ノート:山下良道/サブページ1
※このサブページ内のコンテンツは「ノート:山下良道#ページの全体に関する提案や議論」から移動されてきたものです。移動の日時は右記です→ --Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:13 (UTC)
▽2015年5月19日現在の版(参照)には、出典の不備が多数存在します(参照)。適切な出典が存在しない記述がページに掲載されることは「独自研究の披露」にあたり不適切ですので、そのような記述はページから削除されるべきですから、後述のような「出典の不備の指摘」に対する対応が一定期間の間になされない場合は、当該記述をページから削除する予定です。出典の不備が存在する部分と、存在しない部分とが文脈上で連結していることが明らかなときは、後者も芋づる式に削除するべきだと考えていますので、そのように対応致します。
なお上述の「一定期間」は、2015年5月末日いっぱいまでとすることを提案します。
※山下氏の思想などを理解する取り組みは、同氏の思想などに関心を持った各人が各様におこなうことができるのであり、Wikipediaの執筆者がWikipediaのページ上で「解説」を試みる必要は必ずしもありません。特に、Wikipedia上で独自研究とみなしうる記述を用いてまで「解説」を行おうとする必要はありません。Wikipediaのページにおいて情報の量が減ったり少なかったりすることには正当な理由(独自研究を載せないということ)が存在する場合があるということをご留意ください。
※ある記述がページから削除されたとしても、過去の版として完全に保存されておりノートページに公開することも可能ですから、ページから削除された部分の閲覧・編集に関して技術的な制限はかかりません。--Leonidjp(会話) 2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)
上述の投稿内容の一部を取り下げるために、取り消し線を付加。--Leonidjp(会話) 2015年5月23日 (土) 01:29 (UTC)
- 反対 出典が提示されている文章に対して、それが自分の解釈と合わないから独自研究とみなして削除するという態度は、極めて危険な態度であり断固反対します。そのような態度を許容すると、悪意を持った利用者によって「ここは自分の解釈と合わないから独自研究であり削除」という一方的な削除行為がまかり通ってしまうからです。書かれていることに異論があるならば、出典と共にその異論を併記すればいいだけの話です。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:04 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- >自分の解釈と合わないから独自研究とみなして削除するという態度
- コメントあのですね、貴方(Themthemanさん)の書いたこの版(=A版としましょう)の後継版が今、ページに実際に掲載されていることは、もともと、手続き的におかしいですよ。記述や出典情報をノートページで合意できた部分からページに移していくのが本来の手順ではないですか?
- 日付を5/13まで遡ってみましょうか(参照)。貴方が5/13に「差し戻し」した版(=B版)は出典情報が皆無だったから、あれがページに載せられたこと・載っていたことは問答無用でNGでした。その5/13の時点で、出典情報が付いた版は私の書いた版(=C版)だけだったのだから、5/13日以降においてもそのC版がページに掲載されているべきだったんですよ、本当は。そして、C版へ「付け加えたい/削除したい」と思う記述や出典情報をノートページに提出して、合意できたらページに加えていく/削除していくというのが本来の手続きであるはずなんです。ところが貴方がそうせずに、A版(の後継版)をC版と入れ替えてしまっているわけです。合意無しにね。貴方のこの手続きのおかしさって分かりますか?
- もともと、5/13に貴方がC版に代えてB版を掲載したこと(=差し戻し)自体が不当なんです。B版には出典情報が1つも無かったのだから。だから、そのB版をC版へと再び戻すことは正当なんだけど、それは形式的には「編集合戦」に該当するのでしょうね、おそらく。だから私は戻すことをせず、「出典を出して下さい」という要求をするだけに留めたわけ。それでB版がページ上に残り、このB版が貴方によって加筆されてA版になり、その後継版が今、ページに載っているというわけ。C版をB版に入れ替えるという5/13の貴方の最初の編集がそもそも不当だし、合意なしにそこへ加筆していっているという貴方の手続きも不当だと思います。その2つの不当性に目をつむって(口をつぐんで)いながら、「編集合戦」の弊害を訴えるなんておかしいんです、本当は。どう思いますか?
