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ノート:平将門

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将門公の呪いについて書くのはどうですかね?うかつに書くと呪われるかもしれませんが。らりた 05:49 2004年5月30日 (UTC) 同感です。恐ろしいことです。--MASAKADO 2008年4月14日 (月) 08:07 (UTC)[返信]

承平7年11月の官符の件

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承平7年11月に出された太政官符については、一般的には良兼・貞盛に対して将門追討を命じたものとされていますが、福田豊彦氏の『中世成立期の軍制と内乱』(吉川弘文館、1995)はこれは将門が管理していた常羽御厩を焼いた事によって、逆に将門に対して良兼・貞盛追討が命じられたという見解が取られています。確かに、この時期に追討令が出されてしまうと、2年後に武蔵国府の内紛に将門が関与して、これを不服として国司の源経基がこれを訴えたという事実の説明が付かなくなってしまう(討伐令が出ているのであれば、国司として介入を許す前に討伐軍派遣を要請するなり、自分で討伐に乗り出すなり何らかの対応が先に来ると思われる)のではという気もするのですが……。--水野白楓 2007年5月27日 (日) 13:40 (UTC)[返信]

『将門記』というのは「読み物」ですから、面白いということが大切で、『今昔物語集』も『将門記』を種本としているらしく、そして大体がこの二つを元にしていますので、史実がどうであったかということは「推測」の域を出ないのではないでしょうか?
承平7年11月の官符について、大岡昇平も、昭和41年7月11日発行の「将門記」の中で、良兼追捕とした方が話しの条が通る、としています。ただ諸国府がなかなか従わなかった、のではないかと書いています。また別のところ、包囲は解いて良兼を逃亡させた、というところの「常夜の敵」の解説では、取り方のよって反対の意味に取れ、そこが『将門記』の特徴で、その文体は少なくとも私には魅力的である、とも書いています。--58.91.28.80 2007年6月6日 (水) 05:36 (UTC)[返信]
(追記)いろいろ調べてみたのですが、事典類の場合福田氏が将門関係の専門家と言うことで執筆を担当されるケースが多く、不適当であると考えました。ただし、(大岡昇平の著よりも20年近く経た)1984年に出された山川出版社『日本歴史大系 1巻』(井上光貞・編集責任 ISBN 4634200104)は福田氏は執筆者に入っていないものの、承平6年11月5日(日付・前後関係から見て7年の誤植か)は貞盛への追捕の発給が行われて貞盛が上洛して陳弁していることが記され、「おのおの(太政)官符をえて紛争の解決を有利に導こうとする動きさえ生ずるようになっていた」と続けられている(775-776ページ)ことから、少なくても従来のような将門が一方的に追捕の対象とされてきたとするような見解は少なくても今日の歴史学会では取られていないように見られます。--水野白楓 2007年7月8日 (日) 00:40 (UTC)[返信]

桓武五世と蝦夷

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将門とアテルイでは民族も血統もまったく違う。民族間の争いと、国内の紛争と同列に扱う理由はなにか?反対なければアテルイは削除したい。--MASAKADO 2008年4月14日 (月) 08:07 (UTC)[返信]

外部リンク修正

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