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ノート:板取川

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板取ダムの件

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記事には『ダムの型式・規模・湛水面積・総貯水容量等は不明であるが、完成すると旧板取村の3分の2が水没する事になり、』とあります。 水源連という団体によると、旧板取村内を流れる板取川の最上流部の川浦渓谷付近にダムは計画されていた ようです。水源連による板取ダム予定地のマップを見ると、旧板取村の2/3はあまりにも誇大な感じがします。

それで、今更「出典は?」って書くつもりは無く自力で解決したいのですが、どのあたりから調査に手を付けて良いのか分かりません。どなたかご指導いただけると幸いです。--Earthbound1960会話2016年8月10日 (水) 14:00 (UTC)[返信]

自分なりに加筆するとしたら『ダムの型式・規模・湛水面積・総貯水容量等は不明であるが、完成すると旧板取村の3分の2が水没する事になるという説もあるが、水源連(水源開発問題全国連絡会)の調査報告によると旧板取村内を流れる板取川の最上流部の川浦渓谷付近にダムは計画されていたようであり(水源連による板取ダム予定地のマップ)、『飛騨 美濃 紅葉三十三選地』の一つである秘境川浦渓谷が完全に水没していたと思われる。』という感じにしたいと思います。
『飛騨 美濃 紅葉三十三選地』と『川浦渓谷』は別途出典します。
今日から1ヶ月、ご意見、活発な議論をお願いします。意見が無い場合は上記のごとく追加加筆させていただきます。--Earthbound1960会話2016年8月11日 (木) 21:22 (UTC)[返信]
コメント調査不足で申し訳ありません。『飛騨 美濃 紅葉三十三選地』は『飛騨・美濃紅葉三十三選』としてに記事として出展されておりました。--Earthbound1960会話2016年8月11日 (木) 21:33 (UTC)[返信]

