ノート:朝鮮通信使
この「朝鮮通信使」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2005年9月18日 | 秀逸な記事の選考 | 不通過 |
過去ログ一覧 |
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/過去ログ12004/9-2008/5 |
中公新書の「日本(イルボン)のイメージ」という本(P117-119)には記事中に載っているのよりも日本に関して否定的な朝鮮側の見解も載っていますが、いかがでしょうか。現に載っている文章は日本にとって都合のいい朝鮮側の見解しか載っていないように感じられます。--Propatriamori 2010年6月12日 (土) 13:41 (UTC)
家康との拝謁について
[編集]報告朝鮮通信使にあります「1607年(慶長12年)、江戸時代はじめて・・・」という部分に、Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へを付けさせていただきました。徳川家康による国交回復によりますと、翌年(1605年(慶長10年))に家康、秀忠と会見したとあります。また私の手元にあります文献『伏見城』の[伏見城略年譜]P.45によりますと、「1605年10月 家康、朝鮮使節と伏見で会見する(朝鮮と和議成立)」と記載されており、紹介したホームページと同様の記載となっております。そこで1605年が正しいのではないかと思いますが、6月29日と具体的に明記されていますのでなにか別の事が行われたのか、別説があるかもしれないと思い、要出典とさせていただきました。2週間程度経過措置をみまして、出典が明記できなければ、文献『伏見城』の記載に沿った内容にさせて頂きたいと思います。--ブレイズマン 2010年4月10日 (土) 15:40 (UTC)
- コメント上記[伏見城略年譜]と下記『文禄・慶長の役』の月がなぜ違っているのか?再度文献を調べたところ、[伏見城略年譜]に「十」ではなく「10」とありましたので、月の表示であると思い込んでいましたが、よく見ますと「慶長10年」の誤りでした。[伏見城略年譜]には月表記はされていませんでした。訂正します。--ブレイズマン 2010年4月17日 (土) 04:31 (UTC)
- 報告その後少し気になりまして文献を調査しました。『文禄・慶長の役』P.285によりますと、「慶長十年(一六〇五)三月、惟政は伏見城において家康に拝謁したと伝えられる」と記載がありました。[伏見城略年譜]と月が違っていますが、1605年(慶長10年)ではないかと思われます。ただ、同『文禄・慶長の役』P.289には「五月六日には将軍秀忠に接見し、朝鮮の国書を渡している。」と、1607年(慶長12年)の記載がありました。1605年(慶長10年)に家康から秀忠に将軍職が移っていますので、「家康に謁見した。」という表現は間違いではないかもしれませんが違和感があります。文禄・慶長の役にも、Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へを付けさせていただきました。また同文献には、正式な朝鮮使節ではなく「回答兼刷還使」という別名称をわざわざ使っている、との記載も見受けられます。いずれにしても私のように本ページを見て勘違いする可能性がありますので、出典が明記されなけば文献の趣旨に沿った記述に変更させていただきたいと思います。しかしこの辺の歴史について知識がそれほどありませんので、詳しい方がおられましたら、情報お待ちしています。--ブレイズマン 2010年4月11日 (日) 09:03 (UTC)
- 現在資料が手元に無いためコメントのみ。1605年に家康に会見した朝鮮使節は探賊使であって朝鮮通信使ではありません。ブレイズマン氏が参照されてる資料にも、探賊使または朝鮮使節と書いてはあっても朝鮮通信使とは書かれてないかと思います。1607年の朝鮮使節の方は、朝鮮側は回答兼刷還使として派遣しましたが体面の問題から日本側は朝鮮通信使として扱い、現在でも朝鮮通信使となっています。ここら辺の詳しい事情は朝鮮通信使#近世日朝関係の荒野氏、池内氏、田代氏の著書に載っていたと思います。(うろ覚えですので、荒野氏の著書には無かったかもしれません)記事を書き換えられるのでしたら、一度これらの文献を当ってみることをお勧めします。--黒森 2010年4月15日 (木) 13:58 (UTC)
