ノート:岡山県立岡山朝日高等学校
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一部で花畠教場の流れを汲んではいますが、これをもって最も古い学校とするかどうかは定かでなく、またホームページ等でもこの点はあまり強調されていない事から、控えめな表現にした方が適切と思われます。Setouchi 2005年10月21日 (金) 16:45 (UTC)
高等学校等で使用されている、資料集などにおいて、藩校についての資料が載っている場合、岡山藩藩校の設立時期は最も古く、また学校や同窓会による沿革には必ず花畠教場からの記述になっております。本校の公式の歴史においては、いわゆる國のお墨付きをうけた「温知学校」創立の時点を持って創立としている訳です。実際藩校の流れを汲んだ学校は全国一斉に廃校においやられているためです。しかし例えば学校の歴史の連続性という事を考える場合、「名称が連続である」もしくは「名称変更を経るが学生集団が同一での移行である」場合連続と考えるのが普通でしょう。こうして考えると「花畠教場」から「温知学校」にいたるまでは、何度か名称の変化があったのですが後者の連続性を伴っているため、記述に誤りはないでしょう。ただし、控えめという事を考えると「と考えられる」とする事に異議はないです。ただし、私がこの記事を書いた訳ではないのですが・・・。 sakusakuk1(どうしたらsetouchiさんのように署名付きで投稿できるのでしょう?一応ログインして投稿しているのですが・・・)
「県下屈指の進学校である」等の記述の必要性について
[編集]「東大・京大・岡大を始めとする名門大学へ多数の合格者を送り込む県下屈指の進学校である」の記述を削った理由について。まず「名門大学へ多数の合格者を送り込んでいる」かどうかは「名門大学」の定義が主観的であるため、「県下最多」と言える客観的な数値は出てこないはずです。また「県下屈指の進学校である」について、「進学校」の優劣は東大や京大への進学数だけで量れるものではないでしょう。この点で「屈指」についても主観的であると思います。Canadie 2006年4月19日 (水) 08:56 (UTC)
- 岡山朝日高校の東大・京大・岡大の合格者数計が岡山県下最多であるのは客観的事実。かつ中国地方の県立高校はどこも東大・京大・岡大の合格者数を競っている。特に岡大に関しては岡山朝日高校のHPの進学実績でも特別に別枠で学部別合格者数を記載しており同校にとって最重要大学となっている。岡山朝日高校が「東大・京大・岡大を始めとする名門大学へ多数の合格者を送り込む県下屈指の進学校である」は疑いようの無い客観的な事実である。そしてこれを否定する根拠は何も無い。210.14.4.82 2006年4月19日 (水) 15:45 (UTC)
朝日が県下屈指の進学校だと困る人がいるのでしょうか?不思議な話です。朝日の大学進学実績を上回る学校は岡山県には無いと思います。あと岡大は中国四国地方最古の大学であり名門大学です。222.2.73.57 2006年4月19日 (水) 16:05 (UTC)
依然として「名門大学の定義」「進学校の優劣の定義」についての客観的指標が提示されていません。それから「誰か困るから」削ったわけではありません。単に主観的記述なので百科事典として記載するに値しないと言っているだけです。Canadie 2006年4月20日 (木) 02:28 (UTC)
- 学校側の資料によると東京大学をはじめ京都大学、岡山大学にXXX名(XXXX年と)進学していると書けば十分です。県下屈指、名門大学(中立性に問題があるためWikipedia:ウィキプロジェクト 大学でこのような表現を使わないようになっています。)と書く必要はなし。hyolee2 2006年4月20日 (木) 02:40 (UTC)
- 上記(Hyolee2氏指摘)に従い本文記載しました。--風景 2006年4月20日 (木) 07:06 (UTC)
