は持ち合わせておりませんので、そこらの議論には参加できませんことをお断りします。しかし皆さん資料に基づいて編集を行っていることは確かで、Wikipediaの編集方針に則して実に正しい編集です。問題は「相手の記述の削除」の一言に尽きると思います。信憑性が自分の典拠に劣ると思われるものであっても、妄言の類ではない以上、残す方向で編集を行うべきだと思います。それとは別に、少々ヒートアップしすぎている感がありますので、数日ばかり本記事の編集から離れて、頭を冷やされては如何でしょう?
- それとNikeさん、歴史学はともかくとして、一般に「一級史料」という用語は通用するはずですが。光文社から『日本史の一級史料』という本も出ていますから一読しては如何でしょう? 少なくとも信長公記は一般的な感覚として確かに一級史料に値します(それが『大本営発表』である、との批判はまた別の問題です)。--61.197.7.53 2007年8月31日 (金) 02:07 (UTC)
「両論併記してる」と編集要約に書かれていますが、両論を併記するしないの問題ではありません。あなたの見出し名と文章に問題があると思うので、リバースしているのです。また私は感情的にはなっていません。なっているのは、梁山泊智多星呉用さんの方だと思います。
それから梁山泊智多星呉用さんは、やたらと「一級史料」、「一級史料」と言いますが、だから何なのですか?私はあなたが「単に自分自身の編集内容に拘っている」としか思えません。--満月 2007年8月31日 (金) 02:32 (UTC)
- いや、傍から見れば同じ穴の狢です。編集合戦に陥ってるということは、明らかに双方が感情的になっていることの証明です。それはそれとして、「自分自身の編集内容に拘っている」ことが悪いとは必ずしも思いません。問題は編集の際に自分の記述のみを優先し、他方を削除してしまっていることです。--61.197.7.53 2007年8月31日 (金) 02:37 (UTC)
図書館にいって、調べてきました。三冊みました。『小牧市史』『角川日本地名大辞典 23 愛知県』(『角川』)『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』(『平凡社』)です。
『小牧市史』には、なぜか、わたしの調べ方が悪かったのか、地名の由来、初出が書いてありませんでした。『小牧町史』まで、さかのぼる必要があるかもしれませんが、面倒なので、しませんでした。
『角川』には、地名の由来として、帆巻山説と馬市説の両方が書かれていました。このことから、どちらの説も、是非はともかく、一般的に認められているのだ、と考えてもいいのでしょう。また、『胎金灌頂私』の奥書に、
久安三年丁卯三月七日申時於尾州小牧持仏堂書了、 忠済
とあり、これが「小牧」という地名の初出だと考えられているようです。久安三年は西暦でいうと、大体1147年にあたります。また、「徳星寺文書」の『胎蔵界灌頂随要記』には、
久安三年丁卯三月三日午時許於尾州小牧北持堂書了 忠済
とあるそうです。 『平凡社』の方には、語源説は書いてありませんでした。「小牧」の初出については、「醍醐寺文書」にある文和二年の『尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案』に、
得田 小牧 八貫文 中条備前々司
とあるのが、それにあたる、とされていました。文和二年は西暦でいうと、大体1353年にあたります。
この段落に書いてあることは、自信がないので、読み飛ばしても構いません。さて、帆巻山説、馬市説は、両方ともよく知られているところであり、どちらがより有力な説か、ということは、問題でしょう。何で読んだか、は忘れてしまったのですが確かそこには、帆巻山説は眉唾ものだ、と書かれていました。小牧山を目安に舟の帆を巻いた、というのが本当だとしても(本当なのでしょうか)、小牧山というのは結構内陸にあり、縄文海進の時代なら分からないけど、有史以来、熱田が港だったわけですから、やはり小牧山なんぞ低い山が目印になるはずがない、とかなんとか、そんなはなしだった、と思います。
以上、資料、史料を提示しました。以下がわたしの意見です。梁山泊智多星呉用さんがなぜ、『信長公記』や『徳川実紀』が「小牧」の初出だ、と主張されるのか、が分かりません。『角川』『平凡社』をみると、それらよりよっぽど古い史料があるようなのですが。--じゆにち (Mobnbka) 2007年8月31日 (金) 10:38 (UTC)
