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ノート:最後の授業/過去ログ1

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教科書への採用と朝鮮人同化政策との関係について

「大日本帝国の「国語愛」の高揚に寄与し」という部分には特に異論はありませんが(推測ですが、1952年の再登場時も、基本的な考え方は同じだったのでしょう)、「朝鮮人に対する創氏改名」が「アジア侵略における政治的戦略の一つであった」か否かについては多くの異論があります。また、少なくとも1952年の再登場には、この件はまったく無関係です。

穿った見方をする向きからは1952年の再登場を「朝鮮語を取り上げた」日本の過去に対する自虐史観教育の一環、とする場合すらあります。私はさすがに、この説は穿ちすぎではないかと考えますが……。

無用な編集合戦を避けるためにも定説が確立していない記述は避けるべきではないかと考えますが、Kuuri様のお考えをお聞かせいただけますでしょうか?--Stranger non general person 2006年3月18日 (土) 07:30 (UTC)

私が書いたのは「日本」で「大日本帝国」ではありません。 コメントの「定説など関係ない」はこの項目について言ったのですが、これは誤解を招く表現だったと思います。StrangerNonGeneralPersonさん(長いぞ、この名前)の「総氏改名(創氏改名の間違い)やハングル教育については未だ定説は無い」という誤解を招くコメントに対する返事としてこうなりました。 ノートを読んだところによると、StrangerNonGeneralPersonさんが削除したのは、「創氏改名が日本のアジア戦略の一つであったかどうか」という問題からだと認識します。それと、私はハングル教育のことなど書いていません。どこを指しているのでしょうか? 上記の部分が問題ならばそこを修正するか部分削除すれば良いでしょう。 なぜ全部削ってしまうのか。あの行為とあのコメントではリバートも止む無しと考えます。しかも2度とも同じ行為です。アナタの行為(しかも挑発的)は間違っています。とりあえずそこだけは元に戻しておきます。ノートに記述されている通りの行動をとって下さい。事が始まるとしたらそこからです。--Kuuri 2006年3月18日 (土) 19:50 (UTC)

編集してみました。こんなところでどうでしょうか? 朝鮮半島における問題は定説が確立してから、ということで……--Stranger non general person 2006年3月19日 (日) 03:35 (UTC)

編集しました。時代状況を考えて当然こうなるだろうと思います。
アナタの言っている定説云々の話はそもそもよく分からない。
「「朝鮮人に対する創氏改名」が「アジア侵略における政治的戦略の一つであった」か否かについては多くの異論があります。また、少なくとも1952年の再登場には、この件はまったく無関係です。」
この文はどういう意味ですか?(特に後半の1952年云々)「創氏改名が日本のアジア戦略の一つであった」のと違う説とはどんな説ですか?
それにプロパガンダ、アジテーションなどの語をわざわざ重複さしてはいけない。変だ。
今回は私の方から編集待ちにしましたが、今後は先に編集せずノートで議論してもらいたい。
それとコメントに定説というわけの分からない(この場合に限るという意味で)ことを書かないように。--Kuuri 2006年3月19日 (日) 08:49 (UTC)


えーと……すいません、

あたりを(ノートも含めて)きちんと読んでほしい、としか返事のしようがないんですが……。

  1. 日韓併合が「アジア侵略」の意図を持ってなされた行為であるのか
  2. 日本が朝鮮人に日本語教育を強制したのか
    (この記事に朝鮮半島関連の記述を加えるとすれば当然持ち出される話題でしょう)
  3. 創氏改名が本当に強制だったのか

などの点は、このWikipediaの内部ですら結論の出ていない話題です。わざわざPOVと誤解されかねない記述で嵐を呼び込むことは無いのではないでしょうか? それに(上にも書きましたが)少なくとも1952年以降の教科書への採用に関しては一切関係の無い話題です。逆に、なぜKuuriさんがここまでこの記述にこだわるのかがわかりません。「自国(日本)の「国語愛」の高揚に寄与する意図があった」だけではなぜいけないのですか?

いずれにしろ、上記の通りこの話題はWikipedia内部ですら結論の出ていない話題です(それを指して私は「定説」と呼びました)。どうしてもKuuriさんがこの記述にこだわるのなら、NPOVの観点から両論を併記せざるを得ません。が、そのような記述が果たしてこの記事に必要でしょうか? Kuuriさんのお考えをお聞かせください。--Stranger non general person 2006年3月19日 (日) 10:02 (UTC)

追伸:署名が長いとおっしゃるならば「通りすがりの逸般人」とお呼びくださいまし(笑)


(ノートを含めて)きちんと読んでいます。

  1. 日韓併合のことは聞いていません。
  2. 朝鮮人に対する日本語教育については本文には書いていません。それもいいのですが、そこまで書かなくても代表的に「創氏改名」だけを記述しました。(持ち出されるのが当然とは思いません。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。)
  3. 強制かどうかということは聞いていません。
  • (全く関係なくはないにしても)関係ないのに嵐を呼ぶとは思えません。(呼ぶとしたら、無理矢理に呼ばせる場合でしょう。)
  • 1952年以降に日本で『最後の授業』が教科書に復活したことと「創氏改名」をなぜ結びつけるのか。(どうやら一連の文章だと思ったようだが、本文では節が分かれているから繋がりは無い。間が空いているでしょう。)
  • アナタの言う定説と『最後の授業』の文章とどのように関わりがあるのでしょうか?
  • 私がこだわっているのではなく、アナタが(削除することに)こだわっているのでしょう。ナショナリズムに関わっている項目だから、入れるのが当然良いと思います。
  • 私は「創氏改名が日本のアジア戦略の一つであった」ということについて、アナタが多くの異論があると言っているのはどんなことかと聞いているんです。--Kuuri 2006年3月19日 (日) 11:06 (UTC)

もとの文章はテニヲハがおかしかったので改稿しました。大日本帝国が支配下に置いた地域で行った政策は、基本的に日本人化、同化であり、固有の民族性を尊重せず、圧殺したものであることは、当時の帝国の善意を信じる立場でも議論の余地はないところだと思います。それを善意ゆえの無神経と取るか、より積極的な意図を孕んだものと取るかは別問題でしょう。なお、本文中での、アジテーションとプロパガンダの区別があいまいでよくわかりません。また戦後、教科書に使用されなくなったのはなぜかの説明も不足しています。政治的背景があるということだけしか書かれていません。この小説の物語そのものは、同化主義的なものとばかりはいえず、むしろ同化に抗して固有の言語を守ればやがて独立を勝ち取れる、というふうにも読めるでしょう。ここではフランス的ナショナリズムとドイツ的ナショナリズムの相違があります。フランス的ナショナリズムにおいては、同じ民族としての共和主義的な歴史的な連帯の意志において同じ民族となる。ゆえに政治文化においてアルザスはフランスなのです。(現代ではアメリカのナショナリズムもそうです)一方、ドイツ的な、歴史的な文化と言語と民俗に依拠するナショナリズムでは、ドイツ語に近いアルザスは、当然にドイツです。そういう背景においてこの小説は書かれたので、同化主義とのかかわりで戦後使用が控えられたというのは、そうであるとすれば、戦後日本固有のコンテキストが必要です。もう少し具体的に書くか、ソースを出していただかないと、少なくとも、このページの記述だけ見ているかぎり、たいへんわかりにくいです。Clinamen 2006年3月19日 (日) 11:51 (UTC)

