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ノート:徳川二十八神将

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雲台二十八将と徳川二十八将との関連について[編集]

「雲台二十八将が徳川二十八神将のモデルとなった」との言説は巷間に流布しているようですが、その根拠を寡聞にして存じません。

田中芳樹氏は『中国武将列伝』において「雲台二十八将は徳川二十八将のもとネタである」旨指摘されています。しかし、これは上の言説の直接の根拠たり得ず、二十八人が日光東照宮に合祀された由来について記した史料が典拠として必要であると考えられます。

なお、はなはだ粗雑な方法ではありますが上の問題について調べたところ、『大漢和辞典』、『広辞苑』など辞典類の「二十八将」の項目は徳川二十八将の名を列挙するのみであって雲台二十八将との関連には触れていなかった旨、また中村孝也氏の『家康の臣僚 武将篇』は、家康の部将たちをまとめた呼称として徳川三傑・徳川四天王・神君幕下十六将を紹介している一方、二十八将には一切言及していなかった旨申し添えます。--219.126.202.213 2007年10月15日 (月) 08:16 (UTC)[返信]

『徳川礼典録』のうち日光東照宮に関連する箇所をみたところ、雲台二十八将と徳川二十八将との関連を示唆する記述は確認できませんでした。--219.126.201.1 2007年11月8日 (木) 01:37 (UTC)[返信]

武田二十四将との関連について[編集]

武田二十四将が徳川二十八将に先んじて成立した事をまず明らかにしなければ「徳川二十八将は武田二十四将に対抗して作られた」とは断定できないのではないでしょうか。Wikipedia自体をソースにはしたくないのですが、武田二十四将は信玄の時代に存在した呼称ではなく、「江戸時代中期から後期にかけて信玄の神格表現が完成される過程で広く普及した」との事であり、武田二十四将の成立以前に二十八人が日光東照宮に合祀された可能性も否定できません。

なお、本節と無関係の事項ではありますが、徳川二十八「神」将という呼称が信頼できる文献に基づくもので、かつ一般に通用するか否かも検討の余地があると考えています。--219.126.200.48 2007年10月17日 (水) 05:33 (UTC)[返信]