私、個人としては、「県下屈指の進学校である」という記述をしても構わないのではないかと思います。「名門大学の定義」「進学校の優劣の定義」についての客観的指標がわからないから記述すべきでない、というような意見があるようですが、「県下屈指の進学校である」という記述をするのに、文字や数字で見える形での指標が必要なのでしょうか?どういうことかと言いますと、例えば、「東京大学は日本の最高学府である」という記述はほぼ“確か”なことでしょう。ごく少数の人間がこのことを発言したり思ったりしているだけなのであれば、“確か”とは言えませんが、「東京大学は日本の最高学府である」という認識は、指標や基準がどうこうという問題以前に、一般化が可能なほどの大多数の日本の国民が単純にそう思っているはずです。それは自明なことです(もし、自明でない、という考えの方いらっしゃったら反論が欲しいのですが…)。「朝日高校が県下屈指の進学校である」という認識も同様な形態を持っている認識なのではないかと思われます。歴史が長いから~とか、進学実績がすごいから~とかいう以前に、一般化が可能なほどの大多数の岡山県民が「朝日高校は県下屈指の進学校」だと思っています。ゆえに朝日高校は県下屈指の進学校なのです。これも自明なことでしょう。自明なことに対して、指標を示せや、根拠を示せなどというのは、むしろその方がナンセンスなような気がします。ただ、Wikipedia:ウィキプロジェクト 大学では、名門大学というような表現は使わないという基準が定まっているようなので、「東京大学は日本の最高学府である」という表現は、Wikipediaにおいては不適合なものなのでしょう。ですが、高校の記述に対して、まだWikipediaにおける明確なルール・基準が無いのであれば、自明な内容を記述するのは、いっこうに構わないのではないかと考えられます。--晴紅判官 2006年10月5日 (木) 06:44 (UTC)
- 仮に『大多数の岡山県民が「朝日高校は県下屈指の進学校」だと思っています』が事実だとして(どうやって調べたんでしょう?)「大多数が思っている」ことと「そうである」ことは別です。Canadie 2006年10月6日 (金) 02:16 (UTC)
まず、『大多数の岡山県民が「朝日高校は県下屈指の進学校」だと思っている」ことは、上記でも申し上げましたが、東京大学の記述と同様、ほぼ“自明”のことでるため、調査や証明を必要とするものではありません。あと、私の記述も含め、何度も「進学校の優劣の基準がわからない」というコメントがありますが、そもそも、「名門大学」や「進学校」という概念に基準や指標などはありません。“そう”だから“そう”なのです。理屈などはありません。どういうことかと言いますと、日本の教育というのは、欧米のように“下”から発生したものではなく、明治期の近代化における過程の中で“上”から与えられたものであるという認識が必要だと思われます(もちろん多くの教育学者や歴史学者の方々がそれについて研究されており、異なった見解もあるでしょうが、もっともオーソドックスなものとして、そのような考え方があります)。当時、民衆にとっては、教育よりも直接的にお金に繋がる労働力の方が重要で、教育を義務化した時は政府に反発が起こり、学校等が焼き討ちされるという事件が頻繁におきました。そのため、政府は、『学問ノススメ』にあるような「立身出世のために勉強をしなさい」というような、ある種のイデオロギーを意図的に国民に植え付け、それを根幹にして、高等教育機関の序列化(いわゆる、横の学歴観というやつです)を行い、その思想は、戦後になって国民の大学進学率が上昇するにつれ、いっそう強化されることになり、未だに、とりわけ国立大学などにおいては、旧帝大だの、旧高等師範だの、旧ナンバースクールだの、といった横の学歴観が根強くあります。そのような考え方が、中等教育の現場にも波及し、特定の高校を進学校と呼び、権威付けるような習慣が生まれてきたものと思われます。わかりやすい例で言うと、山口県などは、現在はどうか知りませんが、かつては、有力進学校と呼ばれる高校にのみ理数科が設置されているという、非常にわかり易い明瞭な形で他の普通高校との差別化が“上”から行われていたものです。岡山についてはどうか存知あげませんが、つまり、何が言いたいかというと、「名門大学」や「進学校」という概念は、何か明確な根拠や指標に基づいて生まれた概念ではなく、意図的に“上”から与えられ、それを受容した大衆が時間の流れの中でその言葉の使用を習慣化し、“上”“下”双方から特定の学校に無意識のうちに権威を与えてしまうという慣習ができあがっている、というのが現状なのではないかということです。よって、横の学歴観においては、「大多数がそう思っていること」が「そうである」ことに繋がるのです。下手な文章で申し訳ないのですが、私の主張はご理解いただけましたでしょうか?--晴紅判官 2006年10月6日 (金) 06:37 (UTC)
