ノート:山の手/過去ログ1
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改訂について
[編集]- 田園都市との混同について
- 少なくとも初期の成城学園・田園調布・国立はハワードの田園都市論の影響の元で、東京の都市部と完全にを分離した所に東京と関連をもつ小都市を作ろうとしたものです。これに対して、鍋島家開発住宅地のような第二次山の手は、大都市の繁華街への近接性を重視した、名士のための新興住宅地です。
- 戦後の記述で「田園都市は、第3次山の手の展開によって東京都市圏に接合し、その独立性を失ったが、周辺の一般住宅に比べて高級住宅地の性格が備わった」、のような記述にしないと山の手の説明も田園都市の理解もできません。
- そもそも「山の手」の説明に田園都市が必要とは思えません。
- 誤記の発生(旧記事:第2次山の手)
- 渋谷区富ヶ谷は震災都市計画当時東京市の外ですか?東京市内の農業地域ではないでしょうか。
- 故意に山の手の地形的特徴を選んで開発しているのに「呼ばれた」は変です。同様に名士である事が入居資格であった住宅地について、「といわれる」と書かれては....
- 私には明らかに間違った記載に読めます。
- 誤記の発生(旧記事:第3次山の手)
- オリンピック前の東京の市街地の連続性は西側では環状八号線の内側に留まります。
- 既存の衛星都市の新開発住宅地は記載そのものが矛盾します。何を言いたいのでしょう?
- 定義
- 後半の意味が分かりません。また、一般に地形の意味での山の手が認知されているとも思えません。
議論する以前に誤記等についてはすぐに直していただきたい。 --kumakuma 2004年8月22日 (日) 13:53 (UTC)
取りあえず、誤記と指摘されている事項についてはある程度は補修しましたが、
- 田園都市との混同について
- 少なくとも初期の成城学園・田園調布・国立はハワードの田園都市論の影響の元で、東京の都市部と完全にを分離した所に東京と関連をもつ小都市を作ろうとしたものです。これに対して、鍋島家開発住宅地のような第二次山の手は、大都市の繁華街への近接性を重視した、名士のための新興住宅地です。
・・・・これについては、前者については失念しておりましたが、後者の「名士のための新興住宅地」と言う文言については、後段に記してあります。 - 戦後の記述で「田園都市は、第3次山の手の展開によって東京都市圏に接合し、その独立性を失ったが、周辺の一般住宅に比べて高級住宅地の性格が備わった」、のような記述にしないと山の手の説明も田園都市の理解もできません。
・・・・これについては、先の文章を手直しした際に付加しました。 - そもそも「山の手」の説明に田園都市が必要とは思えませ。
・・・・「山の手」の範囲の取り方を考える際に現在の範囲を示していませんよね。示さなかった方が悪いのかもしれませんが、少なくとも「武蔵野台地東端地域」の部分及び東京都特別区の西部を想定して記していたので、その中でとりわけ特異な地点として選んだだけであり、田園都市全般についてを挙げたわけではありません。
- 少なくとも初期の成城学園・田園調布・国立はハワードの田園都市論の影響の元で、東京の都市部と完全にを分離した所に東京と関連をもつ小都市を作ろうとしたものです。これに対して、鍋島家開発住宅地のような第二次山の手は、大都市の繁華街への近接性を重視した、名士のための新興住宅地です。
- 渋谷区富ヶ谷は震災都市計画当時東京市の外ですか?東京市内の農業地域ではないでしょうか。
・・・・同地区は、1932年10月1日に東京市に編入されたはずで、震災計画はその前に策定されたはずではないでしょうか。少なくとも読売新聞 > 旅ゅーん! > アーカイブ > 近代化遺産 ろまん紀行 隅田川十大橋 震災後の帝都復興の華の様な簡単なコラムでも1930年には策定が終了しているとされていますので、「東京市内の農業地域」は正当とは言えないのではないでしょうか。仮に言えるとするのであるならば、1932年10月1日の大東京市成立を勘案すべきでは。 - 故意に山の手の地形的特徴を選んで開発しているのに「呼ばれた」は変です。同様に名士である事が入居資格であった住宅地について、「といわれる」と書かれては....