- そういう不当な手続きを容認するのは気が進まないけれど、「編集合戦」の開戦よりはマシだから、ここは私の側が大幅に譲歩しましょう。つまり、たとえ「5月末日」を過ぎても、「問答無用の削除」というのはしないことにします。この点、取り消し線で削除しておきます↑。
- Themthemanさんが今から自発的に、ページの掲載分をC版に戻すつもりがもしあったら、戻してくださっていいですよ。私はそれは拒みません。貴方の書いた版(ページに掲載したい内容)は、ノートページに載ってさえいれば議論可能ですから。--Leonidjp(会話) 2015年5月23日 (土) 01:29 (UTC)
- コメント あなたは過去の編集で記事中の多くの記述を削除してしまっていたため、どの記述に出典提示が可能で、どれがそうでないかを一から点検し直す作業をするために、あなたが削除行為を行なう前の版まで一旦戻さざるを得ませんでした。これは手続きとして必要な措置だったと思います。私はあなたが過去の編集で付加した情報も保護するつもりですし、その情報も復活・反映したつもりなんですが、「抜け落ち」があったら再度付け加えるので言ってください。--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- >「抜け落ち」があったら再度付け加えるので言ってください
- コメント分かりました。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:18 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:26 (UTC)
- >一旦戻さざるを得ませんでした。これは手続きとして必要な措置だったと思います。
- コメント細かいことをいえば、それは違うんです。過去の版は「編集履歴」のページから見れますからね。ページ上に戻す必要はなかった。でも、その件は、もうこれ以上は追及しないことにします。
- 加筆について。「貴方の編集(=ページヘの加筆や削除)に合意できない」という理由で、私が貴方の記述を勝手に改変したら貴方はどうしますか?元に戻すでしょう。それを見て、私のほうも私の改変を再びページに上げようとする・・・そういう展開を「編集合戦」というのでしょう。だから、複数の執筆者が意見の合わないままで自分の編集を押し通そうとすれば、編集合戦は避けられないでしょう。ですから、編集合戦を避けるために、例えば段落なり節ごとに少なくとも1回の合意を得てから編集(=ページヘの加筆や削除)を実行するとか、一定期間の間に反論がなければ編集を実行するとかいう手順にしてはどうですか?貴方が私の行った削除に対して仰っていた異議の中にも書いてあったでしょう?「すぐ削除するのでなく一定期間をおいてほしい」と。削除だけでなく加筆する場合にも「一定期間」をおいて反論を受付け、反論のない場合に加筆するようにできませんか?Wikipediaのこのページには、「ノートに提示したあと、1週間程度待って反応がなければ~」という推奨(?)が書いてありますが、どうですか?--Leonidjp(会話) 2015年5月25日 (月) 04:43 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:26 (UTC)
- コメント 最初から繰り返し述べていることですが、私が問題視しているのはあなたの「突然の大量削除行為」のみです。私は「出典を伴う加筆は何でも認める」という立場なので、あなたの加筆についてもとやかく言うつもりは毛頭ありませんし、その情報についても保全するつもりですし、実際あなたの付加情報は記事中に復活・反映させたつもりです。私が問題視しているのは、あなたが「出典が提示可能な記述を突然大量削除した」という点のみです。ですから、その「大量削除」部分を一旦復元し、どこまでが出典提示可能かを検証する必要があった、また、あなたがそのような行為に及んだ理由・動機を聞き出し、再発防止する必要があった、今回の「差し戻し」の理由はそこに尽きます。あなたが「突然の大量削除」を行わず、加筆+「出典or独自研究」タグの付加程度の編集に留めていれば、そもそも「差し戻す」必要もありませんでした。ただそれだけの話です。--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:26 (UTC)
- >どこまでが出典提示可能かを検証する必要があった
- コメント「どこまでが出典提示可能かを検証する」というのは、要するに読めればよいわけでしょう?ブラウザ上で。削除された過去の版を。読めますよ全部。ページに戻す必要なかったのじゃないですか?--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:57 (UTC)
- >あなたがそのような行為に及んだ理由・動機
- コメントそんなの、もう書きました。このノートページでのやりとりの初期のころに(消えずに残ってますよ↓)。「いつまで待てば出典提示が確実になされるのか分からない。執筆者と連絡がつく保証もない」と。いつ終わる
かもしれないとも知れない宙吊り状態(=出典情報皆無、出典提示のメドなし)の記述がページに載り続けていること自体が有害だから。貴方が最初に編集に参加したのは5/13でしょう?私の「大量削除」は4/22。その間の約20日間、「出典のメドなし」の記述をページ上に出してしておくべきだったと?それがWikipedia的に適切な状態なんですか?--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:57 (UTC) - 文中、取り消し線で一部修正。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 04:10 (UTC)
- >私は「出典を伴う加筆は何でも認める」という立場
- コメントこの点、了解しました。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:57 (UTC)
- >私は「出典を伴う加筆は何でも認める」という立場
- コメント他方、ページからの「削除」に関しては、「何でも認める」というわけではないという立場を維持してますね?そうですよね?
