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ノート:柳生一族の陰謀/過去ログ1

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変更の要点

[編集]
  • 出典をより信頼性の高い物に変更しました。
  • 興行収入と日本アカデミー賞受賞の件は重複しているので一つにしました。
  • 千葉真一が深作に『裏柳生』という企画を提出したという記述ですが、本文に概ね書きましたが、千葉の書籍以外の関係者の文献にそうした記述が全くないですね。深作の著書を色々見てるんですが、千葉から企画を受け取ったという記述が見つかりません。『映画監督深作欣二』だと、千葉に対する言及は「いきなり柳生十兵衛をやって、それなりの成果を挙げた。ラストで家光の首を飛ばして、それで『夢でござある!』になるわけだけど、千葉は良かったですよね」だけですね(同書358頁)。千葉の企画が採用されたのなら、当然映画のタイトルロールに書かれるはずの「企画・千葉真一」や、少なくとも「原案・千葉真一」のようなクレジットもありません。千葉が企画を出して、それが採用されたと自身で認識があるなら、映画の公開時に自分の名前が企画や原案にクレジットがなければクレームを付けるのが普通ですよね? 何でクレームを付けないのでしょうか? 勿論JACによる忍者のスタントシーンは千葉が演出のアイデアを出したものと思いますが、映画全体の企画は千葉は関係ないんじゃないですかね。千葉が映画の企画者かのような記述は正しくないと思いますよ。
コメント 219.106.59.119さんが当該ページで編集された「ところがこの千葉が企画書を提出したという話は、千葉だけが言っている話で、『クロニクル東映』のような東映の公式本には全く書かれておらず、当事者である深作や高岩らの著書・インタビューでも千葉が企画を提出したという記述は見当たらない。千葉の企画が採用されたのなら、当然映画のタイトル・ロールに書かれるはずの「企画・千葉真一」、少なくとも「原案・千葉真一」のようなクレジットもない。」までは、219.106.59.119さんが自ら示した出典(『映画監督深作欣二』『クロニカル東映』などなど)を読んで思った219.106.59.119さんの意見であり、斜体表記にした個所はWikipedia:独自研究は載せないに該当しますのでコメントアウトしました。本来は削除しても問題ないと思いますが。Wikipedia:検証可能性には「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」とあり、我々編集者が出典の正誤を判断してはいけません。異なる両論(企画に複数の説)がある場合、Wikipedia:中立的な観点に則り、双方の出典を付記した上で編集すればいいのであって、219.106.59.119さんが新たに示した出典に掲載されている内容を加筆すればいいでしょう。千葉が企画した作品でないと記されている出典があるならともかく、「載ってないや見当たらない」は「千葉が企画したものでない」とイコールではありません。編集者は出典に載っていることだけをWikipediaに加筆すべきであって、正しいとか正しくないとかを編集者が判断してはいけない行為です。--125.195.16.221 2015年4月13日 (月) 09:02 (UTC)

>125.195.16.221さんは、とにかく色々理由を付けて、あたかも本作が千葉の企画のような書き方をします。斜体表記にしたこの部分、「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出していた」を、この場所へ書くと千葉の企画があたかも採用されて、あるいは反映されて作品そのものの企画者かのような印象を与えます。私は千葉が好きでも嫌いでもないので、本来どちらでも良いことなのですが、ウィキペディアの信頼性が損なわれてしまうことが残念に思い疑問を提出しました。Wiki内の千葉関係の項目は、一部の熱狂的な千葉ファンによって、千葉を中心とし過ぎた内容が多く中立的でない気がします。今回の反論も予想通りです。「千葉が企画を提出した」という記述を本編に書かない方がいいと思う理由ですが、①千葉は映画の正式なキャストクレジットに企画、脚本、原案のいずれにも書かれていない。②千葉が深作に企画を提出したという話は、深作が2003年に亡くなって以降、千葉が雑誌インタビューや自著、トークショーなどで話しているもので、深作の生前、深作との対談などで話しているわけではない。いわば死人に口無しの状態。③その深作を始め、映画の企画として名前を連ねている4人から千葉が企画を提出したという証言がない。また他の関係者からの証言もない。④出典も千葉の著書や千葉のインタビュー、それを参考にした二次資料に限られ、第三者が書いた出典もない。まず①の時点で正式なキャストクレジットに企画者として、千葉の名前が無いわけですから、千葉の企画が採用されたという関係者の証言が必要でしょう。千葉一人が企画を出したと言っているだけでは信用できません。現時点の出典の弱さでは、千葉の企画うんぬんの話は本編に書くべきでないでしょう。どうしても書きたいなら逸話の節に「なお本作の企画を千葉真一が深作欣二に提出したと証言している。但し、正式に企画・原案などのクレジットに千葉の名前はなく、深作を始め関係者にそのような証言は見当たらない」というように書くならいいと思います。あなたと私で議論しても埒があかないと思われますのでWikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメントに提出しました。他の方の意見を聞いてみたいと思います。--219.106.54.19 2015年4月16日 (木) 15:36 (UTC)

コメントまずIP変わってますが125.195.16.221です。流れ的に219.106.59.119=219.106.54.19さんということでしょう。コメント依頼をされてるようですが、追加でコメントさせていただきます。

1. Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」

「検証可能性」とは編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。

とあるとおり、219.106.54.19さんに出典の中身を真実かどうか検証する役割はありません。219.106.54.19さんが主張されてる

①千葉は映画の正式なキャストクレジットに企画、脚本、原案のいずれにも書かれていない。
②千葉が深作に企画を提出したという話は、深作が2003年に亡くなって以降、千葉が雑誌インタビューや自著、トークショーなどで話しているもので、深作の生前、深作との対談などで話しているわけではない。いわば死人に口無しの状態。
③その深作を始め、映画の企画として名前を連ねている4人から千葉が企画を提出したという証言がない。また他の関係者からの証言もない。
④出典も千葉の著書や千葉のインタビュー、それを参考にした二次資料に限られ、第三者が書いた出典もない

は、219.106.54.19さんがその種の調査をしてはいけないと、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に示されてるとおりです。

2. 前回コメントした通り、異なる両論(企画に複数の説)がある場合、Wikipedia:中立的な観点に則り、双方の出典を付記した上で編集すればいいのです。WP:YESPOVを参照してもらえれば手っ取り早いのですが、どうも219.106.54.19さんは前回ご案内したにも関わらずご参照しておられないようなので、一部抜粋します。

意見を事実として記さない。 一般的に、記事にはそのトピックについて重要な意見を含んでいます。しかしその意見はウィキペディアの意見として記述してはなりません。その代わりに、誰の意見であるかを文章で明記するか、あるいはそれが許される場合なら、大多数の観点などとして述べられるべきです。例えば「大量虐殺は悪行である」と述べてはいけません、しかし「ジョーンは大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と述べることはできます。

とあるように、前回私が指摘した219.106.54.19さんの斜体表記に該当します。どこにも記されてないことを219.106.54.19さんが執筆してはいけません。中立的観点にはこのほかにもいろいろ記されてますが、219.106.54.19さんにはよくご確認頂ければ幸いです。

3. 219.106.54.19さんはしきりに千葉の発言は信じられないと言い張られますが、当該記事で担保されてる千葉の発言は全て二次資料に該当します。百歩譲って千葉の著書は除外しても、

  • “千葉真一、深作欣二の初時代劇の教えに感謝”. アサ芸+. 徳間書店 (2012年11月28日). 2013年1月1日閲覧。
  • 関口裕子 「千葉真一インタビュー」『映画監督 深作欣二の軌跡』 キネマ旬報社、2003年、22 - 27頁。
  • a b “裏YAGYU”. 第1回公演. Project JAX. 2015年4月16日閲覧。

この3つは二次資料として成立するものです。

4. 余談ですが1981年の映画『冒険者カミカゼ』は企画を千葉真一が出したと公式パンフレットに掲載されてますが、クレジットタイトルの企画には千葉の名前はありません。ここから勝手な想像ですが、俳優が企画を提出しても東映ではクレジットタイトルに名前がでないケースもあるのではないでしょうか?そういうこともケースバイケースでありうるので、千葉の発言を信じられないと言い張るのはあくまでも219.106.59.119さんの独自研究でしかないのです。

5. 最後に「埒が明かない」と捨て台詞を吐くのはWikipediaで議論をする姿勢として適切でないことは申し上げておきます。Wikipedia:善意にとるも併せてご確認ください。--125.192.221.53 2015年4月17日 (金) 16:26 (UTC)

3.について追加します。Wikipedia:信頼できる情報源をご参照ください。

  1. 3.で示した3つの出典は、アサ芸+や裏YAGYUというサイトから発信と、『映画監督 深作欣二の軌跡』という書籍がもとで、サイトの元になっている徳間書店やProject JAX、および書籍の出版元であるキネマ旬報社は第三者であり、情報源(出典)は公表されているもので、何らかの手段で大衆(読者)が入手可能であるWP:SOURCESを参照してください)
  2. これらの出典はアクセス(『映画監督 深作欣二の軌跡』を除いては購入や図書館にて閲覧)して検証可能で、信頼できる情報源(出典)である
  3. 219.106.59.119さんや私たちに限らず編集者が出典(情報源)の内容を真実であるか否かと判断してはいけないWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
  4. 219.106.59.119さんの①、②、③、④というご発言は、219.106.59.119さん(編集者)が当該出典(情報源)の内容を真実か否かと判断している行為です。この行為はWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に反していることで、編集者がしてはいけない行為となります。

219.106.59.119さんは「一部の熱狂的な千葉ファンによって、千葉を中心とし過ぎた内容が多く中立的でない気がします。今回の反論も予想通りです。」とのことですが、219.106.59.119さん自身の意見である「ところがこの千葉が企画書を提出したという話は、千葉だけが言っている話で、『クロニクル東映』のような東映の公式本には全く書かれておらず、当事者である深作や高岩らの著書・インタビューでも千葉が企画を提出したという記述は見当たらない。千葉の企画が採用されたのなら、当然映画のタイトル・ロールに書かれるはずの「企画・千葉真一」、少なくとも「原案・千葉真一」のようなクレジットもない。という編集を当該記事でされたほうが、明らかに中立的でないと思います。今一度Wikipedia:中立的な観点が何なんのかをよくご理解されたうえで編集活動をされることを望みます。--125.192.221.53 2015年4月17日 (金) 17:31 (UTC)--125.196.225.148 2015年4月17日 (金) 23:06 (UTC)

以上のことから、219.106.54.19さんの最新案「どうしても書きたいなら逸話の節に「なお本作の企画を千葉真一が深作欣二に提出したと証言している。但し、正式に企画・原案などのクレジットに千葉の名前はなく、深作を始め関係者にそのような証言は見当たらない」というように書くならいいと思います。」にも反対です。これも219.106.54.19さんのその種の調査をした意見でしかなく、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に違反しているからです。--125.196.225.148 2015年4月18日 (土) 00:37 (UTC)