・・・・「著名人」に掛かる言葉です。少なくとも、「名士」と言う言葉がどういう階層の人々を指すのかご教示願えないでしょうか。少なくとも、kumakumaさんの言葉を直さないで書きましたが、単なる富裕層であるかどうか判別がしかねますし、また、正確さが重要なのは分かりますが、「名士」自体が現在どういった階層を指すか分からなければ現在の感覚に相当する「著名人」を出すのが相当であって、その辺を咀嚼しないければいけないのではないかと思います。 - オリンピック前の東京の市街地の連続性は西側では環状八号線の内側に留まります。既存の衛星都市の新開発住宅地は記載そのものが矛盾します。何を言いたいのでしょう?
・・・・これについては、前者についてはオリンピックによる拡張についてを失念しておりました。しかし、同時に衛星都市の住宅地化も並行して進んでいたはずでは。例えば、小田急小田原線ではこの時期にはすでに新宿駅〜町田駅間のラッシュ時の需要が伸びてきていますし、国鉄113系電車の製造は単なる旧型電車の駆逐ではないですよ。 - 定義・・・後半の意味が分かりません。また、一般に地形の意味での山の手が認知されているとも思えません。
・・・google日本語版による"山の手""地名"での検索を捜すと札幌市の地名が最初に出てきます。必ずしも間違いではないでしょう。むしろ、「東京」の地域に固執しているあなたの方が冷静になるべきです。確かに「一般に」と言得なくはないですが、本義は地形ですので、それを持ってこない訳には行かないでしょう。
取りあえず、満足がいくとは思えませんが回答までに。尚、人のことも言えませんが、あまり自分の考えに固執しない方が良いかといますね。少なくとも、「議論する以前に誤記等についてはすぐに直していただきたい。」とまくし立てるのはいかがかと思いますので。--Sat.K 20048月22日 (日) 16:10 (UTC)
本文でのいきなりの改定をせずに、ノートでの議論を選んだのは、当然ながら自分の知らない事があると思っているからです。また、短い定義と記事に分けるという編集方針には大いに賛同します。ぶっきらぼうなノートが気分を害されたならば、それは私の表現が悪いのでしょう。 正直な話、前回の改訂を読んで、スタブとはいえ、もう少し正確性を期して早急に直した方がよいと考えました。ところが、私の知らない部分については直しようがないのと、他の執筆者がどこまで考え、何を確かめて書いたのかが不明だったことで、故意に刺激的な文章を書いた面もあります。失礼をお詫び申し上げます。
議論に入りましょうか。 ちょっと時間をかけて下の私の意見を元に加筆できるところを加筆したいと考えています。(手に負えるかどうか)
- 下町の項で書きましたが、全国的な地名で見ると山の手より山手(やまて)の方が一般的かとおもいます。「やまて」のては「右手をご覧下さい」の手と同じで、「山側」を意味する語と認識しております。(少なくとも神戸の地形は山の手とするのは無理があるでのではないでしょうか。)下町の対が「やまのて」であるのは、東京の地形的な特殊事情、または東京からの派生ではないかと考えています。本義が違う語を一記事にまとめるのは困難だろうと考え、既存の山の手の改訂にあたって、東京を中心に記載しました。また、将来的には下町の対としての「山手(やまて)」を関連記事として書かなくてはいけないと思ってます。
(JRの山手線は「やまのて」と読むのが正式でしょうか?私は京浜鉄道に対して山側を走る「やまて」線だと思っていました。また、「やまのて」線は東京の一般人がなじんだ呼称に変化したものだと信じてました。鉄道について詳しくないので現在の正式名称は知りません。) - 震災復興計画に関連する年代についてですが、計画策定はたしかにおっしゃる通りですが、実施については大東京市や都市計画法(旧法)といった震災復興計画のための制度整備が必要でした。応急的な部分についてはともかく、計画的な部分についてはかなり遅れての実施と考えています。つまり松濤園再開発時代には大東京への移行が前提だったわけですね。その点で以前の記載では制度への言及をさけていました。検証が容易ではないので。
- 山の手と田園都市を含む衛星都市について理解するために、少し議論を深めます。