コメント私の会話ページにもお知らせがありましたので参りました。が、私は「ダム」には疎いですし、この地域のことにも疎いので、外野の雑談レベルに聞いていください。

  • 日本のウィキペディアでダムと言えば利用者:河川一等兵さんが大家でらっしゃいます。昨秋以来おやすみされているようなので、どうかわかりませんが、利用者ページの「使用参考文献」だけでも参考になると思います。
  • 情報源探しですが、まずは岐阜県立図書館の検索ページで「板取村」や「板取 ダム」を検索します。(Earthbound1960さんであれば、岐阜県立図書館あたりへ赴くことは現実的に可能だろう、という前提です。)
  • まず『板取村史』(1982)は欠かせないでしょう。刊行年代もダムに揺れていた時期のハズで、ちょうどいい感じです。
  • 『板取村の歴史』(1967)というのもあります。年代的にダムの話は無いかもしれません。しかし、ダムができると沈んでしまう集落に関する情報はあるかもしれません。
  • 『板取川ダム』(建設省中部地方建設局/編)年不明、というのもあるようです。ぜひチェックしたいですね。
  • 岐阜県百科事典』で「板取川」を調べておくのも欠かせないと思いますが、刊行が1968年なので、ダムに関する情報を得るのは難しいかもしれません。
  • このほか洞戸村の村誌、関市の市史、岐阜県の県史あたりも確認なさってみてはいかがでしょう。
  • 新聞記事は多数ヒットします。
  • 「長良川河口ゼキ」朝日新聞1961.03.07
  • 「長良上流に多目的ダム 候補地は板取 洞戸村」岐阜新聞1965.01.19
  • 「板取洞戸村 村あげてダム建設反対へ」岐阜新聞1965.03.21
  • 「ダム」中日新聞1969.05.10
  • 「ダム」中日新聞1970.12.11
  • 「板取ダム(武儀郡板取村)」1973.10.20
  • 「反対運動再び活発化 河口ゼキ調整の板取ダム建設で」岐阜新聞1973.10.20
  • 「板取ダム」朝日新聞1975.11.08
  • 「10万人が反対署名 河口ゼキ 板取ダム建設」朝日新聞1976.03.03
  • 「杉原ダム建設 板取村 立ち入り調査に調印」中日新聞1976.11.20
  • 「板取ダム」中日新聞1977.05.28
  • 「板取ダム」毎日新聞1977.09.22
  • 「知事 河口ゼキ関連で板取ダムは作らず」朝日新聞1978.06.03
  • 「板取ダム 8割の村民がダム反対」毎日新聞1980.03.15
  • 「板取ダム計画復活に不安 あくまで中止申し入れ」毎日新聞1990.03.13
  • 「板取ダム計画 地元了解なければ建設せぬ 知事表明」朝日新聞1990.03.15
  • 「板取ダム計画 神経とがらす板取村民(トレンド'90ぎふ)」中日新聞1990.04.02
  • 「板取村に揚水式発電所 中電が建設計画申し入れ」朝日新聞1992.09.25
  • 「揚水式発電所で村おこし 板取村 坂内村(サンデー92)」岐阜新聞1992.10.25
  • 「板取村の水力発電所建設可能性調査新年度に詳細調査」1993.02.11
  • 「板取村 揚水式発電所 村長、建設前向き発言」読売新聞1993.03.09
  • 「板取村 発電所建設構想に揺れる板取村(ルポ93ぎふ)」中日新聞1993.09.06
  • 「板取村杉原地区 発電所と林道の同意書の返還を村に要求」読売新聞1994.01.31
  • 「奥美濃第2水力発電所・板取村」毎日新聞夕刊1994.12.06
  • 「奥美濃第2水力発電所・板取村」中日新聞1995.05.16
  • 「板取村・川浦水力発電所建設に反対の市民団体が「ダムより節電」訴える看板設置」岐阜新聞1997.08.23
  • 「板取村のダム建設計画、村は同意の方向」岐阜新聞1997.08.28
  • 「板取村と中部電力、協定書調印 川浦水力発電所建設へ一歩」岐阜新聞1997.10.01
  • 「板取村議会 川浦発電所の建設同意案、30日の臨時議会で可決へ」中日新聞1997.10.01
  • 「長野県で「揚水発電を考えるシンポジウム」、板取村など参加」岐阜新聞1997.11.26
  • 「中部電力が板取村内に建設中の川浦水力発電所の送電線・川浦分岐線に関する環境影響評価書の縦覧が始まる」中日新聞2001.02.07
  • 「武儀郡板取村川浦地域と吉城郡神岡町山之村地域の2ヶ所を県立自然公園として指定へ」岐阜新聞2001.09.01