- それから、私が上述のように「加筆する場合も一定期間おくようにできないか」と述べた提案そのものについては「拒否」ですか?(この点に関するダイレクトな答えがないので再度おききする次第)。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 05:40 (UTC)
- コメント 最低一週間、できれば一ヶ月以上は「出典」「独自研究」タグで様子を見るべきだったと思います。なんせ節を丸ごと削除しようとしているわけですからね。実際あなたも一度はそうしようとしていたわけですよね。しかし一日でそれを撤回して節を丸ごと削除する行為に出てしまった。しかも同じく出典がなかった「経歴」には出典を出して記述を維持しながら、その同じ書籍に書かれている「思想」部分に関しては「独自研究」とみなして記事の節を丸ごと削除するという編集。私はここに非常に恣意的なものを感じましたし、普通の編集行為じゃないと思いましたし、看過できないと思いました。こうした編集行為は気に入らない記述を削除するために悪用されるおそれがあるからです。そして先にも書いたように一旦差し戻して出典提示可能箇所を点検し直すと同時に、あなたの考えを聞き出して確認する必要があると思いました。
- 「加筆」に関しては既述のとおり私は「出典を伴う加筆は何でも認める」という立場なので、そのような必要は感じません。 --Themtheman(会話) 2015年6月3日 (水) 13:38 (UTC)
- コメント削除分も過去の版としてすべて見れるからページに戻す必要ないですよ、という点にはお応えがないですね。
- 「経歴」節に関しても、貴方の差し戻しした版より私の加筆した分のほうが「まだマシ」です。(あくまで「マシ」程度でしかない点は私も認めます)。貴方の差し戻しした版は、出典と比べると表現の入れ替えが多すぎるんです。存命人物
なの自著を出典としているのに、まるで他人から見た批評文のようになっている。あれはまずいです。 - >非常に恣意的なもの
- コメントもちろん意志的にやってますよ。「経歴」節は「事実の提示」を書き並べることがある程度カンタンにできるのです。出典をもとにしてですね。どうせ「出来事」を書くしかないのだから。しかし、「思想・活動・実践」というのは「出来事」だけではないので、「出典をもとにした、事実の提示」だけでは済まないだろうということはすぐに分かりました。もともと、出典の中には「思想・活動・実践」全体の要約的な記述は無いのだし(私の見る範囲ではね)。しかもWikipediaの諸々の編集方針(一次資料を解釈するな、独自研究書くな等)に抵触せずに書くことが難しいのも明らか。しかも同節の大半を執筆したZenji30氏は投稿ブロックを受けて当時すでにWikipediaから閉め出されている。では、彼以外の誰が出典を出せる(出せた)というのでしょう?誰も出せないでしょう。その1つの証拠に、貴方(Themthemanさん)が出典を付けた本文は、Zenji30さんが書いた本文とは「本文そのもの」が変わっているのだから。あの本文を変えないで出典を付けるということは未だに誰も成功してないわけです。それなら、私のおこなった削除というのは、「誰も出典を付けられない本文」がページから削除されたということに他ならない。それは結果的にも正しい操作と言っていい。1週間待とうが、1ヶ月待とうが、あの本文
に関しては「出典付加不能」として捨てられた可能性が極めて高い。そうでないと言えるなら、たとえば貴方があれに出典を付けてみせてくださったらいいのです。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 05:08 (UTC) - 文中、一部修正(取り消し線と下線部)--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:46 (UTC)
- 文中、取り消し線が短かったので更に修正。--Leonidjp(会話) 2015年6月8日 (月) 00:49 (UTC)
- コメント「Wikipedia:存命人物の伝記」の中の「どのように書くべきか」という節(参照)には、下記のように書いてあります。
- 記事はどこにも偏らない書き方で、信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したものを文章化すべきです。場合によっては当該人物自身によって公表されたものを文章化する方がよいかもしれません。同情的・擁護的視点にも偏らないよう、中立的に、事実に即し、ウィキペディアの各方針を他の記事よりも厳密に遵守しながら書いてください。
- この「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」というのはいわゆる「二次資料」でしょうが、山下氏の「経歴」に関する詳細な二次資料(=他人が書く伝記的著作物で一定の分量をもつもの)が生まれる可能性は、当分の間は殆どないと思います(なにしろ、戦後生まれの日本人僧侶の中で他人によって伝記が書かれ出版・公表されているケースなど1万人に1人もいないでしょうから)。とはいえ、小規模な伝記的記述が他人によって散発的に書かれる可能性は充分あるでしょう(新聞・雑誌を始め出版物等で)。ですから、そういう散発的な二次資料を集めてきて「経歴」節の出典とすることが望ましいということになりますが、他方、上述のように「当該人物自身によって公表されたものを文章化する方がよいかもしれません」という言い方で、一次資料(自伝的著作)を「存命人物の伝記」の出典とすることが認められているのも事実です。
- 現在、情報量からみて『青空~』の記述を超えるほどの量をもつ二次資料は無いでしょうから、「経歴」節の情報量を維持したいなら一次資料たる自伝(『青空としてのわたし』)を出典から外すことはできないことになるでしょう。貴方はどう思いますか?