- 震災復興当時認識されていたと思われる東京の中流以上の家庭では、主婦は日常的な買い物に行かず、「サザエさん」的な「ご用聞き」を始め、隣接地域の商業サービスなしでは成立しませんでした。上流にいくほど商業サービスへの依存度は高かったと思います。人口の郊外移転にあたって、上流階級は、大規模に集積し、伝統のある商業サービス地域(既存の下町)と離れられなかったのに対して、中流階級は郊外に新設された住宅と商業セットの小都市でも居住できたようです。中流生活を満足させるため、下町部分と山の手部分をセットにして開発したのが田園都市ではないでしょうか。その意味で、田園都市は「アンチ山の手」の性格を有していると考えるのが都市計画史では一般的かと思われます。田園調布や国立など計画的なものは田園都市に、阿佐谷や荻窪など人口移転から商業サービスが発達したものを田園都市以外の衛星都市と分けると考えやすいと思います。私がこの時期の山の手開発の入居者と想定しているのは下町のサービスと離れられないレベルの上流階級です。
- 富ヶ谷について言えば、山手線の内側原宿駅から渋谷駅にかけて、鍋島藩の重臣が集中して居住していた地域があります(現在でもビルについた所有者の人名が家老などに一致します)。山手線外側は大名下屋敷あとを農地開発した鍋島系経営の農園だったかと思います。したがって、渋谷村には山の手の生活を保証できる商業地域がすでに成立していたと考えられます。農園のあとは現在代々木公園及び明治神宮になっています。渋谷が農村と私が断じているのは、農園の存在と駒場農学校(東京大学農学部/東京教育大学)付属の獣医院の診察記録に、渋谷村の牛が多かったことに基づいてます。
- 富ヶ谷の開発にあたって、資産及び名声(または爵位)という制限を設けて入居者を募集したことが当時あまりに有名になったため、「山の手」=上流階級のイメージの形成につながっていると考えています。
- 震災復興当時認識されていたと思われる東京の中流以上の家庭では、主婦は日常的な買い物に行かず、「サザエさん」的な「ご用聞き」を始め、隣接地域の商業サービスなしでは成立しませんでした。上流にいくほど商業サービスへの依存度は高かったと思います。人口の郊外移転にあたって、上流階級は、大規模に集積し、伝統のある商業サービス地域(既存の下町)と離れられなかったのに対して、中流階級は郊外に新設された住宅と商業セットの小都市でも居住できたようです。中流生活を満足させるため、下町部分と山の手部分をセットにして開発したのが田園都市ではないでしょうか。その意味で、田園都市は「アンチ山の手」の性格を有していると考えるのが都市計画史では一般的かと思われます。田園調布や国立など計画的なものは田園都市に、阿佐谷や荻窪など人口移転から商業サービスが発達したものを田園都市以外の衛星都市と分けると考えやすいと思います。私がこの時期の山の手開発の入居者と想定しているのは下町のサービスと離れられないレベルの上流階級です。
- 戦後の山の手について
- 戦前の山の手開発で台地東端に中流階級の上層以上の住民を擁する住宅地の開発前線ができていたと私は考えています。戦災地からの移転、復員等により中心市街地から郊外への人口移転の圧力が強かったとも考えています。また、前線の外側に多数の衛星都市があったことも議論の前提にしています。この3つの仮定についてはご検討をお願い致します。
- 前項の3つの仮定の下に、衛星都市への人口の移転が進むとともに、既成の山の手の開発地を越えて、前線を形成しつつ、武蔵野台地上に新市街地が衛星都市の隙間を埋るように開発されていきます(つまりスプロールですね)。これが私の言っている第3次山の手です。具体的に地名をあげると、中野区野方などですね。ほかに、富ヶ谷に隣接する目黒区駒場の山手通り沿いなどは、比較的初期に戦災被災者の移転で形成されています。空中写真等を見れば同時期に市街化した地域でも衛星都市を核とし成長した場所に比べ明瞭に基盤整備が劣悪な住宅地です(道路狭い、公園なしなど)。田園調布の周囲はこの時期に市街地に埋め尽くされているのではないかと考えています。
