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ノート:新田義興

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矢口渡について

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義興が死んだのは、ネットで調べる限り「矢口渡」(大田区)とするものと、「矢の口(矢野口)の渡」(府中市)とするものに説が別れているようです。

特に、義興の部下の一人の死体が流れ着いたという「兵庫島」(世田谷区二子玉川駅付近)に関しては後者であるとされており(そこより上流にあるのは後者だけなので当然ですが)、公園内に公に設置された看板にもそうあるようです。

そういうわけで、正確なところが解らないのですが、ご存知の方いらっしゃいますか?

諸条件を考えてみると矢口渡(大田区)説が有力です。詳しくは新田神社のHP附近縁故の古跡 その(3)附近縁故の古跡 その(2)内に
--Editor in cheap会話2015年6月4日 (木) 17:07 (UTC)[返信]
菊池山哉氏(『東国の歴史と史跡』)は反証5点をあげ矢口渡(大田区)説を支持しています。太平記に記された渡し場の様相が「面四町ニ餘リテ浪嶮ク底深シ」とあり、水面四町(約440m)とかなり川幅が広く水深が深いことを記していて、河口部でなければ理解できないと述べています。太平記の記述通りなら、義興一行が船に穴をあけられて進退きわまるというのも理解できますし、内3名が潜水して泳ぎ渡ったという伝承も筋が通ります。
矢口渡で義興公が自刃する6年前の人見ケ原合戦で、軍兵が谷口(矢野口)に集結した時、数万の兵が多摩川を渡った事実があり、矢野口あたりはこの時代も浅瀬であったとしています。--Editor in cheap会話2015年6月4日 (木) 17:29 (UTC)[返信]
一方、兵庫島の元となったとされる由良兵庫助が漂着したとされる件ですが、現在でも河口から田園調布(大田/世田谷境界)付近まで満潮で川水が押し上げられてくることを考えると(堰があるのでそれ以上は行きませんが)、上げ潮に乗って兵庫助の遺体が流され、次第に川底が浅くなって留まったという見方も可能です。逆に矢野口から流れてきた場合、新田神社付近の岸に兵庫助以外がすべて流れ着く(あるいは村人か漁師に発見される)というのも不思議なことのように思えます(川幅が広かったとすると、なおさら大方は東京湾へと流されてしまうと考えるほうが自然です)。--Editor in cheap会話2015年6月4日 (木) 17:35 (UTC)[返信]