↑要は、ホマキ、駒来の用例はないですよね。小牧の別名や前名ではないのです。ホマキ山説は、明治刊行の尾張名所図会です。
少なくとも、信長時代には、小牧、小真木とありますので、ホマキ説・駒来説は根拠不明ですね。
著名な1級史料で、確実に分かる小牧という意味で出しているモノです。寺の文書まで調査しようがありません。図書館のデータベースにない資料を出されても困ります。--梁山泊智多星呉用 2007年8月31日 (金) 11:32 (UTC)
1147年で、尾州小牧という表現は変ですね。尾張国○○郡小牧郷という表現のはずですね。○○州と略すのは、江戸時代の用法ですね。
醍醐寺文書ですが、明治時代になって調査が始まったとのこと。明治以前は、史料として存在せず、信長公記や徳川実紀のほうが、史料価値で勝っていますね。
『小牧市史』
『角川日本地名大辞典 23 愛知県』(『角川』)
『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』(『平凡社』)
※これらは、全部1次史料ではありません。信長公記、徳川実紀は当時の政府が作成したものです。信用できると思いますが。--梁山泊智多星呉用 2007年8月31日 (金) 11:48 (UTC)
- ノート:岐阜県の方にも書きましたが、梁山泊智多星呉用さんの記述は間違った事を書いていません。ただ、ここだけの話ではなく梁山泊智多星呉用さんの編集を見て思うのですが、なぜ「一級史料」だけの記述だけ残して他を削除してしまうのでしょうか?それでは「一級史料」に記述されていない事以外は何も判らなくなってしまうのではないでしょうか?「一級史料」に記述されている事実は限られます。記述されていない事は「一級の資料」や「史料」で補ってもいいのではないかと思います。そうでないとウィキペディアはただの一級史料の写しになってしまいます。--Hide-sp 2007年8月31日 (金) 16:39 (UTC)
- あと、梁山泊智多星呉用さんに判って頂きたいのは、ウィキペディアは歴史学や史料批判をする場所ではないということです。それが判らずここに参加されることはトラブルメーカーのレッテルを貼られるだけで、貴重な梁山泊智多星呉用さんの記事が活かされなくなってしまいます。--Hide-sp 2007年8月31日 (金) 18:31 (UTC)
- なぜ、梁山泊智多星呉用さんは、「1級史料」のみに正しさを求めるのでしょうか。そもそも、『信長公記』や『徳川実紀』にある記述が、「小牧」「小牧山」の初出である、というのは、だれが主張していることなのでしょう。その出典が提出されないと、『信長公記』や『徳川実紀』のことをこの記事に書くのは、(『角川』や『平凡社』の記述があるだけに、)あまり意味のあることではない、となりませんか。あと、史料批判は、ウィキペディアの利用者の仕事でないことも、忘れないで下さい。--じゆにち (Mobnbka) 2007年8月31日 (金) 17:25 (UTC)
- 同じく、『信長公記』や『徳川実紀』にある記述が初出であるという出典を求めます。
現状では「『信長公記』に小牧という言葉が記述されているので、少なくとも江戸時代初期には小牧という地名が存在した」としかいえません。あと、由来と少なくともいつごろからその地名があるかは分けて考えるべきです。名づけ親がわからないなら。あと、帆巻きなどの説ですが、有名な説(有力ではありません)なので、掲載に値すると思いますが、おそらく俗説なので、有り得ないと切り捨てている出典もあったほうがいいかもしれません(あれば)。--Monaneko 2007年9月1日 (土) 00:48 (UTC)- 「『信長公記』に小牧という言葉が記述されているので、少なくとも江戸時代初期には小牧という地名が存在した」は独自の研究に当たりますね。『角川日本地名大辞典 23 愛知県』と矛盾するし。ウィキペディアが史料の批判をできない以上、角川が由来として引っ張ってきた出典を批判する2次史料がなければ、信長公記を初出として載せるのは難しいと思います。--Monaneko 2007年9月1日 (土) 01:06 (UTC)