- コメント情報提供有難うございます。大変助かります。「朝鮮使節と書いてはあっても朝鮮通信使とは書かれてないかと思います」と指摘して頂いている点は、後に資料で確認しますが徳川家康による国交回復にも同様な記載されておりますので、その通りであると思います。その部分に疑問があるわけではなく、「江戸時代はじめて」と「家康に謁見した」という部分に違和感を覚えます。1605年(慶長10年)の伏見城がはじめてではないか、また1607年(慶長12年)も「秀忠に拝謁した」の誤り、もしくは「家康、秀忠に拝謁した」でないのか、と思っています。ご指摘いただいている文献はチェックしておきたいと思いますが、出典が明記されない場合でも、あくまでも文献の趣旨に沿った加筆を考えております。--ブレイズマン 2010年4月17日 (土) 04:18 (UTC)
- 済上記記載通り2週間以上の経過措置を見ましたが、出典が明記されませんでしたので本文内容を変更させていただき、{{要出典}}テンプレートも除去しました。--ブレイズマン 2010年4月28日 (水) 17:50 (UTC)
- コメント情報提供有難うございます。大変助かります。「朝鮮使節と書いてはあっても朝鮮通信使とは書かれてないかと思います」と指摘して頂いている点は、後に資料で確認しますが徳川家康による国交回復にも同様な記載されておりますので、その通りであると思います。その部分に疑問があるわけではなく、「江戸時代はじめて」と「家康に謁見した」という部分に違和感を覚えます。1605年(慶長10年)の伏見城がはじめてではないか、また1607年(慶長12年)も「秀忠に拝謁した」の誤り、もしくは「家康、秀忠に拝謁した」でないのか、と思っています。ご指摘いただいている文献はチェックしておきたいと思いますが、出典が明記されない場合でも、あくまでも文献の趣旨に沿った加筆を考えております。--ブレイズマン 2010年4月17日 (土) 04:18 (UTC)
- 現在資料が手元に無いためコメントのみ。1605年に家康に会見した朝鮮使節は探賊使であって朝鮮通信使ではありません。ブレイズマン氏が参照されてる資料にも、探賊使または朝鮮使節と書いてはあっても朝鮮通信使とは書かれてないかと思います。1607年の朝鮮使節の方は、朝鮮側は回答兼刷還使として派遣しましたが体面の問題から日本側は朝鮮通信使として扱い、現在でも朝鮮通信使となっています。ここら辺の詳しい事情は朝鮮通信使#近世日朝関係の荒野氏、池内氏、田代氏の著書に載っていたと思います。(うろ覚えですので、荒野氏の著書には無かったかもしれません)記事を書き換えられるのでしたら、一度これらの文献を当ってみることをお勧めします。--黒森 2010年4月15日 (木) 13:58 (UTC)
- なにやらずいぶん妙な記述になっていませんか? 黒森氏が先にコメントしているとおり、1605年の使節である惟政は、朝鮮政府の命を受けていると言っても、官職に就いておらず国書も携えておらず、あくまでも一介の僧侶として私人での立場での来日(朝鮮政府自体が明に対しそのように弁明)であって、国使(回答兼刷還使/朝鮮通信使)ではありません。しかし、書き換えられた現在の記述は惟政が第一回の回答兼刷還使という文脈になってしまっており、後記の江戸期朝鮮通信使履歴の一覧との整合性も取れていません。あくまで惟政は江戸時代の通信使の前史として補足的に書き加えるべきものであって、正式な国使としての通信使に家康が面謁(駿府)した年は1607年とする従前の記述が正しいでしょう。(ただし国書の授受は江戸で秀忠に対して) また「国書」をどちらが先に送るかというのは当時の交渉での重要なポイントであり、1606年の家康の「国書」は偽造されたものであるのにその点に全く触れず、日本側から先に国書を送ったように読めるのも適当ではないように思います。
- あと、朝鮮通信使の宿所として兵庫城が加えられていますが、大名が宿所として居城を供したというのは聞いたことがありませんけれど、これはどのような史料によるものでしょうか? Jinzuu 2010年5月1日 (土) 04:33 (UTC)
- コメント不足分に関しては、出典を明記し加筆して頂いて問題ないかと思います。「正式な国使としての通信使に家康が面謁(駿府)」というのは駿府城でということでしょうか?その出典はどこにあるのでしょうか?『文禄・慶長の役』には駿府城の下りは記載されていませんでしたので、2週間の経過措置をとりましたが、出典が明記されませんで変更しましたが、出典が明記出来るならばHelp:以前の版にページを戻す方法して頂いてよいかと思います。次に兵庫城の出典ですが、神戸市立博物館『よみがえる兵庫津』に記載されています。こちらには比較的詳しい記述がありますので、この部分を付け加えてもよいと思っております。--ブレイズマン 2010年5月1日 (土) 15:54 (UTC)