  • 「海山町原発誘致・揚水発電所計画の進む板取村に波紋」朝日新聞2001.11.15
  • 「板取村「川浦発電所」運転延期 村づくり暗転」中日新聞2002.03.02
  • 「中部電力が板取村に計画中の川浦水力(揚水)発電所の運転開始がさらに10年延長」中日新聞2002.03.27
  • 「川浦水力発電所計画中止の旧板取村」岐阜新聞2006.03.02
割愛しましたが、1990年頃に村長が建設工事関連の贈収賄で起訴されたニュース、その前後の選挙のニュース、村議会に関するニュース、上流域の漁協に関するニュース、1981年に「村で初の簡易水道が開通」のニュース、あたりも関連性はありそうです。
ざっくり概観した感じでは、1965年から1980年までの「板取ダム」が1982年に中止、それが1990年頃に「復活」し、揚水式水力発電所になって、名前が「奥美濃第2発電所」とか「川浦発電所」とかに変わって(?)川浦ダムになった(?)のかなという感じです。(新聞記事の見出ししかわからないので、これらに連続性・同一性があるのか、全然別の話なのかはわかりません)
また、長良川河口堰も関わっているようで、国交省HPの長良川河口堰建設差止請求控訴事件判決(H10.12.17)の判決文の中にも言及があります。(よく読んでいないので、河口堰と板取ダムのあいだに具体的にどういう関連性があるのかは、私にはわかりません)
お示しの「ダムの予定地」の位置が正しいという前提ですが、これによって村の2/3が水没というのは、考え方によってはありうるのかなとも思いました。1965年というと50年前ですから、2016年の地図ではなくて50年前の地図を確認する必要がありますが、たぶん村の集落は板取川に沿った狭い谷に点在していたはずで、その集落の多くが沈んでしまうということだと思います。「面積」ではなく、「沈んでしまう戸数/人口」でみると、(66%かどうかはともかく)相当な割合が沈むんだという話だったのかもしれません。昔の新聞記事の見出しを眺める限り、1970年代以前の板取村は「秘境」「陸の孤島」「初めて橋が開通」「林業」「養蚕」みたいな話がぽつぽつあります。今の地図を見ると、川に沿って県道52号が走り、川の両岸の農地に市街地が形成されているように見えますが、半世紀前はだいぶ様相が違っていたのかもしれません。(県道52号ができたのは1980年代?)今の地図を見ると「杉原」地区より上流の西側には人家らしきものはなさそうですが、50年前にはあったかもしれません。川浦ダムは板取川-西ヶ洞谷川の上流に建設されているものの、貯めた水は発電のため上大須ダムに送られて根尾川-揖斐川-木曽川に流れています。ということは、川浦ダムができる1990年代以前と以後で西ヶ洞谷川-板取川の水量はそれなりに変化があったかもしれませんし、その結果として川沿いの農地や集落の用地にも変化があったかもしれません。
  • あとは、私の場合、これは「行ってみないとわからん」のですが、関市の図書館や旧板取村の図書館の分室・役所の分所・郷土資料館みたいなところで、郷土資料を漁ります。「地元の小学校の文集」とか「村の古老のはなし」みたいなコピー本レベルの資料が収蔵されていて、そういうのをめくっていると色々おもしろい話が出てくるはずです。そこらへんは、実際の資料と書かれている内容、ウィキペディアにどう書くかについては、検証可能性・信頼できる情報源あたりを両睨みしながら工夫していくことになります。大原則としては図書館/公的機関に資料として収められている以上は「検証可能性」はクリアするのですが、「小学生がお爺ちゃんから聞いた話」レベルだとさすがにどうかとか、然るべき人が古老から聞き取った調査なのかとか、事実として書くのか「○○という証言がある」とか「『○○』によれば」という扱いにするのかとか。場合によっては、それは更なる調査の手がかりに留め、ウィキペディアの出典として直接的には使わないとか。