うーむ……確かに末節にこだわってしまったかもしれません。ご意見&編集ありがとうございます。ただし、時系列だけは修正させていただきました。これで「戦後の一時期、『最後の授業』は教科書から消えた」という文章にも繋がるようになったと思います。--Stranger non general person 2006年3月19日 (日) 13:02 (UTC)


Clinamenさんへ

  • 「もとの文章はテニヲハがおかしかった」という指摘ありがとうございます。
  • 「大日本帝国が支配下に置いた地域で行った政策は、基本的に日本人化、同化であり、固有の民族性を尊重せず、圧殺したものであることは、当時の帝国の善意を信じる立場でも議論の余地はない」

この点でStrangerNonGeneralPersonさんは異論があると言っているようなのです。当初からのよく分からない批判と削除が原因でノートでの議論となりました(StrangerNonGeneralPersonさんから)。これについてStrangerNonGeneralPersonさんからの回答は未だありません。見当はずれの返事と「末節」といっているだけです。

  • 「アジテーションとプロパガンダの区別があいまいでよくわかりません。」

本文をそのまま読んでもらえればよいと思います。批評に堪えうる文章を私が書いているかどうかというのは、それこそ末節であると思います。修正の必要があると考えれば、修正するまでのことでしょう。

  • 「戦後、教科書に使用されなくなったのはなぜかの説明も不足しています。政治的背景があるということだけしか書かれていません。」

アジア侵略時の記述と戦後の教科書採用の記述とは別になっています。なぜStrangerNonGeneralPersonさんもClinameさんも繋げようとしているのか分かりません。かかわりはあるかもしれませんが、そこまでは現段階で記述していません。(節分けしました。)

  • 「フランス的ナショナリズムとドイツ的ナショナリズムの相違」

これについてのClinamenさんによる執筆は、歓迎されることだと思います。ただし、『最後の授業』についての直接の関係性は薄いと思うのですが。

  • 「同化主義とのかかわりで戦後使用が控えられたというのは、そうであるとすれば、戦後日本固有のコンテキストが必要です。もう少し具体的に書くか、ソースを出していただかないと」

前述の通り、そのことについて本文ではかかわりがあるとは記述されていません。事情を知っている人がいれば、編集するだろうと思います。

StrangerNonGeneralPersonさんへ

  • 「末節にこだわってしまった」

末節ではなく、重要なことだと考えます。本文とノートに投稿していながら私の聞いていることに答えず、「末節」と言ってごまかすのはどういうことか。アナタが削除することにこだわったからこの議論が始まったのだ。自分の投稿を読み直すことを勧める。--Kuuri 2006年3月20日 (月) 08:50 (UTC)

「アジテーションとプロパガンダの区別があいまいでよくわかりません。」ええと、ですから、普通、アジテーションもプロパガンダもたいした意味的違いはない言葉でしょう。ここで、あえて区別して使っているということは、その、どの点で区別して使っているのかが、わかりにくい、といっているので、批評に耐えうるとかそういうことではありませんし、非難の意図でもぜんぜんありません。とりあえず、私の理解で加筆しますが、どの点で区別したのか、その意図を確認したかったのです。そうけんか腰にならないでください。

で、もう一点、戦後とつなげようとしている云々という話ですが、それもやはり説明不足だから、戦後も、「同化主義」と理解されてなのかと普通に読めば理解したから、そう書いたのです。もとの記述では、内容が知れ渡ったから回避されたと書いてありますが、繰り返しますが、この小説そのものは、別に教科書に載せるのが不適切なものでもないでしょう。それを、「内容が知れわたった」のが理由であるとだけ書いても、なんだかわかりません。それで、もっと詳しく、と書いたのです。採択されなくなった理由がわからないのであれば、内容が知れたったからとか、政治的背景があるから、というような記述は避けるべきでしょう。なんというか、あまりにもこの小説が教科書に不適切だということを自明視して書いてあるので、説明不足なのです。不適切だという解釈を否定しているわけじゃありませんよ。本文に、十分にそういう記述がしてない、わかりにくい、といっているのです。Clinamen 2006年3月20日 (月) 09:42 (UTC)

その後加筆しましたが、体制側をプロパガンダ、反体制側をアジテーションという意味合いで区別していると判断してそう書きましたが、そもそもプロパガンダと対比する意味が特にないので、そちらを削りました。節分けは、分ける意味がないので戻しました。ただし、戦後については、同化主義を理由にした記述ではなく、田中らの批判を理由として具体的に書きました。Clinamen 2006年3月20日 (月) 10:26 (UTC)


まずは先ほどの修正の説明から。当時のプロイセン/ドイツがドイツ語教育を義務化したのは確かだと聞いておりますが、外国語としてのフランス語教育を禁止はしていないと聞いております。その部分の事実関係の部分のみ修正しておきました。

で、と……。上記のような細部はともかく、大筋においては現在の編集に同意しますけど、まだ続けます? 私としては、

  • この小説が教科書に採用された1927年(昭和2年)に日本はアジアを侵略なんかしてなかった
  • (当時は)朝鮮半島で『皇民化』なんて強制されてなかった
  • ましてや創氏改名は同化政策とは何のかかわりも無い

という意見もあり、Wikipedia内ですら結論は出ていない。「アジア侵略における政治的戦略の一つであった朝鮮人に対する創氏改名を行っていた時代と重なるのは無縁ではない」という記述は、特にこの記事と関連が深いわけでもないのに(上記のような点で)論争になる恐れがあるので避けるべきだ、と申し上げています。私の挙げた項目を(ノートを含めて)お読みになっているのなら、私の疑念がそれなりの可能性を持ったものであることはご理解いただけるものと存じます。

