ノート:市ヶ谷刑務所
表示
改名提案
[編集]「職員録」や公文書では「市谷刑務所」のようなので、市谷刑務所に変更したいと思います。
--忠太(会話) 2013年10月19日 (土) 14:54 (UTC)
警視庁監獄
[編集]鍛冶橋から移転した「東京監獄」は、警視庁の管轄だった模様。(cf:巢鴨監獄の前身は警視庁監獄巢鴨支署)。確証はまだ。 --忠太(会話) 2013年10月20日 (日) 12:54 (UTC)
以下は「警視庁百年の歩み」P57ほか ※「昭和43年版犯罪白書」[3]に刑務所の歴史がある。
- 明治維新後、石川島囚獄と小伝馬町囚獄は東京府に引き継がれた。(所管替え・名称変更など詳細は略)
- 明治3年12月 鍛冶橋門に未決囚を収容する「監倉事務取扱所」を設置。 (←東京拘置所のルーツか?)
- 明治8年12月 (5月?)小伝馬町囚獄は市ヶ谷に移転(市ヶ谷谷町囚獄)。石川島(懲役署)と市ヶ谷は東京府から警視庁に移管された。
- 明治9年2月 監倉事務取扱所を警視庁に移管。まもなく、鍛冶橋監獄署と改称。
- 明治36年3月 鍛冶橋、巣鴨、市ヶ谷(の警視庁監獄)が司法省に移管される。(行刑施設を警察組織と分離するため)(職員はそのままだった模様)
- 鍛冶橋監獄は東京監獄と改称。東京集治監も司法省に移管され、小菅監獄と改称。
- 明治36年6月 鍛冶橋の東京監獄が市ヶ谷に移転。(鍛冶橋に東京駅が造られることになったため)
--2013年10月24日 (木) 14:32 (UTC) --忠太(会話) 2013年10月24日 (木) 16:37 (UTC)
- 一部は本文に入れました。 --忠太(会話) 2013年11月15日 (金) 15:48 (UTC)
明治地図
[編集]goo地図の明治地図。[4]
- 市谷谷町のところに「監獄署」とあるが、正式名称は「市谷監獄」のはず。左の市谷富久町の方(東京監獄)に「警視庁用地」とあるのは、警視庁監獄の移転先として用地買収したためか(goo地図は明治40年地図が元のようですが、当時は既に司法省所管では…?) --忠太(会話) 2013年11月12日 (火) 12:55 (UTC)
大杉栄の入獄歴
[編集]大杉栄「自叙伝・日本脱出記」(岩波文庫)の年譜をもとに作成。(獄中記もその一部)
- 1906年(22歳) 電車賃値上げ反対運動で検挙(電車事件、兇徒聚集罪)、(東京監獄(未決監)へ)、保釈(文庫P183)、11月新聞紙条例違反で起訴
- 1907年(23歳) 3月新聞紙条例違反で追加起訴、5月~11月新聞紙条例違反で巣鴨監獄へ(既決監)(文庫P199)
- 1908年(24歳) 1月金曜会屋上演説事件(治安警察法違反)で検挙、(巣鴨監獄へ1ヶ月半、文庫P183、199)、3月出獄、6月赤旗事件(官吏抗拒罪及び治安警察法違反)で検挙、(東京監獄(未決監)へ、文庫P215)、9月懲役刑で千葉監獄へ(文庫P216、218)
- 1909年 服役中
- 1910年 服役中に大逆事件、11月出獄
- 1919年 5月警官を殴る(東京監獄へ5日、文庫P186-187)、「獄中記」[5]を発表、11月豊多摩監獄へ
- 1920年 3月出獄
- 1923年 フランスで検挙、帰国後拘引され虐殺される
- 電車事件で2年の刑期のはずだったが、赤旗事件に併合され、免れた。(文庫P184)
- 東京監獄の未決監で、野口男三郎や出歯亀に会った。(文庫P193-195)
- 「一犯一語」…はじめの未決監ではエスペラント、巣鴨ではイタリア語、2度目の巣鴨でドイツ語、赤旗事件後の未決監でドイツ語の続き、千葉ではロシア語、スペイン語…(文庫P223)
-- 2013年11月15日 (金) 15:33 (UTC)--忠太(会話) 2013年11月16日 (土) 00:59 (UTC)