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ノート:日本における自動車の年表

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1908年の遠乗り会の目的地について

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1908年(明治41年)8月1日の遠乗り会について、2022-07-07の編集で目的地が「谷保天満宮」に変更されていたのですが[1]、2022-08-14の編集で「立川」に戻しましたので、念のため理由を記載しておきます。

戻す前 - 「8月1日、有栖川宮威仁親王を先頭に、日比谷公園から国立谷保天満宮まで10台の自動車が参加する遠乗り会が催される」

戻した後 - 「8月1日、有栖川宮威仁親王を先頭に、日比谷公園から立川まで10台の自動車が参加する遠乗り会が催される」

2022-07-07の編集が行われる前の記述の出典は『トヨタ博物館紀要』No.16の西川稔氏(同館学芸員)の記事で、その中ではこの遠乗り会の目的地は「立川」となっており、記述はそれに基づいたものになっています。従って、この記述を変更する場合は出典も変更していただく必要があります。目的地を立川とする理由(記述を戻した理由)は下記の通りで、自動車の歴史についての古今の研究者の間で見解が一致しているためです。

  • 目的地を「立川」とする理由
この記事を最初に作成した2020年時点で並行してタクリー号についても一通り記事を作成していたので(公開はしませんでした)、この遠乗り会についても以下のことは調べた上での記載でした。
まず、この遠乗り会の目的地を「谷保天満宮」と主張しているのは、谷保天満宮とその関係者の方のみという認識です(そう主張することを批判する意図も意識もありません)。一例として、谷保天満宮の梅林に設置されている立て板(平成28年10月付)には「わが国初の「遠乗会」(ドライブツアー)の目的地は、谷保天満宮でした。」と記載されていますし、インターネット記事でも宮司の方がそう述べていることを容易に探すことができます。これが俗説を生んでいることは承知しています。
一方で、同宮のその立て板の下部でも丸々引用されていますが、この遠乗り会の行程については明治41年8月2日付けの『東京朝日新聞』に記述があります。目的地と同宮についての該当部分を抜き出すと下記の箇所です(旧字体は直しています)。
  • ▲沿道の光景 午前九時御乗用車に扈従こじゅうして続くものすべて十台、新宿を出づれば甲州街道は坦々として砥のごとく立川迄凡そ八里、流石は古い街道だけに(中略)
  • ▲森林中の立食場 立川へ着いたのが午前十一時、暫時此処で休んだ後、一里程引返して藪村やぶむらの天満宮迄来ると此処には既に立食場の設けが出来て居るので一同付近を流れて居る清水で出発以来の汗と塵を拭ひ俄作にわかづくりの食卓に就いた。
このように記事を引用することで、谷保天満宮の立て板でもよく読めば当時の目的地が立川であったことは読み取れるようになっています。
戦前の記述では、親王の伝記の『威仁親王行実』でも目的地は「立川」と記載されていますし(巻下のp.326とp.327の間の写真のキャプション)、自動車歴史家の尾崎正久氏の『日本自動車史』(p.61)、同じく柳田諒三氏の『自動車三十年史』(p.34)でも目的地は「多摩川」と記述されています。
戦後の『日本自動車工業史稿』でも、この遠乗り会は「多摩川日野の渡まで」を目的地としたものとして記述されています(第1巻p.119)。
近年では『トヨタ博物館紀要』No.16(2010年2月)の西川稔氏の記事で詳述されているので、上述したようにこの年表の記述の出典としています(この西川氏の記事でも上記の『東京朝日新聞』が引用されています)。その中で谷保天満宮についての記載がありますが、目的地は「立川」で、同宮は途中の立ち寄り先としての記載になっています。
このように、当事者や自動車の歴史の研究者の間では目的地はあくまで「立川」もしくは「多摩川」であって、「谷保天満宮」としている方は寡聞にして知りません。
なぜ立川、多摩川という記載になるかは、この遠乗り会の目的のひとつはタクリー号を含めたテストドライブで、当時の甲州街道には多摩川に架かった橋がなく、都心から西に走っていけば立川(日野の渡し)が陸路で行ける切りの良い果てになるからです。目的地が道の果てとなること(そこまで行って帰ってきたこと)にこの遠乗り会の意義のひとつがあるわけで、目的地をその手前の谷保村(現在の国立市)の谷保天満宮としてしまうと、なぜそこへ向かったのか、この遠乗り会の歴史的な意味が不明瞭になります(大して距離があるわけでもありませんが研究者の人たちはそう考えているということです)。
谷保天満宮の名誉のために付け加えれば、トヨタ博物館の記事は谷保天満宮で2008年8月1日に行われた西川氏による講演会(遠乗会100周年記念)の講演録に加筆されたものです。谷保天満宮はそうした歴史的な研究があることは踏まえた上で、上記の立て板で自らの交通安全祈願発祥の地としての主張と歴史的な事実の両方を来訪者に提示するという、来訪者に対して誠実で、トヨタ博物館に対して律儀な対応をしています。
谷保天満宮が「谷保天満宮が目的地だった」と主張されるのは当然の広報として理解されるべきことです(歴史的な事実と一致するかどうかを問題にするのは野暮です)。一方で、それは歴史の研究者による追認はない主張です。その主張が俗説となって流布しているとしても、ウィキペディアの記事としては、信頼の置ける資料や記述を出典にする必要があり、従って、識者による追認のある出典が揃っている「立川」を目的地として記載するのが妥当と考える次第です。これが記述を元に戻す理由です。

