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ノート:循環論法

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vicious circle を「循環論法」とするのは間違いではないでしょうか? やはり素直に「悪循環」とすべきではないでしょうか。つまり、この項目とen:Virtuous circle and vicious circleリンクしたのは間違いで、正しくはen:Begging the questionにリンクすべきでした。「論点先取」と「循環論法; circular reasoning」が同義というのは理解可能です。--Melan 2007年5月5日 (土) 05:47 (UTC)[返信]

中立的な観点テンプレートについて

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マルクス主義に関する記述が中立的でないと思われるので中立的観点テンプレートを付加しました。 現在すでに書かれている批判に対してマルクス主義を擁護する側の意見も併記すべきですし、結論を断定している部分やマルクス主義擁護派の立場に対する非難を削除するべきであると思います。 --H-shige 2011年7月16日 (土) 08:33 (UTC)[返信]


「循環論法」という用語自体がほとんどの場合非難用語として用いられているものなので、この記事で非難に関する記述ばかりになることはいたしかたありません。逆に、ここで擁護派の意見を書くと、独自研究になってしまう可能性が大です。マルクス主義に対する非難と擁護(と非難… の繰り返し)の歴史を総合的に書くならば、むしろ【マルクス主義】の記事に書くべきでしょう。この記事ではありません。

H-shigeさんの履歴を確認したところ、共産主義に入れ込んでおられる方か、共産主義に興味をお持ちの方のようですが、ウィキペディアでは、自分の主義・信仰に反する記述であろうが、出典が明示されていると、それの記述を拒絶することはできません。また、「気に入らないから」といって{{観点}}テンプレートを貼るのもルール違反です。{{観点}}テンプレートはウィキペディアン個人が気に入る/気に入らない で貼ったりするものではないからです。

循環論法の記事に、その言葉で非難された様々な説に関するがあるからと言って中立性が無い、とはいえません。 「循環論法」という表現自体が、非難するために用いられているような用語なので、「循環論法」とレッテルを貼られた人々は、誰だって不満でしょう。

(まず分かりやすい例から説明しましょう) 例えば、イスラーム教徒だって、「循環論法」とレッテルを貼られているのを知れば憤慨し、納得がゆかないでしょう。ですが、だからといって、イスラーム教徒がこの記事を読んだ時に、{{観点}}テンプレートを貼っていいのか?? と言えば、貼るのは適切ではない、としか言いようがありません。(このように他人の信仰とウィキペディアの記事との関係ならば)理解できますね?

同様に、べーム=バヴェルクという人が共産主義は循環論法だ、と言いつつ非難したという事実はあり、かつこれは学会では有名な論争とされているので、ウィキペディアでは出典に基づいて記述されていればOKなのです。ただし、Wikipedia:中立性というルールを遵守するならば、文章の言い回しを改良したほうがよい点はあるでしょう。たとえば、「…とべーム=バヴェルクは述べた」と中立的に。だが、この論争は数十年行われて、結局、共産主義者の主張は全然、学会の主流ではないようですよ。

そもそも残念ながら、ウィキペディアというのは特定の主義・信仰の信者のためだけの事典ではないので、どんな主義・信仰体系であれ、それの信者にとってはある程度、辛い記事になるのはいたしかたありません。この記事を読めば辛いのは、イスラーム教徒にとっても、聖書根本主義者にとっても、共産主義者にとっても、同じです。誰でも、自分の主義や信仰体系が非難された事実がある、ということを知りたくない、という気持ちはある。だが、非難された、ということは事実なのでウィキペディアで出典を提示されつつ記述されることはしかたありません。自分が辛いからと言って{{観点}}テンプレートを貼るのは、ルール違反です。ウィキペディアではそれが中立的に記述されていればOKなのです。--61.112.72.190 2011年9月17日 (土) 07:06 (UTC)[返信]

因みに、記事の下のほうに、ケインズの説も循環論法に陥っている部分がある、といったことが書かれているように、経済関連の説に関して、マルクスの説だけが非難されている、というわけではないので、なおさらしかたないでしょう。

