ノート:木之本興三
2010年の6月まで書かれていた以下の記述について、出典を出して変更しました。今後、議論になると思われるので、ここへ書いておきます。
日本サッカーリーグでの改革事項
[編集]- JSLのPR(釜本邦茂のヌードポスターの製作)。
- 専務主事を改革志向の強い森健兒に交代。
- 読売クラブなどの実質的なプロプレーヤーの存在を追認し、スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度を導入。
- JSL活性化委員会の創設(名目的にはJSLの改革検討委員会であるが実質的なプロリーグ化検討委員会)。
- プロサッカーリーグ開設準備委員会の創設。
◎変更理由と疑問。
- JSLのPR(釜本邦茂のヌードポスターの製作)。は、多くの文献に記述されているのでいいが[1][2]、参考文献で出されている『空っぽのスタジアムからの挑戦』のp108に「木之本に大きな仕事をしたという意識はなかった。たしかにきっかけはつくったが、あれはあくまで笠原を中心とした博報堂がやったことなのだ」と書かれている。そういう事であっても、このポスター製作では、博報堂が初めて日本サッカー協会に関わり、後のJリーグ創設に大きな役割を果たしたという功績があります。これに関連付けるように、その下の評価のところで、「中でも同級生が博報堂に勤めていた事がきっかけで上記の第20回日本リーグの公式ポスターに「格闘宣言」の惹句で釜本邦茂のヌードを起用し、後にJリーグ開幕も同社が手がけ、以降Jリーグと博報堂は長く付き合う事となる。」と書かれています。ここの同級生が博報堂に勤めていたという部分の出典が見つかりません。参考文献で出されている『空っぽのスタジアムからの挑戦』や、木之本の『日刊ゲンダイ』の連載[3]には書かれていないので、出典を出してもらった方がいいですね。元々、サッカー協会の興行は、ペレのサヨナラゲームから、1979年のワールドユース、キリンカップ、トヨタカップ、ゼロックスカップなど、全部電通が手がけてきたわけですが[4][5]、電通はJリーグをやる気がなく、博報堂がやることになったという経緯があります[6][7][8]。もちろん日本の広告代理店は電通と博報堂の二つというわけではありませんが、博報堂がやらなければ、Jリーグは出来なかった、あるいは上手くいかなかったと思います[9]。つまり「木之本の同級生が博報堂に勤めていたいないに関わらず」博報堂は日本サッカー協会やJSLに食い込んできたと思いますがどうでしょう。
- 専務主事を改革志向の強い森健兒に交代。
◎森は木之本の上司で、部下が上司を交代という言い方はしません。『空っぽのスタジアムからの挑戦、p128』に「総務主事になって下さい」と木之本が森に頼んだと書かれています。こういう部下の希望を改革事項とは言いません。これは削除しました。
- 読売クラブなどの実質的なプロプレーヤーの存在を追認し、スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度を導入。
◎木之本は部下として関わっているようですが(空っぽのスタジアムからの挑戦、p150-157)、多くの文献で、森がスペシャル・ライセンス・プレーヤー制度を導入したと記述されています[10][11]。森自身も私が導入したと話しています[12]。こういう部下として関わったというものは、この項目に限らず、功績としての記述が難しいとは思います。主体的に関わったということであれば記述してもいいと思いますが、そういう出典が見つからなかったので、これも削除しました。 木之本氏は本人も言っていますが、木之本はサッカー選手・指導者としては実績がほとんど0の人で[13]、木之本の兄から木之本の大病を聞かされた長沼健が、西村章一と共に古河電工の中に居場所をこしらえ、森健兒に頼んでJSL事務局長に抜擢したものです[14][15]。Jリーグ創設以降に重要人物になった人で、それ以前の影響力はあまりないでしょう。
- JSL活性化委員会の創設(名目的にはJSLの改革検討委員会であるが実質的なプロリーグ化検討委員会)。
◎「この会議と骨格と人選は、森健兒と木之本の間で話し合われた」と『空っぽのスタジアムからの挑戦』のp163から書かれています。この時、委員長は森が就くのが自然だったが、森は名古屋での仕事が忙しすぎたため、森が小倉純二に委員長就任を頼んだものです(空っぽのスタジアムからの挑戦、p164)。なお、川淵三郎は「プロリーグの出発点はJSLが1988年2月に立ち上げた第一次活性化委員会だ」と書いていますが[9]、川淵が森の後を引き継ぎ総務主事になったのはこの年の8月で、7回あった「第一次活性化委員会」の会議には一度も出席しておらず(サッカー界から離れてサラリーマンをしていたため)活性化委員会の参加は、この後の「第二次活性化委員会」から[16][9]。
この部分は
- プロサッカーリーグ開設準備委員会の創設。
◎理事会が終わるとすぐに長沼が川淵のもとへ寄ってきて言った。「やったな。すぐに開設準備委員会に切り替えてやるから」という『空っぽのスタジアムからの挑戦』のp196、197からの記述と思われるますが、実際はこの「プロサッカーリーグ開設準備委員会」というものは存在しないようで、1991年3月に開設された「プロリーグ設立準備室」と思われます[18][19]。これは「プロリーグ準備検討委員会」が実質昇格したものでないでしょうか[20][21]。「プロサッカーリーグ開設準備委員会」というものが何かはっきり分からない上、それを木之本が創設したのかも分からないので、一旦削除しました。
木之本の『日刊ゲンダイ』の連載は、Jリーグ立ち上げの経緯はあまり書かれておらず[22]。『プロジェクトX』も、木之本と永井良和の友情物語が主で、Jリーグ立ち上げの話はあまり出てきません。『空っぽのスタジアムからの挑戦』が非常に詳しく書かれていますが、これに書かれていない記述は出典が不明です。他に出典があるなら出してもらえるといいですが。
--123.255.147.96 2010年7月30日 (金) 17:50 (UTC)
脚注
[編集]- ^ 無題ドキュメント - e-doctor
- ^ “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)
- ^ 『日刊ゲンダイ』「Jリーグへの遺言」(2006年11月21日~12月18日)
- ^ ダスラーと電通の利害が一致して生まれたISL - ビジネススタイル
- ^ スポーツナビ|サッカー|トヨタカップ|特別インタビュー企画「トヨタカップを呼んだ男たち」
- ^ 長沼健さん、ご逝去 (スポーツ総合研究所 Blog)
- ^ スポーツ総合研究所 Blog: 2005年03月 アーカイブ(広瀬一郎は電通の当時のサッカー担当者))
- ^ Musicman'sリレー
- ^ a b c 私の履歴書 川淵三郎
- ^ Japan Fact Sheet サッカー
- ^ 大住良之『サッカーへの招待』岩波書店、1993年、p19
- ^ 『日刊ゲンダイ』「いま沈黙を破る」(2007年4月10日~4月28日)
- ^ SOCCER CLICK
- ^ 空っぽのスタジアムからの挑戦、p99、139、140、149
- ^ 『サッカー批評』40号、双葉社、p38-42、
- ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』p192
- ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』p163
- ^ JFAの沿革/歴史 | JFA | JFA
- ^ Jリーグ公式サイト:about Jリーグ
- ^ J's GOAL | オフィシャルニュース | 長沼 健 日本サッカー協会最高顧問が逝去
- ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』p96、197
- ^ 『日刊ゲンダイ』「Jリーグへの遺言」(2006年11月21日~12月18日)