  • コメント コメント依頼から。採用されたのがアイデアだけで、業務としての企画にも関わっていないのであれば、クレジット表記ないことに不思議はありません。 --Yhiroyuki会話2015年4月18日 (土) 05:09 (UTC)

>千葉の話が疑わしいではなくて、千葉サイドのみの出典だけでは、千葉の企画が映画に反映されたかが疑問という感じです。今後このようなケースがまた有り得ると考えられるので、ある程度のルールを決めた方がいいと思いプロジェクト‐ノート:映画の方に私の意見を提出しました。この「ノート:柳生一族の陰謀」を閲覧した上で、意見を下さいと書きましたので、あなたの意見も踏まえての意見が出ると思います。プロジェクト‐ノート:映画は、いい悪いに関わらず、wikiで映画の記事を書く上での基本ルールと思うので、あなたの意見が正論と支持されればもう反対はしません--219.106.44.80 2015年4月18日 (土) 05:28 (UTC)

コメントプロジェクト:映画は基本ルールではありません。編集するのに指針やガイドラインを示してる場であって強制力はないです。Wikipedia:ウィキプロジェクトにプロジェクトの役割が記されてるのでご確認ください。今のところプロジェクト‐ノート:映画では全く意見集まってないようですね。219.106.44.80さんのご意見や編集してきた内容はむしろ、Wikipedia:信頼できる情報源Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないにて合意を取るべき内容かと思います。この4つの方針に抵触しており、ご納得いかないのであれば、これらのノートへ疑義を出せばいい。千葉自身の発言とはいえ、信頼できる第三者が出版・発行してるサイトと書籍であり、これらは検証可能な情報源である以上、Wikipediaの方針に適っているので全く問題なく、219.106.44.80さんの疑問は独自研究に該当するのです。年月日のような具体的な間違いならともかく(人物の誕生日が出典により異なっていても、両方掲載されてるケースもある)、異なる主張を掲載するのはWikipediaでは当然のように行われています。219.106.44.80さんは当該記事の他に
  • 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 4163768106 
岡田茂 (東映)や岡田に関わる記事などでこの本を頻繁に出典として用いられてますが春日は
  • 春日太一「千葉真一 柳生十兵衛の殺陣」『役者は一日にしてならず』(初版第一刷)小学館(原著2015-2-28)、46頁。ISBN 4093798699 
で千葉にインタビューをしており、「企画を提出した」と答えているのをそのまま掲載しています。同じ作者で両方とも信頼できる情報源として成立しているにも関わらず、文藝春秋の『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』は信用できても、小学館の『役者は一日にしてならず』は信用ならないというのは同意できませんし、編集者が出典の良し悪しを独自に判断したり、記事に編集者の意見を書くのは今まで説明してきた理由により完全にWikipediaに違反しています。これからはこのような編集は決してなさらぬよう、よろしくお願いします。--125.196.220.157 2015年4月21日 (火) 08:02 (UTC)

千葉ファン強烈ですなあ とにかく千葉が『柳生一族の陰謀』の企画者にしたいんですねえ いいファンなんでしょうけど。色々ルールを持ち出して私を批判されますが、結局千葉自身が「企画を提出した」以外では、関係者から「千葉が企画を提出した」という証言、出典は見つからないでしょう。意見した手前、もう少し期日をもらって調べてみたいですね。1977年後半からのキネマ旬報は調べてみましたが、1978年1月上旬号に『柳生一族の陰謀』の特集があり、高岩淡とかのインタビューがありますが、企画うんぬんの話はないですね。上の「同じ作者で両方とも信頼できる情報源として成立しているにも関わらず、文藝春秋の『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』は信用できても、小学館の『役者は一日にしてならず』は信用ならないというのは同意できません」って何ですか? そんなこと言いませんよ。春日太一が『あかんやつら』の後書きで書いていますが、『あかんやつら』『時代劇は死なず!』『天才勝新太郎』『仁義なき日本沈没』は全て同じ時に取材が始まっている、大学院在籍していた2003年から、早く一人でも多くの方のお話をうかがっておかなければ取り返しのつかないことになる(つまり皆さん高齢なので)それで東映の関係者にも取材して、今回の関連では松平乗道と高岩淡に取材したと書いていますね。他にも重鎮・渡邊達人なんかにも取材したと書かれています。この時の東映の関係者から聞いた話をまとめた物が前記の著書なのでしょう。春日の著書は信頼性は高いものと考えます。で、春日の著書の『柳生一族の陰謀』を記した記述ですが『あかんやつら』『時代劇は死なず!』は、大体内容が一緒で、『あかんやつら』に「千葉真一もちょうど時代劇をやりたいと、自ら柳生十兵衛を演じる企画書を深作に渡しており、『時代劇復活』への状況は整う」とあり、『時代劇は死なず!』では「〈カラテ映画〉の成功でスターダムにのし上がった千葉真一が時代劇をやりたがっている、ということで千葉主演の企画を練っていたところ、日下部が「それなら、時代劇版の『仁義なき戦い』をやろう」と提案する」と書かれ、この後は企画としてクレジットされてる日下部五朗・松平乗道・高岩淡と深作欣二で話し合われたと書かれています。千葉の企画がどうのという話は書かれていません。この4人のうち、日下部五朗と高岩淡はそれぞれ『シネマの極道』と『銀幕おもいで話』という著書があり、どちらも『柳生一族の陰謀』について書かれた項目がありますが、千葉の話は全くありません。高岩は『クロニクル東映』でも『柳生一族の陰謀』について証言していますが千葉の話は全くありません。今のとこ「千葉が企画を提出した」という話は、千葉自身の証言と春日の著書のみで見られるものです。根本的に深作が「千葉から企画を受け取った」という証言をしてないため、「千葉が深作に企画を提出した」ということが事実だとしても、深作が千葉の企画を読んだのかもはっきり分からず、また読んだとしても、企画会議、脚本段階で深作の意見がどの程度映画に反映されたのかも不明です。深作も千葉の企画が根幹にでもなっているようなら、少しは著書・インタビューでそのような話しをしてもいいような気がします。他人事のように「千葉の柳生十兵衛はよかったですよね」とかですから。また何故企画を提出する相手が深作なのかが分かりません。この時期本気で映画にしたいなら企画を提出するのは岡田社長か、日下部しかないでしょう。深作に提出というのは本気度を感じません。自分が提出しても通らないから深作に提出したんでしょうか?会社に提出する前段階かなという気がします。これだけ関係者が「千葉の企画」について言わないのは、Yhiroyukiさんが言われるように、「採用されたのがアイデアだけ」のように、ここでは「採用されたのは千葉が柳生十兵衛を演じる」だけなんじゃないですかね。それ以外は採用されてないんですよ。それなら全てスッキリします。映画ではよくあることです。

「監督」の深作欣二か、「企画」としてクレジットされている高岩淡・三村敬三・日下部五朗・松平乗道か、「脚本」は野上龍雄・松田寛夫と深作ですが、このうちの誰かが「千葉が企画を提出した」という証言があればこの書き方でも大きな問題を感じません。千葉の企画が本作にどの程度反映されたのか現時点では分からないので、あなたが企画の項目のこの位置に「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出」というこの言葉を入れると、あたかも本作が千葉の企画のような印象を与えます。このノートが合意を提案する場所であるなら、千葉真一が深作に「自身が柳生十兵衛を演じたい」という旨の企画書を提出しており、に変更してもらえませんかね?この文言は『あかんやつら』に書かれているものと一緒です。あなたは「本作のベースとなる『裏柳生』」を入れたいのでしょうが、「本作のベースとなる」の部分はアサ芸のおそらく千葉のインタビューを鵜呑みにして書かれたもので信頼性は低いと思います。千葉以外の関係者に取材はしてないでしょう。『裏柳生』の方は前述の文献には書かれていない、千葉がのちにトークショーなんかで言い始めたものが最初と思います。--219.106.59.59 2015年4月22日 (水) 16:48 (UTC)

コメント219.106.59.59さんのほうが明らかに必死だよ…。長々自説を書き、おまけに私をファンと決めつけてる時点でね。219.106.59.59さんの研究はWikipediaに載せられないんですよ。「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出」は出典が第三者の情報源で検証可能である以上、Wikipediaに載せられます。これまでWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:信頼できる情報源Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点をわかりやすく説明してきたのに全く219.106.59.59さんは理解できてないですね…。私からもコメント依頼出します。219.106.59.59さんの出典全くない自説がWikipediaに載せられるのかどうか?--125.196.232.62 2015年4月23日 (木) 11:58 (UTC)

>私がいつ自説をWikipediaに載せて欲しいなんて言いましたか? 企画を提出した → 企画が採用された とがイコールでないので、この採用されたという部分が証明できる証言や出典が見つからず、「千葉が企画を提出した」という千葉サイドの証言しかないので、現時点では採用されたという部分が証明できる出典が出るまで、「千葉の企画が採用された」かのような書き方をせず、「千葉が企画を提出した」という文言に留めておいた方がいいんじゃないかと言っているのです。--219.106.47.37 2015年4月24日 (金) 04:49 (UTC)

コメント219.106.47.37さんが何度も言われる「載ってないや見当たらない」は、「千葉が企画したものでない」とイコールではない、自ら示した出典を良とし他の出典をダメとあなた自身が判断するのはNG!と、一番初めにそれぞれ説明したはずですが[1]、まだわかりませんかね。現状の当該記事は「千葉が提出した」のみしか掲載されておらず(複数の検証可能な信頼できる情報源付きで)、企画が丸々映画に反映されたなんて一言も書かれていません[2]。千葉が提出しても高岩・日下部・松平・深作の会議で方向性が決まったと、あなたの出典を根拠にした内容も反映されてるのに、何をこだわってるのかさっぱりわからない???「提出した」は「中身全てが採用された」と同じ意味ではないんですよ!そんなに削除もしくは書き換えたいのなら、「千葉の企画が採用されてない」と記述されている、信頼できる情報源を満たした文献を持ってきてください。あなたがこれまで延々とされてきた分析はWikipediaに全く載せられないし、あなたの意向で信頼できる情報源で保証されている内容を削除することはできない。信頼できる情報源として成立している文献やサイト(千葉の発言を保証する複数出典)を「弱い」といつまでもあなたが連呼されるのは、あなたの独自研究をゴリ押ししてるとしか受け取れません。--125.197.149.111 2015年4月24日 (金) 15:21 (UTC)

