ノート:本庄繁長

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「この報告を手にした繁長が城外に打って出た為、伊達軍は挟撃され、茂庭街道を経て北目城へ撤退した。」とありますが、この「福島城外に打って出た」とする文章の出典と資料を明示してください。

伊達町史第一巻通史編上を参照して下さい。若しくは、渡辺三省著「本庄氏と色部氏」をお読み下さい。--Funhouse 2009年5月28日 (木) 22:55 (UTC)[返信]

「伊達町史」「川俣町史」「桑折町史」「仙台市史」のいずれにも本庄繁長自ら「福島城外に打って出た」典拠となる1次資料は明示されていません。渡辺三省氏に関して:「正伝直江兼続 関ヶ原縦横」の中で、氏は本庄繁長の福島での動向について陸軍参謀本部「日本戦史」の見解に沿って論述されています。よって「日本戦史」福島の戦いの項目で、伊達軍の撤退が梁川城の横田大学の内通が原因にあること(同書)の一節を恣意的に削除することは、渡辺氏の論拠の否定にも繋がることにもなるため、再度掲載し直しておきます。(これについて反論があれば、ご意見を伺います) 「伊達町史」の編纂史と渡辺氏の個人的な見解のみでは、確かな根拠にはなりません。改めて確かな1次資料を提示して下さい。--124.84.61.66 2009年5月29日 (金) 04:13 (UTC)[返信]


渡辺三省氏は陸軍参謀本部「日本戦史」の説を、「本庄氏と色部氏」の第四章で「伊達氏四代冶家記録」によったもので、このような一方的記述になった、と述べられています。 したがって、貴殿の検証不足ではないでしょうか。一次史料の提示を求めれていますが、貴殿の説も2次史料によるものなので、公平さに欠けるのは同じ事だとおもいます。 --Funhouse 2009年5月30日 (土) 02:55 (UTC)[返信]

「日本戦史」は「伊達治家記録」慶長5年10月6日、「上杉後年譜」慶長5年10月22日、翌6年2月の戦いについて、各々掲載しています--124.84.61.66 2009年6月1日 (月) 04:22 (UTC)。ご参照ください。[返信]