- 本件、「小牧」という地名の「語源」の話と「初出」の話をごっちゃにしているから、いつまでたっても話がかみ合わないのではないでしょうか。本文の履歴を見ると、編集合戦になっている一方のユーザーは「信長公記が小牧という地名の初出」だと書き、もう一方のユーザーはそれを消去して、小牧市のサイトにある地名語源説を書く、ということの繰り返しです。たしかに『信長公記』が「小牧の初出」であるとするのは疑問ですが、『信長公記』の件を消すのであれば、ではいったい何が史料上の「初出」であるかを書くべきであって、「語源」の話を書くのは筋違いです。「語源」の話と「初出」の話は別々に論じるべきです。また、『信長公記』が一級史料であるということと、『信長公記』の記述を消すか残すかということも別問題です。一級史料であろうと何であろうと、「語源」や「初出」と関係ない記述は消されてしかるべきです。「岐阜」のように、地名の成立に信長が深く関与しているなら別ですが。--Urania 2007年9月2日 (日) 06:42 (UTC)
上の方で、梁山泊智多星呉用さんは「 これらは、全部1次史料ではありません。信長公記、徳川実紀は当時の政府が作成したものです 」と述べておられますが、これは『一次史料を元にする方が良い』という主張なんでしょうか。だったら、これはWikipediaの基本方針に反しています。編集者自身の見解を記事にしていることになるからです。むしろ、一次資料に基づく記述は避けるべきである、ということは方針に明記してあるはずですが。 -- NiKe 2007年9月3日 (月) 02:59 (UTC)
はあ?1次史料の記述は推奨されると、Wikipediaの基本方針に記載されていますけど?独自研究ではなく、1次史料を紹介する中立客観的な視点ですが。どんな文章であれ、執筆者の主観が混じります。主観ゼロのデータ集などありえないでしょう。
小牧市役所のHPから、丸ごと転載しているのは、著作権侵害では?しかも、はっきりしないと小牧市の見解があるため、はっきりした出典に基づく記述が必要と判断し、信長公記を、小牧の用例が確実に確認できる1級史料での初出として紹介したものです。独自研究でも何でもありませんよ。小牧といえば、小牧・長久手の合戦が歴史で有名であり、記述のある徳川実紀も併せて出したものです。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 08:44 (UTC)
- 一次資料を持ってきて、これが確実な初出だとするのは、あなたの意見であり、独自の研究です。確実な初出かどうかはあなたが決めることではありません。信長公記が初出だとする二次資料が必要です。あなたの意見だけでは『角川日本地名大辞典 23 愛知県』と同等に渡り合えることはできません。--Monaneko 2007年9月3日 (月) 11:38 (UTC)
※2次資料を丸ごと転載するのは、著作権侵害では?こちらは、1次史料を中心に記述を吟味して掲載しています。丸ごと転載するわけにもいかないので、多少の主観は混じりますが。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 12:47 (UTC)
- 史料を吟味して掲載するのは、ウィキペディアの利用者の仕事ではありません。それは、学者かなにかにまかせる仕事であって、梁山泊智多星呉用さんの仕事ではありません。梁山泊智多星呉用さんのやるべきことは、『信長公記』や『徳川実紀』が「小牧」という地名の初出であるといっている文献を知らしめることです。もう一度いうと、梁山泊智多星呉用さんがいくら『信長公記』や『徳川実紀』が「小牧」という地名の初出である、とそうかいてある文献を提示せずに仰っても、無意味である、価値はない、ということです。つまり、この小牧の記事に、『信長公記』や『徳川実紀』に書いてある「小牧」についての記述をのせる意味もなくなってしまうのです。
- 梁山泊智多星呉用さんが主張されている転載のことですが、わたしには、そうはみえません。もう一度、ご確認ください。わたしにそう見えるだけかもしれないので、皆様もご確認をお願いします。--じゆにち (Mobnbka) 2007年9月3日 (月) 13:11 (UTC)
- 転載は確認できませんでしたが、仮にあるなら問題のある版(丸写しの部分)以降、特定版削除するよう削除依頼を出してください。あと、話が堂々巡りですが、『角川日本地名大辞典 23 愛知県』と矛盾する以上、信長公記が初出だという二次資料が必要です。初出ではなく記述があるに留めるなら問題ないですが、飽くまで初出だと拘るなら、二次資料がなくてはダメです。--Monaneko 2007年9月3日 (月) 13:02 (UTC)
だから、あらゆる資料の初出とは言ってないでしょう。信頼のおける1級史料での初出です。
