ノート:引き寄せの法則
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この記事は2022年3月12日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。 |
「創造的視覚化は宗教的実践の一部」という記載について
[編集]「創造的視覚化は、東洋と西洋の両方の宗教で瞑想の技法として長く実践されてきたもので、元々は宗教的実践の一部[要出典]であり、それを流用している。」…末尾に出典が貼られていたので消しませんでしたが、コメントアウトにも書きましたが、ヴィパッサナー瞑想でも禅でもそのようなやり方はないです。宗教的実践をしているならばどこの宗教か具体的に書かれるべきで、それが内容でしたら、削除したいと思いますが、どうでしょうか?--中川桃子(会話) 2023年8月23日 (水) 06:14 (UTC)
- なぜ、ヴィパッサナー瞑想、禅にそのようなやり方がないことが、除去の理由になるのでしょうか。宗教はヴィパッサナー瞑想、禅以外にもあります。また「いつも明るく幸せそうな笑顔の人は、幸せそうだから笑っているのではなく、沢山笑うから幸せな出来事を引き寄せられるのだ」というのは認知リフレーミングのテクニックではなく、「恋人と一緒に行きたい場所や食べたいものの具体的な画像を集めたり、ノートに筆記すること」は、創造的視覚化ではありませんので、リバートしています。ご了承ください。--呉野(会話) 2023年8月23日 (水) 06:24 (UTC)
- @呉野 >なぜ、ヴィパッサナー瞑想、禅にそのようなやり方がないことが、除去の理由になるのでしょうか。
- 瞑想でそのような方便を用いた宗教があるならば、具体的な宗教名とその出典がなければ、検証ができません。--中川桃子(会話) 2023年8月23日 (水) 06:46 (UTC)
- 中山桃子さん自身が検証したことを書くのは、独自研究になりませんか?まずは出典の内容を確認してください。中山桃子さんの加筆で復帰できるところは出典を確認し、手を入れて戻しました。ただ、ゼクシィのエッセイは、出典としては不適当だと思いますので、そちらは戻していません。ご了承ください。--呉野(会話) 2023年8月23日 (水) 06:50 (UTC)
- @呉野 創造的視覚化の意味合いについてほかの複数のソース含め検証上投稿したつもりでしたが、私の解釈および投稿に誤解があるのであれば、それは呉野様含め他のユーザ様に忌憚なく削除、書き直しいただければと存じます。
- 瞑想をする人の割合について瞑想そのものは私が調べたところ見つかりませんでしたが、マインドフルネスに関しては日本で193万人なのだそうです。https://russellme.com/columns/mindfulness-meditation/955/
- 日本国民の割合で計算しましたところ、およそ1.6%であり、ほとんどの人が瞑想とは何たるか分からないところで、「創造的視覚化は東洋と西洋の両方の宗教で瞑想の技法として長く実践されてきたもの」となりますと、それを仏教やヒンズー教含め、鵜呑みにする人も出てくると考えられます。(西洋の瞑想する宗教に関しては私には無知ですのでわかりませんが。。)
- そもそもが瞑想が習俗的なヒンズー教であっても、仏教であってもも瞑想の際は呼吸に集中するとか無になるとかが指導されていることであって、少なくとも創造的視覚化を啓発してる例は見つかりませんし、(もしあったら出典にお願いします)引き寄せの法則のように、富を得たいとか、人間関係を良くしたいという利己的な欲求は、執着や煩悩にあてはまってしまい、それらの宗教の教義とは矛盾があり、読み手に誤解が生じます。
- 大谷大学
- https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000lbj.html
- 天祥寺常高寺
- https://jokoji.info/topics/buddhism/buddhism3/
- なので、具体的な宗教を掲載していただきたいと思いました。
- 私が書くと消されてしまうようですのであとは呉野様やほかの編集者様に委ねたいと思います。よろしくお願いします。(署名がなく、大変失礼いたしました。)中川桃子(会話) 2023年8月23日 (水) 07:50 (UTC)
- 中川桃子さんが書いたから消している、ということではないので、現在ついている出典を確認し、適切な出典で補足説明などをしていただけるとよいのではないかと思います。眼前にまざまざと(神等が)あるようにイメージする瞑想は、キリスト教にも、ヒンズー教にもあったはずです。その技法を流用して、富を得ている自分、人間関係が良い自分をイメージするという使い方をしているというわけで、技法と目的は別ですので、特に誤解を招く状態ではないように思います。--呉野(会話) 2023年8月23日 (水) 07:59 (UTC)
- @呉野 >眼前にまざまざと(神等が)あるようにイメージする瞑想は、キリスト教にも、ヒンズー教にもあったはずです。
- あいにく個人的にはそのような瞑想は存じ上げておりません。。キリスト教の祈りであれば、平和への願いだったり神に感謝や賛美を捧げることで、ヒンズー教は先程のリンクに載せました通りです。なにかしらの新興宗教などにあるのかもしれませんが…
- カトリック坂ノ市幼稚園
- https://c-sakanoichi.jp/pages/33/#:~:text=%E3%81%8A%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 創造的視覚化についても今の私では概念をきちんと把握出来ておらず、我欲を脱落させる行為がなぜ富や幸福をゲットするためのツールとして利用されているのかというのも論理が飛躍しており、何をどう書いたらいいのか、ちょっと分からないので、これ以上の干渉は遠慮させていただきます。
- いちおう、こういう意見もありますということを知ってくだされば幸いでございます。長々と失礼いたしました。中川桃子(会話) 2023年8月23日 (水) 08:38 (UTC)
- ヒンドゥー教もキリスト教も多様ですので、「これ」と言い切るのは難しいところがあります。リンク先のものは、カトリックの一般信徒向けですね。例えば、一般の信徒と厳しい修道者が行っているものも違いますし、宗派によっても時代によっても、かなり異なると思います。ヒンドゥー教でも、静かに無になることを目指すようなものや、テンションを上げて神と一体化しようというようなものもあります。何か良い出典がありましたら、加筆いただければと思います。宗教の技法が世俗でお金のためにで行われている経緯は、おそらくニューソートやニューエイジ、エサレン協会などが参考になるかと思います。--呉野(会話) 2023年8月23日 (水) 09:03 (UTC)
- 中川桃子さんが書いたから消している、ということではないので、現在ついている出典を確認し、適切な出典で補足説明などをしていただけるとよいのではないかと思います。眼前にまざまざと(神等が)あるようにイメージする瞑想は、キリスト教にも、ヒンズー教にもあったはずです。その技法を流用して、富を得ている自分、人間関係が良い自分をイメージするという使い方をしているというわけで、技法と目的は別ですので、特に誤解を招く状態ではないように思います。--呉野(会話) 2023年8月23日 (水) 07:59 (UTC)
- 中山桃子さん自身が検証したことを書くのは、独自研究になりませんか?まずは出典の内容を確認してください。中山桃子さんの加筆で復帰できるところは出典を確認し、手を入れて戻しました。ただ、ゼクシィのエッセイは、出典としては不適当だと思いますので、そちらは戻していません。ご了承ください。--呉野(会話) 2023年8月23日 (水) 06:50 (UTC)