- 同書を出典から外さないとすれば、あとは、『青空~』を含む出典群の記述を極力改変せずに、「過去の各時期の出来事」と「それ以外」を峻別して前者を抜き出すという方途しか残らないでしょう。記述を改変せずに抜き出せば、「各時期に抱いた考え/思い」を述べた部分も「出来事」つまり事実の一種として抜き出すことは可能です(もしもその記述を改変したら、それは読み手の「思い/考え」を混ぜたことになるから不適切です)。要するにそれが私の言った「出典をもとにした、事実の提示」というものです。どうせ資料に書いてあるコトしか抜き出せないのだから、執筆者が勝手に「穴埋め/言い換え」する機会も本来うまれないはずなので比較的安全だと思いますよ。だからこの方法(抜き書きの集積)を、「経歴」節以外でも提案したのです。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:57 (UTC)
- コメント
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コメント 「Wikipedia:存命人物の伝記」の「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」というのは、「二次資料」ということではなくて、「(自費出版・ミニコミ誌などではなく)信頼できる出版社・その他の媒体によって公表されたもの」という意味です。ですから、山下の『アップデート』『青空』や『別冊サンガ』や新聞インタビューなどもここに含まれます。実際その直後に「場合によっては当該人物自身によって公表されたものを文章化する方がよいかもしれません。」と書いてあることや、その下の「信頼できる情報源」節の内容から、それが確認できます。ウィキペディアの方針を参照・引用するのはいいですが、ちゃんと内容を理解してから引用してもらいたいです。--Themtheman(会話) 2015年6月8日 (月) 12:03 (UTC)
- >「Wikipedia:存命人物の伝記」の「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」というのは、「二次資料」ということではなくて、「(自費出版・ミニコミ誌などではなく)信頼できる出版社・その他の媒体によって公表されたもの」という意味です。
- コメント何を仰いますやら。「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」が「二次資料ではありません」と何処に書いてあるのです?
- 「Wikipedia:独自研究は載せない」には、下記のように「方針」があるでしょう。だから「出典」は、通常は二次資料を選べとWikipediaから言われているわけです。「通常」に対する「例外」の時に「一次資料も可」となるだけです。「存命人物の伝記」を書くとき
がに、その「例外」に該当してますよする場合がありますよということを私が上記6月6日 (土) 04:57に書いたわけです。それを貴方も認めるわけでしょう?- 「ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(Wikipedia:独自研究は載せない)--Leonidjp(会話) 2015年6月9日 (火) 06:27 (UTC)
- コメント文中、取り消し線と下線部で一部修正。「場合によっては~かもしれません」の部分のみが「例外」である、と読むべきだろう。
- 「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」が「二次資料ではない」という旨の但し書き類は「Wikipedia:存命人物の伝記」の中の何処にも書かれていない一方、「通常は二次資料に基づいて記事を作れ」という「方針」は上述のようにハッキリ書いてある。
- そういう「方針」を、「Wikipedia:存命人物の伝記」を読む際に丸ごと外してよいわけはなく、「場合によっては~かもしれません」という言い方で「例外」的に外せる場合が認められているにすぎまい。--Leonidjp(会話) 2015年6月14日 (日) 01:36 (UTC)
- コメント追記。右記のような「方針」もある→「存命人物について一次資料を使うときには、より慎重になってください。」(出典ココ)」
- もちろん、これらの「方針」は、「存命人物の伝記」をWikipediaに実際に書く際にも基本的には外してはいけない、ということは言うまでもない。冒頭にハッキリ書いてあるので。--Leonidjp(会話) 2015年6月16日 (火) 04:25 (UTC)
- コメント あのー、「Wikipedia:存命人物の伝記」について書いた文に、何で「Wikipedia:独自研究は載せない」の話を持ち出して、両者の話を混同させちゃうんですかね。また一から話を整理整頓しなおさなくてはならなくなってしまうので、そういう話の混同や飛躍はやめてください。
- それじゃまずは「Wikipedia:存命人物の伝記」の話からしていきますよ。いいですね。ここの「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」をあなたが「二次資料」と誤解・誤読してしまうということは、あなたは「二次資料」の意味をちゃんと理解できてない疑念があります。もっと踏み込んで言いますと、あなたは「二次資料」を「第三者が書いたもの」であると誤解しているふしがあると私は感じています。そうでなければ、「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」を「二次資料」であると誤解・誤読する事態は起こり得ないからです。ここは議論の本筋ではありませんが、議論に関わってくる基礎的な用語の問題なので、避けて通ることができませんし、ちゃんと確認しておきたいと思います。いかがですか?あなたは「二次資料」の意味をどう理解していますか?--Themtheman(会話) 2015年6月13日 (土) 23:14 (UTC)
- >両者の話を混同させちゃうんですかね。
- コメント混同じゃないですよ。独自研究を載せないというのはウィキペディアの「三大方針」だから、明示的に「除外していいですよ」と言われてないかぎりは常に守るべきものであるはずなんで。--Leonidjp(会話) 2015年6月14日 (日) 01:36 (UTC)
- コメント「Wikipedia:存命人物の伝記」の、一番最初の1段落をお読みください。「混同」どころか、「方針」を「厳守せよ」と書いてあるから。--Leonidjp(会話) 2015年6月15日 (月) 00:59 (UTC)
- >あなたは「二次資料」の意味をどう理解していますか?
