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ノート:日本航空123便墜落事故/コックビットの様子に関する節統合案

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ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。はじめに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取り(シートベルト着用サイン点灯中に、乗客の一人がトイレに行きたいと申し出た為)だった。本来当時のコックピット・ボイスレコーダーは30 分の 1/4 インチ・エンドレステープレコーダー(始点と終点のない輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、30分を超える録音が残っているのは、たまたまテープに余分があったためである[2]。

コックピットボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は佐々木副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは高濱機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は福田航空機関士がしていたと推測されている。異常発生直後から油圧操作の効果がほとんどないにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最後まで把握できていなかったもようである。尾翼部分はコックピットからは目視できないため、油圧系統全滅を認識しながらもパイロットは油圧での操縦を試みている。

ボイスレコーダーに残されていた最初の異変は、18時24分35秒頃の衝撃音[※ 9]である。直後にオートパイロットが解除された。18時24分47秒に高濱機長はスコーク77を発信し東京航空交通管制部に羽田へ引き返したいと告げた。管制部はそれを了承した。JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。

その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。この事は「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。

無線交信の後、機長が佐々木副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」とどなる声が記録されている。しかし、佐々木副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。27分、異常発生からわずか3分足らずで全ての油圧の喪失を示したとみられる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている。事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている。

27分 東京航空交通管制部が123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。管制部はJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。

28分 東京航空交通管制部は123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。管制部はこの時初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。

同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」という言葉が記録されている。

31分 東京航空交通管制部は羽田より近い名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田行きを希望する。通常は航空機と地上との無線の交信は英語で行われているが、管制部は123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後の交信では123便は一部日本語が用いられている。

同じごろ、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案した。

35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。

123便はその時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求め、日航は了承した。

37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。これを回避するために、 38分ごろランディング・ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。

45分 無線のやり取りを傍受していた在日米軍の横田基地 (RAPCON) が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「操縦不能」との声が返ってきた。管制部が「東京アプローチ(羽田空港の入域管制無線)と交信するか」と123便に提案するが、123便は拒んだ。

46分、高濱機長の「これはだめかもわからんね」との発言が記録されている。47分ごろから彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。このころから山岳地帯上空へと迷走していった。右、左との方向転換が繰り返し指示されている。その会話の中、機長が、操縦している佐々木副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6000ft(1800m)前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。このころからエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行いはじめたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。

49分ごろ、機首が39度に上がり、速度は108kt (200km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ何度も機首の上げ下げを繰り返し、そのたびにパワーを操作するよう指示する声が残っている。50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長が「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。このころ速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分ごろから機体が安定しだした。

54分、クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt(330km/h)まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ-10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。

55分(この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして)東京アプローチから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最後の交信となった。その直後に東京アプローチが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も56分前まで東京アプローチと横田のRAPCONが123便に対して呼び出しを行ったが応答はないままだった。

55分12秒、フラップを下げたとたん、機体は右にそれながら急降下を始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との言葉に混じって副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。このころ高度は10000ft(3000m)を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「あげてます」と返答する。07秒ごろには機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫んだ。

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