- 不足ということではなく、明確に区別すべき探賊使を通信使と混同しているのは根本的にまずかろうということなので、いったん戻します。
- 第一回通信使が帰路に駿府で家康に謁見したというのは特定の研究者の解釈ではなく歴史的事実ですから、その出典をあげろと言われても朝鮮通信使関連書籍にはごく普通に載っている事項ですよ。例えば、現在手元に『日本見聞録にみる朝鮮通信使』(西村毬子/明石書店)というのがありますが、これは延享度の通信使についての研究書ですけど、第一回通信使の概説としてやはりそのことは載っています。なお、駿河府中での謁見は駿府城、宿所は清見寺ですね。
- 兵庫城については、ローカルな物を挙げられてもこちらで検証の仕様はないのですが、従来は現存史料(兵庫津岡方惣会所『朝鮮信使来朝帰帆官録』)から、兵庫港での宿所は旅籠・商家での分宿であったとされていますから、最近何か新資料が見つかりでもしたのでしょうか? しかし、常識的に考えても城内に400名から500名ほどにもなる朝鮮人一行を宿泊させるなどというのは、一行を城下にすら入れないという他藩の例もあることからすれば、あり得ないように思いますが。城に表敬に訪れた事を、宿所として供したと取り違えているということはないのでしょうか。 Jinzuu 2010年5月2日 (日) 08:31 (UTC)
- コメント「ごく普通に載っている事項」という事ですが、上記記載通り『文禄・慶長の役』には駿府城の下りは記載が見当たりませんでした。その必要性を感じなるならば、出典を明記し加筆して頂いて問題ないかと思います。私は「出典が明記出来るならば」という事でHelp:以前の版にページを戻す方法はOKとしてましたが、現状の差し戻しは極めて問題だと思います。私の記載部分は出典を明記し、その記述に沿った加筆を行っております。さらに1週間の経過措置をみますが、出典が明記されなけば、元に戻したいと思います。私自身は、混同していないと思いますが、もし混同していると読み違える文章であるならば、差し戻しではなく、文章表現を修正していただければと思います。
- 後「こちらで検証の仕様はない」とのことですが、公共団体の出版物ですのでWikipedia:検証可能性に基づき、文献をチェックしていただくのが良いかと思います。私自身は文献に沿った記述をしておりますが、解釈間違いや記載見落としが無いとは言えません。その上での話ですが、「城に表敬に訪れた事を、宿所として供したと取り違えているということはないのでしょうか」という事ですが、兵庫城にも記載させていただきましたが『よみがえる兵庫津』によりますと、尼崎藩は朝鮮使節の接待役を命じられ、約2年前から準備が始められ、港の整備や宿泊先の手配をしていた、とあり取り違えているということはないと思われます。P.86 に記載されていますので、ご覧いただければと思います。--ブレイズマン 2010年5月2日 (日) 09:15 (UTC)
- コメントJinzuu 氏が編集中に上記コメントをしたようです。現在の版は出典も明記しており、内容も理解しやすくなったかと思われます。後日出典に挙がっている文献を精査したいと思いますが、取り敢えず上記にあります「元に戻したいと思います」という部分に関しましては、その緊急性はありませんので撤回したいと思います。後日伏見城部分に関しましては記載したいと思います。Jinzuu 氏に関しましては、出典明記の努力に感謝申し上げます。--ブレイズマン 2010年5月2日 (日) 09:57 (UTC)
- 納得されたようですが、これは本来不必要な出典ですよ。あなたが挙げる朝鮮通信使を中心に扱ったものでない書籍に詳しく載っていないのはむしろ当然であって、それに載ってないからと言って、先に黒森氏が示したような専門書に当たる努力もせず、むやみやたらと出典を要求するのはいかがなものでしょう。自分の知らないものはとにかく一言一句全てに出典を示せと要求しているのと同じです。
- また、兵庫城に関しては、案の定、あなたが勝手に城が宿所だと解釈しているだけのようですね。示された文章”宿泊先の手配をしていた”では、城を宿所として提供したという事実は全く読みとれませんよ。 Jinzuu 2010年5月2日 (日) 10:10 (UTC)
- コメント「ごく普通に載っている事項」が記載されていない以上、必要な出典だと思われます。少なくても変更前の記述は、現在とでは記述が変化しております。その意味でも必要のある出典だと思います。兵庫城は大坂城や尼崎城のような城郭ではありません。私が記載した文面のみで判断するのでは無く、上記記載通り「Wikipedia:検証可能性に基づき、文献をチェックしていただくのが良いかと思います」まずは文献を調査して頂ければと思います。--ブレイズマン 2010年5月2日 (日) 10:42 (UTC)
