ノート:明智氏
以下は、生誕の地を名乗るある特定の地域(に関係する特定の人々)を除いては、全く信頼するに足らない俗説とされていますので、とりあえず本文からは削除して検討を願います。—以上の署名の無いコメントは、61.209.162.141 (会話・履歴・whois)氏が[2006年9月16日 (土) 02:40]に投稿したものです(Chietherによる付記)。
- 俗説であれば俗説として記載して構わないと思います。ただし、その俗説が何によって記されているかの記載が必要になります。Wikipedia:検証可能性 現在のところ検証可能性が皆無に等しいので削除のままで構わないかと。提出があっても明智氏と関係ない内容まで蛇足のように書かないよう注意を払いましょう。Chiether 2006年11月17日 (金) 16:48 (UTC)
諸説
[編集]光秀の曽祖父の明智頼尚は、土岐氏第8代美濃守護の土岐成頼の三男である。成頼の後の美濃守は応仁・文明の乱後足利幕府にいち早く出仕した長男の政房が継いだが、成頼とは不和で、家督は次男の頼高、さらに三男の頼尚が継いだものと判断できる。その家督は、光秀の祖父が出入りで身内を殺めたため、次男の頼明が継いだ。父を早くに亡くした光秀は、その頼明の養子となっている。
明智本家は、その支族を含めて土岐郡や可児郡の一円を治めていた。しかし、頼明の子の定明のときにその弟の定衡との間で内紛が起き、二人が死んで東美濃は主のいない状態となった。このとき、光秀は明智城(可児長山城)を預けられていたが、まだ若くて何もできなかった。代わりに、武田氏の支援を受けて実質的に東美濃を治めたのが、光秀の叔父である遠山与助景行(恵那郡明知城主)と小里出羽守光忠(小里城主)である。この二人は、俗書で明知光安・光久と記されている。
遠山景行と明智光安が同一人物であることは、既に『恵那叢書』などに記されている。異論はあるものの、その共通性からすれば同一人物と判断できよう。すなわち、同じ時代に東美濃の実質的な支配者であったこと、同じく入道宗宿(宗叔)を名乗ったこと、年齢的に近いこと、三宅氏と縁のあること(景行の妻は三河広瀬城主三宅高貞の娘)、ともに織田氏の支援を受けていたことなどである。遠山景行が恵那郡の明知から可児郡の長山まで実質支配していたという意味では、現在論争になっている光秀の出身地が可児郡の明智か恵那郡の明知かという議論は、そもそも意味のあるものではない。この遠山景行の子孫が江戸時代の入れ墨奉行の遠山金四郎として知られる遠山景元である。
上野沼田 土岐家譜との整合性
[編集]明智頼弘を土岐成頼と同一人物としたうえで、明智頼尚をその三男とする記述がありましたが、東大史料編纂所の写本をネット上で閲覧する限り、そのような記述が見当たりませんので、削除しました。ただ、頼弘の項には「号成頼」とあるので、明智頼弘を土岐成頼とする方は、一説として記述してもよいかとは思います。ただ、その場合も、上記に加えて主張者等を出典する必要はあろうかと。--61.209.163.26 2006年12月2日 (土) 14:08 (UTC)