ノート:本田雅和
叙情的な記述は不要
[編集]何故か、冒頭の人物紹介で、「○○に憧れて」とか、細かい経緯を書くことに固執しているユーザーがいますが、通常人物記事の冒頭経歴に、校名も分からないのに、「地元の高校を卒業後」などと入れたり、○○に憧れてなどと入れたりする必要性が不明です。たとえ事実であろうと、事典は何でも知っていることを書けば良いわけではありません。ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:中立的な観点などをご覧頂き、あくまで個人の思い入れを反映させて記述するものではないことを認識して頂ければと思います。Wikipedia:コメント依頼も出しておきますね。--Huskys 2007年4月30日 (月) 03:27 (UTC)
ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:中立的な観点の具体的にどの条項に抵触するのか教えてください。Wikipedia:コメント依頼の提出、よろしくお願いします。--アジャパー天国 2007年4月30日 (月) 04:07 (UTC)
- 記事内容の議論ということで、Wikipedia:コメント依頼を出しておきました。宜しくお願いします。勿論、これが即「個人の思い入れや主観を反映させての記述」とは思いませんが、極力、特に冒頭の概要は事実経歴のみを書き、そこに「○○に憧れて」とか挟む必要はないのでは、ということです。それがたとえ本当であってもですね。--Huskys 2007年4月30日 (月) 04:49 (UTC)
コメント依頼から来ました。出身高校はともかく、誰に憧れて(誰を目指して)出発したかというのは記者としての原点なので人物を理解する上で助けになると思います。出典が存在するようなのでWikipedia:検証可能性を満たしており、Wikipedia:存命人物の伝記の出典無き批判は除去という方針にも該当せず、削除対象とはならないと考えます。削除すべきだという論拠が「そうしたものを省き、シンプルな事実のみを記載するパターンが多く」という根拠のはっきりしない主張だけではあまりに弱いのではないでしょうか。--辻朋季 2007年4月30日 (月) 04:55 (UTC)
- 仰ることは分かります。私としては、冒頭概要の端的な経歴の項に、そうした内容を挟んでいるのは違和感があるということで、その下の「人物」の項は、それこそエピソード的な記述になりますし、入れるのでしたらそちらが適当かと思います。単なる個人の憶測や感想ではなく、きちんと出典もあるようですし。あと、最初に「叙述的」と書いたのは、「叙情的」としたつもりが書き間違いでしたので、訂正しておきます。だいぶ意味が違ってきますので。失礼しました(苦笑)--Huskys 2007年4月30日 (月) 05:33 (UTC)
Number氏が一部改稿したようですね。まあ、これでいいのではないでしょうか。--アジャパー天国 2007年5月1日 (火) 12:44 (UTC)
- 私もそう思います。このような体裁で「人物」の項に入っているのでしたら、違和感はあまりないと思います。出典もあることですし。最初からこうだと良かったですね(笑)。Numberさんおつかれさまです。お騒がせしました。--Huskys 2007年5月2日 (水) 02:40 (UTC)
中立性について
[編集]後半のサンデー毎日、週刊新潮の記事を基にした記述は批判側に偏りすぎている気がします。 報じられた内容について本人が認めていない訳ですから、事実として断定もできないものですし。 本田氏を批判したい意図が感じられる文章です。いずれにせよ、週刊誌報道の憶測だけをもとにこの記事の〆をしてしまってはたしていいのでしょうか?もちろんソースとして有効なのは分かりますが。--豪烈 2009年5月27日 (水) 16:17 (UTC)
魚住昭による本田擁護論(『月刊現代』2005年9月号)についても言及されているため、必ずしも批判側に偏っているとは思いません。なお『サンデー毎日』の記事は全文を読めば明らかなように、「リベラルな言論」を売りにしている朝日新聞社が社員に対する監視体制を強化して本田のような「型にはまらない記者」を現場から排除したことを前記魚住の論評に基づいて批判する内容となっており、批判の矛先は本田ではなく朝日新聞社の管理主義化に向けられています。近況について本田自身の発言があればそれを当人の言い分として紹介できますが、残念ながら当人は近況について何も発言していないようです。--Keysrapid 2009年5月27日 (水) 23:20 (UTC)
了解しました。--豪烈 2009年5月28日 (木) 09:36 (UTC)