兵庫城の記述について(承前)
[編集]自分がいかに馬鹿げた主張をしているかという自覚が全くないようですね。検証可能性を引き合いに出したところで、あなたが出典だと主張する書籍に、”兵庫城が通信使の宿所であった”という明文の記述がない以上、そもそも出典としての要件を満たしていませんよ。”兵庫城が通信使の宿所であった”というのは、あくまであなたの勝手な独自解釈に過ぎないわけですから、”自分はこれこれこういう記述を城を宿舎としたものであると解釈した”という他者を納得させるに足る説明をする責任があるでしょう。そしてそれは、地元図書館か国会図書館にでもいかなければ確認できないような書籍を勝手に調べろ!と自分が果たすべき挙証責任を相手に丸投げするのではなく、あなたがほんの数行引用すれば済む話です。 Jinzuu 2010年5月3日 (月) 02:12 (UTC)
- コメント「自分がいかに馬鹿げた主張をしているかという自覚が全くないようですね。」と非難される前に、Wikipedia:礼儀を忘れないをご一読されることを望みます。Jinzuu氏は、[もっと深刻な例]に記載されている「相手をあざけったり馬鹿にすること」の要件に抵触するかと思います。他人をおとしめ、自分の正当性を主張するのが目的ではないのならば、まずはこの態度の明確に改めていただけますよう希望します。この点を改めていただければ、ご協力することにやぶさかではありません。--ブレイズマン 2010年5月3日 (月) 07:45 (UTC)
- あなたが出典だと主張するもの自体について果たしてそれが出典足り得るのかという疑義を呈されているのですから、あなたがしなければいけないのはまるで他人事であるかのような協力ではなく、積極的な説明であり釈明でしょう。まぁ、知識不足で誤記してしまうということは私自身も覚えがないわけでもないので、それ自体をとやかく言うことはありませんが、自分の誤りを率直に認めることなく、誤魔化し、しらばくれるようであれば馬鹿にもされるでしょうね。
- さて、繰り返しますが、あなたが”兵庫城の更なる出典明確化”と称して加えた書籍の中に、兵庫城が通信使の宿所であったと明文で記述しているものが本当にありますか? いずれも、行った・迎えた・招いたなどと書いてあるものをあなたが勝手に宿泊だと解釈しているのではありませんか? 最寄りの図書館には、あなたが出典だと主張する『日本城郭大系 12』は置いてないのですが、その元本である『日本城郭全集 10』はありますので、兵庫城の項を確認してみると、「慶長十二年(一六〇七)に朝鮮の使節一行をこの城に迎えたというほかはあまり記録がないが」とあるだけでしたけどね。
- そもそも、兵庫城と朝鮮通信使の関係を裏付ける史料は、第一回副使の慶暹が書き残した日誌『海槎録』しか存在せず、それには領主の所に行って(及館主所)接待を受けたことが記されているのみで、そこに宿泊したという文言は全くありません。つまるところ、あなたの主張は”至る”の意味である原文の”及”を”宿泊”だと言い張っているだけにすぎませんよ。
- 【原文】 及館主所、周以城池、門設三重、供億鋪陳之具、極其豊侈、至於灯燭之檠、皆用金銀、鋪席之辺、亦以彩段飾之、支供官、乃秀頼代官片桐主膳、即大坂執政片桐市正之弟也
- この件は結局のところ、あなたが自分が編集した兵庫城記事に向けて朝鮮通信使から関連項目として貼ったリンクを、”通信使の立ち寄り先の一つに過ぎない”として私に削除されたもので、その代わりに宿所の項に兵庫城を安易に書き加えたものの、さらにそれは違うと言われて引っ込みがつかなくなっているだけではないでしょうか。
- なお、私が上で”兵庫港での宿所は旅籠・商家での分宿であった”と指摘したところ、あなたは”兵庫城”を唐突に”兵庫陣屋および兵庫陣屋町”と書き換えてしまっていますが、これも非常に不適切な記述でしょうね。実際には”阿弥陀寺”は兵庫城至近の城下にあるにも関わらず、現状の兵庫の項は”阿弥陀寺、兵庫陣屋および兵庫陣屋町”というちぐはぐな整合性のない記述になってしまっています。また、特定の施設名ではなく”兵庫陣屋町”と書くようなこと自体が、例えば他項を”江戸城と江戸城下町”、”淀城と淀城下町”等々と書き換えるようなもので、ほとんど意味がない上に一覧としての他所との整合性も全く取れていません。さらに、兵庫城が宿所なのかという問題とは別に、第一回通信使は片桐治下での出来事ですから、時代的に尼崎藩時代の呼称である”兵庫陣屋”と書き換えることは二重の間違いじゃないですか。確実に史料の裏付けがある兵庫津の宿所の記述としては、”浜本陣および阿弥陀寺”とするのが適切でしょう。 Jinzuu 2010年5月11日 (火) 10:46 (UTC)
