ノート:柳沢吉保
柳沢吉保公の肖像ですが甲府一蓮寺となっておりますが、この衣冠束帯の正装のものは、韮崎市清哲町常光寺蔵のものではないでしょうか。—以上の署名の無いコメントは、60.34.187.186(会話/whois)さんが[2008年12月4日 (木) 05:16]に投稿したものです(Iovzyakasi-01-による付記)。
常光寺本の画像がここくらいしか無いのですが、吉保の肖像は同一のものが三幅作成されているので、本画像のように部分であると、一蓮寺本であるという決め手がないのかもしれません。
一蓮寺本は今参照しているのですが、上部にある賛文(?)と画面下の卓上の形ではっきり常光寺本と区別できます。人物の描写に関しては一蓮寺本も常光寺本も、細部にいたるまで同一の描写であるようです。金の彩色が見られる背景の描写などは一蓮寺本と同一に見えるのですが、部分画像である以上は決め手となる識別ができるのか微妙であるかもしれません。--でここ 2009年2月7日 (土) 04:59 (UTC)
>柳沢氏は武田遺臣のうち唯一近世大名化した一族として知られる。 とありますが、武田の遺臣出身の大名には他に土屋氏、米倉氏があり、唯一と言うには当たらないのではないでしょうか。--211.3.126.120 2010年8月27日 (金) 16:22 (UTC)
柳沢吉保に関する噂 の最期の行、死者として というのがおかしいので直そうかと思ったら記事が保護になってるようなので無理でした。--113.148.245.202 2017年12月27日 (水) 22:39 (UTC)
1.「吉保の隠居と晩年」の項
「綱吉がたびたび訪れた六義園・・・」とあるが、その根拠は何か? 将軍綱吉が柳沢吉保邸に58回もの御成をしたことは確かなようだが、それはすべて江戸城の大手門近くにある上邸であったと思われる。 大手門付近は御曲輪内大名小路と呼ばれ、老中や若年寄・町奉行それに親藩などに割り当てられた。 特に吉保は元禄4年2月に大手門に近い場所を拝領し、御成御殿まで造営した。同僚(後輩)の松平輝貞や黒田直邦また老中など、御成先の多くはこの一帯であったと思われ、ここへの御成は警護上の問題もほとんどない。 また、江戸時代の大藩はほとんどが上邸・中邸・下邸を持っていたというのが常識であり、上邸への御成が下邸である「六義園」まで来たということにはならない。2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー
2.柳沢吉保に関する噂 綱吉・吉保に関する悪評を、「俗説によれば」「一説には」と取上げて紹介し、後段で、噂話の出所が『護国女太平記』であろうと捉えて、「それは信憑性がないものとされることが多い」と評しているが、この解説の仕方は適切とはいえない。
『護国女太平記』はそもそも実記ではなく創作物であり、それも綱吉・吉保没後に作られ発刊されたと思われる。登場人物は実名ではなく、綱吉・吉保に仮託して書かれたようだが、それは両者を貶めようと悪意を持って書かれたと評するのが適当である。
なお『護国女太平記』の流通は江戸時代にはまだ限定的であって(信鴻の遺した宴遊日記にはその影響は見られない)、おそらくは明治以降に、他のドラマや小説に引用されて広まったと思われる(「宴遊日記」参照)。 『護国女太平記』から派生したであろう噂話を、「俗説によれば」「一説には」と一般化して解説するのは不適切である。2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー
3.『鸚鵡籠中記』中の噂について この部分は、福留真紀氏の著述の引用のようだが、吉里が謀反を企てていたとする噂が本当に流布していたとすれば、(尾張藩の下級武士の耳にも入ったのだから)それは当然幕府の耳にも届いたであろうと推測される。それが常識的な捉え方である。 謀反はお家の取り潰しもあり得る重罪であり、それが事実とすれば(噂だけであっても)吉里は厳しい詮議を受けお咎めを受けたであろうと考えるのが自然である。 実際には(公的世界では)そういう話は全く聞こえて来ない。逆に八代将軍吉宗から、吉里が甲斐から大和郡山へ転封となった際に、吉里の弟である経隆・時睦に対しても各1万石が与えられている。謀反の噂が流布していたということ自体、まったく信憑性に欠けるものである。 また、従来の社会では「噂は噂を呼び、尾ひれがついて話が膨らむ」のが常識である。老中・小笠原長重の50万石の話もその延長上にあるが、福留氏は著述の後段でその背景を記している。部分的に噂話だけを取り上げて他を省略するのは、噂話と同様大きな誤解をもたらすもので不適切である。2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー
4.「その他」の項
『吉保の有名な言葉に「泰平の世の中で、出世をするのは、金と女を使うに限る」』とあるが、この言葉の出所は何か?典拠を明確に示してもらいたい。
仮に「護国女太平記」や「三王外記」等からの引用とすれば、これらは実記ではなく、これをさも本人が言ったかのような取り上げ方は吉保を冒涜する重大な問題である。 世間にはほとんど知られていないが、吉保が嫡男吉里に与えた「庭訓」をみれば、吉保はこの正反対の人物であったであろうと考えられる。(「吉里に与えた庭訓」は柳沢文庫蔵) 2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー
5. 冒頭
① 柳沢吉保は「江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名」とあるが、一般に「譜代大名は関ケ原の合戦以前から徳川家康の臣下であった大名をいう」とされ、他の譜代大名と同列には論ぜられない。新興の大名であり(同様の例は、間部詮房・田沼意次が知られる)、跡を継いだ吉里は外様大名に位置付けられたともいわれる。(吉里は参勤交代が義務付けられた。また幕府の公職に就いたという話も聞かれない。)
② 囲みの凡例の中に、別名として「十三郎→弥太郎(通称)」とあるが、この出所は何か?
出典を明記してもらいたい。仮に「護国女太平記」であれば問題である。(2021年3月20日 柳沢吉保ウォッチャー)
6.「綱吉の将軍就任と吉保」の元禄3年の条に「出羽守如元」とあるが、これは一般には通じないと思われる。「如元」は人名ではなく「元の如し(従前と同じ、従前と変わらず)」の意味と思われる。(2021年3月20日 柳沢吉保ウォッチャー)
7.宝永2年9月、「護法常王録」は「護法常応録」が正しいと思われる(誤変換?)。(2021年3月20日 柳沢吉保ウォッチャー)
8.「楽只堂年録」
①「柳沢吉保の甲陽日記」とあるが、これは「公用日記」ではないか(誤変換?)②「荻生徂徠により編纂された」とあるが、「楽只堂年録」は元々吉保自身が書いたと思われる。元禄11年9月、京橋から出火した火事(勅額火事)によって柳沢邸(上邸)も罹災し、楽只堂年録を初め大事なものの多くを焼失した。このため荻生徂徠を初めとして家臣に過去の資料を各所から集めさせ編纂させたもので、元禄15年暮れに完成したという(松蔭日記・巻九および巻十五)。その後も吉保自身が隠居するまで書き継いだと思われる(実際は祐筆が筆記したか?)。(2021年3月20日 柳沢吉保ウォッチャー)--Rikugigcmen(会話) 2021年3月20日 (土) 08:22 (UTC)
9.元禄赤穂事件と柳沢吉保
浅野長矩の刃傷事件に対する「即日切腹」の処分は、絶対君主としての将軍綱吉の命を、側用人たる柳沢吉保がそのまま取り図らったのは事実と思われる。しかしながら、赤穂事件を題材とした『忠臣蔵』はそれ自体が創作物(大部分フィクション)であり、また芝居としての『忠臣蔵』自体歴史があり、吉保が事件の黒幕・悪役として描かれるのは時代が大きく下ってからの後世の話(おそらく明治以降)と思われる(【忠臣蔵】参照)。三富新田開発の業績などと同列に論じるのは不適切である。(2021年3月29日 柳沢吉保ウォッチャー)
10.「町子の出自」の件 (後段の「家族」の項も)
「町子の出自は諸説ある」というが、「正親町実豊を父とする本説」と「正親町公通を父とする異説」の二説しかないと思われる。