- 基準や指標がない表現を用いるのは百科事典的ではないと思います。Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:言葉を濁さないもご覧下さい。「屈指」というのは何番目までか定かではないので(足の指を入れれば20まで?)ここで「言葉を濁し」ています。Canadie 2006年10月6日 (金) 06:59 (UTC)
果たしてそうでしょうか?基準や指標がなくても慣習として存在するのです。慣習として存在するものを「百科事典的でない」と言うのは、正しいとは思えません。例えば、「悟性」という言葉をご存知でしょうか?この言葉はドイツ語のVerstandという言葉を和訳したものです。しかし、Verstandは、動詞verstehen「理解する」の名詞形なわけだから「理解力」と訳すのが普通なのではないか?と考えられます。ですが、なぜかカントの著作等の和訳でVerstandを訳すときは必ず「悟性」と訳します。なぜ「理解力」では駄目なのでしょうか?それに基準や指標などはありません。そう訳すのが慣習だからです。しかし、基準や指標の無い慣習だからといって、「悟性」という言葉が書かれていない辞書などありません。東京大学が日本の最高学府であること、朝日高校が県下屈指の進学校であることは、一般の慣習的な認識として定着していることです。別に朝日高校をひいき目で見ているわけでもなく、事実としてある慣習的認識を記述しているに過ぎません。付け加えて、「屈指」という言葉は、辞書によると、修飾する名詞の意味を強める働きをするに過ぎないものだと思われます。いちいち、言葉を濁すとか、何番目か定かでないとか、重箱の隅をつっくくようなことをするまでの単語であるとは思えません。ここでの役割としては、「進学校」という言葉が、普通高校であればどんな高校でも「進学校」と言えるという性質を持っているがために、上記で挙げた、山口県の例で言うところの、理数科を設置している普通高校と、そうでない“普通の”普通高校との区別を図るために用いる言葉に過ぎないものであると、理解できると思います。--晴紅判官 2006年10月6日 (金) 16:04 (UTC)
- 「みんながそう考えてるからそうなんだ」という論調は止めましょうよ。地球は昔は平たかったんですか? ところで、先ほど岡山朝日高校に電話してみました(土曜にも関わらず快く回答して頂きました)。端折って書きますが、「御校は進学校ですか?」との問いに「世間や教員の中にそういった認識は『あるのかもしれないが』、『進学校』というのは法令・条例で定められた言葉ではないので、岡山朝日高校が公に進学校を名乗ることはない」とのことでした。ここで朝日高校から「うちは進学校だ」という参照可能な見解が示されれば「進学校」については書いてもいいのではないかと思ったのですが残念です。「屈指」についてはもう一度「言葉を濁さない」を読んでもらえますか?Canadie 2006年10月7日 (土) 05:48 (UTC)
地球が平らだったかどうかなんてことは、それは現在においては、自然科学的・普遍的に論証可能な事案であり、言葉の意味や概念をどう考えるかといったここでの議論とは全く次元の違う話であり、的外れです。次元の違う話を混同させないでください。逆に、「みんながそう考えてるからそうなんだ」という論調は止めましょうよ、とおっしゃるのであれば、上記で挙げたような「悟性」という訳語のような問題はどう解釈されるのでしょうか?翻訳をされる方の中には、「悟性」という言葉をあえて使用されない方もおられます。しかし、大多数の日本人に「悟性」という言葉が認識されている以上、辞書には出てきます。では、広辞苑などは辞書として“おかしい”辞書なのでしょうか?あと、高校に電話して「御校は進学校ですか?」と質問して「はい、進学校です。」などと答える公の学校が常識的に考えてあると思いますか?全くもってナンセンスです。というか、そんな質問をされたこと自体が常識的に信じられません…。逆にお聞きしたいのですが、学校が公的に認められる内容でなければ記述できないというのであれば、このWikipediaというサイトは必要ないのでは?(学校の公のパンフレットや同窓会の回報、公式HPがあれば十分なのですから)。慣習的認識というものが存在するのは確かなことでしょう?なぜそれを記述するのが駄目なのか、納得できる例を用いて説明してください。あと、「屈指」という言葉が、何をどう濁しているのか説明ください。(しかも、Wikipedia:言葉を濁さないは、基本的には誰でも編集可能なものであり、公式ルールでもないため、正当性は無いと言いませんが、有るとも言えません。)--晴紅判官 2006年10月7日 (土) 07:50 (UTC)