正直に申し上げて、そういう意味では現在の記述も少々不満はあります。上記のようにこの小説が教科書に採用されたのは1927年であり、その時点では日本は(少なくとも明確な政策として)「皇民化政策」「同化政策」など行ってはいません。これは時系列から明らかです。 ただし、採用の動機(の、少なくとも一部)には『「国語」の民族主義的な称揚』があったのは確かでしょうし、第二次大戦/太平洋戦時には、この「最後の授業」も占領地の「皇民化政策」「同化政策」に利用されたであろう事はかなり蓋然性の高い推測でしょう。ここまでは私も認め、現在の編集に同意します。

……ということで最初に戻りますが……『ここで』まだ続けます? 私としては(上記の各記事内(含むノート)でならともかく)この記事内で、この話題についてこれ以上議論する意味を見出せないのです。--Stranger non general person 2006年3月20日 (月) 13:59 (UTC)

「皇民化政策」「創氏改名」(現時点では「皇民化政策」のみ代表的に記述)等は、アジア侵略時に行われていた政策であり-もし関連が無いならいったい何のためにそんなことをやったのか-そういった当時の状況の中で、他国まで海を渡って親切心だけからこの様な政策を行ったという信じ難いナイーブな考え方(どうしてもそのように信じさせたい人間がいることは知っている。)は常識の域を超えているという判断のもとで編集をしました。

翻訳された時期と「皇民化政策」「同化政策」の時期が一致しないから、関係がないかような記述などは乱暴だが、Stranger non general person氏は同意したということ(また終わりにしたいということ)なので、私もそれに同意しましょう。

蓋然性の高い推測といえば、ドーデの『最後の授業』執筆もローマ帝国の支配も蓋然性であり、「小説が書かれた時代背景」の節もまるごと蓋然性であり、とにかく、蓋然性だらけであると付記しておきます。

編集については、コメント通りです。他に、公用語化についての記述は学校教育としての『最後の授業』の趣旨から離れているので省きました。--Kuuri 2006年3月21日 (火) 04:06 (UTC)

まずは修正点から。「小説=フィクション」なのは当たり前だから書く必要はない、というご指摘はその通りですので、表現を修正しました。また公用語化の猶予期間などの記述は、「明日からはドイツ語の先生が来ます。フランス語の授業は今日が最後です」という小説内の、国語教育の内容の変更を前日まで知らされていなかったという描写は(小説としての演出という側面を考慮に入れたとしても)あまりにも非現実的だ、という観点から追加しました。

 ということでお返事ですが……これからは、Kuuriさんのおっしゃる「信じ難いナイーブな考え方」を持った人への啓蒙や布教活動は、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかをお読みになられた上で、他のブログなり掲示板なりでお願いします。(少なくともこのWikipediaでは)貴方の『常識』とは貴方にとってのみの『常識』です。それを記事の中に反映させることはお控えください。

あと、(今回は編集を控えましたが)「プロイセン併合後、アルザスにおいて外国語としてのフランス語教育すら禁止された」というkuuriさんのご主張のソースをお教えいただけますか? 「フランス語も外国語授業として残された」というのは、中央公論新社の「世界の歴史22」に記載されているそうです。もっとも私も又聞きですので、今度図書館なりで調べてきます。ソースをご提示頂ければ一緒に調べてきますので、お手数とは存じますがお返事を頂ければ幸いです。よろしくお願いします。 --Stranger non general person 2006年3月21日 (火) 09:52 (UTC)

  • 「小説がフィクション」といったStranger non general personさんの記述は前にもありましたが、その時はスタブ状態から全面的に改稿したので特にコメントしませんでした。今回は2度目だったので今後のことを考えてということもありコメントした次第です。
  • 公用語化の猶予期間のことは要らないと思う。アナタの説明を読んで益々そう思う。
  • 「ということでお返事ですが……」 - 質問はしていませんよ。
  • 常識云々の記述は変である。私のことを非難したいということはわかる。
  • 「Wikipedia:ウィキペディアは何でないか」とか「ブログ」とか「反映」とか、何を言っているのかな。アナタが削除を行い、聞いてもまともに答えられずチンプンカンプンの返事をし、「末節」と言ってごまかした件についての記述である。最後には「これ以上議論する意味を見出せない」と言い出したのはアナタでなくて誰なのだ。
  • 「『プロイセン併合後、アルザスにおいて外国語としてのフランス語教育すら禁止された』というkuuriさんのご主張のソース」 - これもよく分からない。主張した覚えはありません。--Kuuri 2006年3月21日 (火) 14:24 (UTC)

今日は所要で一日外出するのでまた書き込みは次の機会にしておきますが、一言だけ。 「フランス語を禁止していないとは断定できない」というのは、特にソースがない、単なるKuuriさんの感想だったわけですね? 編集を元に戻しておきます。--Stranger non general person 2006年3月21日 (火) 19:01 (UTC)


関連情報。http://artifact-jp.com/mt/archives/200308/thelastlesson.html

プロイセン治下のアルザスの言語政策。http://www.u-gakugei.ac.jp/~seminair/memoire/01/01okada.htm#1.3

まだちゃんと読んでませんが、詳しい情報が後者にあるようです。Clinamen 2006年3月21日 (火) 19:36 (UTC)

Stranger non general personさん。先ずは「プロイセン併合後、アルザスにおいて外国語としてのフランス語教育すら禁止された」がいつのどの執筆か指摘して下さい。--Kuuri 2006年3月22日 (水) 01:23 (UTC)

Kuuriさん、こだわるところが違います。「外国語としては禁止されなかった」という編集にあなたが賛成なのか反対なのかが問題なのであって、あなたがそう主張されたかどうかは重要な問題ではありません。たしかに、あなたの意見は厳密には「外国語としても禁止された」ではなく、「外国語教育としてのフランス語が禁止されたかどうかわからない、されなかったとは断定できない」という立場だったようですが、このさいこれは瑣末なことでしょう。必要なら、Stranger non general personさんがかるく、誤解してましたくらいのことをいえばいい程度の話であって、そうやって対話の前提として詰問するようなことではありません。まして、現在の議論の段階で、どういう本文がいいかという議論にとってことさらに必要なことでもありません。単にあなたが訂正なさればそれですむ話です。Clinamen 2006年3月22日 (水) 09:13 (UTC)

誹謗中傷について

Clinamenさんの2006年3月22日(水)09:13の投稿分からの続きになりますが、「教科書への採用と朝鮮人同化政策との関係について」とは既に関係がないので、節を分けました。