吉保と町子は、「公通は町子の兄」ということで一貫している。仮に「公通が町子の父」であったとすれば、「公通は吉保に対して嘘をついていた」ということになり、これが公になれば重大な問題となるであろう。
この「正親町公通を父とする説」はS学園のM教授の説と思われるが、これには重大な欠陥がある。
増淵勝一氏訳「柳沢吉保側室の日記・松蔭日記」(1999年2月1日初版)に「町子周辺の人々」の系図が記載されており、これを見るに、公通には「直子」という女がいて(町子と吉保の子)経隆と結婚したという(直子と町子は別人)。また森守氏著の公園文庫「六義園」には、この「直子」の墓は東京・新宿の月桂寺にあり、その碑文には「公通の女直子は、正徳4年10月に江戸に下向し、翌5年2月に経隆に帰(嫁)した。・・・」とあるという。M教授はこの事に全く触れておらず、証明が成されたとは言い難い。(2021年3月29日 柳沢吉保ウォッチャー)--Rikugigcmen(会話) 2021年3月29日 (月) 02:58 (UTC)
11.「町子の出自」の件 (続・町子の母)
『・・・母は水無瀬氏信娘とする説がある。・・・町子の母となる水無瀬氏信娘は新上西門院房子(鷹司房子)の侍女で「常磐井」を称し、房子の伯母にあたる鷹司信子が将軍綱吉の御台所になると、常磐井は「右衛門佐局」と改名し信子に従い下向し、江戸城大奥総取締役となっている。』
この記事は甚だ疑問である。歴史を見るにあたり、時間軸を抑えることを怠って、他の人物と混同した疑いが濃厚である。
常盤井の生年は慶安3年(1650年)、正親町町子の生年は延宝3年(1675年)頃とされる。
鷹司信子と綱吉の縁組が決まり、信子が江戸へ下向したのは寛文4年(1664年)の事。
仮に、常盤井が信子に従って江戸へ下向したとすれば、町子が生まれた頃は京都にいなかったことになり、常盤井を町子の実母とするのは非常に奇妙である(京都へ一時帰ったという話はない)。
また信子下向時、信子14歳・綱吉19歳。綱吉はこの時4代将軍の弟という立場であって、白山御殿に居住していた。5代将軍就任は約束されたものでなく、将軍となったのはそれから16年後の延宝8年(1680年)の事、それも予定外の事であった。
さらに信子下向時、常盤井は15歳。仮に信子に従って大奥へ入ったとしても、大奥総取締役に直結させるのは飛躍である。
『ウィキペディア「鷹司信子」』によれば、信子に従って江戸へ下向したのは、常盤井ではなく「東福門院付の女房」とされる。これが正しいと思われる。
「東福門院」は御水尾天皇の中宮(皇后)で、徳川将軍家の出(2代将軍秀忠の女)であり、「東福門院付の女房」は将軍家の内情やしきたりに詳しかったと思われ、その女房が信子付に選ばれたとすればそれは当然である。(常盤井は信子付ではなく、その妹の房子(後の新上西門院)付であった)
『ウィキペディア「右衛門佐局」』によれば、常盤井が江戸へ下向したのは、貞享元年(1684年)鶴姫付の上臈に抜擢されて、とある(この時35歳)。
綱吉は延宝8年(1680年)に5代将軍に就任した。右衛門佐(常盤井)は貞享4年(1687年)に鶴姫付から江戸城へ戻ったようだが、綱吉もこの時点では将軍に就いてすでに8年、右衛門佐が以降に大奥総取締役となった可能性は十分にある。
補足すると、「右衛門佐」は宝永3年(1706年)3月11日に死去したが、「松蔭日記」には右衛門佐死去に関する記事はない(→←父実豊が元禄16年2月3日に亡くなった際には、悲嘆にくれた様子を記している「巻十五 山水」)。
「右衛門佐」が町子の実母であれば記事があって然るべきだが、実母でなければなくて不思議はない。
一方、吉保が遺した「楽只堂年録」には「右衛門佐」が亡くなった際の記事がある。
それには、右衛門佐は桃井(田中)之政の養母であること、町子の母は正親町実豊の妾で、町子を生んで後正親町家を離れて之政に嫁したこと(町子は正親町家に残った)、右衛門佐は後年(晩年?)之政を養子にしたこと、その親族である町子や経隆が喪に服すべき期間、などが記されている。
増淵勝一訳「柳沢吉保側室の日記 松蔭日記」中に、「町子周辺の人々」系図が記載されているが(P299)、「楽只堂年録」の記事とほゞ一致する。(ただし、田中半蔵と賀純の父子関係は逆か?)