コメントコメント依頼を拝見しました。まず、私は映画に詳しくなく、本作品についてなにも知らないことをご承知ください。それで一連の流れを拝見したところ、219.106.47.37さんの意見は「資料の信頼性がないためその記事を典拠として記述すべきではない」、一方125.197.149.111さんは「出典は二次資料として成立しており、その資料に対して信頼性を問うのは編集者の権限を越えている」という話かと理解しました。で、まず出典が二次資料か否かという問題ですが、WP:PSTSでは、学術分野における話を前提としていると留意しつつ、一次資料は「ある事象について、それに密接したところにある独自の資料であり、多くの場合はそれに直接参加した人によって作成されます」。一方で二次資料は「一次資料に基づいてそれを作成した人物によるその人自身の考察を提供するものであり、普通は事象から一歩離れたところにあるものです。二次資料には、一次資料から得た作成者の解釈・分析・評価・論拠・構想・意見などが記されています。」とあります。またWP:RSでは、一次資料は「ある事柄の状態について直接の証拠となる記録物です。言いかえれば、書こうとしている対象の状況に非常に近い情報源です。この語は多くの場合、出来事の参加者やその出来事の目撃者によって作られたドキュメントを指します。公式な報告書、手紙の原本、実際に出来事を目撃したジャーナリストによる報道記事、あるいは自伝など」、二次資料は「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したもの」とあります。してみると、この場合情報源が二次資料たり得ると言えるためには、「執筆者が『千葉が企画を提出し、それに参画したか否か』を取り上げ、各方面への取材や調査研究を元に評価分析した資料」となるべきです。125.197.149.111さんの述べている資料がどういった類のものかの正しい評価は私には出来ませんが、おそらく前述の目的のためになされた物ではなく、千葉ファンないし映画ファン向けに千葉のインタビューを載せた大衆向けの物ではないかと思われます。だとすると、それは信頼の置ける二次資料というよりは一次資料に近いのではないでしょうか。そうだとしたらそれに全面的に依拠して記事を執筆することには不安がよぎります。記述するにしても、WP:NOTRELIABLEにもあるように「千葉によれば…」と言った形で記述するべきではないでしょうか。また、編集者がその出典の信頼性評価を行いうるか否かという点については、WP:RSにも「その時々の状況によって、正しい出典の用い方はいつも同じではありません。その作業には常識的感覚と編集上の判断が不可欠です。」とありますので、構わないのではないでしょうか。もちろん、その意見を記事内で表明することは不適切かとは思いますが、それを元にした記事を書くべきではないと意見を表明することは、それが真摯な意見であるのならむしろ推奨されるべきかと思います。--ねだーらんず会話2015年4月25日 (土) 05:07 (UTC)

返信 (Nederlands2さん宛) コメントありがとうございます。Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の一次資料には「ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけで、信頼できる出版元によってその情報が入手できる状態になっていること」とあり、またWP:PSTSの一次資料には「信頼できる公表ずみの一次資料はウィキペディアでの使用が許され、事実について率直な記述を行う場合のみであり、特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合に限られる。一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけない」となっており、一次資料がこれらの条件をクリアしてれば出典として使えると思います。

「千葉が提出した」という部分の出典全てが、仮にNederlands2さんの言われる通り一次資料になったとしても(そう思いませんが)、私は信頼できる出版元の出典を「分析・合成・解釈・評価」していません。むしろ初めに219.106.47.37さんが最初に自説を当該記事に書いたぐらいです。ちなみに「千葉が提出した」という出典の全てが千葉のインタビューではありません。お時間あれば、ぜひ柳生一族の陰謀#脚注をご確認頂けますようお願いします。

出典は「各方面への取材や調査研究を元に評価分析した資料にすべき」とのことですが、インタビューや自著を出典としてるものが他にもあります。219.106.47.37さんの加筆と示されてる出典は、本作に関わった当事者や東映の公式本を基にしているのも多くあり、Nederlands2さんの言われる通りだとすると、これらもほとんどが一次資料ということになります。仮に一次資料として当該記事から一次資料を削ったら、ほとんど出典がなくなるんじゃないでしょうか?現状44の出典ありますが、ざっと数えても7,8ぐらいしか残らなくなります。削らなくても「普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる」のに、一次資料の出典にはそれぞれ「誰々によれば…」と付記しだしたら可読性が損なわれ、百科事典的でないと思います。

WP:PSTSの二次資料では「分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止される」とありますが、議論になってる箇所は分析や評価が入ってるわけではありません。「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出」を、219.106.47.37さんは「自分が調べた文献にはそのようなことは載ってない。だからありえないから載せるな」という御意見で、私は一次資料だが信頼できる出版元の出典であり「分析・合成・解釈・評価」していない記述であるからWikipediaに掲載できると主張してる違いなのです。--125.196.231.83 2015年4月25日 (土) 08:47 (UTC)

コメント コメント依頼から参りました。219.106.47.37さんの一次資料という主張は正しい。それはそれとして、125.196.231.83さんの一次資料でも条件付きで出典として成立するというのも正しい。映画やドラマは当事者のインタビューを出典にしてるものが多く、一次資料でも自己分析や自己評価を記したものでなければ載せられるでしょうね。評価分析した資料のみしか出典を使えないとなると、本記事は大幅に内容を削ることになります。
最新版を読んだ感想として、『裏柳生』を千葉が提出したという部分があっても、監督の深作やクレジットに企画と出てる人たちの会議でモチーフやいろいろなアイデアが加わり、映画の企画が出来上がっていく内容になっていると思います。Yhiroyukiさんが「採用されたのがアイデアだけで、業務としての企画にも関わっていないのであれば、クレジット表記ないことに不思議はありません」とコメントされてるのはこういう意味でしょう。
当件は出典が一次資料または二次資料で掲載するしないを決めるのでなく、Wikipediaの三大方針の一つであるWP:NPOV「すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない」「偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません(WP:UNDUE)」「この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」で判断すべきことかと思います。一次資料でもWikipediaの基準を満たした出典なら、中立的観点から様々な事実を執筆すべきです。219.106.47.37さんがいろいろな書籍をよく調べられてるのはわかりますが、ここで仰ってることが個人の意見でなく、出典で検証可能なら一番良かったと思います。--Dooon会話2015年4月25日 (土) 22:45 (UTC)

>「千葉が企画を提出した」ことを関係者は誰も知らないんですよ。125.197.149.111さんが「千葉の企画が採用されてない、と記述されている、信頼できる情報源を満たした文献を持ってきてください」と言われますが、話を誰も聞いてないのに「千葉の企画は採用されてない」とインタビューで言う人はいません。そんな文献など出しようがない。千葉は「深作に企画を提出した」と言っていますが、深作も「千葉が企画を提出した」と思ってないんですよ。おそらく「千葉が柳生十兵衛をやりたいと言っていたな」程度の認識でしょう。それで千葉の話を一切しないんでしょう。深作欣二・山根貞男『映画監督深作欣二』(ワイズ出版、2003年)の352頁から『柳生一族の陰謀』製作の経緯が書かれてありますが、全部書いてられないですが、「『仁義なき戦い』の構図を時代劇に移そうとすれば、まずは跡目相続、ちっぽけな大名一家の跡目相続じゃ面白くない、それなら将軍家だ、ということになる。どんな要素もみんな取り込もうというのが脚本をつくる時点の心構えで、野上龍雄にしても松田寛夫にしても脚本家としてすぐ乗ってきたし~」などと書かれ勿論、千葉の話はありません。千葉以外の関係者の話を総合して判断すると、深作や日下部、高岩、松平とで話の骨格が決まり、キャスティングの段階で「柳生十兵衛は誰にやらすか」という話が出た時に、前から千葉から「柳生十兵衛をやりたい」と聞いていた深作が十兵衛役を千葉に指名したのでしょう。この辺りの件は『あかんやつら』や『時代劇は死なず!」に近いものです。千葉が「企画を提出した」と深作が生前言わなかったのは、深作はインタビューを結構たくさん受けており、「千葉が企画を提出した」と深作に聞こえたら、深作から否定される恐れがあるので、亡くなられてから言い始めたものと思います。俳優からの持ち込み企画といえば、本木雅弘が持ち込んだ『おくりびと』とかたまにありますが、東映だと『トラック野郎』が愛川欽也の企画持ち込みとして有名なので、どういう経緯だったのか調べてみました。1975年の「キネマ旬報」には目立った記事が無かったのですが、「月刊シナリオ」1975年9月号にありました。『トラック野郎』第一作『トラック野郎 御意見無用』が公開される直前の記事ですが、66-70頁の菅原文太のインタビューで、愛川が『ルート66』を観て企画を思いついて菅原に「是非会いたい」「具体的な話がある」と話を持ち込んできて、デコレーションしたトラックに乗ったドライバー二人の話をまとめて会社に持ち込んだと菅原が話しています。現在知られている企画持ち込みの経緯と同じです。また菅原が興味深い話をしています。「俳優側が持ち込んだ企画というのは、そうなかなか通らんわけだから、まあ彼にもいつ実現できるかわからんよ(中略)すぐその足で会社に行ってプロデューサーに資料や何か集めて準備してくれるよう頼んだわけです」 『トラック野郎』は簡単に企画が通ったように語られますが、実際はこのように色々念入りに準備して会社に企画が提出されたものです。こういうのが「企画を提出」というものです。穴埋め企画の『トラック野郎』でこれですから、『柳生一族の陰謀』は東映が社運を賭けた大作ですよ。監督に「企画を提出した」など「企画を提出した」といえません。だから深作は千葉のことを何も言わないんですよ。「企画が提出された」と思ってないんですよ。 「ちなみに「千葉が提出した」という出典の全てが千葉のインタビューではありません。お時間あれば、ぜひ柳生一族の陰謀#脚注をご確認頂けますようお願いします。」などと誤魔化してはいけません。「千葉が企画を提出した」という出典は千葉サイドから出されたものが全てで、それ以外は千葉のインタビューを記事にしたものと、『あかんやつら』に「千葉が企画を提出した」と一行書かれているものが全てです。映画の企画といえば、最大の功績ともいえる重要な事項です。何度も言ってるように、今回のような信頼性の高い出典が充分あるといえないケースでは本編に記述しない方がいいと思います。--219.106.59.68 2015年4月28日 (火) 16:21 (UTC)