Wikipedia:言葉を濁さないの例示に倣えば、たとえば「岡山朝日高校は県内一の進学校である」と書けば、それは公平さを欠きますよね。かといって進学校の優劣に指標はないので、何番目ということもできない。だから「屈指」という曖昧な語を持ち出して「言葉を濁し」ているわけです。Canadie 2006年10月7日 (土) 10:55 (UTC)
- 上記でも述べていますが、「進学校」という言葉が、普通高校であればどんな高校でも「進学校」と言えるという性質を持っているため、ここでは、「屈指」という言葉が、修飾する名詞の意味を強める働きを担っているのです。言い換えると、ここでは、何番目かという“順序”の概念に基づいて使用されいると考えるよりも、高校というカテゴリーの中である種の権威を持っている普通高校と、そうでない普通高校とを区分する役割で使用されいると考える方が妥当でしょう。再び山口県の例を用いると、一般の県民からは、理数科を有している高校は県下“屈指”の進学校として認識・および権威付けられているのであり、そうでない高校は“普通”の進学校として認識されているのです(繰り返しになりますが、生徒の進学率や進学先がどうであっても、進学させることを役割としている高校であれば進学校と言えるので)。ですから、ここでは、もともと順序とは別の問題なのです。それを踏まえると、むしろ、「屈指」という言葉を用いたほうが、そうである普通高校とそうでない普通高校とを区別できるわけで、高校というカテゴリーにおける“権威”という概念においては、より明確になるのではないでしょうか?っというか、Wikipedia:言葉を濁さないが、Wikipediaにおける“正当性(とういうよりも正統性と言った方がいいのかな?)”を有しているわけではないようなので、あまりWikipedia:言葉を濁さないを論拠として持ち出されない方がいいのではないでしょうか?
- それはそれとして、私の前回の書き込みにおける「『屈指』という言葉について」以外の論点については、Canadieさんは、どうお考えになられたでしょうか? --晴紅判官 2006年10月7日 (土) 12:59 (UTC)
- ガイドライン軽視はいただけませんね。また、『普通高校であればどんな高校でも「進学校」と言えるという性質を持っている』これは違うでしょう。進学校の項にもある通り、曖昧な語で定義部に記述するにはふさわしいとは思えません。現在、「屈指の進学校である」という記述に関して議論しているので、それ以外の論点については言及は控えさせて頂きます。Canadie 2006年10月11日 (水) 10:30 (UTC)
最後の投稿より3日経過しましたが、Canadieさんをはじめ、このノートにこの議論についての返答等が無いので、ひとまず「県下屈指の進学校」という記述を本文へ加えたいと思います。異論・反論等ある方は、削除・あるいは差し戻しをしていただいて構いませんが、その時は、このノート場で議論可能なように、その旨を述べていただけるとありがたいです。--晴紅判官 2006年10月10日 (火) 15:47 (UTC)
- 上にも書いたように進学校の定義もはっきりしない上におらが学校と言わんばかりの表現は必要なし。岡山大学にもそういうのを書く利用者がいたようだが。--hyolee2 2006年10月11日 (水) 01:05 (UTC)
