ノート:明善寺合戦
備中兵乱について
[編集]2006-08-27T15:11:00に220.56.164.51さんから「備中兵乱は1774~1775に三村家対毛利家で行われた備中一円の争乱を指します。」 という差分が届いて表記の項目が完全に削除されていました。私の調査不足もありましたが、当の備中三村氏は1575年に毛利氏により滅ぼされています。また、1774年~1775年では江戸期に入っているのでおかしいと思うのですが?--Maechan 2006年8月30日 (水) 15:56 (UTC)
- なお、同項目はサブ題名変更して再度、記載しました。また、備中兵乱から明善寺合戦へのリダイレクトについては即時削除依頼をしています。--Maechan 2006年8月30日 (水) 15:56 (UTC)
お恥ずかしい。ご指摘通り。
1574~1575の間違いです。
ありがとうございました。
[220.56.164.51]
- こちらこそ、調査不足で申し訳ありません。備中兵乱の記事については、再度 調査して投稿しようと思ってますので、その際は御教授お願いします。--Maechan 2006年8月30日 (水) 17:39 (UTC)
いや、ホントに汗です。酔って投稿するもんじゃないですねえ(汗)。。ちなみに備中兵乱については「備前軍記」を底本にした文献が多いのですが、そもそも「備前軍記」自体が備前方・宇喜多方の立場に拠る創作的要素もあり、歴史的には2次資料以下の扱いとした方が良さそうです。
例えば、明善寺合戦の「庄元資討ち死に」なども宇喜多氏によるプロパガンダと断定して間違いないとかね。実際には明善寺合戦後も三村家分家として各地を転戦し、毛利家から激賞されたといった内容が毛利家の公式記録に残っているので、明善寺合戦で討ち死にしたなんてことは考えられないのですが、宇喜多氏としては備中方の正確な情報はなかなか手に出来ない家臣や領民に三村家長男の元祐を討ち取ったとアピールする意味は十二分にあったでしょう。わざわざ元祐を弔う塚なども作らせてますから、宇喜多直家の厭らしさというか狡猾さというか凄さを感じます。
ただ、三村家は備中松山の本家自体が備中兵乱で滅び、三村家自身の公式記録的なものは残っておらず、三村家・備中方の資料自体が少ない点は歴史検証上の泣き所でしょう。備後福山藩家老の系統の三村氏(三村親成及びその子孫)も備中兵乱のことは禁忌的な扱いであり、殆んど何も伝わってないようです。
2006.09.01 [220.56.164.51]
三村軍先鋒隊の敗走の項ついて
[編集]確かに庄元資討死の所は、どう書こうか悩んでたんですが・・・^^ゞ。220.56.164.51さんのコメントを参考に追記してみましたので、御覧の上、御教授くださいm(_ _)m。--Maechan 2006年9月4日 (月) 11:57 (UTC)