返信 (Dooonさん宛) コメントと賛成してもらいありがとうございます。
返信 (219.106.59.68さん宛) 「載ってないや見当たらない」は「千葉が企画したものでない」とイコールではありませんと、最初に言ったとおり、あなたの研究を反映させる、今回は載せないといつまでもあなたが言い張られることはWikipediaでは認められてません。あなたも相当数の一次資料(岡田や高岩の著書や証言、クロニクル、東映キネマ旬報などなど)を当該記事に持ってきてますが、あなたの出典だけはよくて他がダメというあなたの独自研究をごり押ししないでくださいと言ったはずです。あなたがここで延々と言われてることが載っている文献を早く持ってきてください。持ってこれない限りあなたの独自研究でしかありません。Dooonさんが指摘されてる「特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い~(中立的観点)」にも明らかに違反しています。はっきり言うとあなたの独自研究はこの場では論外であり、自費出版するなり個人でやりたいだけ独自研究やってください。Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかにも「ただし、ノートページで個人的な理論について議論することは、あまり歓迎されないでしょう。」とあり、219.106.59.68さんはこれにも違反しています。--125.197.150.20 2015年4月29日 (水) 04:21 (UTC)
コメント 219.106.59.68さんへ。斜体はあなたの最新コメントから抜き出したものです。
こういうのが「企画を提出」というものです。映画の企画といえば、最大の功績ともいえる重要な事項です。
そうお考えになるのは個人の自由ですが、それをWikipediaに持ち込んではいけません。まさに独自研究極まってると言えるでしょう。
『あかんやつら』に「千葉が企画を提出した」と一行書かれているものが全てです。
春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 4163768106 は二次資料ですから、一行でも載っていれば当該記事から削る理由がますます無くなりましたね。履歴を確認したところ、あなたは『あかんやつら~』を他の部分でも出典として使用されてますが、それは良くて同じ書籍に記されてる「千葉が企画を提出した」を信用できないというご主張は、125.197.150.20さんが仰る独自研究になります。
そして複数の書籍を読まれてそれぞれ掲載されてる情報を繋ぎ合わせ導くあなたの独自研究は、WikipediaではWP:SYN「もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます」に該当します。今回のあなたは書くなとご主張されてますが、その根拠が「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」であるため、賛同致しかねますね。『トラック野郎』のご説明は当件に全く関係なく、返ってあなたの独自研究を強引に認めさせようとする印象にしかなりません。
最後に219.106.59.68さんと125.197.150.20さんご両人にお願い。ノートでの議論は「H:TP#ページ上の話題への応答に則り、インデント(字下げ)の深さ変える」よう、宜しくお願い致します。--Dooon会話2015年4月29日 (水) 08:51 (UTC)
返信 (Dooonさん宛) インデントわかりました。
返信 (219.106.59.68さん宛) 『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』を確認しましたが、高岩・松平・中島貞夫竹中労との『浪人街』の映画化進まず、千葉が深作に自分が柳生十兵衛を演じたいという企画を提出し、その後に岡田茂が渡哲也のパーティーで高岩・日下部・深作らに「久々に時代劇をやろう」という順番になってます(P357-P359)。あなたが書いた最初の内容では岡田のパーティーでの声掛けから時代劇映画を取ろうと読み取れ、出典とは全く違う内容になってるから訂正しますのであしからず。--125.197.169.170 2015年4月30日 (木) 07:48 (UTC)

コメント インデント戻します。コメント依頼から参りました。映画等に詳しくはありませんので、記事とノートでのやりとりにおけるWikipediaの方針理解についてのみ少しコメントさせて頂きます。 資料の取り扱いについては、Dooon様と同様の印象を受けました。219.106.59.68様は、

  • 『あかんやつら』に「千葉が企画を提出した」と一行書かれているものが全てです。

とノートに書かれていますが、これはWikipedia:検証可能性を満たしていることの証左です。「検証できる情報源であるどうか」という観点と「情報源の内容が正確であるかどうか」という観点を混同しないよう注意して頂き、検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」を再度確認して頂きたく存じます。もちろん、検証可能であってもWikipediaの情報源として適切かどうかは別の問題になります。 次に独自研究についてですが、219.106.59.68様がノートに記載されているものは独自研究と言わざるを得ないと判断いたします。

  • 千葉以外の関係者の話を総合して判断すると、深作や日下部、高岩、松平とで話の骨格が決まり、キャスティングの段階で「柳生十兵衛は誰にやらすか」という話が出た時に、前から千葉から「柳生十兵衛をやりたい」と聞いていた深作が十兵衛役を千葉に指名したのでしょう。
  • 千葉が「企画を提出した」と深作が生前言わなかったのは、深作はインタビューを結構たくさん受けており、「千葉が企画を提出した」と深作に聞こえたら、深作から否定される恐れがあるので、亡くなられてから言い始めたものと思います。

これらが典型的な例かと思います。Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にをご確認頂き、適切な出典の提示が無ければWikipediaに記載すべき内容ではありません。逆に、適切な情報源が存在すれば、記載を検討するに値する事項だと思います。 また、『トラック野郎』の例をひいて「企画を提出」という語句を独自に定義されていると思われます。

  • 映画の企画といえば、最大の功績ともいえる重要な事項です。

と書かれているように、「企画」というものに対し強い思い入れがおありなのかとお察ししますが、これはDooon様からもご指摘があるように、私も懸念を抱いております。 219.106.59.68様が記事に反映したい内容をサンドボックスなりご自身のページなりで作成し、意見を募ってみるのも1つの案かと思います。最後にお願いを1つ。コメント依頼を出されているようですが、ノートに節の区切りがなく全体編集からのコメント記載しかできませんので、レイアウト等の配慮をご検討頂ければと思います。--joker会話2015年5月7日 (木) 03:55 (UTC)

返信 (jokerさん宛) コメントありがとうございます。検証可能性と独自研究のご指摘は全くその通りだと思います。
返信 (219.106.59.68さん宛) Dooon様やjoker様からご指摘あったことが全てだと思います。当該記事もあなたが示した出典『あかんやつら』を元にして正しく直しました。あなたの最後のコメントから1週間以上経ち、あと1週間ぐらい待ちますが、このままなら議論も終わりにさせていただき、この議論も過去ログ化させてもらいます。Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかにも「ただし、ノートページで個人的な理論について議論することは、あまり歓迎されないでしょう。」とあるとおり、個人の持論を延々と話す場ではないと思います。--125.196.254.103 2015年5月8日 (金) 10:25 (UTC)


コメントすいません、一つ。どうもまだ問題がずれているように思うのですが、「独自研究を記事としているか」と「出典の信頼性に対して疑義を述べる場合に対抗出典を必要とするか」ということは別の問題だと思うんですよね。わかりやすく言えば、東スポや日刊ゲンダイやムーといった資料のみをもとにして記事を作ることは可能なわけですが、それらの資料の信頼性に疑問を投げかけるのにいちいち対抗出典を求めるというのはナンセンスだと思うんですよ。いくら「真実よりも検証可能性だ」と言ったところで、それは「検証可能性があれば真実はどうでも良い」ということにはならないし(そうだとしたらそれはもはや百科事典ではないでしょう)、だからこそ記事の内容や資料の選別は編集者の常識が求められるのだと思うのですよね。以前にも提示しましたが、WP:NOTRELIABLEにある「ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような、信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。例えば「イギリスのタブロイド紙『サン』によれば…」としてください。」という一文がこれをよく示していると思います。
で、219.106.59.68さんはまさにこのことを言ってるんであって、出典元が映画ファン向けのインタビュー記事であることを考えればちょっと信頼おけないでしょ、ということはなんらおかしい主張じゃないと思うんですよね。門外漢の私から見ても信頼性に対して疑問に思いますから。なので、記事に対して建設的な議論を行うためには、125.196.231.83さんは「信用できないというのなら対抗出典を出せ、出せないなら独自研究だ」と迫ることじゃなくて「いやこの記事は信頼できるものなんですよ、なぜならば」と言った形で出典の信頼性を主張して頂くというのが一番だと思うんですけどね。それがなければ、やっぱり「千葉によれば」とするか、本記事とするのではなく註記で紹介するという程度にとどめておくべきじゃないですか?--ねだーらんず会話2015年5月9日 (土) 09:00 (UTC)

返信 (ねだーらんずさん宛) インデント戻します。コメントもらいましたが、ねだーらんずさんの最新コメントは問題をずらしまくっています。219.106.59.68さんが主張されてきたことが個人意見でなく、信頼できる情報源を満たした文献に掲載されてれば受け入れられますが、そのような文献はこれまで1回も示されてません。延々と219.106.59.68さん個人の意見を繰り返されてきました。ねだーらんずさんの「出典元が映画ファン向けのインタビュー記事であることを考えればちょっと信頼おけないでしょ、」と言われる意味もわかりません。千葉のインタビュー以外にも一次資料の文献(高岩淡(この映画の企画)、深作欣二(この映画の監督)、岡田茂(東映の社長)らのそれぞれの自著、東映の公式本(クロニクル)や公式サイト(東映キネマ旬報))が当該記事では出典になっています。219.106.59.68さんが持ってきた出典です。彼ら自身が発信した自著も信頼おけないと言われるのでしょうか?一次資料には「信頼できる出版元から公刊されている場合だけで、信頼できる出版元によってその情報が入手できる状態になっていること」とあり、千葉のインタビューは信用できず、岡田・高岩・深作のインタビューは信用できるというのはどこから来てるのでしょうか?このような判断を編集者がすることは独自研究ではありませんか?当該記事は今現在このようになってますが、

== 企画 ==
別の時代劇を検討している矢先[1]千葉真一は「時代劇をやりたい」と柳生十兵衛三厳を演じ[1][2][3]、本作のベースとなる企画『裏柳生』を[3][4][5]深作欣二へ提出していた[1][2][3][4][5][6]
  1. ^ a b c 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(初版第一刷)文藝春秋(原著2013年11月15日)、358頁。ISBN 4163768106 
  2. ^ a b 春日太一「千葉真一 柳生十兵衛の殺陣」『役者は一日にしてならず』(初版第一刷)小学館(原著2015-2-28)、45 - 46頁。ISBN 4093798699 
  3. ^ a b c JJサニー千葉『千葉流 サムライへの道』ぶんか社、2010年、59 - 61頁。ISBN 4821142694 
  4. ^ a b 千葉真一、深作欣二の初時代劇の教えに感謝”. アサ芸+. 徳間書店 (2012年11月28日). 2013年1月1日閲覧。
  5. ^ a b 裏YAGYU”. 第1回公演. Project JAX. 2015年4月16日閲覧。
  6. ^ 関口裕子「千葉真一インタビュー」『映画監督 深作欣二の軌跡』キネマ旬報社、2003年、22 - 27頁。 

6つの出典で、ねだーらんずさんが言われているタブロイド紙に近いのはアサヒ芸能のみです。219.106.59.68さんはそれ以外の出典も「千葉サイドから出されたものが全て」と言われてますが、であれば岡田・高岩・深作の自著もみな一次資料であって信用できないということになると思いますが、ねだーらんずさんがそれには全く触れず千葉のインタビューのみを気になさる理由が全くわかりません。6つの出典で一番目の『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』は、Dooonさんが言われてるように二次資料ですので、書店や図書館で確認してみてください。『あからやつら』はタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)でもなく、二次資料で検証可能性を満たしています。ていうか『あかんやつら』を最初に当該記事に持ってきたのは219.106.59.68さんです。

「千葉によれば」とするか、本記事とするのではなく註記で紹介するという程度にとどめておくべきじゃないですか?」とのことですが、219.106.59.68さんの独自研究に影響されたとしか思えない発言だと思います。『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』の358ページの原文は

東映の製作陣は竹中に嫌気がさした。そして、竹中を切り捨てて、『浪人街』でない別の時代劇の企画を進めることにした。東映の看板スターの一人になっていた千葉真一もちょうと「時代劇をやりたい」と、自らが柳生十兵衛を演じる企画書を深作に渡しており、時代劇復活への状況は整う。

と掲載されています。219.106.59.68さんの問題は『あかんやつら』を当該記事の他の部分の出典に使用しており[3]Dooonさんやjokerさんが言われているように、219.106.59.68さんが『あかんやつら』や持ちこまれた一次資料の文献(岡田茂、高岩淡、深作欣二らのそれぞれの自著、東映の公式本や公式サイト)の掲載されている内容を組み合わせて独自の意見を主張され、当該記事に反映させようとしてるのが問題だと何度も言ってきたのです。検証可能である二次資料の出典を基にした内容を「載せるな」と言われることも、編集者の意向を反映させる行為ではありませんか?