もう一度書きますが、「非難だけされているのは変なので、擁護も書かねば」というのは、非難用語の記事でそれをやってしまうと独自研究に陥ります。そもそも無理があります。(共産主義者さんが嫌いのはずの)ケインズの例も考えればわかるでしょう? もしも循環論法の記事でケインズの説の良いところの宣伝文など書いたらテーマ違いで独自研究です)。それと、共産主義の擁護文だけを掲載するというのも変です。もしそんなことを許したら、「他の特定の主義に関して恣意的に擁護文を載せる?ルール違反だろう? それを認めるなら、なぜ(オレの信仰する)イスラームの擁護文・宣伝文を掲載させない? 数十行でも数百行でも書くぜ。」ということになってしまいます。ウィキペディアでは非難用語の記事では、「(オレの主義について)非難された歴史が載せてある→擁護文・反論も載せたい」という論理はやはりダメです。認められません。そうではなくて、非難と反論の入り組んだ歴史は【イスラーム】なり【共産主義】なりにバランス良く書くよりしかたありません。--61.112.72.190 2011年9月17日 (土) 07:38 (UTC)[返信]

要出典テンプの使い方が恣意的

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出典があるところまで{{要出典}}が張り付けられている。Was a beeという者が、自分の好き嫌いで貼りつけたようだ。自分が知りたくない情報や、嫌悪する情報に対して要出典をつけたようだ。出典が明示されている箇所にわざと{{要出典範囲}}テンプレートをはりつけたり、反対に(Was a bee個人の信仰に合致している箇所だと)出典が十分に無い箇所でも{{要出典}}を貼りもしていない。出典にどういうことが書かれているかも調べもせず、まったく自分の好き嫌いだけで、要出典を貼りつけて自分の信仰・思いこみに反する文章だけ恣意的にピックアップし読めなくしようとしている。そういう行為こそがWikipedia:中立性を欠いている。重大なルール違反。--61.112.72.190 2011年9月17日 (土) 06:20 (UTC)[返信]

過去の版を調べてみると、そもそも、2011年6月11日までの版のほうが、[1] 出典ゼロで独自研究だった。出典が増え良くなったのに、好き嫌いで独自研究テンプレート貼っているところが、ルール違反。--61.112.72.190 2011年9月17日 (土) 06:43 (UTC)[返信]

恣意的だと仰るのですが、疑問な記事がいっぱいありました。消された部分は横に置いて、7個所の出典ですが、辞書類からのコピーは目をつむるとして、残る5件の内2件は引用先不明です。「中央公論, 第 121 巻、第 7 - 9 号、反省社」は一体どの論文から引いたというのか。宗教に関するそのような「批判」はよく言われることで、雑誌3巻から引く様なことなのかがまず疑問ですが、目次を見た限り「反省社」の意味が不明でどの論文かも分からない。『法学論叢 第128巻』1991はそれに該当するのは、京都法学会のものしか見つからないが、そのp.107 - 109にあるのは官僚論で、憲法とか権利とかはない。『現代資本主義入門』は大学図書館で所蔵されているのはCiNiiでは2件となっています。著者は白春騮という方です。その引用が正しいかどうか確認できませんでしたが、ドルが基軸云々は「鶏と卵の話」であって、循環論法とはいわない。『ケインズとシュンペーター: 現代経済学への遺産』など「循環論法に陥っている可能性」にすぎない話です。そんなものまで取り上げるなら、大量の例があるはずで、引用先があればよいとしたら、収拾がつかないことになる。--石井彰文会話2015年9月9日 (水) 02:55 (UTC)[返信]

 長い 

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循環論法は論理学の分野です。経済学のことについて深く入り込みすぎのように感じます。循環論法について調べてみようとした人が読みたい文章ではないでしょう。圧縮して一つの話題につき2~3行にするといいと思います。