Clinamenさん。私が「こだわる」とか「訂正」すべきなどはあなたの誤解です。「プロイセン併合後、アルザスにおいて外国語としてのフランス語教育すら禁止された」と太字にしてまで提示してきたのはStranger non general personさんの方です。「プロイセン併合後、アルザスにおいて外国語としてのフランス語教育すら禁止された」とはStranger non general personさんによれば私の記述(らしい)だということですが「外国語としてのフランス語教育すら禁止」と私が書いたのが本当にそうであれば、それについて説明しなければならないでしょう。私が書いたのかどうかをハッキリさせなければならないとしたら、私が示すではなくStranger non general personさんが示すべきだと考えます。私は瑣末事で揚げ足を取って、攻撃しようとは思っていません。「外国語としてのフランス語教育すら禁止」はStranger non general personさんが私を非難したいが為に、無いことを在ると言って無理矢理攻撃してきていると考えられるから質問したのです。瑣末事にこだわり、私に対する攻撃、非難、中傷を行っているのはStranger non general personさんの方です。(これについては後述します。) 私は書いた覚えがないこと(あったとしたら要説明)、主張した覚えも感想を述べた覚えもないということを言ったのです。(これについても後述します。) Stranger non general personさんの文を読めば趣旨はわかります。「フランス語も外国語授業として残された」かどうかということでしょう。このことを無視しているわけではありませんよ(Stranger non general personさんはこの議論で私の質問に対して数々無視していますが)(これについても後述)。話がややこしくならないように、先ず確認をとったわけです。この議論の始めにとった態度と同じです(削除とリバートについてのこと)。そのことで議論を横滑りさせてどうこうしようと思っているわけではありません。むしろ、始めからそうしないように私が努めているのはClinamenさん、わかってもらえるでしょうか(これについても後述することに関係すると思います)。このことについてClinamenさんが「瑣末」といって私を非難するとは心外です。このことについてはClinamenさんが答えることではなくStranger non general personさんが答えるべきことなのです。口出しするなということではありません。ノートへの投稿は誰がしても良いのですから、意見を述べるのは当然認められる行為です。ClinamenさんがStranger non general personさんの替わりに返事をすべきではないということなのです。

改稿時、私は「普仏戦争で勝利したプロイセンがアルザス・ロレーヌでのフランス語の授業を禁止していた時代である。」と記述しました。その後、記事全般において修正が行われてきました。フランス語の授業についても編集されました。 「フランス語も外国語授業として残された」かどうかについて私が「断定できない」とコメントしたのは、Stranger non general personさんがコメントで「フランス語教育を禁止してはいないはず」などと書いていながら、本文で断定しているからです。断定できれば(あるいは蓋然性で)、その時点で執筆すれば良いということです。この場合、そのつもりがあるならば、ソースを見せろというのは、むしろStranger non general personさん以外の人物がStranger non general personさんに言うことです。現にStranger non general personさんはそれについて確認をとろうとしたではないですか。一応私は、http://www.be.asahi.com/20030802/W21/7002.html も参考にしたことも付しておきます。これが100%正しいかどうか私にはわかりませんでしたし、これだけ見れば誰にもわからないだろうと思います。

Stranger non general personさんはフランス語教育について私が執筆したことに対して「ご主張」などと慇懃かつ批判的かつ恣意的に言葉をスリ替えて「自分の書いたことは絶対正しいので、他の記述は認めない」かのように私が「ご主張」していると思わせたいかのような姑息なことを書いています。次にその内容、「ご主張」について私がStranger non general personさんの言うことはわけがわからない旨返事したら、次には「単なる感想だったわけですね?」などとまたしても(いったいどういうことなのか)Stranger non general personさんはすり替える。このようなStranger non general personさんの行為は瑣末事にこだわっているだけでなく、攻撃したいが為の攻撃と私は考えますが、ノートをお読みになっているらしいClinamenさん(他の人でも勿論いいです)はどのように考えているのでしょうか。正しい行為と考えているのでしょうか、失念しているのでしょうか。そこは読み飛ばしているのでしょうか。 その上に、「『断定できない』という、感想による編集で削除された部分を復活」などとStranger non general personさんがコメントを残していますが、いったいどういう神経なのでしょうか。このようなことは認められていたり、推奨されていたりしているのでしょうか。Clinamenさんはこのことについて、ノートを読んでいるらしいものの、言及されていませんがどのように考えますか。「感想による編集」などと勝手に自分一人で自分の都合の良いように決めつけ、他人を攻撃する為に勝手に先走って非難すること、そしてそのことを楽しんでいるらしいといったことを推奨したいのでしょうか。Clinamenさんだけに聞いているわけではありません。これを読んだ人はどう考えますか。私に対してのことはこの際、横に置いといてもいいですが、このような理不尽な行動をとられた人間はどのように思うかということです。そんなことを考えることは不要だとか、下らない瑣末なことだと考えますか。こんな下劣なことが認められていたり、推奨されていたりするなら、そして羞恥心が無いなら、いくらでも議論において方法はあるし、実際にStranger non general personさんはそうしているわけですが、誰でも(Clinamenさんでも、私でも、他の人でも)このような愚劣な行動をとれるということです。

Stranger non general personさんは他にも、このような揚げ足取り、攻撃、中傷といった態度をとっています。今までわざわざ詳しく取り上げなかっただけです。しかし、誤解や失念があると危惧しましたから、書くことにします。

Stranger non general personさんは、私は質問もしていないのに文句を言いたいがために返事をすると言い出す。「啓蒙」だの「布教活動」だの「Wikipedia:ウィキペディアは何でないか」だの「ブログ」だのと中傷目的としか思えない記述をする。繰り返しになりますが、記事を執筆したことに対して「ご主張」などと慇懃かつ批判的に言葉をスリ替える。次には執筆したことについて「単なる感想だったわけですね?」などと言い出し「感想」という言葉に恣意的にねじまげる。「ドイツ式初等教育を義務化していた時代である。」の執筆に対して、Stranger non general personさんのイビツな感情から「感想による編集」などというコメントをやりだす。 これらのことは揚げ足を取ろうと必死になっているとしか思えないのだが、Stranger non general personさんはこのような行動をとって恥ずかしくないのだろうか?皆さんはどのように考えるのでしょうか。Stranger non general personさんのとった行動は正しいとか、許容範囲に入るとか考えているのでしょうか。

私が「常識」と書くと、「Stranger non general personさんは「貴方にとってのみの『常識』です。」ということを書く。「貴方にとってのみの『常識』」とは意味が成り立っているのですか。(永田町の「常識」といったあたりからの借用か。)私が書いた文章を素直に読めばいいものを、素直に読むことをあらかじめ拒み、これも攻撃したいが為の揚げ足取り(足が挙がっているか)、中傷と考えますが、皆さんどのように考えますか。