- コメント「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」に書いてあるとおりに。長文だから引用しない。--Leonidjp(会話) 2015年6月14日 (日) 02:46 (UTC)
- >あなたは「二次資料」を「第三者が書いたもの」であると誤解しているふしがあると私は感じています。
- コメント「感じています」などと「感じ」を投げ出すのではなくて、「感じ」の根拠になる「私の発言」をダイレクトに引用することを求めます。「感じ」をそのまま書けば論述が済む(つまり、「感じ」を書きさえすればそれが論拠になる)なら、そんなラクなことはありませんので。--Leonidjp(会話) 2015年6月14日 (日) 02:46 (UTC)
- コメント「Wikipedia:存命人物の伝記」のページ冒頭で「厳守せよ」と言われている「方針」に含まれている記述のうち、「存命人物の伝記」に明らかに関係のあるコトを引用しておきます↓。
- 「方針:(途中まで省略)存命人物について一次資料を使うときには、より慎重になってください。」
- 「方針:ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。」
- (引用元コチラ)
- これらの「方針」群を「厳守」するという文脈の下で、「存命人物の伝記」を書く際に使用を推奨されている資料はどんな資料か、と考察する手順が必要になる訳だ。
- >「Wikipedia:存命人物の伝記」の「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」というのは、「二次資料」ということではなくて、「(自費出版・ミニコミ誌などではなく)信頼できる出版社・その他の媒体によって公表されたもの」という意味です。
- コメント大事なことなので訊いておきますが、「Wikipedia:存命人物の伝記」の「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」が「二次資料ではない」ということがWikipedia内の何処かに明記されていますか。されていないですよね。それは当たり前でしょう。なぜなら、「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」という記述は、「一次資料」や「二次資料」という意味での「資料の性質」を記述したものとは読めないからですよ。ですから、「存命人物の伝記を書く際の資料として、一次資料と二次資料のどちらが推奨されているか」という問題に答えを出すためには、「信頼できる第三者情報源が当該人物に関して出版・公表したもの」という記述だけを見ていても駄目、答えは出ない訳です。もともと。そして、なぜそういう問題に答えを出すべきかというと、上述のとおりに「厳守せよ」と言われている「方針」の中には、一次資料と二次資料の各々の推奨度合いが既に書いてあるからですよ。「方針」という名で。一次資料or二次資料のうち、上述のように短く引用した「方針」の中にある「通常~」および「慎重」という直接・間接の言い回しを通じて、相対的にヨリ強く推奨されているのはどちらか?二次資料ですよ。だから“「二次資料」でしょう”と6月6日に私は書いたわけ(参照)。もともと、こういう論脈なのです。おわかりですか。(もう10日も経っちゃった)。
- 存命人物の伝記を執筆する時には、ウィキペディアの内容に関する方針(別言すれば「三大方針」)を厳守しなければなりません、と「Wikipedia:存命人物の伝記」の冒頭に明記されているという元々の文脈=大状況を読み落とすと、上述のような論脈を自力で作れなくなる訳です。
- 「6月13日 (土) 23:14」↑の投稿で貴方が「誤解・誤読」などと言っているのは、上述のような論脈が貴方の念頭に無かったからではないですか。そもそも掴んでおくべき元々の文脈=大状況を貴方が認識していなかったから、貴方にとっては「誤解・誤読」にしか見えなかった。結局それだけのことではないのでしょうか。
- 要するにページの相互の関係性というか体系性というものが念頭にないといけない訳です。それが言葉の意味や解釈に影響しますので。--Leonidjp(会話) 2015年6月16日 (火) 04:26 (UTC)
- コメント「Wikipedia:存命人物の伝記」のページ冒頭で「厳守せよ」と言われている「方針」に含まれている記述のうち、「存命人物の伝記」に明らかに関係のあるコトを引用しておきます↓。
- (視認性のため、以下の文を上の文とインデントを一致させます。--Themtheman(会話) 2015年6月20日 (土) 02:13 (UTC))
- ※インデント戻します。
- (ハナシが前後するが、同じスレッド内↑の話題に対する応答なので、ココに書いておきます。)
- >「加筆」に関しては既述のとおり私は「出典を伴う加筆は何でも認める」という立場なので