それから、小牧市役所HPにある語源由来は、はっきりしないとあります。小牧市史でも、記載ないということですので、はっきりしないなら、記載する必要はありません。
で、小牧の文献上にあらわれる記載を出したわけです。
『角川日本地名大辞典 23 愛知県』(『角川』)『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』(『平凡社』) これらは、2次資料のため、またこちらが把握しているものでもないので、記載していないだけです。
小牧語源由来のソースは、小牧市役所HPからのほぼ転載であり、はっきりしないという無責任な見解付きですので、これを直接引用するのは、問題と思われます。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 14:42 (UTC)
市名の由来
江戸時代頃には、この辺りは「小牧」と呼ばれていたが、なぜ「小牧」と言う地名がついたのかは諸説あり、はっきりとは解かっていない。おもな説としては、「元々小牧山辺りまで海が広がっており、この山を見て船に乗っている人が帆を巻いた事から、この山の名称が『帆巻山』(ほまきやま)と付けられ、それが転じて『小牧』(こまき)となった。」とか、あるいは「このあたりで中世盛んに馬市が行なわれた為、それに関係する言葉である『駒来』(こまき、"駒"は"馬"を意味する言葉でもある)が転じて『小牧』(こまき)となった。」などがある。
↑最初、こう書いてありました。はっきりしない、ホマキ山説→駒来説の紹介の順序など、ほぼ市HPの転載です。 ゆえに、はっきりしないなら記載する必要はないとして、削除したのです。
しかし、リバートされたため、
市名の由来 信長公記に、小牧山と記載されている。また、小牧山を、小真木山とも言い替えて記載されている。
こう私が編集したのです。初出とは一言も言っていません。勝手に由来を、あなたたちが初出と置き換えて、当方に論戦を挑んできたにすぎません。史実を記載したにすぎません。
小牧は、信長が本城を清洲から移したところであり、信長ゆかりの地であるため、記載したものです。
勝手に、話しを曲解して大きくしているのは、あなたたちですよ。しかも、後出し2次資料でもって、違うと言い出すし。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 15:04 (UTC)
- まず、まんまパクリではないかということについては、[2]を見る限り、転載とはいえない。削除依頼に出しても通らなレベルだと思います。江戸時代云々言ってる小牧市のページにはないので、他の書籍を参考にしたと思われます(出典明記してないのでダメですが)。ただ、その時点でいきなり全文削除はせず{{要出典}}を貼るなりすれば、争いは回避できたはずです。あと、由来の項目に
- 信長公記に、小牧山と記載されている。また、小牧山を、小真木山とも言い替えて記載されている。
- と書いたら、これが由来だと勘違いします。それと、確かに本文には「初出」と書いてませんが、ノートには書きましたよね?2007年8月31日 (金) 09:08(UTC)の編集で。--Monaneko 2007年9月3日 (月) 15:38 (UTC)
議論の初期であれば、小牧が出てきた古い史料として 由来に「こんな記述もあったよ」ということで載せれたと思いますが、「角川日本地名大辞典 23 愛知県」や「日本歴史地名大系 23 愛知県の地名」という、更に遡った時代にも小牧という地名があったとする書籍が出てきてしまった以上、「信長公記」など江戸時代の書物を由来の欄で示すのは、意味がないなと思います。--Monaneko 2007年9月3日 (月) 15:42 (UTC)
- 意味なくはないですね。「角川日本地名大辞典 23 愛知県」や「日本歴史地名大系 23 愛知県の地名」の引用している史料についても記述すれば、「もっと遡れるのになぜ江戸時代の史料だけ載せるのか?」という矛盾は回避できるので。--Monaneko 2007年9月3日 (月) 15:45 (UTC)
あの、信長公記は、太田牛一の日記が原本ですので、信長生前の同時代史料ですよ。江戸時代を強調するのはやめましょう。小真木山というのが、小牧山の別名として登場することから、ホマキ説や駒来説はうさんくさい証拠でしょう。ホマキ説は、明治刊の尾張名所図会からで論外、駒来説も江戸時代創建の駒来神社からですので、いずれもうさんくさい、ゆえに、小牧市HPでもはっきりしないと見解があるではないですか?