町子の母の名は不明である(歴史上の女性の実名はそのほとんどが不明である)。
「楽只堂年録」こそ価値の高い一級資料である。(2021年6月25日 柳沢吉保ウォッチャー)
12.桂昌院の従一位叙任について
「楽只堂年録」や「松蔭日記」には関白近衛基煕の名は稀にしか見えない。あるのは正しく、吉保の側室町子の兄、正親町公通の名である。正親町公通もまた霊元上皇の側に仕えた高位の公卿であり、元禄6年(1693年)から武家伝奏役を務め、宝永2年には正二位に昇進している。「楽只堂年録」や「松蔭日記」に頻繁に登場し、霊元上皇とのパイプ役となったのは間違いなく、桂昌院の従一位叙任についても公通の働きが大きかったと思われる。
なお、注釈3にある「綱吉と家宣が対立していた」という見方も誤認と思われる。
綱吉の存命中に家宣が対立していたとすれば、逆に重大な問題がある。越後騒動の裁定し直しや家光と忠長の先例もあり、家宣が綱吉と対立してそのままですむはずはない。
家宣(甲府藩主時代綱豊)は宝永元年暮に五代将軍綱吉の世子(継嗣)と決まって西の丸に入った(これも吉保の尽力の結果といわれる)。
綱吉が宝永6年正月に没するまでの5年間、家宣は綱吉の近くで過ごした。この間、家宣は宝永3年2月を初めとして柳沢吉保邸に数度御成をしており、特に同年10月には綱吉と家宣揃って吉保邸に御成をした。また、宝永5年7月に家宣の側室すめの方が懐妊した際には、家宣からの依頼で斎はだ帯(岩田帯)を町子が作って贈ったという(松蔭日記)。これらは、対立を否定するに足る十分な状況証拠である。
(霊元上皇ゆかりの貴重な史料・歴史的史料が柳沢文庫に伝わり、さらに、東京・文京区の六義園にも、霊元上皇選定の「六義園八景」の碑(「新脩六義園碑」)が伝存している。)(2021年6月25日 柳沢吉保ウォッチャー)
○通称弥太郎について
先に「5.冒頭」②で疑問を呈した「通称弥太郎」について、注釈を加える。
寛文12年(1672)、武田信玄百回忌にあたり、父安忠とともに吉保も「弥太郎」の名で奉加帳に名を連ねたという(山梨県恵林寺に奉加帳が伝存)。また、元禄年間に作成された「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」の「柳沢吉保評伝」の中に「初の名は弥太郎」とある。
ただし、当時の武家社会では節目節目で頻繁に名を更めた。出生時、髪置時(5歳)、元服時(15歳頃)、家督相続時、公式の出仕時、隠居時、逝去時等々。一時弥太郎と称したのは事実のようだが、長期間使われたかは不明(疑問)であり、これを通称と位置付けるのは誤解を招きかねず不適切である。(2021年6月25日 柳沢吉保ウォッチャー)
--Rikugigcmen(会話) 2021年6月25日 (金) 12:03 (UTC)