ノート:屋良朝苗

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屋良元知事の紹介は、「天皇陛下万歳」といったとか、警備を弛めて火炎瓶事件を防げなかったとか、どちらかといえば否定的な見方の記事が載っているが、沖縄返還前後のことに並々ならぬ努力をし功績を上げたことは間違いない。屋良知事というより屋良首席と呼称に反応する世代としては、ウィキペディアのこの記事に物足りなさを感じる。先日竜門冬二の「90歳を生きること---生涯現役の人生学」/東洋経済新聞社というエッセイ集を読んでいたら、下記の文に遭遇。屋良首席の沖縄の日本復帰に対する情熱の一つは、亡き娘さんに対する思いもあったではないか。 人物紹介というのは、個人がいろいろな面を持っているので大変難しいが、なにか一方的な否定にならぬよう、いろいろなエピソードを追記するのも一法と考える。 『私と沖縄の付き合いは、沖縄の日本返還の日に始まる。返還記念式典の日(1972年5月冒)、東京都知事・美濃部亮吉さんの秘書だった私は、招かれた知事のお供をして那覇に行った。往路はパスポートがいった。返還の前日なので、沖縄はまだ外国だった。雨が降っていた。那覇ではハイビスカスの花が雨にぬれていた。私の目には、沖縄が泣いていると映った。 式典後、屋良朝苗・沖縄県知事が島内を案内してくださった。ひめゆりの塔に行った時、屋良さんはある洞窟の前で「うちの娘もその中にいるんですよ」と言われた。その言葉は忘れられない。沖縄は、市民が武器を持って、実際に米兵と市街戦を展開した土地だ。本土の防衛線になってくれた。この時から、沖縄は私にとって重い存在となった。時間とカネに余裕ができると、必ず出掛けていく。』 【「90歳を生きること---生涯現役の人生学」/東洋経済新聞社 48-49ページ】                                                                                                            --倉橋愼之会話2019年7月13日 (土) 00:19 (UTC)[返信]