  • ところで、板取川の上流部なんですが、北緯35度44分36.9秒 東経136度46分25.2秒をみると、国土地理院(電子国土web)では、ここの合流地点の東側を「板取川」、西側を支流の「川浦谷川」としていますが、Yahoo地図では西側を本流の「板取川」としています。「http://www.cbr.mlit.go.jp/kawatomizu/kihonjoho/kasen_code.pdf 河川台帳」・河川台帳(模式図編)(ページ番号がないので「板取川」で検索してください。縦書きになった状態でヒットします。)をみても、「川浦谷川」は支流であり、国土地理院地図に合致します。ここらへんも各種文献でどうなっているのか興味深い点かなあと思いました。河川台帳(国土交通省)・国土地理院に従えば源流部は滝波岳であり、左門岳からくるのは川浦谷川という支流です。どっちを本流として扱うかによって河川延長とか全然違ってくるはずです。(念のため申し添えますが、国交省・国土地理院が一方的に正しいとは限りません。川の長さ・水量・川筋などからいって歴史的にはあっちが本流扱いだったが、昭和○年に○○法ができてこっちが本流に指定されてしまった、というような事情は日本中の川にあります。源流部では「X川」、ここから「A川」、A川とB川の合流後を「C川」、それにD川が合流したあとを「E川」と呼び、下流では「F川」と呼ばれていた。河川法ができて、B川を本流と定めて全体を「E川」と指定された、なんてことのほうが多数でしょう。)今の記事の「53km」とかも出典がないので根拠が不明です。検索すると漁協のページがヒットするのですが、これはいかにもウィキペディアを参照してそうな感じがします。掲載されているかどうかはわかりませんが『日本全河川ルーツ大辞典』(1979)みたいな文献でどう扱われているかを確認なさってはいかがでしょう。(これは完全に雑談ですが、この地方では、川の上流の支流名が「○○洞」というのがちょくちょくあって、そこらへんも特徴的で興味深く感じます。)
  • 私は川に関して書くときはまず「○○川 河川整備計画」みたいなものを総合的・基礎的な資料として骨格にするのですが、板取川の場合には[1]があるものの長良川という大きな川の「最大の支流」なので、「板取川そのもの」に関するものではないという点ではちょっと不利ですね。
  • まあ、全て実際の資料にはあたっていない「予想」にすぎませんので、あとは実際に資料にあたってみてどうなっているかです。いずれにせよ「ダム」のことだけではなく、色んな情報が断片的に出てくるでしょうから、時間をかけて整理していろんな周辺記事の加筆に役立てるって感じになるだろうなあと思います。--柒月例祭会話2016年8月12日 (金) 06:16 (UTC)[返信]
コメント㭍月例祭様、コメントありがとうございます。「板取ダム」と「川浦ダム」は無関係のような気がします。左門岳で記載した上大須ダムが下池で川浦ダムが上池揚水発電所奥美濃発電所で関西電力が作ったもののようです。[2]については目を通したのですが、御指摘のとおり『ちょっと不利です』というか『相当不利』です。
支流の扱いについても矛盾していると私も資料を見て思っていましたので、御指摘大変有りがたいです。
「ダムの予定地」の位置が正しいという前提ですと、板取村史、濃陽志略を読む限り川浦渓谷の上流には人が住んでいたという記載は無い都記憶しております。また、実際に川浦渓谷の上流である川浦谷川から西ヶ洞谷川周辺を歩いてみたのですが、板取ダム建設用の取り付け道路以外には林道と中部電力の高圧電線保守用の林道があるだけで、川浦渓谷以上の渓谷が続いております。(詳しくは将来出展予定の『川浦渓谷』にご期待下さい。)
㭍月例祭様、いろいろと手がかりを教えて頂きありがとうございます。板取川は奇岩の類いも多そうですし、過去の遺跡も結構あります。モネの池株杉で大ブレークして今年は観光客数が100万人の大台を超えそうな感じです。県立図書館と関市観光課でまずは資料を集めてきます。ご指導ありがとうございます。
追伸、㭍月例祭様へのお礼ですが、『村史』って今まで手に取ることも無かったのですが、読んで見ると相当面白いですね。気がつけば『板取村史』『根尾村村史』『北川村村史』村史ではありませんが『岐阜志略』『濃陽志略』と今までに無いジャンルの書籍が本棚に並んでおります(^_^)v--Earthbound1960会話2016年8月12日 (金) 19:26 (UTC)[返信]
返信 㭍月例祭様、意外に新聞の記事を調べるのは大変ですね。岐阜県立図書館で調べ始めたのですが1960年代の中日新聞や岐阜新聞には1ヶ月分をまとめて一冊の書籍にしたものが無く、朝日新聞も記事のダイジェスト版しかありませんでした。市立図書館のほうが新聞に関しては充実しているらしいので、次は市立図書館へ行ってみます。それでもだめなら、中日新聞社と岐阜新聞社へ行ってみます。それ故少々時間がかかると思います。--Earthboud1960会話2016年8月30日 (火) 19:13 (UTC)[返信]