あと文章内の多くの「断定」についてですが、僕の記憶が間違っていなければ断定していいのは一つの論が他を圧倒している場合のみに限ります。この書き方だとどうにも参考文献というより執筆者が自ら断定しているようにとられがちなようです(このノートページをみる限り)。「~という説もある」 「~と主張する学者もいる」などの書き方をしてみてはいかがでしょう。

ご検討の程よろしくお願いします。--置き傘 2011年10月7日 (金) 07:55 (UTC)[返信]

循環定義とのダブり

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現行の記述は2011.6.13(220.104.147.193)から平凡社の百科事典にならったものになっています。その記事では中村秀吉は「悪循環とも言う」としています。その場合は論証に於けるものと定義に於けるものとの両方を記述するは良いでしょう。しかし、ここウィキでは別途「循環定義」が記事としてあげられているのですから、両方を取り上げることは記事がダブることになります。単に「循環定義を参照」とするのではなく、定義に於けるものは「循環定義と言う」としてそっちに振るという構成にするべきでしょう。定義に関する部分を切り分け、本文を整理する必要があるでしょう。--石井彰文会話2015年9月4日 (金) 23:18 (UTC)[返信]

循環論法の例に対する疑問

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220.104.147.193(2011.6.12記入)から登場している例ですが、例に名を借りた個人的意見としていくつか消されています。現在も残っている分(2015.9.9)についてもいくつか疑問があります。

  1. 「すばらしい作品だから名作だ」と言うのは、循環論法ですか。これは、単に近接概念で説明するという、子供っぽい表現というにすぎない。引用元に於いて「循環論法」の標題で例としてあげているが、そこでも、見方によっては循環論法と見られる、と言っているに過ぎない。
  2. コーランが云々は、引用元が不明。こういった宗教の例は、現に信者がいる宗教名を挙げるのではなく、一般的な表現で書けばそれで良いのではないか。
  3. べーム=バヴェルクによるマルクス批判を挙げているが、その内容は個人の意見ではないか。『資本論』第1巻に「商品の価格は投下労働量で定まる」などとは書かれていない。「価値」と「生産価格」の区別がつかないのは、べーム=バヴェルクの批判さえ理解していない、と言うべきだろう。
  4. ケインズの利子論についてなどは、経済学の専門で議論するならいざ知らず、「可能性がある」程度のことをここで例としてあげる必要などないのではないか。
  5. 基軸通貨の件は別に書いた様に、循環論法というのはおかしい。

批判的な意味合いで使われる言葉であるとしても、例としては過去の他者に対する批判としてではなく、誰もが教訓に出来る例をあげるべきでしょう。適当な例の持ち合わせのある方に登場願いたい。--石井彰文会話2015年9月9日 (水) 05:49 (UTC)[返信]

「概説」及び「素朴な批判への疑念」への疑問

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220.104.147.193(2011.6.12記入)によって全面的書き換えられた現行版(2015.9.21)ですが、 「概説」では、平凡社の百科事典のコピーの説明「命題をPと表すとして、P1, P2… Pn」と、以前からあった図での説明「Aの根拠としてBを用い、...」が解説としてダブっている。また、「循環論法では命題自体の絶対的な説明が一切行われないため、」などと書かれているが、一体何を以て「絶対的な説明が一切行われない」というのか。循環していても循環の中にそれなりの説明を見ることは可能である。だからこそ「素朴な批判への疑念」云々の話が出てくるはずではないのか。解説としての整合性がとれていない。「従って、説明からは何の結論も得ることが出来ない。」という解説そのものが循環している悪例ではないか。「素朴な批判への疑念」の節に於ける「素朴な態度」はこの筆者の態度に近いと見える。「言われることがある」としてその続きに書かれている憲法と権利の件は、定義であるのでカットするべきと考えますが、その前に、その引用先が存在しないのはどういう訳か。京都法学会の『法学論叢 第128巻』1991ではないなら、どこの『法学論叢 第128巻』なのか。総じて記事の全面的な書き換えが必要と見ます。--石井彰文会話2015年9月21日 (月) 03:07 (UTC)[返信]