- コメント加筆分や執筆分の正確性や適切性等を出典に照らして検証するという作業をいつやるか、というタイミングについて考えてみると、それは、「ページに加筆する前に行う」か「ページに加筆した後に行う」のうちの、少なくとも片方が必要になる。貴方は上述のように「出典を伴う加筆は何でも認める」という立場だから、貴方が加筆する内容に対する他人による「検証」は、「ページへの加筆前」には必ずしも行われないということになる。その場合、貴方が加筆する内容に対する他人による「検証」は、「ページへの加筆後」に行われることになる。「検証コーナー」の節で今まさに行われていることがソレだ、というわけ。だから、貴方の加筆分や執筆分に対して他人から寄せられた疑義や批判に対してはお応え頂かないといけない。お応えが無いと、「検証」のプロセスが頓挫してしまうので(「加筆前」の検証が無い以上は、「加筆後」の検証が唯一の検証プロセスだから、それが頓挫しては尚更まずい)。
- 【ページヘの貴方の執筆分に対する私の批判、に対する貴方の反論、に対する私の再反論】というステージに至ったまま止まっている案件がこの節の中に複数あるので、個々の案件に対して応答を続けてください。(いずれも、単なる一般論の応酬をしているだけの案件ではなく、ページと出典の両方の記述を具体的に語り合っている案件です)。
- コメント私は「5月29日 (金) 05:40」↑に貴方に右記のように質問しました。→【ページからの「削除」に関しては、「何でも認める」というわけではないという立場を維持してますね?そうですよね?】。この質問に対するお答えがまだ無いので、一応改めてお訊きしておきます。(この質問が言う「削除」というのは、2015年4月22日に私が行なった「大量削除」を指しているのではなく、一般的な意味での「ページから記述を除去すること」を指しています。削除量を特定せず単に「除去すること」を意味しています。出典情報が付いている記述に対する除去も含む表現です。ご注意下さい)。
- コメントさて、貴方は、上述のように、ページへの加筆に関しては「出典が付いていれば何でも認める」という立場。そして、ページからの削除(除去)についてはおそらく、「何でも認めるわけではない」という立場をとるだろうと思います。この2点の「立場」を両立させるとどうなるか、というと、「出典情報は付いているけれども、出典に照らして不正確/不適切な記述がページに載っていくことには制限がかからない一方、出典に照らして不正確/不適切な記述がページから削除されることには制限がかかる」ということになります。これでは、ページ「山下良道」は、「感染症の流行地でマスクをつけない」みたいな状態にあるわけですな。「入口」がノーガードだから「口から何でも入ってくる」。しかし、入ってきたモノを外へ出す(除去する)ことは必ずしも出来ない。なぜなら、除去を承諾しない人が1人でも居れば直ちに「差し戻し」があり得るからです。つまり、「感染したら治せない」可能性があり続けるというわけ。だから、やはり、「入口=加筆時」をノーガード=無検証とする態勢はやめたほうがいいと私は思います。貴方が他人の執筆分を批判する役回りになった場合を想定してみてください。【貴方から見て「出典に照らして不正確・不適切」な記述がノーガード=無検証でページに載っていき、執筆者を批判しても記述が改められないし除去要請にも応じてくれないし、除去したら「差し戻し」で元通り】。そういう事態を貴方は容認できますか?容認できないのなら、入口に入る前=ページに加筆する前に他人による検証を受けて、合意できたものだけをページに掲載するという態勢をとった方がよいでしょう。(「検証」に参加する意志を示している他人が居ないようであれば、加筆予定の内容をノートページに掲示して7日なり一定期間待ち、反対意見が付かなければページに実際に加筆する、というような手順をとればよい)。
- 加筆前の検証を行おう、と提案すると、「それだとページのコンテンツが増えにくい」として反対する人もいるだろうから、予め反論を書いておきます。増えにくくても構いません。出典に照らして不適切な記述は「載らないほうがマシ、無いほうがマシ」ですから、クロを捨ててシロだけ載せる態勢を取れば、「クロをも載せる場合」よりもコンテンツが増えにくくなるのは当然のことです。シロもクロもごちゃ混ぜに載っている中からクロを見つけ出して指摘するという作業は、今まさに「検証コーナー」の節で進行中のことでありまして、この進行中のプロセスが往々にして当事者の応答途絶によって中断してしまうという事例(具体的には、主に5月29日以降、最大で半月余りの中断)を目にしていますから、「加筆後の検証」のみで済ませるという態勢の危険性を指摘している次第です。