インデント戻します。調査項目も多く、長良川河口堰との関係(政治的問題も有りそう。)もありますので、取り敢えず期限を今日から二ヶ月に延長いたします。勝手に期限延長して申し訳ありません。--Earthboud1960会話2016年9月4日 (日) 19:29 (UTC)[返信]

調べるといろいろ出てきて、ただいま資料整備中です。今や板取村住民状態です。(^_^)--Earthboud1960会話2016年9月26日 (月) 21:31 (UTC)[返信]

川の上流の支流名が「○○洞」になっている件について判明したことがあります。岐阜県では川以外に山や町の名前にも「洞」は結構使われています。岐阜県関市高賀山の隣の山が松葉洞だったり、三田洞村洞戸といった地名にも使われています。角川地名大辞典によると「洞」は「一番奥」という意味で使われているようです。左門岳から板取に向かう道なき道にも「何とか洞」が点在しており、谷だと思って等高線を確認すると「山」というケースがあります。洞だけで記事書けそうな感じですが、手が回りません。--Earthboud1960会話2016年9月27日 (火) 20:25 (UTC)[返信]

少し調査が進みました。文献を当たると伊勢湾台風が板取ダムを造ろうとする元々の理由だったようです。詳細は記事にします。伊勢湾クラスの台風が来ると岐阜市内でも堤防が決壊するので、それを緩和させるため板取川上流にダムを造る計画があったようです。また、水源連の情報とは違って、かなり下流にダムができて板取地区の300戸程度が水没する異なった可能性があるようです。
また、中部電力は中部電力で川浦ダム以外にも、銚子滝上流にダムを造ろうとしていたようです。取り敢えずの調査結果でした。ガリ版の広報板取を閲覧したのですが、ガリ版も悪くないですね。(独自研究です)--Earthboud1960会話2016年10月2日 (日) 08:26 (UTC)[返信]
長良川河口堰の裁判と板取川ダムの関係は裁判資料を見る限り、無理矢理こじつけた感じですね。板取の広報誌でも『板取ダム反対』って記事は多数出ていますが、河口堰の話は全く出ていません。40kmも離れていて、源流部と河口付近では利害関係が一致する可能性も低いので、微妙な感じです。--Earthboud1960会話2016年10月3日 (月) 04:39 (UTC)[返信]

縄文時代の遺跡発見

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田口城後の写真を撮りに板取へ行ったのですが、偶然関市教育委員会の発掘調査に遭遇しました。板取地区のかなり北部です。教育委員会の学芸員の方に聞くと「板取地区では化石や石器、土器の発見はあっても住居跡の発見は今まで無かった。」とのことでした。板取の歴史が書き換わる証拠を目の当たりにして少々感動しております。(正直、遺跡発掘現場を見るのは生まれて初めてでした。)

おはっちょうじ遺跡(旧:小字名と思われます。)と名付けられたこの遺跡は、道路改良工事に伴って出土したそうです。近い将来板取川か関市の記事になると思いますが、今のところ一次資料しかないのでここにアップしておきます。Wikipediaの醍醐味ってこういうことだと思った瞬間です。(独自研究)

--Earthboud1960会話2016年8月16日 (火) 19:44 (UTC)[返信]

調査は完全に完了していませんが加筆修正しました。

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完全に調査が完了しているとは言えませんが、源流は今のところ「2説」ある事と、板取ダムの利用目的・撤回時期については出典が明らかになりましたので加筆修正しました。

あくまで私見ですが、村民から何の反対も無く板取ダムが出来ていたら9.12水害はどうなっていたのか?という疑問が残ります。しかしまた、徳山ダムと同様な問題を岐阜県は抱えることになったかも知れません。

少なくとも言えることは、これから上梓する予定の「川浦渓谷」は無くなっている可能性が高く、株杉は水没し蕪山の頭だけが水面から顔を出していたことでしょう。当地にフラワーパーク板取が出来なかった可能性が高くモネの池の奇跡も起きなかったでしょう。あくまで独自研究の域を出ませんが...--Earthboud1960会話2016年10月4日 (火) 11:19 (UTC)[返信]