当初の「皇民化」「創氏改名」(この様なアジア戦略時について)についても、Stranger non general personさんは私の質問に対して「末節」と言って答えないまま終わらせています。「末節」と言った次の投稿でもそれは変わりません。Stranger non general personさんが2度にわたる削除をした理由はきちんと説明されていないままです。しかし、Stranger non general personさんが終わらせたい旨のことを言っているので、私としてはStranger non general personさんの釈明や謝罪をあえて求めたりせず、それに同意したのです。

以上のように、Stranger non general personさんに対して批判したいのは私の方なのです。しかし、私がいちいち指摘しなければStranger non general personという人間は厚かましくも私の間違いというものをデッチ上げ、ノートでの中傷、コメントでの中傷を私に対して行っています。

なぜこのようなことを私がわざわざ書かなくてはならないのでしょうか。説明しなければならないのでしょうか。ノートを読めば自ずとわかることだと思っていました。しかし、Clinamenさんの投稿を読んで説明が必要だと考えた次第です。Clinamenさんには私の投稿のある一点が他の何を差し置いても指摘すべきことだと考えたようです。それが誤解であるのは先に述べた通りです。Clinamenさんは又私に対する批判、指摘をしてくるのではないかと思います。そう考えるのは今までに2度あるからです。ただ、なぜそうするのか私には今でもわかりません。この投稿を読んでもらえればわかると思うのですが。

Stranger non general personさんにはそのつもりが無いのは今までのことでわかりますが(攻撃材料を探している以外はそれほど興味は無いようだ。)、Clinamenさんは私の投稿(そしてStranger non general personさんの投稿)を真面目に読むつもりがあるのでしょうか。--Kuuri 2006年3月23日 (木) 02:03 (UTC)


まずは編集に関わる部分から。

私が「外国語としてのフランス語教育すら禁止された」ソースを求めたのは、「禁止されなかった」という情報がある限り、それを否定する情報がなければ「禁止されなかった」とするべきである、と考えたからです。

  • 提示された「禁止しなかった」という情報は、虚偽または信頼に値しない情報である。
※このことを検証していただくために、私は(又聞きとはいえ)ソースを提示しました
  • 「禁止した」という情報もあり、どちらが正しいか結論が出ていない。

のいずれかに当てはまらない以上、(「禁止されなかった」という情報があるのだから)「禁止されたかどうかわからない」と記述すべきではない、と私は考えます。kuuriさんが提示されたURLの文章からは(字面どおりに解釈するなら)「(URLにある情報を記述した人間が)禁止されたか否か判断できる情報を持っていない」としか読み取れません。このURLにある情報のバックグラウンド等をkuuriさんがご存知であり、上記二つのいずれか、もしくは他の理由により「禁止されたかどうか解らない」と編集すべきであるとkuuriさんがお考えになられているのなら、その旨ノートに書き込んでいただければ幸いです。よろしくお願いします。

で、と。一つ、kuuriさんに質問させていただいてもよろしいでしょうか?

  • kuuriさんは、何をしにWikipediaに来ているのですか?

私はWikipediaにある記事を利用して知識を得て、私が持っている知識がまだWikipediaに掲載されていない場合はWikipediaの方針に則って記事を投稿・編集するためにWikipediaに来ています。kuuriさんは何のためにWikipediaのURLをブラウザに入力しているのですか?

私はこの記事(とノート)に、この「最後の授業」という記事を編集する為に来ています。その記事にkuuriさんが「アジア侵略における政治的戦略の一つであった朝鮮人に対する創氏改名を行っていた時代と重なるのは無縁ではない」という、(私から見れば)記事とは関係のない部分で論争を呼ぶような編集をしました。私は「その編集は不適切だ」と理由も述べた上で再度編集し、Clinamenさんや他の人の編集も経て、私にとってはまだ多少不満が残るものの妥協は出来る編集に落ち着きました。そしてkuuriさんも(この部分に関しては)その後特に編集なされていません。私にとって(少なくともこの部分の編集に限っては)記事を編集するという目的を達成できたので、ノートでの議論も終わりにしたいと申し上げています。

私が「啓蒙や布教活動は他のブログや掲示板で」と書いたのは、kuuriさん(の行動)が、Wikipediaの方針に反している、と考えたからです。「(上記のような)対立や論争を呼びやすい、未だ結論の出ていない問題について関連の薄い記事に記述するのは避けたほうがいい」という私の依頼に対して、kuuriさんから「他国まで海を渡って親切心だけからこの様な政策を行ったという信じ難いナイーブな考え方(どうしてもそのように信じさせたい人間がいることは知っている。)は常識の域を超えているという判断」において編集を行った、とのお返事をいただきました。

kuuriさんがそうお考えになるのは大変結構です。ですが、kuuriさんの「信じ難いナイーブな考え方」という評価を(私を含めたWikipediaの参加者が)検証することは出来ません。kuuriさんの「常識」を検証することは出来ません。Wikipediaは事実を掲示する場です。ただし、本当に「事実」を確認できる事項は大変に少なく、多くの事柄は蓋然性の高低によって判断しなければならない、というのは、kuuriさんもご自身で仰られたとおりです。故にWikipediaにおける全ての記事・全ての編集は検証が可能でなければなりません。全ての記事・全ての編集は他のWikipedia参加者の検証によって蓋然性の高低が決定され、より事実に近い記事が形成されていきます。つまり、検証できない記事、検証できない編集はWikipediaにとって無価値なのです。

以上の理由により、私は自分の編集に関係するほかの記事も参照し、結論の出ていない事項については言及しないでほしい(記事に関係ある必要最小限の言及にしてほしい)とお願いしています。(私を含めたWikipediaの参加者が)検証できない理由を元にWikipediaの記事を編集しないでください、とお願いしています。Wikipediaにとって無価値な編集を行わないでほしいとお願いしています。それをkuuriさんが「自分(kuuriさん)への攻撃だ」「誹謗中傷だ」とお受けとめになるのは、もちろんkuuriさんのご自由です。 --Stranger non general person 2006年3月23日 (木) 18:07 (UTC)


フランス語教育を禁止した禁止しないということがわかった時点で記述すれば良いといいことを前回の投稿で記述しました。それについてStranger non general personさんはどの記述かは不明(それについて後に質問しましたが)で「ご主張」などと言葉をねじまげて慇懃な質問をしてきました。

  • Stranger non general personさんは、何をしにWikipediaに来ているのですか?