- Wikipediaのページ「山下良道」というのは、実在の存命中の人物の「思想」や「経歴」を描写したページであるわけです。その描写の根拠が無いとか、根拠に照らして描写が不正確だとかいう状態が続いたら、それは、描写される側としての山下氏に対して失礼にあたるものです。(この意味においても、ページに不正確・不適切な記述が混ざることを防ぐように最大限の努力をしましょう。半月も無応答のままというのは、この意味でも、よくないこと。もし貴方が充分な時間的余裕を捻出することができない状況にあるなら、一時的にせよキッパリ手を引いて下さっても私は文句は言いません)。
- ※これは必要なことだからこのように長々と書いていますので、「長文不歓迎」とかくれぐれも仰らないようにお願いします。--Leonidjp(会話) 2015年6月17日 (水) 05:40 (UTC)
- ※インデント戻します。
- コメント あなたに対しては前にも述べましたよね。「いきなり長文でたたみかけずに話を噛み砕いて1つ1つ議論して」ほしいと。じゃないと話が一向に進みません。長文を書いたところで、あなたの正当性が増すわけでもないので、そういうやりかたはやめてください。ここでの議論は、第三者が閲覧することも想定しているわけで、一度に長文で色々書かれると、議論の筋が見えづらくなり、第三者に対しても不親切です。--Themtheman(会話) 2015年6月19日 (金) 22:52 (UTC)
- >一度に長文で色々書かれると、議論の筋が見えづらくなり
- コメント短文で書いたら、余計見えない。長短というスタイルに対してでなく、内容に応答して頂かないと。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:24 (UTC)
- >あなたに対しては前にも述べましたよね。「いきなり長文でたたみかけずに話を噛み砕いて1つ1つ議論して」ほしいと。じゃないと話が一向に進みません。
- コメント2人以上で会話しているときに「話が進まない」のは、内容に応答しないプレーヤーが居るからでしょ。「話が長い」からといって「進まない」わけじゃないですよ。一般的には、ハナシが長ければ長いほど「つっこみどころ」も増えるのに。
- >一度に長文で色々書かれると、議論の筋が見えづらくなり、第三者に対しても不親切です。
- コメント短けりゃ親切だというわけでもないわけ。長短と「親切/不親切」との間に必然的な関係なんかない。
- >長文を書いたところで、あなたの正当性が増すわけでもないので、そういうやりかたはやめてください。
- コメント「長文を書いたから正当性が増す」などと言っている人は当ノートページに居ない。長文が必要なときは書く。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:55 (UTC)
- コメント私の書いた質問内容が長文であろうと短文であろうと、貴方が回答・応答していない案件が多数あるので、順次ご応答ください。いずれも、無応答のまま「話が進まない」状態が続くと、「第三者に対しても不親切」ですので。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 05:11 (UTC)
- >一度に長文で色々書かれると、議論の筋が見えづらくなり、第三者に対しても不親切です。
- コメント「筋」が見えなくなることがあるとしたら、それは「長いから」ではなくて、内容に問題があるから。「内容に問題がある」と言いたいときは、何処にどのように問題があるのかダイレクトに引用(指し示し)つつ言わないといけない。
- いったいどの「筋」がどのように「見えなく」なったのか具体的に言う責任を負っているのは、「筋が見えなくなった」と主張する側の人。
- 「第三者」といったって、我々以上の読み書き能力をもつ人は無数にいる。「第三者」の能力を「自分自身以下の能力」でもって代表させなくていい。
- >あなたに対しては前にも述べましたよね。「いきなり長文でたたみかけずに話を噛み砕いて1つ1つ議論して」ほしいと。
- コメント「いきなり長文」だと「噛み砕いていない」ことになるというわけ?その論拠が全く不明。実際、ヘンな論理だと思う。「噛み砕く」作業そのものが長文を生むのじゃないのですかね。〈E=mc^2〉を噛み砕いて説明したら何十ページも要する、というように。
- いったい何処がどのように「噛み砕かれていない」のか、具体的に1つでも指摘なさったらいかがです?--Leonidjp(会話) 2015年6月21日 (日) 03:33 (UTC)
- >あなたに対しては前にも述べましたよね。「いきなり長文でたたみかけずに話を噛み砕いて1つ1つ議論して」ほしいと。
- コメントでは訊くが、貴方の言う「噛み砕き」というのは、具体的に何をどうすることを指している?具体的に描写して下さい。貴方がそれを出来ないなら、貴方の言う「噛み砕き/噛み砕く」という表現そのものが意味不明。--Leonidjp(会話) 2015年6月23日 (火) 01:21 (UTC)