ねだーらんずさんは「いくら「真実よりも検証可能性だ」と言ったところで、それは「検証可能性があれば真実はどうでも良い」ということにはならないし(そうだとしたらそれはもはや百科事典ではないでしょう)、だからこそ記事の内容や資料の選別は編集者の常識が求められるのだと思うのですよね。」とも言われてますが、同一文献の二次資料(『あかんやつら』)の中のAという個所は出典に使え、Bという個所は出典に使えないと、編集者(219.106.59.68さん)が判断することこそ、Wikipediaの常識に反する独自研究だと思います。jokerさんが「「検証できる情報源であるどうか」という観点と「情報源の内容が正確であるかどうか」という観点を混同しないよう注意して頂き、検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」を再度確認して頂きたく存じます。」と言われているとおりです。私は二次資料の出典『あかんやつら』を示しており、Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にを満たしています。千葉のところだけ「千葉によれば」とするか、本記事とするのではなく註記で紹介するという程度にとどめておくべきじゃないですか?」とするのは、219.106.59.68さんの独自研究を認めることになり、全く同意できません。--125.196.225.71 2015年5月9日 (土) 14:59 (UTC)


返信 やはり問題がずれている、ないし錯綜していますね……。こういうことは現状なにが争点となっているかを明確にした上で、一つ一つ合意を得ることが大切だと思うんですよ。それで、まず私が言いたいのは、「出典の信頼性について意見を言うのは別に独自研究じゃないよね」ということです。125.196.225.71さんはこれを独自研究だと主張するから問題がずれるんですよ。まずは独自研究云々ではなく、出典の信頼性という観点で話をするべきでしょう。
で、今回125.196.225.71さんは私に対して(独自研究の主張と一緒くたになっているにせよ)信頼性についての主張を行っていますが、前にも述べたとおり私はその信頼性を判断できる立場にはありませんので、その議論にあまり立ち入ることはできません。ただ、「『あからやつら』はタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)でもなく、二次資料」という主張はおかしくて、タブロイド新聞だって記者が事件を取材して独自の見解から記事を発表しているという点で、少なくとも二次資料として扱われうるものではあるわけですから、『あからやつら』と本質的な違いがあるわけではないと思いますよ。両者の違いは、やはり信頼性という点なんじゃないですか? なので、「6つの出典で、ねだーらんずさんが言われているタブロイド紙に近いのはアサヒ芸能のみです」と言う部分も合わせて考えれば(ここでなにをもってタブロイドとするかはともかく)、少なくとも『あかんやつら』以外は千葉側からの情報発信に過ぎないように思われますし、常識的に見れば出典の信頼性はやはり低いと言わざるを得ないでしょう。
従って、本件の議論を行う場合には出典としては『あかんやつら』のみに注視すべきであって、その場合記事本文にある「本作のベースとなる企画『裏柳生』を[16][17][18]、深作欣二へ提出していた[14][15][16][17][18][19]」という内容については、少なくとも125.196.225.71さんの引用した『あかんやつら』の当該部分からは見受けられません。このことをもってみれば、むしろ現状の記事自体が、各種の資料を基にして125.196.225.71さんが書いた「独自研究」であると見なされうる内容だと思います。それを考慮すると、219.106.59.68さんが述べている
  • 「千葉の企画が本作にどの程度反映されたのか現時点では分からないので、あなたが企画の項目のこの位置に「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出」というこの言葉を入れると、あたかも本作が千葉の企画のような印象を与えます。このノートが合意を提案する場所であるなら、千葉真一が深作に「自身が柳生十兵衛を演じたい」という旨の企画書を提出しており、に変更してもらえませんかね?この文言は『あかんやつら』に書かれているものと一緒です。あなたは「本作のベースとなる『裏柳生』」を入れたいのでしょうが、「本作のベースとなる」の部分はアサ芸のおそらく千葉のインタビューを鵜呑みにして書かれたもので信頼性は低いと思います。」(強調引用者)
という指摘は私には至極まっとうに思えます。要するに、「インタビュー等は出典としては信頼性が低い。信頼できる『あかんやつら』他春日の著書に従えば裏柳生の企画を提出したとまでは書いていない。だから内容を消すか、せめて『あかんやつら』に記載されている内容から外れないようにしてくれ、ということですよね。Dooonさんやjokerさんは誤読しているようですが、これは別になんらおかしい指摘ではないと思いますよ。逆にこれに対する
  • 「219.106.59.59さんの研究はWikipediaに載せられないんですよ。「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出」は出典が第三者の情報源で検証可能である以上、Wikipediaに載せられます」(同)
という125.196.225.71さんの反論は明らかに問題のすり替えです。信頼できないインタビュー記事を出典にするのではなく信頼できる『あかんたれ』の著書をもとにした記事とすべきという219.106.59.59さんの意見を「独自研究」とレッテル張りをして封殺した上で、自分の記事は検証可能である以上例え出典が信頼できなかったとしても問題ないんだ、と言うことですよね。これはWikipediaに記事を書く編集者の態度として不誠実だと感じます。
で、まぁこれ以上は踏み込むのを辞めておきたいと思いますが、125.196.225.71さんにしても信頼性についてまだ言いたいことがあるでしょう(私には現状では125.196.225.71の言い分は理不尽だと感じていますが)。ですから、検証可能性だとか独自研究だとかという言葉にコミットするのではなく、信頼性に話を絞って、例えば春日の著書を使うなら著書の引用をもって、あるいはそれ以外の出典があるのならばそれを明示するなどによって、きちんと125.196.225.71さんの主張は信頼できるということを立証すればよいと思いますよ。少なくとも現状では、125.196.225.71さんは印象操作に終始しており、議論を行う上での誠実な態度ではないと私には思われます。--ねだーらんず会話2015年5月9日 (土) 19:42 (UTC)
コメント ねだーらんずさんへ。
  • 「出典元が映画ファン向けのインタビュー記事であることを考えればちょっと信頼おけないでしょ、ということはなんらおかしい主張じゃないと思うんですよね。門外漢の私から見ても信頼性に対して疑問に思いますから」(以上、ねだーらんずさんの2015年5月9日 (土) 09:00 (UTC)コメントより抜粋)
この「信頼性に対して疑問に思う」と仰るのは、当該ノートで仰ってきた219.106.59.68さん独自研究を元にされてるようですが、そうであれば、jokerさんが御指摘されてる「検証できる情報源であるかどうか」と「情報源の内容が正確であるかどうか」とを、ねだーらんずさんがごちゃ混ぜにしてることになります。219.106.59.68さんがここで仰ってきたことはWP:SOURCESのない独自研究で、他の編集者や読者が査読できず検証可能性を満たしていないものです。
  • 出典の信頼性について意見を言うのは別に独自研究じゃないよね」(以上、ねだーらんずさんさんの2015年5月9日 (土) 19:42 (UTC)コメントより抜粋)
出典の信頼性ではなくて、219.106.59.68さんは「複数の書籍を読まれ、それらの情報を繋ぎ合わせて導いた持論を展開している(WP:SYN)」をなさっており、これは以前申し上げましたように、あくまでも219.106.59.68さんの独自研究の範疇でしかないです。もう一度WP:SYNから引用しますが(斜体は219.106.59.68さんが当該記事に書き、当該ノートでも仰ってることです)「
  1. もしAが信頼できる媒体で発表されており(『クロニクル東映』のような東映の公式本には全く書かれておらず)、
  2. Bも信頼できる媒体で発表されているなら(当事者である深作や高岩らの著書・インタビューでも千葉が企画を提出したという記述は見当たらない)、
  3. AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよい(だから千葉だけが言っている話でしかない
と誤解するウィキペディア編集者がしばしば見受けられます」に該当しているということです。219.106.59.68さんは書くなとご主張されてますが、その根拠が「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」であるため、賛成できかねますね。
  • 「信頼性に対して疑問に思う」→「故に載せるにしても『千葉によれば』を付記しないと認めない」(以上、ねだーらんずさんの2015年5月9日 (土) 09:00 (UTC)コメントより抜粋)
と仰るのは、219.106.59.68さんの独自研究を読まれて、ねだーらんずさんが思われている個人の意見にしか過ぎません。125.196.225.71さんが示されてる6つの出典のうち、少なくとも『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』は信頼できる情報源の二次資料である以上、独自研究でもなく検証可能性もクリアしています。またアサヒ芸能も二次資料といえる出典で、芸能関係の当該記事で週刊誌を否定しだしたら、映画やドラマなどの記事は書けないと思います。アサヒ芸能の出典は千葉の発言が合間合間に入ってますが、記者の文章が主たるものです。千葉側の情報発信だから信用できないと219.106.59.68さんやねだーらんずさんが各出典を読まれて個人的にいろいろな感想を持たれるのは御随意ですが、それをウィキペディアに反映させようとするのは自分の意見や感じたことを盛り込もうとしてることです。今回は出典にするるなという御意見ですが、いずれにしても219.106.59.68さんの個人的なお考えや意見(これらを独自研究と呼んでます)を反映させるのは賛同できかねます。出典があればまだしも全く示せないのは拙いでしょう…。「出典の信頼性について意見を言うのは独自研究じゃない」と詭弁を弄するのも止めるべきで、検証可能でもその出典は信用できないと編集者が判断していいというのは、検証可能性や独自研究を載せないを曲解されてます。219.106.59.68さんが他の書籍と読み比べて『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』、『アサヒ芸能』などの出典を「千葉の部分は信用できない」と判断を下してることが、現状では219.106.59.68さんの個人的な意見です。信頼できる情報源に則った書籍やウェブサイトなどで219.106.59.68さんの仰ってることが検証可能でない限り、独自研究と言われても仕方ないんですよ。
中立的観点をもう一度引用しますが「すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない」、「偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません(WP:UNDUE)」、「この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」とあります。信頼できる情報源の出典に基づいた内容を一部編集者の「信頼性に対して疑問に思う」という個人のお考えで妨げるのは、中立的観点からも不適切だと思います。
そもそもねだーらんずさんはこの6つの出典を全て自ら検証されたのでしょうか?「信頼性に対して疑問に思う」と仰る前にそのように思われるなら自ら検証すべきだと思いますが、新たに出典を出せと仰ってるのには驚きました。6つの出典を検証するのは疑問に思った読者であり、ねだーらんずさんが為されるべきことではありませんか?
  • 「少なくとも『あかんやつら』以外は千葉側からの情報発信に過ぎないように思われますし、常識的に見れば出典の信頼性はやはり低いと言わざるを得ないでしょう」(以上、ねだーらんずさんの2015年5月9日 (土) 19:42 (UTC)コメントより抜粋)
219.106.59.68さんの独自研究に基づき「信頼性に対して疑問に思う」というねだーらんずさんのお考えは、219.106.59.68さんの独自研究に感化されたように見受けられ、とても懸念を抱いております。「常識的に見れば」と仰るのは、ねだーらんずさん自身の常識的でしかなく、編集者によって常識に差があり、異なるものです。WP:V#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にも「ウィキペディア読者は、あなた(ねだーらんずさんや私や編集者全員)が誰なのかを知りません。世界中の閲覧者があなたに連絡して確認を取れるように、あなたの連絡先を載せるというわけにはいきません。たとえあなたに連絡がとれるようになっていたとしても、閲覧者があなたを信じる理由がどこにあるでしょう」と記されています。ねだーらんずさんの常識「(219.106.59.68さんの独自研究に感化されたことによる)信頼性に対して疑問に思う」を信じる理由は他の編集者にはありません。そのためにWP:V#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」の「独自研究は載せない」と「検証可能なことのみ載せる」という方針があるのです。「中立的観点」も含め、ねだーらんずさんはウィキペディアの根本的な3つの方針を再確認されるべきでしょう。
「信頼できないインタビュー記事」というねだーらんずさん個人の意見だけで、それも219.106.59.68さんがここで述べてきた持論をまるまる鵜呑みにし、レッテル貼りをされてるのはむしろねだーらんずさんであり、125.196.225.71さんのコメントを「印象操作」、「レッテル張りをして封殺した上」などと牽強付会されるなど、誠実な態度でない印象を逆に持ちました。厳しいコメントに聞こえたらお詫びしますが、とても残念に思ったのは率直な感想です。ー--Dooon会話2015年5月10日 (日) 00:06 (UTC)
除去 Dooonさんってコメント依頼で、来た方、なんですよね? 125.196.225.71さん、ではないんですよね?笑 なんか仰ってることや論法が125.196.225.71さんそのまんまな気がするんですが。まあいいです。で、あなたの言っていることは全て私の前回の話に書いてあります。よく読んでください。
それで、私としては本件については現状の当該記事は除去すべきとの立場を取らせて頂きます。私には219.106.59.68さんは『あかんやつら』の信頼性は否定しておらず、『アサヒ芸能』等の記事の信頼性のみを否定しているように思えます。それを「219.106.59.68さんは『あかんやつら』や『アサヒ芸能』を否定している、独自研究だ」と相手の主張を捻じ曲げて相手を貶めるのは詭弁です。そのような議論のやり方は正当ではなく、その論法を利用する当事者に与することはできません。コメント依頼から来た合意を促進する第三者として、信頼性に観点を当てた正当な議論にて合意を得られるまで当該記事は削除させて頂きます。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 04:20 (UTC)
反対 新たにコメント依頼を募るなり方法はありますが、強引に削除宣言とはこれまた酷い。WP:DRには一方的に編集強行をすることで解決に繋がると記されてません。にしても力ずくだ…。WP:POINTの「腕ずくで解決しようとしない」そのものです。今日までで、ねだーらんずさんと219.106.59.68さんだけなんですよね、特定の出典を信用できないと仰ってるのは。せめてもっと多くのコミュニティから賛同を得るまで、編集の強行は控えるべきでしょう。219.106.59.68さんの仰ってることが検証可能なら一番良いと申し上げてきましたが、ねだーらんずさんのこれまでの説明では何の答えにもなっていない。三大方針に反することが、とても合意を促進する第三者とは思えません。あ、125.196.225.71さんと同一と仰るのなら然るべき場でお願いします。私は別に構いませんよ(笑)。--Dooon会話2015年5月10日 (日) 05:10 (UTC)