- オリンピック期以前は防空緑地から近郊緑地になった規制地域がくさび状にあったのですが、以降はこれがどんどん緩和されてさらに劣悪な住宅地が形成されていきます。たとえば世田谷区は1980年代まで東京都の市及び区の中でもっとも下水道に接続可能な人口率が低い地域でした。田園都市としての成城学園をとりまいているのはこのような山の手(第4次)です。現在でもカーナビの性能試験に使われるほどの劣悪な環境で有名ですね。この時期には中流以上の生活を求める層に対しては田園都市の系譜につらなる「ニュータウン」という選択肢があります。都市計画領域限定では「ニュータウン」というアンチ「山の手」の構図が、基盤未整備の山の手対整備された住宅街となっており社会的投資の額が逆転しているのが特徴ですが、この時期のニュータウンは「山の手」のイメージを強調して販売されたものが多く、一般の用語として分離しての記載は不可能でしょうね。
--kumakuma 2004年8月23日 (月) 02:38 (UTC)
- 追記
- 基盤未整備という意味で高級住宅地とは言えませんが、第三次、第四次の山の手については、衛星都市の拡大した市街地に比べ、少なくとも高額な住宅地であったのは事実のようです。私自身が不動産取引実績を元に調査した結果に基づきます。(詳細の記述は勘弁して下さい、著作権放棄できません)
--kumakuma 2004年8月23日 (月) 03:28 (UTC)
- 追記2
- 山手線は今も昔も「やまのてせん」が正式名称のようですね。たくさんのページが見つかりました。「やまてせん」は鉄道省内部限定の呼び名だったとか。--kumakuma 2004年8月23日 (月) 04:09 (UTC)
東京市街地の拡大と山の手
[編集]仮の案(つくりかけ)ですが、自己中心的な記述を表面に出すのも恥ずかしいので、 まずはノートに貼り付けてみます。
東京市街地の拡大と山の手
東京の市街地の拡大と共に、いわゆる「山の手」のイメージする地域が変遷してきた。ここでは、明治時代以降の東京の市街地の拡大に合わせて時系列に記す。
明治時代においては、旧江戸市街地の範囲内で、地形の山の手の武家地のあとに成立した比較的高級な住宅街。典型的な例は本郷・青山・赤坂・音羽。町人町であった下町との対となる語として成立している。特に旧武家地を接収した維新側大名家とその家臣団、財閥関係者、文化人など当時の中流から上流の人々が集まって住んだ。既成市街地であるが、幕臣の多くが退去したため、新住民が多かった地域である。住宅地であっても、谷が入り組んだ地形のため、坂道を降りれば商業サービスを提供する下町が存在し、尾根の中心に主要交通路が通じていたため利便性の高い住宅地であった。
関東大震災は、東京の既成市街地から郊外へ移転する人を大量に生み出した。震災の後、第二次世界大戦までに旧江戸市街地の範囲外であった山の手地形の地域に新興高級住宅地が成立した。最も高名な例は現在の渋谷区の松濤・富ヶ谷等が挙げられる。富ヶ谷の分譲にあたっては、入居資格として資産と名声(又は皇籍・爵位)を設定し、このことが新聞に批判されるなどして、山の手=上流階級のイメージが強化されている。上流階級世帯の入居にあたってはサービス提供者が近隣に必要であったため、東京の低地に面した山の手が好適であったと思われる。
一方で、この時期、武蔵野台地上では、田園調布や成城学園前等の田園都市・ニュータウンが計画的に設計・分譲された。これは商業サービス地域とセットで住宅地を開発し。当時の中流俸給者層から上流階級の世帯に照準を合わせた独立性の高い新都市である。また、中流層の一部は、阿佐谷、荻窪などをはじめ、郊外鉄道の駅周辺などにも移転したが、人口の集積によって駅周辺に商業も発達していき、田園都市とはまた別の住宅衛星都市として成立していったと考えられる。新開発の山の手地域が、既成山の手住宅及び中心市街地の上流層のみを吸収したのに対し、衛星都市群は既成の山の手地域の住民と、人口密度の高かった下町の俸給者層住民をも吸収した。
第二次世界大戦後は、戦災被災者の移転、復員及び引き揚げなどのため、既成市街地西側への人口移転の圧力が高く、東京都市圏は拡大した。さらに、高度成長期には全国からの人口流入を受け止めるため、拡大の速度が増した。