- コメントJinzuu氏は、Wikipedia:礼儀を忘れないの[もっと深刻な例]に記載されている「相手をあざけったり馬鹿にすること」の態度を改めることが先ではないかと思います。出典に関する信ぴょう性に関して議論することは大事で、私も「解釈間違いや記載見落としが無いとは言えません」と上記に記載しているように、もし私の記載部分に誤りがありましたら、訂正することは問題ありません。しかし、信ぴょう性のみに議論すればよいのであって、「馬鹿げた主張」と他人をおとしめ、自分の正当性を主張する必要はありません。上記記載通り「まずはこの態度の明確に改めていただけますよう希望します」に変更ありません。態度を改めて頂ければ、上記ポイントに関してはお答えいたします。--ブレイズマン 2010年5月11日 (火) 12:26 (UTC)
- なお、私が上で”兵庫港での宿所は旅籠・商家での分宿であった”と指摘したところ、あなたは”兵庫城”を唐突に”兵庫陣屋および兵庫陣屋町”と書き換えてしまっていますが、これも非常に不適切な記述でしょうね。実際には”阿弥陀寺”は兵庫城至近の城下にあるにも関わらず、現状の兵庫の項は”阿弥陀寺、兵庫陣屋および兵庫陣屋町”というちぐはぐな整合性のない記述になってしまっています。また、特定の施設名ではなく”兵庫陣屋町”と書くようなこと自体が、例えば他項を”江戸城と江戸城下町”、”淀城と淀城下町”等々と書き換えるようなもので、ほとんど意味がない上に一覧としての他所との整合性も全く取れていません。さらに、兵庫城が宿所なのかという問題とは別に、第一回通信使は片桐治下での出来事ですから、時代的に尼崎藩時代の呼称である”兵庫陣屋”と書き換えることは二重の間違いじゃないですか。確実に史料の裏付けがある兵庫津の宿所の記述としては、”浜本陣および阿弥陀寺”とするのが適切でしょう。 Jinzuu 2010年5月11日 (火) 10:46 (UTC)
- 以下、出典の現物を見てのコメントでなく申し訳ありません。他人の常識と私の常識が同じであるか分かりませんが、私が常識的に考えるに、城下の寺院や本陣・脇本陣ならいざ知らず、兵庫陣屋に通信使が宿泊したということはちょっと考えにくく思います。今で言えば、上京途上の外国使節団が兵庫県庁舎に宿泊するようなことではないでしょうか?出典を再調査した方がよいと思います。--Yasumi 2010年5月12日 (水) 12:44 (UTC)
- コメントコメント有難うございます。『よみがえる兵庫津』のP.88には「一行を接待する「御馳走場」に指定されいたことから、往復ともに寄港・宿泊している」との記載があります。私が認識している兵庫城の城域と言うのは、土塁で囲まれた部分、兵庫津絵図にも見にくいかもしれませんが兵庫城の上部には土塁が記載されており、寺町や民家が城域内にある惣構えのようになっていたと思われます。上記に「兵庫城は大坂城や尼崎城のような城郭ではありません」としていたのはその為であります。また本記述『ひょうごの城紀行』、『日本城郭大系』という城郭関係の書籍に同様の記載がありました。ただ現在は浜本陣というページが作成されその文中に「兵庫城の南一帯」とありますので、より正確になったと考えます。--ブレイズマン 2010年5月12日 (水) 17:24 (UTC)
- Yasumiさん、コメントありがとうございます。私の第一印象も、同様に考えて城に宿泊させるというのはどうも腑に落ちないというものでした。また、朝鮮通信使の側としてもそれには抵抗があるのではないかとも思えますし。既に関連部分はとりあえず第一次資料で間違いないと確認できるものに差し替えましたが、もし何かお気づきの点があればご指摘ください。 Jinzuu 2010年5月12日 (水) 13:42 (UTC)
出典の確認
[編集]表題の件、「日本の見た朝鮮通信使」節における「製述官、書記、写字官の負担となったため、(略)通信使に直接に頼むことは禁じられるようになった」の記述に添付された脚注によればその出典は「仲俣 (2007) p.171」とのことですが、この仲俣 (2007) に紐付く書誌情報が「参考文献」節に見当たりません。ちょっと履歴も長く確認が難しいのでご存じ方いらしたら補完をお願いします。--Mizuhara gumi(会話) 2018年3月15日 (木) 14:42 (UTC)