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ノート:文禄・慶長の役/削除

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日本の朝鮮出兵を正当化する者以外にも、年配者などは「朝鮮征伐」という言葉を使用しています。よって朝鮮征伐の表記を直ちに日本の出兵を正当化するとは言えず、削除・復元しました。 もう少し中立性をもって書いた方が良いのでは?

ノートに書き込んだ時には、ログイン名を記入しておくのがいいと思います。Yononaka 00:33 2004年2月21日 (UTC)


この編集の加筆部分ですが、多分ここ参考にされたのだと思いますが、よく似てしまっているように感じます。このくらいなら大丈夫なんでしょうか? Safkan 04:17 2004年2月25日 (UTC)

表現として、「陸上では破竹(略)海上では(略)の前に苦戦(略)」というのが、表現上の偶然の一致とはあまり思えませんね。事実の取捨選択、記述順という観点では、前のバージョンとの比較をみる限り偶然でも起こりうる範囲のように思えますが、表現の創作性という点からは、人によって十分に記述の変わりうるいくつかの表現において偶然とは思えない一致があるように思えます。法律的にどうかは私はわかりません。 Kozawa 04:39 2004年2月25日 (UTC)

えーと、本当に申し訳ありませんでした。確かに参考にしており、無意識のうちに同じ表現をしてしまったみたいです。ご指摘、そして改善ありがとうございました。 Sea_of_Japan 2004年2月25日 (UTC)


編修合戦は嫌なのでこれ以上しません。だけど

>>日本と中国で使われている役と言う文字は遠征・長征をさす言葉であり、軍事行動に対する中立的な葉である。一方、乱は、国内で起きた暴動や反乱などを差す言葉でありこの言葉から進出、征伐、侵略と言う意味はまるで導き出せない。侵略された場合、寇と言う字をあてるのが普通である。おまけに、はるか昔に正式な国名でなくなった「倭」をもって日本を表している。つまり「壬辰倭乱」は日本に対して失礼極まりない言葉である。にもかかわらず朝鮮・韓国は現在でも平気でこの用語を使いつづけている。

これじゃあ「だからどうした」っていうような内容じゃないですか。百科辞典に書くような内容ではないです。らりた 14:29 2004年4月21日 (UTC)

歴史用語には似たようなものは各国いろいろあるような気がします。(少なくとも日本語話者にとって)誰にとっても失礼であることが自明であるのでなければ、主観的な記述ですねぇ。日本の街頭アンケートで失礼という認識が大多数で、訂正運動が日本で起こるほどなら、記述に値する問題でしょうが「事実の記述」がいいところでしょう。いずれにしろ、「文禄・慶長の役」自体の問題ではなくて、「== 名称問題 ==」として別個に書くことでしょうが。 Kozawa 14:35 2004年4月21日 (UTC)

熱心にしょっちゅう書き込んでいた割に保護されるとノートに出てこないのはよくわかりませんが、とりあえず整理の試み。「倭」とか「乱」を失礼と思う人がいること自体は何ら不思議なことではないと思います。(当時の先方にとっての呼称である倭を歴史用語で使うこと自体を失礼と思う人がそんなに多いとはあまり思えませんが)「乱」については、先方の多くは単に歴史用語として深く考えないで使っているだけであると思われますが、例えば韓国から見て日本を属国的立場と見立てると「乱」という用語が違和感がなくなることから、日本を属国のようにイメージできるこの単語を好んでいる人がいる可能性は十分に考えられるでしょう(肯定する資料も全然持ってないので「推測」ですが)。で推測で文章を書いても仕方がないので、「(こう推察されるような用語を使っていることに対して)xxxは批判している」といった事実の文章を書けないなら削除が妥当でしょう。書けるのならば、「== 名称問題 ==」のようなタイトルで後ろに書いてもいいでしょう。 Kozawa 01:48 2004年4月23日 (UTC)

名称問題はおいといて、李氏朝鮮側が予期していなかったと言うより準備してなかったと言う方がニュアンス的には正しいです。日本が侵攻してくると言う報告が有ったにもかかわらずその報告を握りつぶして準備していなかった様です。

1591年3月に日本に通信使が送られ、翌1592年3月に戻ってきており、その際、正使の黄允吉(西人)が日本による侵略の可能性を報告しているが、副使の金誠一(東人)がこれを否定したとあります。このときは東人の勢力が強かったので政治的に副使の意見が採用された様です。(李氏朝鮮の派閥党争歴史も絡むので細かい部分は省略します。)その為戦争に対する備えを辞めさせたようです。その後、宣慰使・呉億齢も侵略の準備をしていると報告していますが、逆に罷免しています。このあたりの記述は、朝鮮王朝の「宣祖実録」に書かれている様です。(実録自体は量が膨大で入手もできないので要約したものを参考にしてますが)