中心市街地の西側では、既に成立していた上流階級向けの山の手から、武蔵野台地上に連続した前線を形成し、衛星都市を飲み込みつつ武蔵野台地上を西に向かってスプロールが進行していき、さらに、東京オリンピック前後を境に、それまで開発規制されていた地域へも市街地開発が行われていった。
中心市街地に距離的に近接するため、この新たな「山の手」では一般に郊外の衛星都市周辺に比べ地価が高く、入居者の所得が相対的に高かったが、地形の山の手を離れるに従って、利便性、都市施設、水道・道路その他のインフラストラクチュアの水準が急速に下がった。21世紀初頭の現在ではむしろ衛星都市の方がより高級な住宅地としてのイメージが定着している。この過程で、既存の山の手地域は存続しているものの、新興高級住宅地としては地形的特徴や、下町との関連性において定義可能な「山の手」は姿を消していき、新たに田園都市や衛星都市、ニュータウンが相対的に整備された住宅街であることを根拠に「山の手」と認識されていくこととなった。
戦争直後に住民が移転した市街の例として富ヶ谷に近い目黒区駒場周辺の山手通り沿い、大規模なスプロールが急速に展開した地域として中野区野方などが挙げられる。また、世田谷区の成城学園の周辺地域はカーナビゲーションの性能評価に使われるほど道路整備の水準が低い。
今日的には元の地形が丘陵・台地・谷・低地に関係なく高級感を打ち出すために宣伝用語として「山の手」が使用されている。特に、地名の併合によって、山の手の住宅街の町名が下町地域に広がった場合などは、マンション販売の広告で「山の手」が連呼される。(目黒区 白金 マンション 山の手 を検索すると、バブル経済期に地上げされた谷部低地の木造賃貸住宅あとのマンションが大量に現れる。)
--kumakuma 2004年8月23日 (月) 07:22 (UTC)
- ざっと見て思ったのですが、「東京市街地の拡大」ないしは、「東京の市街地の構成」の記事名で十分通じるのではないでしょうか。
そう考えると、現在の山の手・下町の記事は風俗のものを含めるとした方が十分通じると思いますね。こちらで書かれたものは都市計画論とリンクされても良いのではと思います。というのは、最後段のあたりの「目黒区 白金 マンション 山の手」の行を見ると下町と山の手の境が曖昧になっていると言う事を考えると、「山の手」・「下町」の対比も視野に入れるべきですので、そう考えると都市計画・景観論だけで「山の手」・「下町」の内片方だけで記するのであるならば片手落ちと思われるからです。
あと、念のためですが田園調布や駒場など現在赤リンク(つまり、記事の内容がない)のものがありますので、これはと思われる(とはいえ、田園調布がないのはちょっと痛いが、)記事を記した方がよいかと思いますね。ないしは、現在日本の都市整備の弊害かもしれませんが駅記事に一時的にリンクさせて対比させる手もあります。これは、いわゆるいたずら防止に役立つかもしれませんが、駅記事の中には「駅周辺」と言う項目がありそこでの説明がありますので、それで補遺が可能であると思われますので。--Sat.K 2004年8月23日 (月) 09:42 (UTC)
- おっしゃるとおりです。私がいくら頑張っても、都市計画屋の話しか書けないんですけど、たとえば言語なら日本中の士族があつまった明治の山の手から標準語が生まれた話とか、面白い記事がいっぱいありえると思うんですけどねぇ.....
とりあえずSat.Kさんのご指摘を参考にもう少し考えてみます。
--kumakuma 2004年8月23日 (月) 13:11 (UTC)
- おっしゃるとおりです。私がいくら頑張っても、都市計画屋の話しか書けないんですけど、たとえば言語なら日本中の士族があつまった明治の山の手から標準語が生まれた話とか、面白い記事がいっぱいありえると思うんですけどねぇ.....
- Sat.Kさんとの議論を元に手直ししてリンクを張る形式にしてみました。ちょっと見苦しいかな。スタイルのガイドラインに触るかもしれませんね。リンク先は東京市街の変遷として、違う観点からの時系列的な記事を一緒に収容できるようにしました。(&ノート消してしまいました)--kumakuma 2004年8月25日 (水) 06:43 (UTC)
このノートの件については、一度過去ログにしましょう。処理は当方でします。--Sat.K 2004年8月25日 (水) 11:21 (UTC)