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ノート:文智女王

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文智女王を鷹司信子の母であると記述されていますが、信子の生年は慶安4年(1651年)であり、1640年に出家したとされる文智女王が実母であるとは考えにくいと思うのですが。信子の没年に関しては諸説がありますが(「源流綜貫」では61歳、「御法号記」では57歳、「薨日記」では58歳、他52歳とする記録もあります)、いずれも生年は文智女王が出家した後となります。--Thomo 2008年11月2日 (日) 16:16 (UTC)[返信]

鷹司信子は「鷹司家譜」によれば母は兄房輔と同じ冷泉為満女とされています。大奥や徳川家を扱った一般書の中には、確かに信子母を文智女王と書いてあるものもありましたが、著者は歴史学者の方ではないようです。信子の生年から生母であるとは考えられません。末永雅雄、西堀一三共著『文智女王』にもそのような記述はありませんでした。信憑性の低い情報を掲載せたままなのは問題と思われ、削除とさせていただきました。--Thomo 2010年2月4日 (木) 06:53 (UTC)[返信]
Thomo様、調査のほう、ありがとうございます。ただ、信憑性は低いにしても、一般書の中で文智女王を鷹司信子母とする記述が一定数あるとしたら、そういう見解が生まれる何かしらの理由はありそうですね。--でここ 2010年2月5日 (金) 06:53(UTC)
でここ様、はじめまして。実は、調査といえるほどきちんと調べられたかどうかというと、非常に心苦しいものがあります。「鷹司家譜」も明治になって書かれた東大史料編纂所蔵のものを確認しただけですし。たまたま、あるHPにウィキペディアの文智女王の内容をそのまま掲載して紹介されていたのを見つけ、このままにしていては問題ではと思いましたので。1年以上「要出典」を貼り付けたままになってましたから。
文智女王を鷹司信子母と記述するなんらかの理由については、はっきりわかりませんが、もしかしたら、鷹司信子は綱吉を暗殺したのではないかという伝説をもつ女性ですから、徳川家との因縁を強調するためにというのも考えられます。あくまでも想像ですが。なんらかの人物辞典に文智女王が母と書かれているのかとも思いましたが、見つけることができませんでした。
鷹司信子に関しては、上の方にも書きましたが、生年がはっきりせず、兄房輔の娘としている書も結構あります。むしろそちらの方が気になりました。例えば『日本女性人物人名辞典』(日本図書センター、1993年)では明暦4年(1658)生まれとして、鷹司房輔の娘としていました。ただこの本は初版の誤りを正した改訂版が1998年に出てるそうです。こちらの方は確認しておりません。--Thomo 2010年2月7日 (日) 18:16 (UTC)[返信]