それをまんま引用して、小牧市の由来を編集しているのは問題でしょう。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 16:08 (UTC)
- やはり、表現や構成にも、両者(小牧市のサイトと小牧市の記事)には、類似点は認められなかったのですが……。
- さて、梁山泊智多星呉用さんは、『信長公記』の「小牧」についての記述をあらゆる史料の初出とは思っているわけではなく、「1級史料」のなかでの初出であるため書かれた、とのこと。この点、誤認があったようなので、謝罪します。しかしながら、単なるウィキペディアの一利用者に過ぎないあなたが、その様に史料を評価しても、なんらの価値もない、ということは理解してください。『胎金灌頂私』や『胎蔵界灌頂随要記』、『尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案』に、「小牧」についての記述があって、それがしかるべき二次史料(『角川』『平凡社』)に「小牧」の初出である、と認められているわけです。梁山泊智多星呉用さんが、『信長公記』や『徳川実紀』が「1級史料」のなかでの初出だ、「1級史料」のなかでの初出こそ書かれるべきだ、と仰っても、それがしかるべき二次史料の裏づけのない、梁山泊智多星呉用ひとりの見解であるうちは、無意味なのです。もう一度いいます、『信長公記』や『徳川実紀』が「小牧」の初出である、と述べている二次史料を提示してください。なまの史料ではありません。この場で価値があるのは、それだけです。
- 帆巻山説と馬市説がうさんくさい、ということに対しても、二次史料の提示が必要です。再三申し上げたとおり、重要なのは、あなたの見解、研究ではないのです。
- 語源が「はっきりしない」という見解も重要ではないでしょうか。はっきりしない、という見解が趨勢をしめているのなら、そう記事にも書いておけばいいのです。それを、「1級史料のなかでの初出」にかえてしまおう、というのは、意味不明な編輯にしかみえません。それは、はっきりさせたことにはなりません。語源説の解説と、「1級史料のなかでの初出」(「1級史料」でなくても)の提示は、(無関係ではないけれども)置き換えられるものではありません。(史料と資料の使い分けが曖昧ですみません。)--じゆにち (Mobnbka) 2007年9月3日 (月) 16:19 (UTC)
あと、大きな誤解として、由来(来由)と初出とは意味が違います。
来由=いわれ。来歴。由来。物事の現在に至った理由。(今は由来という言い方ですが、江戸時代は来由です。)
※小牧市の現在に至る経緯は、信長の本城として整備された街から発しているわけです。そういう履歴・いわれをも、信長公記の記載について触れることに意味があります。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 16:50 (UTC)
あと、小牧市役所HPの記述が削除された場合、もともと出典不明ですし、小牧市史にも記載ないわけですから、当初の編集も含めて根拠を失いますが?市HPの見解を唯一の出典とすることはできないと思いますが。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 17:26 (UTC)
ついでに、小真木山→小牧山と転化した可能性。併用が小牧に統一された可能性。小真木山と小牧山の両方の表記が記載されている信長公記の記述は意義あると思います。--梁山泊智多星呉用 2007年9月3日 (月) 18:30 (UTC)
- 話が複雑化し混迷を深めているので、以下、問題点を2つに絞ります。
