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ノート:徳川綱重

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徳島堰の開削ですけど、これって本当に綱重の治績として位置付けられているのでしょうか?綱重は1度も入甲しておりませんし、綱重期の支配は家老衆によるもので、徳島堰の発案も家老新見正信によるものであると記憶しております。徳島堰の開削を綱重の治績と表現した文献を見た覚えが無いのですが、そう位置付けている文献は存在するのでしょうか?--でここ 2008年1月6日 (日) 15:10 (UTC)[返信]

  • 発案ということならば、徳島堰・楯無堰はそれぞれ徳島兵左衛門俊正・野村宗貞となるかと存じます。さてご質問の徳島堰ですが、山梨県史によれば途中までは徳島が事業を推進しておりましたがその後甲府藩に事業そのものが引き渡されたとあります。また矢崎又右衛門に命じ開削は続けられ完成を見ることとなりますが、徳島が認可を江戸屋敷の綱重に得、幕府に許可を取り付けての事業でした。藩から人足を出したことも残っております。藩主が異なっていれば、許可が下りなかったかもしれませんね。治績と位置づけている書籍となりますと、県史通史編3かと存じます。--Faso 2008年1月7日 (月) 01:29 (UTC)[返信]

返答ありがとうございます。ただ、県史通史編3は現在参照できる状態なのですが、綱重の治績と位置づけている箇所が見られません。Fasoさまの指摘される藩主たる綱重が携わらなければ事業が許可されなかったとはその通りであるとは思うのですが、その事が県史で指摘されているわけではありません。県史のみを参考文献とするのであれば、あくまで「綱重期に行われた事業」程度に価値判断を含まない表現に留めるのが妥当であるように思うのですが、いかがでしょう?--でここ 2008年1月7日 (月) 06:35 (UTC)[返信]

  • なるほど、明示的に記述がなければ認めがたいということですね。治績というのは、藩主自ら声をあげ現地に赴かなければ認めがたいとするならば、その記述の方が適切かと存じます。明示ではございませんが「甲斐の成立と地方的展開」(角川書店)においても徳島堰・楯無堰の治水事業は言及なされております。--Faso 2008年1月11日 (金) 00:14 (UTC)[返信]

信玄堤であれば、明確に信玄の治績と位置づけている研究者(あるいは懐疑的な)がおられますから明確に指摘できるのですけど、本件の場合は微妙だなと感じたわけです。個人的に綱重の治績と認めないぞと主張しているわけではありませんので、いちおう断っておきます。--でここ 2008年1月11日 (金) 05:16 (UTC)[返信]

  • どちらにせよ治世時代ではあったが先頭に立って行ったわけではないので治績とまでは言いすぎかもしれませんね。でここさまのご提案の方がよさそうに思えます。話は変わりますがこのやり取り間に徳島堰自体の記事ができてよかったです。--Faso 2008年1月11日 (金) 06:17 (UTC)[返信]

質問です

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おたずね致したき儀がございます。綱重の正室「隆崇院」二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか。また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」となったのは、参議山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか。或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか。兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか。また、継室は寛文十三年に一子(午松?)を産んだとも聞きますが、その折りに産褥死を遂げたのでしょうか(先妻が一女を産んだものの、早世したという記憶もございます)。たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れませんが、何卒宜敷くお願い申し上げます。--124.255.14.180 2008年6月19日 (木) 20:09 履歴に従って署名追加。--124.108.241.99 2008年10月10日 (金) 13:00 (UTC)[返信]