「進学校」の言葉の概念について、上記で議論・および説明をしているつもりですが。それに特定の学校を特別扱いしているつもりもありません。むしろ「屈指の進学校」という表現を特別扱いする言葉であると認識している価値観のほうが、偏っていると言えるのではありませんか?例えば、専門高校であれば、商業であったり工業の特定の技能や知識を生徒に習得させるというのが主な学校の役目です。それと同様「進学校」という言葉も、大学進学を主な役目とする高校を指す、「分類」を行うための言葉に過ぎないものです。一応、このWikipediaにおける学校記事のルールを確認したつもりですが、「進学校」という言葉がNGであるというような文言は見つけられませんでしたし、特定の学校を特別扱いする言葉であるというような文言も無かったように思います。中立的な観点からの問題として考えても、「進学校」という言葉が特定の高校をひいき目で見るような中立性を欠くものなのか、それとも先程も申しましたように、単に学校の役割を端的に示す言葉に過ぎないのかは、議論を必要とするところなのではありませんか?Hyolee2さん、何の文章的説明も無しに切り捨てるのではなく、まずちゃんと文章を用いて根拠や理屈となるものなどを説明をしましょうよ。なぜ「定義がはっきりしない」と言えるのか?なぜ慣習的なものを記述しては駄目なのか?そもそも「定義」とは何を根拠に定まっているものなのか?なぜ「進学校」をひいき目で見るための言葉と判断されるのか?そこら辺をちゃんと説明するか、根拠となる文献や、その文献が紹介されいるページのリンク等を示すなどして、まずは、ちゃんとした“説明”を行うべきなのではありませんか?--晴紅判官 2006年10月11日 (水) 03:20 (UTC)
- 「屈指」は言葉を濁しています。「進学校」は定義が曖昧です。「進学校」が贔屓目だとは思いませんが「屈指の進学校」となると中立性を欠きます。従って、Wikipedia:言葉を濁さない、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか(Wikipediaは宣伝の場ではない)の3つのガイドラインを根拠にrevertさせて頂きます。Canadie 2006年10月11日 (水) 10:30 (UTC)
うーん、こうも一方的な返答ばかりではもう議論になりませんね。ガイドラインのどの記述が根拠で、それをどのように解釈し、その考察した過程を基にに記述するかしないかの方針を述べていただければいいのですが、ただリンクを貼って「以上のものを根拠に」と言うのでは、あまりに一方的で、議論の何もありません。あと、何もガイドラインを軽視しているというのではなく、少なくともWikipedia:言葉を濁さないがWikipediaにおいて非公式なものであるため、公式なものとなるまでは、そのリンクだけを貼って正当性を主張されるのは、議論として雑なのではないかということを述べたかったまでです。記述力が乏しく申し訳ありません。しかし、あまりに結論ありきで、そこまで頑なに記述を拒まれるのであれば、それなりにその言葉の背後にあるものや概念等についての考察等をしていらっしゃってそう仰っているのでしょうから、そのことを聞かせていただきたく思い尋ねてみても、「返答は差し控える」と言ってコメントをしてくださらないのであれば、それこそ一面的な表面のみの話にしかならず、逆に結論ありきの客観性を欠くものなのではないでしょうか?(もちろん、演繹的に説明可能な事項であれば、自動的に絶対的な客観性が付随してきますから、それで構わない、というか、それしか無いのが当然なことなのですが、この話題は普遍的事項ではないので、そのことを演繹的に説明するのは不可能でしょう)。Canadieさんにおいては、一度は慣習的認識について「地球は昔は平たかったのか」という例を用いて反論なさろうとしたのに、どうしてそれを否定されたとたん議論を放棄なさるのですか?もっといろいろと他の理論で反論なさればいいではないですか。少なくとも「進学校」および「屈指の進学校」という言葉が慣習的認識に基づくものであることは理解されていることでしょう?否定されるのあれば、地表に見える葉の部分について表面的に結論ありきで答えるのではなく、まずは根の部分から理論を用いて説明するのが“議論”なのではないでしょうか?それに、「屈指の進学校」という記述を入れることが宣伝になるとも思いません。別に「進学校」だから“良い”などと、誰も(公然で)言ってはいません。逆に、過敏にそのような言葉に反応するほうが偏った見方なのであり、一面的でかつ“刷り込まれた”主観的な学歴観(価値観)なのではないでしょうか?私はいわゆる「普通高校」の出身ではありませんでしたが、そのことを持って、変に自らを卑下したり、他人を羨んだりすることもありません。区分は区分としてただ在るものであり、それを記述するかしないかの論議であって、上の方だから良いとか、下の方だから悪いなどといった(そもそも何をもって上下が決まるのか)、価値観は全く述べていないと思うのですが。--晴紅判官 2006年10月11日 (水) 17:23 (UTC)