「Kuuriさんは、何をしにWikipediaに来ているのですか?」とは、どういうことですか?どういう意味の質問なのですか?Stranger non general personさんの文章を読んでもそのことはわかりません。Stranger non general personさんの釈明のようでもあり釈明のようでもない文章はありますが、私のことではなく、Stranger non general personさんの意見を述べている文章ではないのですか? しかし、「kuuriさんは、何をしにWikipediaに来ているのですか? 私はWikipediaにある記事を利用して知識を得て、私が持っている知識がまだWikipediaに掲載されていない場合はWikipediaの方針に則って記事を投稿・編集するためにWikipediaに来ています。kuuriさんは何のためにWikipediaのURLをブラウザに入力しているのですか?」という文をそのまま読むと、私が何の理由も無くWikipediaに来ているのではないかという疑問がStranger non general personさんにあると考えられますが、そういうことなのですか?その後の文章に私がどうだということがどこにどのように記述されているのですか?私が理由もなく、または別の理由か何かでWikipediaに来ているということなのですか?改めて聞かれれば、そして言外の意味が無いならば、閲覧したり編集したりするためWikipediaに来ているということです。太字にしているのは重要なことだとStranger non general personさんが考えているからだと思いますが、アナタのその後の文章にそのような記述があるのですか?もっと重要なことがありますから、私としてはそれを太字にした方が良いと思います。Stranger non general personさん。私のことでは無く、アナタこそ、何をしにWikipediaに来ているのですか?Stranger non general personさんの言う「Wikipediaの方針に則って記事を投稿・編集するためにWikipediaに来ています。」という「方針に則って」とは「ある記事を利用して知識を得て、私が持っている知識がまだWikipediaに掲載されていない場合」とは記述されていますが、他にあるのではないですか?「他人に対する誹謗・中傷をすること」が何故入っていないのですか?

私がその後編集していないのは、他の文と同じ理由で、現時点で良いと考えるか、あまり良いとは思えなくても特に問題ないと考えているからです。「目的を達成」とかまた変なことをStranger non general personさんは言っていますが、それは以前からそうなのですが、Stranger non general personさんの文にはわけのわからないことが多いです。(ここは私もよく分からないまま書きました。Stranger non general personさんが目的達成と言って取り上げるほど、私は重要だとは思いませんが。)

「ノートでの議論も終わりにしたいと申し上げています。」ということは、以前にもStranger non general personさんは言ってきました。私が質問しているわけでもないのに、返事を出すと言って蒸し返してきたので、今でも議論が続いているのです。その原因はStranger non general personさんです。初めのノートでの議論の原因もStranger non general personさんなら、今の原因もStranger non general personさんです。程度の低い非難や中傷をしたいがために蒸し返して、わざわざ投稿したのはStranger non general personさん、アナタです。「ノートでの議論も終わりにしたい」と言いながら質問もしていないのに文句を言ってきたのは何故ですか?

「啓蒙」だの「布教活動」だの「ブログ」だのはただの中傷です。それ以外は言葉尻をつかまえているだけでしょう。何の為にあんなことを書いたのですか?そんなことをして、Stranger non general personさん、アナタは恥ずかしくないのですか? 「Wikipediaの方針」とStranger non general personさんは言っていますが、これはアナタの今までのやり方で、姑息にも勝手にすり替えているだけではないのですか?Stranger non general personさんは自分が「Wikipediaの方針」に反しているかどうか、考えようと思わないのですか?「Wikipediaの方針」以前に、Stranger non general personさん自身が人としてまともなことをしているのかどうか何故考えようとしないのですか?

Stranger non general personさん。アナタの言っている「常識」「事実」「検証」の話は、またしてもわからない記述です。私の記述と噛み合っていません。(他の記述ともそうでしょう。)尤もらしい漢字が織り交ぜられて書かれていますが、自分で判って書いているんですか?対応しようと思っても対応の仕様がありません。議論が始まった段階から、こういうことにも私は困惑させられてきました。Stranger non general personさんの文を指摘しても議論が横滑りして本題から離れていくだけだと思いますから、それは止めておきます。

  • Stranger non general personさん。誹謗中傷したことに何故、触れないのですか? 

「ご主張」や「感想」などと浅ましくも言葉をすり替えて、挙句の果てには「『断定できない』という、感想による編集で削除された部分を復活」などというコメントを残したことについて、Stranger non general personさんはどのように思っているのですか? Stranger non general personさんが私に対して行った中傷や間違いのデッチ上げ(捏造ということ)といった行為について何故、釈明なり謝罪をしないのですか?何故いつも関係も無いことを無理矢理持ち込んで(Wikipediaがどうだこうだのと何が言いたいのかわからないことを言って)、ごまかそうとするのですか?

  • Stranger non general personさん何故、卑怯な手を使うのですか?

>「Wikipediaにとって無価値な編集を行わないでほしいとお願いしています。それをkuuriさんが「自分(kuuriさん)への攻撃だ」「誹謗中傷だ」とお受けとめになるのは、もちろんkuuriさんのご自由です」

私は、「無価値な編集を行わないでほしいとお願い」していることに対して「攻撃」「誹謗中傷」と言っているわけでは勿論ありません。今までの議論のどこをどのように読めばそうなるんですか?Stranger non general personさんは何故このような卑怯な書き方をするんですか?Stranger non general personさんはアラを探そうと必死になったのではないのですか?そして間違いをデッチ上げたのではないのですか?

Stranger non general personさんが私に対して下劣な行為をしておきながら、何故私と同等であるかのような口がきけるのですか?いったいどういう神経をしているのですか?Stranger non general personさんには反省するという気持ちが無いのですか?そういう人間だということを認めているということですか?

ほとんど前回と重複した内容になっていますが、Stranger non general personさんがあまりにもわからないことを言い、ごまかしているのでこの様になりました。ご了解下さい。--Kuuri 2006年3月24日 (金) 10:58 (UTC)


Wikipedia:ウィキペディアは何でないかをもう一度お読みになることをお勧めします。ここはkuuriさんの演説場所ではありません。私がこれ以上のお返事をしない理由は既に書きましたし、記事の編集以外の目的でここを利用する意思もありません。

もちろん、ちゃんとした論拠を提示していただいた上で、記事の編集に関してご提案をいただいた場合はまったく別です。

--Stranger non general person 2006年3月25日 (土) 01:03 (UTC)


Stranger non general personさんは(本当は「さん」という敬称などは要らない輩であるということはこのノートを読めばわかると思いますが、最低の礼儀としてこれは仕方がありません。)、またしても私の指摘を演説などと言ってごまかしています。ウンザリするほど今までと同じです。演説という言葉にねじまげられるのならば(Stranger non general personさんはいつもねじまげています)Stranger non general personさんの投稿こそ、演説だといえます。Stranger non general personさん式のごまかしなら、どの様にも言えるでしょう。

>「Wikipedia:ウィキペディアは何でないかをもう一度お読みになることをお勧めします。」

Stranger non general personさんは何を勘違いしているのか、それとも例によって言いがかりとごまかしで私に勧めている(フリをしている)のか。この様なことはStranger non general personさん自身が他の人から勧められるべきことなのです。それどころか「Wikipedia:ウィキペディアは何でないか」ということを持ち出す以前の問題です。

