ノート:岡晴夫
岡晴夫は「アマチュアからプロになる最初の例」か?
[編集]2007年8月10日 (金) 10:33時点における版 から、「昭和14年2月「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし一躍スターとなる。」という記述に続けて、以下のような記述がなされ、現在の版まで続いています。
「それまでの流行歌手は音楽学校で正規の教育を受けた者あるいは花柳界の芸妓出身者が中心であったが、流し歌手の出身である岡のデビューは、同時期の上原敏・田端義男とともに、アマチュアからプロになる最初の例である。」
この記述から受ける印象では、「音楽学校で正規の教育を受けた者あるいは花柳界の芸妓出身者」ではない者が、「アマチュア」として音楽活動をある程度経験した上で「プロ」になる例が、岡晴夫・上原敏・田端義夫以前には、なかった、あるいは取るに足らない例しかなかった、と述べているように読み取れます。
何をもって「アマチュア/プロ」を分けるのかもはっきりしませんが、この3人の経歴は、かなりバラバラです。以下、ウィキペディアのそれぞれの項目から抜き書きしながら要約しますと、次のようになります。
- [ 岡晴夫は、「万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通」い、「流しをしながら音楽の勉強を」して、1938年=「昭和13年にキングレコードのオーディションを受け...専属とな」って、翌1939年(昭和14年)にデビュー。]
- [ 上原敏は、大学を出て社会人となるまで、正規の音楽教育も受けず、歌手としての活動もないまま、野球の試合をきっかけに知り合った「ポリドールの幹部」から「レコード吹込みを勧められ」、1936年(昭和11年)にいきなりデビュー。]
- [ 田端義夫は、丁稚奉公をしながら、「次第に流行歌の世界に傾倒し」、「新聞社主催のアマチュア歌謡コンクール」に「優勝」して「ポリドールの勧めで上京し、鈴木幾三郎社長宅の書生とな」って、1939年(昭和14年)にデビュー。]
つまり、上原敏は、アマチュア歌手としての活動歴はなく、岡晴夫は見方によっては音楽教育を受けていたと見ることもできます。
彼ら3人の経歴が多様であり、まとめて扱うのに無理があるのではないかということも問題ですが、それ以上に、重大なのは、彼ら以前に同様の経歴で歌手として成功した者が確実に複数おり、しかも、それが流行歌の歴史の中で無視できない存在だという点です。上記3名と同様にウィキペディアの記述から抜き書きをしてみます。
- [ 東海林太郎は、早稲田大学を出て満鉄勤務後、帰国して「中華料理店を経営」しながら「声楽を下八川圭祐に師事し音楽コンクールの声楽部門で..入賞し」、現在のキングレコードの「専属になり1933年プロ歌手となっ」てデビュー。]
- [ ディック・ミネは、「幼少期から、音楽好きだった母親の所有していた西洋音楽のレコードに興味を持つ」のが高じて、立教大学在学中から「ダンスホールなどでジャズに傾倒。自らもバンドの一員となり、アルバイトで歌も歌って」おり、卒業後「逓信省貯金局に就職したものの、ダンスホールのバンドメンバーに誘われ音楽で身を立てる決意を」して「1934年(昭和9年)、タンゴ楽団...で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを淡谷のり子に見出され、レコード歌手の道を歩むこととな」り、同年デビュー。]
- [ 灰田勝彦は、立教大学在学中に兄のハワイアン・バンドに入るまで、特に音楽教育は受けていないが、在学中のの1934-1935年(昭和9-10年)から変名で「アルバイト吹き込み」「数曲をレコーディングし」た後、「大学卒業後の昭和11年、兄が所属する日本ビクターと正式に専属契約を結び、「ハワイのセレナーデ」でデビュー」。]
こう並べると、東海林・ミネ・灰田の3人はいずれも、岡・上田・田端と同様に、「音楽学校で正規の教育を受けた者あるいは花柳界の芸妓出身者」ではない者が、「アマチュア」として音楽活動をある程度経験した上で「プロ」になる例と考えてよいように思われます。
また、「流し」を「アマチュア」と見なしているかのように読める「流し歌手の出身である岡のデビューは、同時期の上原敏・田端義夫とともに、アマチュアからプロになる最初の例である。」という記述は、「流し」あるいは「演歌師」を「アマチュア」、レコード・デビューした者を「プロ」と見なしているようも読める、危ういものであるようにも思えます。(念のためですが、明治から大正にかけて、演歌師を含む無数の「アマチュア」同然の歌い手が、レコードを吹き込んでいる事例が多々あることを忘れてはならないと思います。)
もちろん、何らかの典拠があって「それまでの流行歌手は音楽学校で正規の教育を受けた者あるいは花柳界の芸妓出身者が中心であったが、流し歌手の出身である岡のデビューは、同時期の上原敏・田端義男とともに、アマチュアからプロになる最初の例である。」と主張することは、様々な保留条件をつければ可能になるのかもしれません。もし、そうであるなら、こう判断した典拠が明示されるべきであると思います。
以上を踏まえて、記述の典拠が明示されなければ、「アマチュアからプロになる最初の例である」といって記述は削除されるべきであると考えます。
いかがでしょうか。 --山田晴通 2009年5月13日 (水) 17:14 (UTC)
そもそも「カチューシャの唄」の松井須磨子からして、演劇学校には行っていますが音楽教育を受けた人とはいえないでしょうし、演歌師のトップレベルがプロでないとも言えないでしょう。それに「芸妓が中心であった」は「すべての女性歌手が芸妓であった」とイコールではありません。「芸妓が中心であった」は「中心でないところに芸妓上がり以外の女性歌手がいた」と同時に成り立ちます。したがって、「岡晴夫らが登場する以前の男性歌手はみな音楽学校出」ということでない限りは「岡のデビューは、同時期の上原敏・田端義男とともに、アマチュアからプロになる最初の例である」は不適当でしょう。--210.141.172.122 2009年9月26日 (土) 13:35 (UTC)
だいぶ時間が経過しましたが、特にご異論はない様子なので、「要出典」とした箇所を削除いたします。--山田晴通 2009年12月25日 (金) 03:21 (UTC)