コメント インデント戻します。なんか話がどんどんずれてってますね。編集者(219.106.59.68さん)の独自研究で出典を精査し、その判断を尊重しろという主張はあまりにも空理空論すぎて、異論が似てきてもおかしくないと思います。だって言ってることが独自研究、検証可能性、中立的観点を全部無視してるから。ねだーらんずさんが調べたければどーぞご自由に。また独自研究と指摘するのは詭弁らしいですが、出典ないのに信用しろと言われるほうが詭弁だと思います。Dooonさん、すいませんでした。

本題に戻りますが219.106.59.68さんを信用できない理由は他にもあり、出典と異なる編集をされているからです。具体例を抜粋すると

2014年8月29日 (金) 17:22

== 逸話 ==
本作は1960年代半ばに東映の時代劇を切り捨てた岡田茂(当時、京撮所長、のち社長)が[1][2]深作、日下部五朗の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。山本薩夫の『忍びの者』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けで企画がスタートした[3]。深作も『仁義なき戦い』シリーズを終えたところで、まだ一度も手掛けていない時代劇をやりたいという希望があり、ここへ千葉が前述の企画を提出し採用された[3]萬屋錦之介の出演は、岡田茂社長のアイデア[4][2][5]。かつては時代劇の切り捨てに辣腕を振るったが[2][6]
  1. ^ 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へNBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】
  2. ^ a b c 深作欣二・山根貞男『映画監督深作欣二』ワイズ出版、2003年7月、353-354頁。ISBN 4-89830-155-X 
  3. ^ a b 東映『クロニクル東映:1947-1991』1、1992年、p282-283
  4. ^ 西郷輝彦「現場が凍った萬屋錦之介と深作欣二の衝突」」『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月7日、2013年1月1日閲覧 
  5. ^ キネマ旬報』 2011年7月上旬号、62 - 63頁。
  6. ^ 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年11月、215-219頁。ISBN 4-1637-68-10-6 

2015年3月17日 (火) 14:58

== 企画 ==
1960年代半ばに東映の時代劇製作を中止させた岡田茂東映社長(当時)が[1][2][3]深作欣二高岩淡日下部五朗へ「久しぶりに時代劇をやりたい。山本薩夫の『忍びの者』みたいな忍者物なんかどや? 深作、なんか考えてみい」と渡哲也の快気パーティで皆に伝えたのが始まり[4][5]。深作もこれまで手掛けていない時代劇をやりたいという意思があり[4]、深作や日下部らで話し合い進めるうち[4][5]、タイミング良く千葉真一が深作に『裏柳生』という企画を提出した[6][7][8][9]、と千葉は著書やインタビュー[7]、トークショーなどで話している。
  1. ^ 西郷輝彦「現場が凍った萬屋錦之介と深作欣二の衝突」」『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月7日、2013年1月1日閲覧 
  2. ^ #深作山根、353-354頁
  3. ^ #あかん、215-219頁
  4. ^ a b c #クロニクル、「証言 製作現場から 『柳生一族の陰謀』企画 高岩淡」、282-283頁
  5. ^ a b #あかん、358-356頁
  6. ^ 千葉真一、深作欣二の初時代劇の教えに感謝」『アサ芸+』、徳間書店、2012年11月28日、2013年1月1日閲覧 
  7. ^ a b #軌跡、22 - 27頁。
  8. ^ 千葉流 サムライへの道、59 - 61頁。
  9. ^ Project JAX 第1回公演「裏YAGYU」

2つの編集ともに岡田が深作、高岩、日下部で「時代劇やろう」と言い出してから企画が進んだという文章になっています。ところが『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』を確認したところ、岡田の言い出しから始まったのではない内容が掲載されていました。そんで直したのがこれ。

2015年4月30日 (木) 14:12

== 企画 ==
東映京都撮影所で久しぶりに時代劇を復活させたいと目論んでいた高岩淡[1]、『浪人街』の製作に頓挫[注釈 1]。別の時代劇を検討している矢先、千葉真一が「時代劇をやりたい」と自らが柳生十兵衛三厳を演じ[2][3][4]、本作のベースとなる『裏柳生』という企画書を[4][5][6]深作欣二へ提出していた[2][3][4][5][6][7]。深作はこれまで手掛けていない時代劇を撮りたいと希望し[8]日下部五朗と共に新しい時代劇映画を模索していた[2]。そんな折、1960年代半ばに時代劇製作を中止させた岡田茂[9][10]、高岩・日下部・深作に「久々に時代劇をやろう。ヤクザ映画も行き詰ったしな。山本薩夫の『忍びの者』みたいな忍者映画を考えたらどうや?[2]」と話す[8][2]。3人は渡りに舟と喜んで飛びつき、松平乗道を加えて企画会議が開かれた[2]。4人は岡田の言う忍者映画を今更やるのはおもしろくないと考え、日下部から時代劇で『仁義なき戦い』のような陰謀と裏切りが錯綜する抗争を繰り広げる、松平からは徳川三代将軍の兄弟争いとそれぞれ提案された[11]
  1. ^ 竹中労の「『浪人街』をリメイクしよう」という案に高岩淡が乗り、竹中・日下部五朗深作欣二笠原和夫で製作準備に入ったが、映画作り素人の竹中が入っていることでなかなか脚本作りが進まず、業を煮やした竹中が連載を持ってる『キネマ旬報』で東映を批判[2]。高岩は新たに松平乗道中島貞夫を加えるが、竹中は自分が外されてると怒り、東映に無断で『キネマ旬報』に脚本を載せてしまい、両者が決裂した[2]
  1. ^ あかんやつら 東映京都撮影所血風録、357頁。
  2. ^ a b c d e f g h あかんやつら 東映京都撮影所血風録、358頁。
  3. ^ a b 春日太一「千葉真一 柳生十兵衛の殺陣」『役者は一日にしてならず』(初版第一刷)小学館(原著2015-2-28)、45 - 46頁。ISBN 4093798699 
  4. ^ a b c 千葉流 サムライへの道、59 - 61頁。
  5. ^ a b 千葉真一、深作欣二の初時代劇の教えに感謝”. アサ芸+. 徳間書店 (2012年11月28日). 2013年1月1日閲覧。
  6. ^ a b 裏YAGYU”. 第1回公演. Project JAX. 2015年4月16日閲覧。
  7. ^ 関口裕子「千葉真一インタビュー」『映画監督 深作欣二の軌跡』キネマ旬報社、2003年、22 - 27頁。 
  8. ^ a b #クロニクル、「証言 製作現場から 『柳生一族の陰謀』企画 高岩淡」、282-283頁
  9. ^ 西郷輝彦「現場が凍った萬屋錦之介と深作欣二の衝突」」『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月7日、2013年1月1日閲覧 
  10. ^ 深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、353 - 354頁。ISBN 489830155X 
  11. ^ あかんやつら 東映京都撮影所血風録、359頁。