>「ちゃんとした論拠を提示していただいた上で、記事の編集に関してご提案をいただいた場合」

提案して話が通る人間でもない相手に提案など出来るはずもないでしょう。(Stranger non general personさんの気に入る提案ならその限りではないのでしょう。)論拠だろうが何だろうが、気に入らなければ揚げ足取りと他人の間違いを捏造してくる人間です。

Stranger non general personさんに勧めるとすれば(Stranger non general personさんがそんなことを承知する輩でもないでしょうが)、ここでの議論を終えるだけでなく、Wikipediaから身を引くことです。それが他の人にとって役立つことになるでしょう。--Kuuri 2006年3月25日 (土) 14:32 (UTC)


えーと……大変申し訳ないのですが、私はkuuriさんがなぜそんなにご立腹なさっているのか、まったくわかりません。私は(本当に大雑把にまとめてしまえば)

  1. 議論の残る表現は、まず専用の記事で議論がまとまってから(どうしても記述が必要な場合は両論を併記)
  2. 全ての議論は記事の編集の為にある
  3. 全ての記事・全ての編集は(その編集の理由や元となるソースを含めて)検証可能であらねばならない。検証可能でない場合はWikipedia以外の場所で。

という三点以外、主張した覚えはないのですが……。

kuuriさんは現在の編集に同意なさっているのでしょうか? いないのでしょうか? いるのなら記事の編集に関わらない議論は全て「末節」ですし、いないのなら(現在の編集の元になるソースの信憑性に対する疑問点や、現在の記述を否定するソースを提示するなどして)その論拠を示せばいいのではありませんか? kuuriさんが一番最初の(kuuriさんが投稿した)編集が正しいとお信じになっているのなら、編集を戻せばいいのです。ただしもちろん、私は一番最初と同じ理由で同じ質問をkuuriさんにするでしょうし、同じ答えしか返ってこないなら編集を現在のものに戻します。(不本意ではありますが)それでRevert合戦になったらこの記事は保護の対象となり、最終的には投票によってその内容を決定することになるでしょう。

Wikipediaとは(ノートも含めて)ただ、それだけの場です。私が上で書いたことは単なるWikipediaのルールであり、それ以上でもそれ以下でもありません。私は(上記した三つも含めて)Wikipediaのルールを説明しているだけなのに、どうやったらkuuriさんを「侮辱」「誹謗中傷」できるのか、本当に解らないのです。

ちなみに、私はこれからも(この記事の編集を含めて)Wikipediaに参加します。もちろん、kuuriさんが私に対して「Wikipediaに参加することはふさわしくない」とお考えになられている場合、Wikipedia:投稿ブロックの方針をお読みになられた上で投稿ブロックのご依頼をされるのはkuuriさんのご自由です。ただし私は、私自身の書き込みがWikipediaの方針になんら反していないと考えていることはお伝えしておきます。 --Stranger non general person 2006年3月26日 (日) 15:37 (UTC)


言い訳だけなら止めるべきです。私の指摘に対して―つまり自分のとった行動に対しては触れずに、詭弁を弄する投稿など無意味です。しかし、Stranger non general personさん(「さん」など本当は要らない人物。礼儀の為。)には理由があって詭弁を弄しているのでしょう。

Stranger non general personさんは(大雑把と言っているので他にもあるのかもしれませんが)「三点以外、主張した覚えはない」などと言っていますが、何という都合の良い健忘症なのでしょうか。「三点以外、主張した覚えはない」とキッパリと言っていますが、そんな主張をする以前にノートで本論とは関係も無い中傷をしてきたのを忘れてしまったのでしょうか。たとえ都合良く健忘症にかかったとしてもノートを読めばいいのですが、Stranger non general personさんはそれもしたくないようです。

  1. 「議論の残る表現は、まず専用の記事で議論がまとまってから(どうしても記述が必要な場合は両論を併記)」- いったい何の両論を併記するのか(専用の記事?)。本当はドーデは『最後の授業』を執筆していなかったという見解なり新説が出てくるかもしれないから(こんなこと言い出せば、ケルト人が住んでいたとかローマ帝国の支配とか他にもゴマンとあるが)Stranger non general personさんのような人間が「定説」(?)がないなどというイヤガラセか、良く言っても勘違いで噛みついてきた時に、Stranger non general personさんの仰る通り両論併記などということをやらねばならないのですか。(書いていてバカバカしいが、仕方が無い。議論というレベルではない。)
  2. 「全ての議論は記事の編集の為にある 」- だったらStranger non general personさんがそうすれば良い。私見だが絶望的である。今までそうしていない人間が言うことなのか。それともクダらない中傷が記事の為になると主張しているのでしょうか。
  3. 「全ての記事・全ての編集は(その編集の理由や元となるソースを含めて)検証可能であらねばならない。検証可能でない場合はWikipedia以外の場所で。」- 尤もらしく言っている「検証」にしても元々言い訳の為に後になって持ち出してきた言葉です。それにこれもまた言い訳がましく持ち出してきた言葉ですが「蓋然性」はどうなるのでしょうか。言葉尻をつかまえているわけではありませんよ。これは「検証」だの「蓋然性」などとStranger non general personさんが持ち出すのは、全くわかってないとは言わないまでも、自分でも良くわからずに(それが言い訳だから、詭弁だから)言っているという証左です。

Stranger non general personさんが気に入らないことだけ「検証」するのが「検証」であるということはもう十分わかりましたが(日本のアジア侵略についての執筆に過敏に反応するが、ドイツやフランスのナショナリズムには全然興味が無いようだ。)、そういう小児的な考え方で物事は都合良くいきません。

Stranger non general personさんが主張しているとうそぶいている(Stranger non general personさんが主張しているということ自体、実際は今になって取り繕っているということですが。)三点はStranger non general personさんの意図に関わらず、論題によっては重要です。 しかしながら、そもそもStranger non general personさんはそんな立派(?)なことを他人に対して言える人物ではありません。--Kuuri 2006年3月27日 (月) 14:36 (UTC)

NPOVという考え方

ああ、やっと理解できました。つまりkuuriさんは「『反ナショナリズム』という自分(kuuriさん)の価値観を否定したのだから、『末節』などという言葉を使って議論を逃げるな。ちゃんと自分(kuuriさん)の相手をしろ」と仰られているわけですね?