- コメント 私が「話を噛み砕いて1つ1つ議論して」と言っているのは、要するに「一問一答」でやりとり・議論をしてほしいということです。ソフィスト的にではなくソクラテス的に議論してほしいと言えば通じるでしょうか?なぜそうお願いするのかというと、理由は2つあります。第1に長文どうしのやりとりになると、第三者が参照・読解・参加しづらくなるからです。第2に長文合戦になると、「相手が対応できないほど(引用と追加を重ねて)長文書いたもの勝ち」といったまさしく全く非生産的なレトリック合戦へと議論が変質していってしまうことになるからです。ここでの議論が「第三者が参照・読解・参加可能な」「非レトリック的な」生産的な議論になることを促すために、可能な限り「一問一答」で対応してもらうよう再度お願いします。--Themtheman(会話) 2015年6月26日 (金) 22:16 (UTC)
- >「一問一答」でやりとり・議論をしてほしいということです。
- コメント「長文」の中に「一問」が複数あるのだから、各「問い」に対して個別に応答できるじゃないですか。
- >「相手が対応できないほど(引用と追加を重ねて)長文書いたもの勝ち」といったまさしく全く非生産的なレトリック合戦へと議論が変質していってしまう
- コメント「対応できない」と言っている人は誰ですか。私は言ってないけど。貴方が「対応できない」わけですか?また、「長文書いたもの勝ち」などという勝敗基準を採用している旨、誰かが言ってますか。私は言ってないですが。議論の勝敗なんて内容で決するにきまっているではないですか。
- >ソフィスト的にではなくソクラテス的に議論してほしいと言えば通じるでしょうか?
- コメントソクラテスは相手の言ったことの「内容」に応答してません?違う?--Leonidjp(会話) 2015年6月27日 (土) 00:32 (UTC)
- >要するに「一問一答」でやりとり・議論をしてほしいということです。(中略)理由は2つあります。第1に長文どうしのやりとりになると、第三者が参照・読解・参加しづらくなるからです。
- コメント前にも書いたが、我々以上の読み書き能力を持つ人は無数にいるので、第三者の能力を「Themtheman未満の能力」と見なす必要はない。
- >私が「話を噛み砕いて1つ1つ議論して」と言っているのは、要するに「一問一答」でやりとり・議論をしてほしいということです。ソフィスト的にではなくソクラテス的に議論してほしいと言えば通じるでしょうか?
- コメントソクラテスねえ・・・。彼は議論相手と面会状態で、おそらくは何時間も語り合い続けるというスタイルをとっているからこそ、「一問一答」という形式であっても纏まった分量の議論を出来ているわけ。全体がプラトンの創作であるとしても。
- しかし、私と貴方の議論スタイルは「面会状態で数時間ぶっ続け」というものではなく、事実上、「手紙のやりとり」と同様のスタイルで行われているわけ。しかも貴方は、週に一回ぐらいしか当ノートページの更新をチェックしない旨、御自分の会話ページに書いている。ということは、「一問」に対する「一答」が来るまで7日ぐらいかかるということでしょう?そんなスタイルで議論したら、大きな分量の議論が終わるまで何ヶ月かかりますかね。そんなまだるっこしい議論スタイル、私は容認できませんな。そんなスタイルで議論するくらいだったら、士気の高い第三者に大勢来てもらってサッサと話をすすめたいとさえ思うところ。出典を熟読していなくても参加できる論件もあるだろうし。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:36 (UTC)
- >長文合戦になると、「相手が対応できないほど(引用と追加を重ねて)長文書いたもの勝ち」といったまさしく全く非生産的なレトリック合戦へと議論が変質していってしまうことになるからです。ここでの議論が「第三者が参照・読解・参加可能な」「非レトリック的な」生産的な議論になることを促すために、可能な限り「一問一答」で対応してもらうよう再度お願いします。
- コメント「長文合戦」?「合戦」て何のことですか。長文をどのように扱うことが「合戦」になるのか説明求む。
- 「非生産的なレトリック合戦」?じゃあ、誰が何処に書いたどの文がどういうレトリックであって、それがどのような「合戦」を引き起こしているのか具体的に描写したらどうですか。それを貴方がしないままなら、「レトリック合戦」という表現じたいが意味不明。意味不明なモノの「生産性」なんて計測のしようがない。
- 「議論が変質」?どこがどのように「変質」したのか、いつから「変質」したのか、ということを貴方が御自身で具体的に言えるわけですか?言ってみて下さい。
- 「非レトリック的」?また語義不明瞭な用語が出てきた。貴方は「非レトリック的」の具体的な意味を述べることができますか?それを貴方が出来ないのだったら、「非レトリック的」という用語じたいが意味不明。それなら、「非レトリック的に書け」という要請も当然、意味不明。意味不明な要請に応えることは無理。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:36 (UTC)