『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』では、高岩ら現場が時代劇をやりたいと水面下で動き、千葉が企画提出、深作や日下部も動いてたおり、タイミングよく岡田が時代劇をやろうと彼らに声かけたと掲載されています。岡田がパーティーで時代劇の映画製作が言い出したのかきっかけなんて『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』のどこにもありませんでした。出典通りに編集しない編集者を信用できません。わざとでなくても、出典と明らかに違う内容を編集される219.106.59.68さんの独自研究をどう信用しろと言うのですか?編集の間違いを指摘し報告して以降は[4]、なぜだかわかりませんが219.106.59.68さんは4月28日を最後に全く来なくなりました[5]。岡田茂や岡田が関わった東映作品の編集はされてるようです[6]。入れ替わるようにねだーらんずさんがいろいろ言われてるけど。2人だけが6つの出典は信用できないと言ってるだけで、それで歩み寄れというのは土台無理です。219.106.59.68さんのは独自研究でなくねだーらんずさんの支持も正しいと、圧倒的多数に言われるならまだ検討の余地でてくるかもしれませんが。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 09:38 (UTC)

返信 まだやはり理解できていないようですが、信頼できないという異議が出ているものについてなんら議論がなされていない、ということが問題の本質だということです。にもかかわらず、当該記事は残されており、125.196.225.71さんは今なお編集を繰り返している。私は本件は編集保護にも該当するものと思っています。
この問題は、私が見たところ125.196.225.71さんが話をずらすだけで、まともな議論を行っていないことに起因している。独自研究という言葉ではなく信頼性についてお互いに話し合うべき、と言っているにもかかわらず、一切無視して今なお「独自研究と指摘するのは詭弁らしい」と印象操作に終始し、「圧倒的多数に言われるならまだしも」などとWikipediaで否定されている多数決論を持ち出している。また、自分の出典が信頼できるものかを説くのではなく、いかに219.106.59.68さんが信用できない人物かというのを喧伝している。当然ながら、219.106.59.68さんからすれば、あなたの方こそ出典通りに編集しない信用できない人物だということになって、この問題は一切解決しえないということになる。これは極めて幼稚な言い合いであって、議論のリテラシーの欠如を指摘するに不足しないものでしょう。:125.196.225.71さんがこのような態度である以上、この問題は解決を見るには程遠いと思います。繰り返しますが、本件は編集保護も視野に入れ対応すべき内容であると判断します。強硬な対応を取らざるを得ない場合もあるものと理解しています。そのようなことになることを避けるために、よくよく解決のために誠実に話し合ってください。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 10:10 (UTC)
返信 罵り出したら終わりです。私からするとねだーらんずさんこそ、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないのいつまでも納得しないですね。実際信用できないのは219.106.59.68さんの編集で証明されています。信用できたとしても独自研究を認めるわけにはいきません。219.106.59.68さんを信用してるのはねだーらんずさんだけ。もっと不思議なのはなんで219.106.59.68が出てこないのか?ねだーらんずさんだけが219.106.59.68さんの独自研究を支持してる。だからもっと他に支持する人が出てこないと話にならないってこと。多数決が必須ではないけど、独自研究を認めさせようと思うなら、それなりの数から賛成されないと認められないと思いますがね。誠実に話し合うとは独自研究検証可能性中立的観点に反することを認めることではない。3つの方針に反することを認めるのが誠実と言うのは明らかに間違ってる。編集保護したければどーぞご自由に。管理者が決めることですから。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 10:55 (UTC)

報告企画節に正確性テンプレートを貼付します。125.196.225.71さんは「千葉が深作に本作のベースとなる裏柳生の企画を提出した」旨の高次出典の明記とその引用を行った上で合意を図るようにしてください。(125.196.225.71さんは問題が解決するまでRVしないようにしてください。異議が出ているのは事実であり、これはwikipediaでの問題解決に定められた手順です。)--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 11:06 (UTC)

コメント 異議じゃなくてここまで流れ見れば、ただのいちゃもんですよ。高次出典じゃないと言われてるのは今のところあなただけです。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 11:09 (UTC)
返信 テンプレート除去についてはWikipediaのルールに則った対応をお願いします。安易な差し戻しは行わないようにしてください。
また、当該事実を記載した資料がある場合は、それを引用して頂ければ議論は解決するかと思いますので、そのようにお願いいたします。門外漢の私が判断するところでは必ずしもありませんが、現在の所、その具体的引用はなされていないように見受けられます。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 11:22 (UTC)
返信 ルールに則った対応と言われるなら、テンプレートを貼る際にも合意を得るべきです。現状は検証可能ですので、強引な編集はお控えください。門外漢と言われる割には、これまでのコメントや編集ははとても強引になさってきました。第三者コメントと称しながら、その実独自研究検証可能性中立的観点に反する姿勢で全く平行線ですね。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 11:28 (UTC)
返信 何度も言っていることですが、出典に対する疑問の提示は独自研究には当たりません。そもそもWikipediaの記事は個人のものではなく、全ての編集者の手によるものであるべきですから、疑問があれば当然テンプレートを貼るなどして意見を募るべきですよ。Wikipedia:正確性に疑問がある記事などを参考にしてください。
まぁそれはともかく、あなたが当該箇所を高次資料から引用すればそれで終わるのですから、記事に問題ないというのならそれを行えば済む話ですよ。自分を正当化したり相手の行為を責めたり独自研究がどうのと益体のないことを書体を駆使して書き記すよりも、よっぽど手間がなく、議論も解決に向かうと思いますよ。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 12:36 (UTC)
返信 相も変わらず勘違いしてるなあ。疑問の提示だけじゃなくて、いろいろな文献を読んで混ぜ合わせた結論が独自研究だと、あんたを除いたみんなから言われてるんでしょ。既にテンプレートが貼られ、コメント依頼も出てるし、あえて節にテンプレ貼ったのは何ですか?あんたのやってることは編集合戦を誘発してるだけだよ。高次資料を示す?あんただけが認めてないのに、何でわざわざ示さなきゃいけないの?あんたと219.106.59.68さん以外にも今の出典が問題だという指摘が出てくるまでは、現状のままでいいです。あんたは解決しようなんて気ないよ。ただいちゃもんをつけてるだけ。だれが検証可能な今の記事に、独自研究で文句つけるんですか?あんたぐらいだよ。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 12:58 (UTC)
返信 Wikipediaは問題を多数決で解決することはしません。議論を通して問題の本質を捉え、各編集者の深い知識と良識と論理によって解決を図ることをよしとする場です。そして、125.196.225.71さんは印象操作に終始して一向に本質的な議論を行っておりません。この議論を解決するのは、「高次資料から当該事実を記述する文章を引用する」という極めて簡単なことであるはずなのに、です。
繰り返し指摘します。あなたの態度は議論を行うものとして極めて不誠実です。そして私に対する返答からは、議論を行う気がない、問題を解決する気がないという意識が受け取れます。そうであるならば、当該記事は不適切な内容として削除するのが妥当であるというべきでしょう。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 13:35 (UTC)
返信 多数決が絶対とは一言も言ってないけど、あんたと219.106.59.68さん以外に今の出典に問題があるという意見がでてこないんだが?あんたは都合悪くなると印象操作とか態度とか不誠実とか、議論の本質でない話ではぐらかす。高次資料と言ってるのはあんただけだろ!?本来あんたと219.106.59.68さんが今の出典がおかしいと証明できる出典を出してきて初めて議論が成立するんだよ。あんたらは「この出典はおかしい。その根拠は自分たちがそう思うからだ」と言ってるだけです。本質的な議論をしたければ、あんたたちの独自研究じゃなくて、信頼できる情報源で検証可能な出典を持ってきてください。今のあんたらは議論する前に門前払いを喰らっても仕方ない立場なんですよ。検証可能な現状なのに、あんたがいちゃもんをつけてるだけです。また編集合戦をやる気ですか?あんたほんとうに第三者という立場でここに来てるんですか?これまでの発言や姿勢はとてもそう思えませんね。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 14:04 (UTC)
返信 そのような罵詈雑言は不要です。あなたの行うべきは、一刻も早く出典と引用をもってあなたの記事の正当性を証明することであり、それ以外にあなたに求められていること、なすべきことはありません。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 14:44 (UTC)
返信 残念ながらあなただけが出典にいちゃもんをつけてるだけです。つか私の記事でないですし、あなたがこれまで問題視してることは誰からも同意を得ていません。早く私以外の編集者や読者が検証可能である出典を持ってください。できない以上、あなたの戯言でしかないのです。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 14:49 (UTC)
返信 信頼性についての議論がなされていないという点が問題であると再三指摘しています。また、信頼性についての疑義に対抗出典は必要ない旨も伝えてあり、そのリンクも先ほど提示してあります。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 14:57 (UTC)
返信 その信頼性の疑義はあんたと219.106.59.68さんの独自研究が根拠となってるのが問題だとこれまで何度も言ってるし、私以外からも指摘されてるよね。それに対抗出典じゃないんだよ。あんたらの独自研究じゃなくて、編集者や読者が信頼できる情報源で検証可能になってなきゃいけないわけ。今の出典と異なる内容なら中立的観点からWikipediaに掲載できるわけよ。いい加減話そらすのやめてくれませんか。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 15:07 (UTC)
返信 全く同じことの繰り返しですね。最初から議論する気がないのでしょう。記事についてはそれなりに熱意をもって編集されているようなのに残念ですね。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 15:29 (UTC)
返信 あんたらの独自研究で何を議論するの?と最初から言ってきたよね。独自研究を載せることは熱意じゃないし、Wikipediaでやってはいけないことです。まだ独自研究検証可能性中立的観点がわかってないようだね。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 15:34 (UTC)
返信 ちなみに、WP:悪用などを参考にしつつ、もう少しWikipediaのルールと精神を理解してから編集に参加されることをお勧めします。重要なのは姿勢ですよ。--ねだーらんず会話2015年5月10日 (日) 15:44 (UTC)
返信 そっくりお返しします。独自研究検証可能性中立的観点に反することをゴリ押しされてる方が言われても何の説得力ありませんね。証拠(出典)にいちゃもんをつけてるあなたのほうがWP:悪用をルールと精神を理解されたほうがよいと思います。--125.196.220.127 2015年5月10日 (日) 15:49 (UTC)
返信 ちなみにWikipedia:検証可能性の方針の部分[7]も熟読してください。一応あなたの主張に係わる部分を抜き出せば、「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」とありますね。

返信 インデント戻します。Wikipedia:検証可能性には「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」とありますが、当該部分にはWikipedia:信頼できる情報源がついています。Wikipedia:論争の解決#ステップ2: 論争の相手と話し合うにも「ウィキペディアの三つの大事な方針である、中立的な観点で書く検証可能性を守る独自研究は載せないに従った編集ができるように合意することを目指してください。」とあります。検証可能性が成立してるのに、あなたひとり(と、なぜか今は議論に出てこなくなった、ここで言い出し始めた219.106.59.68さん)だけが、「他の出典には載ってないからこの出典はおかしい。その訳は門外漢のぼくがそう思うからだ。ぼくが納得する高次出典を出せ」といつまでも納得せずに言われてるだけです。

これはWP:IDIDNTHEARTHATの「方針ではこうであると明示されても、「納得する」ことを意図的に拒否していることが明らかになった場合、納得の拒絶を継続することは、もはや正当性のある態度、方針に準拠している態度とはいえません。それは、自説を通したいがために合意形成の方針を悪用した、妨害行為です。」に当たります。あなたは議論中に自分の意向を記事に反映させようと強引に編集されました。残念ながらとても善意ある第三者がする行動とは思えません。