- 今は「屈指の進学校である」との記述が適当であるか不適当であるかの議論ですので、それさえ明確であればその他の議論は不要ですし、ここは私情を書くところではありません。「屈指の進学校である」との記述が不適当である理由は既に何度も述べました。ガイドラインに沿っていないなら記述すべきではありません。「沿っている」というのであればその点を主張して頂きたく思います。Canadie 2006年10月12日 (木) 07:37 (UTC)
その他の議論なのではありません。一面的な葉だけを見るのではなく、総合的な全体像からの議論でなければ、何度も言っているように演繹的説明可能なもの以外の説明は無理です。だから議論が必要だと述べているのです。それゆえ、未だにこのWikipediaでも主観性・客観性の議論が尽きないのでしょう。それに、私は何度もガイドラインの禁止されうる内容には触れていないのではないかという理論、および説明を述べてきたつもりですが。そもそも、この記述を削除の対象として最初に指摘されたのは履歴によればCanadieさんでしょう。であれば、結論ありきでこの記述は主観的で~や、ガイドラインに反し~など、結論だけを繰り返し書くのではなく、説明を求められれば、なぜそのように判断するに至ったのかという思考の過程(具体的にガイドラインのどの記述を根拠としているのかなどといったことなど)の説明を行うのが義務でしょう。--晴紅判官 2006年10月12日 (木) 09:01 (UTC)
- 一つ前の議論になりますが、(そもそも何をもって上下が決まるのか)という認識があれば、「屈指の進学校」という書き方は中立性を欠くと思いませんか?「屈指」という書き方は「進学校」の「上下」を断定している表現です。私が「宣伝」という言葉を使うと「進学校が上とは思わない」と反論されましたが、私が宣伝だと問題にしているのは「『屈指の』進学校である」という表現です。誤解なきよう。なおここは議論の手法を議論する場ではありませんので、「議論の方法が間違っている」と思うのであれば、シンプルに正しい議論における質問・記述をして下さい。私はそれに答えます。
- ガイドラインの解釈について。「宣伝」については上に述べました。Wikipedia:言葉を濁さないについて。ガイドラインから引用しますと、「曖昧な表現は、実際には中立的な観点をもたらしません。それは単に噂をひろめるだけか、個人的な見解をほのめかすだけです」とあります。「屈指」が曖昧な表現であることには同意いただけると思います(何番目までが屈指、と定義することはできませんので)。「語を強める言葉だ」というのは正しいと思いますが、正確には『「語を強める言葉」であり、かつ「曖昧な言葉」』です。「進学校」も曖昧な言葉ですので、実際には「曖昧な言葉を曖昧な言葉で修飾をしている」という状態であり、非常に主観的な表現です。Canadie 2006年10月12日 (木) 19:50 (UTC)
恐れ入ります。最後のコメントから1ヶ月以上が経過しているようですので、コメント依頼を終了致します。結論が出ていないようでしたら、再アピールの意味も含めて、改めて依頼をお願いします。--Bellcricket 2006年12月5日 (火) 00:48 (UTC)
「校風」の記述の仕方について
[編集]内容が非常に主観的なものであり、根拠が明確、あるいは一般的認識でるとは到底思えません。生徒が学校生活を謳歌しているかどうかは、学校の問題というよりも、生徒個人の問題であり、「生徒は自主自律の精神の下のびのび、生き生き学生生活を謳歌している」という記述は、このページで書くほどの内容ではなく、同時に、不適格なものでると思われます。--晴紅判官 2006年10月5日 (木) 06:44 (UTC)
- 仰る通りだと思います。学校の方針にあるものを編集、出典を示した上で残りを一旦コメントアウトしました。Canadie 2006年10月6日 (金) 02:56 (UTC)
私立の学校案内じゃあるまいし、確かに完全に同意は出来るのですが、確かに私が居たころはそうでしたし、そうでないと感じていた人にも会ったことがあります。しかし、他の学校の状況を聞く限り、比較的に相当自主性と自由を尊重していたのは確かのようです。--Shoon 2007年3月2日 (金) 03:46 (UTC)