逆に言うと解っていたにもかかわらず握りつぶしていたので慶長・文禄の役を過小評価して乱と書かなくては行けなくなったと言うのが個人的な推論です。科挙に合格した朝鮮王朝の官僚が漢字の字義を間違えるはずは無いと思うので、壬申倭乱とつけた理由は政治的意図が強いと思います。倭寇は倭寇と呼んでるのに、これだけ国土を荒らされておいて乱と呼ぶのがどうもしっくり来ないので。Nidarin 07:42 2004年5月10日 (UTC)

そこの部分(予期しておらず~)を書いた人です。なるほど的確な指摘だと思います。「朝鮮の政府は日本の侵攻の可能性を過小評価しており」とでも改めることを提案します。ついでに、ややこしいとはいえ、党争についても軽く触れたほうがわかりやすいかもしれません。こういう記事ではどうしても日本側からみた見方に(えてして日本側の立場にも)偏ってしまいがちですから。ただ、最後の推論の部分ですが、清の侵攻を受けて「再造の恩」ある明を捨て、胡と蔑んでいた女真に朝貢しなくてはならなくなった、政治的意義の上では倭乱と同じくらい重大な例の1636年の事件も「丙子胡乱」と言ってますよね。政治的意図という観点からですと、これはこれは朝貢使を燕行使と呼ぶようになったことと関係ありそうです。倭乱の名称の件も、やはり、単に、中華への夷狄の侵略は「乱」である、という意識があったのでは、ということになるかと思いました。いずれにせよ、失礼だとか書くべきだとかそういうことはともかく、戦争の名称のつけ方の背景の考察はあったほうがよさそうですね。Safkan 10:38 2004年5月10日 (UTC)
確かに乱としたのは、事大主義と中華主義によるものという説が一般的ですね。日本と朝鮮の間の外交には大体、対馬が仲介に入って双方の国書を改竄しているので朝鮮側に渡っている書面と日本側に渡っている書面に食い違いがあります。日本側に渡る書面では日本と中国は対等の関係であり、朝鮮王朝は日本が華夷秩序に入っていると考えていたとしてもおかしくは無いです。その辺の改竄が慶長の役の遠因とも言われています。
後金の「丁卯胡乱」(1927年)で兄弟関係を結んで、その後「丙子胡乱」が起きています。双方とも中華圏に属している事は認識していた様です。実際、女真族は明の間接支配を受けていたようです。この時代の王は仁祖で、大明事大主義の急先鋒ですし、元々朝鮮半島には高麗時代から女真族を蔑視する風潮が有りましたので。日本の場合とは少し違うかな?今の女真族は中国に飲み込まれてしまってますので表だって意見を言える勢力がありませんが、日本の場合、初めから相手との意識に食い違いがあるので呼称問題が起きるんですが。Nidarin 11:07 2004年5月10日 (UTC)

ページ保護

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ノートは可能な限りで好きに論争にお使いください。ただし項目で、とくに要約で論争を繰り広げるのは絶対におやめください。また、ウィキペディアを研究発表の場としたり、政治的発表の場とするのは絶対におやめください。Kzhr 14:30 2004年4月21日 (UTC)

そろそろ編集規制解除を検討してもらえませんか?こまごまと書き加えたい所とかあるのでKamakura 07:04 2004年5月10日 (UTC)
建設的に話が進んでいる様子なので、保護解除しました。執筆の方よろしくお願いします。>執筆者各位 --Suisui 11:34 2004年5月10日 (UTC)


朝鮮征伐?

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本文はかなり改善されたが、冒頭に「朝鮮征伐」の語を正当化するような部分が加筆され、この項目の中立性を損なっている。現在ほとんど使われない「朝鮮征伐」を今さら麗々しくまくし立てる必要はないように思われる。改訂の必要があると考えます。Trek011 2004年10月14日 (木) 04:21 (UTC)[返信]

現状の版をみたところ、さして中立性に問題があるような表現は見られないのですが、どのへんの事をさしていらっしゃるんでしょうか?
それはさておき、日本が宗主国なのか、朝鮮が宗主国なのか」という点における両国の見解の相違が文禄・慶長の役の原因の一端となっている事を考えると、「朝鮮征伐」(臣下たる朝鮮が非礼をはたらいたので討伐した)という別名は「壬辰倭乱」(臣下たる日本が反乱を企てた)という別名と共に重要な言葉ではないでしょうか?Kamakura 2005年5月8日 (日) 12:28 (UTC)[返信]

日本軍の編成って・・

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現在表記されているのは、陸上戦闘を行った者だけでしょうか?水軍の九鬼水軍、村上水軍など当時参加した水軍については触れられていないようですが・・・Miketsukunibito 2005年5月8日 (日) 09:36 (UTC)[返信]

現在の表にある来島通行や加藤嘉明あたりは水軍の大将だったはずです。あと村上氏は海賊停止令に違反して当時水軍は任せられていなかったような記憶があります。そのほかの脇坂水軍や九鬼水軍あたりについては別手扱いなのか、表の中に内包されていたのかよく覚えていません。家のどこかに当時の水軍の編成に関してまとめた論文があるはずなんで、暇なときに探して加筆してみます。Kamakura 2005年5月8日 (日) 12:01 (UTC)[返信]