この例(遠乗り会の目的地)は当時から確定されている部類の事柄で、戦前の尾崎氏、柳田氏、戦後の『史稿』のいずれでも説が「立川(日野の渡し)」で一致している上に近年の研究者が異論を唱えた例もありません。一方、明治期、特に1900年代以前(1910年以前)の出来事については研究者によって「発掘」されたものも多く(谷保天満宮に「立ち寄った」という事実も比較的最近になって{再}発見されたことです)、ちょっとしたことでも文献や論文の記述の一言一句は結構な背景や資料研究があってそう書かれていることがほとんどです(自動車の歴史に限ったことでもないとは思いますが)。従って、それを拾ってきているこの記事でも、その時期の出来事については記述と出典との対応を厳密なものにしておく必要があると考える次第です。そのため、記述を変更する際は出典の変更を合わせてお願いしたいところです。

谷保天満宮をこの記事の年表に入れなくてよいのか、という点について疑問に思われるかもしれませんので触れておくと、その理由は下記の通りです。

  • 谷保天満宮を年表に加えるかどうかの検討
遠乗り会に際して谷保天満宮で昼食会が行われたこと(1)、そこで日本自動車倶楽部の設立の端緒が作られたこと(2)、同宮が交通安全祈願発祥の地を称していること(3)、これらを記載すべきかはそれぞれ検討の余地がありますし、この記事を作成する時にも検討を行っています。
(1)については、ここで昼食会が行われたということは自動車の歴史を扱った書籍の中では(上記したような研究者の著作でも)触れられること自体が少なく、上記の『東京朝日新聞』記事がよく引用されるのは(今のところは)それくらいしか裏付けとなる資料がないからです。このことが「発掘」されたのは2000年代になってからで、それ以降は親王一行が谷保天満宮に立ち寄ったことの記述を出版物で見る機会が多少増えてはいますが、遠乗り会の1シーン以上のものとしての扱いではなく、それを踏まえて、この年表からも割愛しています。
(2)については、日本自動車倶楽部の記事であれば「設立の経緯」として記載があっても良いと思いますが、自動車の歴史の年表としては不要と判断しました。注釈にして触れてもよかったかもしれませんが、個人的には、日本自動車倶楽部にも歴史的な意義はそれほど認められていないと感じている(会誌発行のような活動内容は特筆されて良さそうなものですが、設立年と創設メンバー、道路標識設置以外についての第三者言及が少ない)ので、年表としては同会について設立年(と道路標識設置)を記載しておけば充分と考えます。
(3)については、「交通安全祈願を始めた最初の神社」ということであれば、この遠乗り会とは別に記載していたかもしれません。その場合、年表としては下記の点を吟味する必要があります。
  • 具体的にいつ頃から交通安全祈願を始めるようになったのか
これを特定できないことが最大の難点となります。私が確認した範囲では、第三者による言及は発見できず、当事者である同宮のパンフレット、掲出物やウェブサイトでは、そのいずれにおいてもぼかした表現となっているように見受けられました。
  • 同宮が言うように本当に同宮が発祥の地なのか
これはウィキペディア記事に記載するだけの特筆性があるかどうかにかかわる点です。仮に1908年8月の直後から同宮が交通安全祈願を始めていたとした場合でも、それ以前に交通安全を祈願していた神社は他に存在しなかったのかという点が問題となります。この辺りは研究されている方もいそうですが、同宮が最初ということを裏付ける適当な第三者出典を見つけることができませんでした。
  • いつ頃から「発祥の地」を名乗るようになったのか(いつ頃からそう呼ばれるようになったのか)
戦前の名所案内を確認したところ、谷保天満宮は数多くの書籍で紹介されていましたが、その中で交通安全祈願について触れたものは見つけられませんでした。同宮の梅林にある有栖川宮威仁親王台臨記念の石碑も、由来が伝わっておらず、遠乗り会の昼食会が催されたことに由来するものだと判明したのは2000年代になってからだとも聞きます。1990年代以前から「発祥の地」と呼ばれていたのかもしれませんが、この辺りも出典を見つけることができませんでした。
上記3点のいずれでも年表に記載する理由(根拠となる第三者出典)がなかったことから、この記事には同宮を記載しませんでした。日本自動車倶楽部や遠乗り会の単独記事があれば、そちらには記載があって然るべきかと思います。

以上、ご理解いただければ幸いです。--Morio会話2022年8月14日 (日) 14:13 (UTC)[返信]