- (1)醍醐寺文書について。梁山泊智多星呉用氏は「醍醐寺文書ですが、明治時代になって調査が始まったとのこと。明治以前は、史料として存在せず、信長公記や徳川実紀のほうが、史料価値で勝っていますね」と述べています。しかし、ある史料がいつ発見されたか、あるいはいつから研究されはじめたかということは、史料としての価値とは関係ありません。醍醐寺文書に限らず、東寺、東福寺等の大寺院に伝来した一括文書には寺領関係の文書が豊富に含まれ、仏教史のみならず地方史、経済史などの研究上も重視されています。醍醐寺文書中の文和二年の『尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案』は一次史料であり、言及する価値はあると思います。
- (2)「尾州」という表記について。角川地名辞典所引の久安三年(1147年)の『胎金灌頂私』に「尾州小牧」という地名が見えることが上の方で紹介されています。これに関して梁山泊智多星呉用氏は「1147年(の時点)で、尾州小牧という表現は変ですね。尾張国○○郡小牧郷という表現のはずですね。○○州と略すのは、江戸時代の用法ですね」と述べています。しかし、国名を「○州」と表記するのは近世に始まったことではなく、12世紀にはたしかな使用例があります。長野県大町市(旧八坂村)に覚音寺という寺があります。そこにある重要文化財の木造千手観音立像の像内に納入されていた、治承3年(1179年)の年記のある木札には「信州」という文言があります。その木札の画像がこちら[3]にありますのでご参照ください。ちょっとわかりにくいと思いますが、木札の上から4段目の1行目から2行目にかけて「大日本国東山道信州安曇郡」とあるのが確認できると思います。したがって、「尾張国」でなく「尾州」と表記されていることのみをもって、史料の正当性を疑うのは学問的態度ではなく、大部の地名辞典を編纂した先学に対して失礼であると思います。「角川」を見ると『胎金灌頂私』は(じゆにち氏は言及していませんが)『昭和現存天台書籍綜合目録』所収とのことで、信頼できる史料だと思われます。
- 個人の恣意的な判断で「これは1級史料」「これはダメ」とばっさりやるのではなく、広くさまざまな史料や参考図書を参照すべきです。地名の初出に言及するに際し、近世以降の史料のみを参照し、他を捨象するのは学問的態度といえません。平凡社の歴史地名大系や角川地名辞典については、たしかにその書籍自体は二次史料ですが、これらの書籍はさまざまな一次史料を引用して記述されており、その出典も明記されているので、これらの書籍をもとに執筆することにはまったく問題ないと思います。二次史料がだめだというなら、あらゆる歴史書や歴史辞典は一切参照できないことになります。--Urania 2007年9月3日 (月) 21:52 (UTC)
User:梁山泊智多星呉用はUser:オタスケマン関連のソックパペットとして無期限投稿ブロックされました。--Monaneko 2007年9月16日 (日) 08:43 (UTC)
保護・査読依頼
[編集]こちらの項目に、保護依頼と査読依頼を出しました。梁山泊智多星呉用さん、保護依頼のテンプレートにあるように、一度編集を止めてノートで議論して下さい。--満月 2007年8月31日 (金) 02:32 (UTC)
- 査読依頼は取り下げさせて頂きました。その理由はWikipedia:査読依頼/小牧市 20070831に寄せられた意見をご覧下さい。ノートやコメント依頼を使用してください。--ZERO 2007年9月10日 (月) 02:43 (UTC)名前部分が抜けておりました。申し訳ありません--ZERO 2007年9月24日 (月) 14:09 (UTC)