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ノート:東京都立松沢病院

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1879年(明治12年)7月に当時の東京府上野の養育院内病室の一部に設けられた精神病室が東京府癲狂院(てんきょういん)と命名されたのをその起源とする。国庫支弁で養育院に在院中の精神病患者50人を収容した。明治13年に中井常次郎が専任の癲狂院長となった。その後1881年(明治14年)8月に本郷区向ヶ丘に新築移転し、敷地が広くなり、3倍の患者を収容し得るようになり、男女病棟を区別した。1886年(明治19年)6月に小石川区巣鴨駕籠町に移転した。敷地17000坪に建物900余坪を建造し、明治20年には東京帝国大学と交渉の結果、自費患者以外を臨床講義用として学生に供覧した。ついで院長制度をあらため、東大医科大学教授榊俶博士が院長に就任した。

1889年(明治22年)に癲狂院の名称が世にきらわれることをおもんぱかって東京府巣鴨病院と改称。明治30年榊俶が死去し、呉秀三博士が医科大学助教授をもって医長心得を嘱託された。同年呉が命によりドイツ、オーストリアに留学中は片山国嘉博士がかわって医長を嘱託された。33年精神病者監護法が発布され、施療患者の一部と行旅患者とを市町村委託者とした。34年呉が帰国し、教授に任命、精神病学講座を担当し、本院の医長を嘱託された。呉は強迫衣を撤去し、作業治療をはじめ、躁狂室構造をあらためて持続浴をつくり、構外運動制をさだめ、従来の病衣に「狂」の字を染め出したのを廃止するなど面目を一新した。37年東京府と大学との協議の結果、医長制を廃止して院長制度とし、呉が院長となった。--121.92.75.78 2008年2月20日 (水) 07:13 (UTC)[返信]

上記文章は最後の2文目を除き、『東京大学医学部百年史』(東京大学医学部創立百年記念会編、東京大学出版会、1967年)pp.617-622(江副勉執筆部分)を要約したもののようです。--Tsop9 2009年9月30日 (水) 13:23 (UTC)[返信]