違います。まったく違います。私はkuuriさんの価値観を否定したりしていません。私が否定しているのは、kuuriさんの価値観を編集に反映させることです。

Wikipediaは個々人の価値観をすり合わせる場所ではありません。そぎ落とす場所です。Wikipediaにとって「ナショナリズムを否定する価値観」と、「ナショナリズムを肯定する価値観」は、編集に反映されるべきではない無価値なもの(※1)、という一点において等価です。これをWikipediaではPOVと呼びます。WikipediaではPOVは排除されなければならず、全ての記事は中立的な観点をもって記述されなければなりません。これをNPOVと呼び、Wikipediaの創立者によって「絶対的で交渉の余地のないもの」と定められています。

※1 だから私は、このこと(個々人の価値観に関する論争)を「末節」と呼んだのです

私はWikipediaの方針に則り、kuuriさんの価値観がこの記事に反映されることを否定しています。それはkuuriさんご自身の価値観そのものを否定することとはまったく異なることのはずですが、それをkuuriさんが区別できず、私の行為をkuuriさんが不愉快にお感じになるのでしたら、もうそれは私にはどうしようもないことです。私がWikipediaに参加すべきでないとお考えになられているのなら、kuuriさんが投稿ブロックの依頼その他の行動をお取りになるのを私が止めることは出来ません。ただし繰り返しになりますが、私自身は私の行動がWikipediaの方針に何ら反してはいないと考えていることは、重ねてお伝えしておきます。--Stranger non general person 2006年3月27日 (月) 22:39 (UTC)

StrangerNonGeneralPerson氏の詭弁

相変わらずStranger non general personさんはミスリードの為に卑劣な行動をとっています。 「ああ、やっと理解できました。」(理解したとか理解していないとかではなく、答えずにごまかしているわけです。)-どこの誰が「価値観を編集に反映させ」たのか。2度の削除はStranger non general personさんがとった行動です。

「「ナショナリズムを否定する価値観」と、「ナショナリズムを肯定する価値観」は、編集に反映されるべきではない無価値なもの (個々人の価値観に関する論争)を「末節」と呼んだのです。」- デタラメの言い訳です。今まで答えず、言い訳が通りそうになったと思うと、またしてもわからないことを言っています。「価値観」を反映させようとする編集は勿論私ではなく、削除という行為でStranger non general personさんがとったのは確かですが、質問に答えず(未だに答えず)今になってそんなことはどうでもいいと言っているのは理解が出来ません(言い訳でデタラメを言っているのだから理解も何も無いのだが)。Stranger non general personさんが今回新たに持ち出した「ナショナリズムを否定する価値観」(これも相手をイデオロギー満載の人間に仕立て上げようとする卑劣なミスリード)にだけ、それも日本だけに敏感に反応した偏重している人間、詭弁を弄している人間が言っているのがこれです。 偏った思考で編集をしてきた人間は誰か。根拠も無く削除を強行したのは誰か。

Stranger non general personさんの関係の無いミスリードの為の主張など聞いていません。 Stranger non general personさんは詭弁を弄し続け、関係の無いことを書くばかりです。答えるべきことについて答えもせず、ごまかし続けていますが、投稿だけはしてきます。 この議論が何故この様になったか(原因はStranger non general personさんにあります)。Stranger non general personさんはそれについても触れようとしない卑怯な人間です。--Kuuri 2006年3月28日 (火) 08:55 (UTC)


はぁ……まぁ、ご自由に。ただしWikipediaのルールは守ってくださいね。--Stranger non general person 2006年3月29日 (水) 18:10 (UTC)

結局、長々と議論を蒸し返しとゴマカシで引き伸ばしながら、何も答えず、自分のとった行動に責任も取らず、このような卑怯な投稿をしてきました。無責任かつ卑劣な中傷は過去のことではなく、現在も進行したままで終わってはいません(まともな返答など何もしていないから)。Stranger non general personという人間は厚顔にも本論については無視し続けたまま、今までと同じ様に自分の都合だけで終わりにしたいようです。以前、私が同意した時にそれを蔑ろにしたのも都合よく忘れているのでしょう。蒸し返して揚げ足を取るのが好きな人間ですから、又何を言い出してくるかわかりませんが。自分の都合だけで終わらしたり始めたりしたがり、都合の悪いことはスッカリ忘れてしまう、恐ろしいほどワガママな人間です。他人には喜んで誹謗・中傷をするが、自分のとった行動の愚劣さについては気にもかけようともしない人間であり、改善をわずかでも期待するには絶望的な人間なのでしょう。--Kuuri 2006年3月29日 (水) 22:16 (UTC)


編集に関する参考資料など

久しぶりに図書館なんていってきましたねー。でも「ことばと国家」が閉架扱いなのはどーしてだ?>近所の図書館

で、と。『「国語愛」の高揚に寄与』『アジア侵略』ってのは、「ことばと国家」P127(文庫版)の引き写しだったんですね。まぁ、それはそれで悪いことではありませんが、田中克彦氏は「ことばと国家」の中で「朝鮮人に対する創氏改名を行っていた時代~」などとは一言も触れていません。単に「最後の授業」の舞台設定を日本と朝鮮に入れ替えたら、この物語がどれほど可笑しな物かが解るだろう、と述べているだけです。(ついでに言えば、論旨は現在の編集のほうがより原著に近くなってますね) まずは田中氏の名誉のために一言。

しかしまぁ、フランスの言語に対する非寛容性とゆーのは英語(アメリカ語)に勝るとも劣りませんなぁ。スペインがカタロニア語の保護にかなり力を入れているのとは対照的とすら思えます。……まぁ、そのフランスすら諦めさせてしまうアルザス人というのは、頑固というかなんと言うか(苦笑)

今回付け加えた参考図書のうち、最後の二つはお勧めです。特に「アルザス文化論」はかなり踏み込んだ民族的考察を行っていますが……この作者、なんかアルザス人に恨みでもあるのか?(苦笑) 娘がアルザス人と駆け落ちしたとか……。 面と向かっての悪口もそーとー書いてますので、そういう意味ではお覚悟を。 --Stranger non general person 2006年3月30日 (木) 17:20 (UTC)


StrangerNonGeneralPerson氏の方針

Stranger non general personさんは「ことばと国家」を読まずに新規作成して「つまりこの小説は完全なフィクションであり、かつフランスに対するナショナリズムを動機としたプロパカンダである可能性が極めて強くなった。このことを指摘したのが、田中克彦の「ことばと国家」である。」と記述したようですね。(今回、誹謗する為に図書館までご足労されたようです。)

Stranger non general personさんは誹謗・中傷を止めないし訂正もしないし、また今回の投稿のようにこれからも誹謗・中傷を続けていきたい方針だということが改めて確認できました。

私がいくら抗議しても、やはり無駄なようです。--Kuuri 2006年3月30日 (木) 23:31 (UTC)