「ぼくが調べた出典には載ってなかった、見当たらなかった」は「千葉が企画したものでない」とイコールではなく、全く意味合いが違うのです。編集者は出典に載っていることだけをウィキペディアに書くのが基本中の基本。信頼できる情報源を満たしてる出典なら、その中身を正しいとか正しくないとかを編集者が判断してはいけない行為と説明してきたはずです。

ここまで書けば大概の人はわかるんですけどね。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 05:15 (UTC)

返信 だから立証責任は記事を記述する方にあるって言ってるのに。こんなのは中学生でも知っている常識中の常識ですよ。わけのわからない信用できない出典を出してその出典の信頼性を問われると「編集者は出典の信頼性を述べる立場にない、それは独自研究だ」って。もはやこれは小学生レベルの強弁ですよ。もはやあなたは議論を攪乱させているだけですね--ねだーらんず会話2015年5月11日 (月) 06:19 (UTC)
返信 煽りに必死だけどあなた本当に第三者なの?あなたを支持する人誰もいないんですが?立証されてないと言い張るのは今のところあなたと現れなくなった219.106.59.68さんだけですね。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 06:26 (UTC)
返信 煽り、ですか……。まぁいいです。それで、「二人だけですよ」と言ってますが、人数の問題をしたいんですか? これは無意味な問いではありますが、では信頼性についてあなたに賛同されている方は何人いらっしゃるんでしたっけ?--ねだーらんず会話2015年5月11日 (月) 06:35 (UTC)
返信 小学生レベルとか、今までいろいろな発言で煽ってきましたね~。ハッキリしてるのは信頼できる情報源検証可能性を理解できてないのが、あなたと219.106.59.68さんだけということです。それと独自研究中立的観点もね。
>わけのわからない信用できない出典を出して
返信 あなた大きな勘違いしてるけど、6つの出典のうち私が持ってきたのは春日太一「千葉真一 柳生十兵衛の殺陣」『役者は一日にしてならず』(初版第一刷)小学館(原著2015-2-28)、46頁。ISBN 4093798699 だけです[8]。4つが219.106.59.68さんがつけたものだよ。『あかんやつら』含めてね。アサヒ芸能が前からあったやつ。私が検証したのがサイトと『あかんやつら』だけです。
信頼できる情報源でないというなら、どこが信頼できないのか詳細に説明してくれる?既に説明してるとか言って逃げないでね。今までのあなたの説明の仕方では誰からも賛成されてないから。あなたの説明の仕方がうまくないのを聞き手のせいにしてはいけませんよ。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 06:56 (UTC)
返信 実に自閉的ですねぇ。私は最初、あなたが意図して話をはぐらかしているのかと思っていましたが、もしかしたらそういう意図はなくて、単に「そうなってしまう」というだけなのかもしれませんねぇ。まぁそれが免罪符になるわけでも解決に資するわけでもないけれども。
それでね、キミはどっちが悪いとかそんなことばかり言っているけど、別に誰がどの出典をつけようがどうでもいいんだよ。「結局千葉自身が「企画を提出した」以外では、関係者から「千葉が企画を提出した」という証言、出典は見つからないでしょう。」「千葉の企画が本作にどの程度反映されたのか現時点では分からないので、あなたが企画の項目のこの位置に「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出」というこの言葉を入れると、あたかも本作が千葉の企画のような印象を与えます。」についてきちんと資料の信頼性と記事の正確性の観点から検討すればいいだけ。千葉が企画者的な立場であったことについて蓋然性が高いと思うのならば、新資料を提示したり資料を読み解いて資料の内部からそう主張すればいいし、蓋然性はないが深作に対してアクションを起こしたという文章を記述したいというならその旨と理由を伝えて話し合えばいい。「千葉が企画者的スタンスであったという情報が千葉側のリークからしか発見できなくてなにが悪い。信用できようができなかろうが本にそう書いてあるんだからこれは記述して問題ないんだ。資料の信頼性にケチをつけるのはあんたの思い込みによる独自研究だ」なんていうのは、もはや反証可能性の封殺であって、逆説的に検証可能性そのものを否定する行為ですよ。独自研究による記事の執筆は許されないとしても資料の信頼性についての議論は当然行われるべきだし、だからこそWikipediaでもそのためのタグが存在しているんだからね。--ねだーらんず会話2015年5月11日 (月) 07:52 (UTC)
返信 相も変わらず煽りで始まりましたね。まず落ち着きなさい。
だから上の発言があなたの独自研究だと言ってるわけ。
>「結局千葉自身が「企画を提出した」以外では、関係者から「千葉が企画を提出した」という証言、出典は見つからないでしょう。」「千葉の企画が本作にどの程度反映されたのか現時点では分からないので、あなたが企画の項目のこの位置に「前後して千葉真一が本作のベースとなる『裏柳生』という企画を深作へ提出」というこの言葉を入れると、あたかも本作が千葉の企画のような印象を与えます。」
↑これらが信頼できる情報源に掲載されてれば議論の余地あるけど、あなたと219.106.59.68さんだけなんだよ。いつまでも言ってるのは。あんたらの独自研究を言い張るから、あなたたち以外の編集者さんたちから賛成されないわけ。
あなたの言ってることはWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に違反してるんだよ。これ何度言ったかなー。
>新資料を提示したり
これ答えになってないよ。信頼できる情報源が現状あるんだから。信頼できないという証明になってない。
>わけのわからない信用できない出典を出して
答えたんだけど[9]、全く返事ないのどうして?話そらすのやめてくれる?言い出したのあなたなんだけど。
昨日からずーと必死だけど引けなくなっちゃった?あなたが219.106.59.68さんの意見に賛成するのは勝手だが、その意見が独自研究な限りはずーと賛成集まらないでしょうね。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 08:19 (UTC)
>独自研究による記事の執筆は許されないとしても資料の信頼性についての議論は当然行われるべきだし、
返信 だからさっきから聞いてるよね?現状出典の信頼性がないという理由を?今のところ、あんたらが言ってることは「出典を読んだけど、これは怪しい」というあんたらの感想や意見だけ。これが編集者の独自研究なんですよ。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 08:29 (UTC)
返信 だから立証責任は記事を記述する方にあるって言ってるでじゃない。出典に対する信頼性の疑義は独自研究にあたらない。「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」って書いてあったでしょ。キミは「当該部分にはWikipedia:信頼できる情報源がついています」って言ってたけど、キミが信頼できるって言ったところで信頼できないって言っている読者や他の編集者がいるんだから、議論しろって言ってるんだけどなぁ。--ねだーらんず会話2015年5月11日 (月) 08:41 (UTC)
>「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」って書いてあったでしょ。
返信 だから出典は現状示されてるよね。あなたが支持する219.106.59.68さんが持ってきた出典も含めて。
>キミが信頼できるって言ったところで信頼できないって言っている読者や他の編集者がいるんだから、
誰?今のところあなたと219.106.59.68さんしか見当たらないんだが?それも信頼できないという理由が全く説明されてない。いや説明してるつもりなのかもしれないのが、それは独自研究と何度も指摘してるんですがね。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 08:47 (UTC)
返信 本質的に人数は関係ないし、人数を比較したいならじゃああなたの支持者は何人なのってさっき聞いたのに。で、あなたは独自研究だと言ってるけどそれは独自研究じゃないよって言ってるじゃない。大体、常識的に考えて「日刊ゲンダイは信用できない書物である」「ムーは信用できないと言うことはこの書物に書かれている」なんて出典があるわけないし、あったとしてもじゃあその書物の信頼性を担保する出典は?ってことになって無限後退に陥るでしょ。--ねだーらんず会話2015年5月11日 (月) 08:55 (UTC)

返信 インデント戻します。219.106.59.68さんは4月28日を最後に来なくなったから[10]、信頼できないと言ってるのはねだーらんずさんだけだね。それも独自研究で。

>人数を比較したいならじゃああなたの支持者は何人なのってさっき聞いたのに。

答えてるよ[11]。あなたの「信頼性云々」を支持していない人たちは、現状の記事に文句言ってないわけだから。

>大体、常識的に考えて「日刊ゲンダイは信用できない書物である」「ムーは信用できないと言うことはこの書物に書かれている」なんて出典が あるわけないし、あったとしてもじゃあその書物の信頼性を担保する出典は?ってことになって無限後退に陥るでしょ。

あるわけないから、探さないと言うのは詭弁でしょ。疑ってると言ってるのはあなたなんだから、あなたが違うことを書いてある出典を持ってくるべきだよ。信頼できる情報源を満たしている出典がついている内容を削除したいなら、最低でもA出典にaということが書かれてるから(例えば岡田茂が別のことを言ってたとか、松方弘樹が企画を出したとか、異なる内容があるなら)というのを持ってこないといけないよ。信頼できる情報源なら載せる価値あるだろうから、中立的観点で両論併記でます検討すべきだな。あんたらの独自研究だけで削除する理由が、現状は成立しないわけ。オンライン百科辞典なんだから、信頼性できる情報源の出典が未来に出てきたら、また編集されるんだよ。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 09:20 (UTC)

返信 いやいや、学校の集会やチャットやSNSじゃないんだから。「こなくなったから」とか「反対しているのはあなただけ」とか、そもそもWikipedia、あるいは議論というものを勘違いしてるよ笑。あと、これ[12]のどこが答えてるの? 信頼性についていま現在意見を言ってない人はキミを支持してる、だって? いやー、さすがにそれは自分ルールを作りすぎでしょう、何億人味方につけるつもりなんだ笑。
で、また対抗出典が必要だって言ってるけど、そんなの必要ないって言ってるじゃん。ムーに「藤原定家は宇宙人である」って記事が載ったとすれば、「藤原定家は宇宙人であるかを検証したが、そのような事実はなかった」とする研究資料が提示されるまで「藤原定家=宇宙人」を事実として扱って藤原定家の項目に載せ続けなきゃならんのか笑。「藤原 定家(ふじわら の さだいえ)は、鎌倉時代初期の公家・歌人・宇宙人。」って笑。そこで「いや、ムーを出典に記事を書くのはちょっと、もう少し検証しようよ」って意見すれば独自研究か笑。さすがにそれはないんじゃないかなぁ笑。--ねだーらんず会話2015年5月11日 (月) 10:01 (UTC)
>「こなくなったから」とか
返信 219.106.59.68さんは2015年4月28日 (火) 16:21を最後。ここに来なくなって何日立ってると思う?正しいと思うなら、今も議論してるはずだよね?だって他で編集してるんだから2015年5月7日 (木) 16:28
>「反対しているのはあなただけ」とか
返信 実際そうだから仕方ないよね。おまけに「ぼくは219.106.59.68さんの独自研究を信じてます」の一点張りだし、あんたが信頼できないと言ってる根拠が219.106.59.68さんの独自研究だけってこと。さっきも言ったけど、中立的観点から信頼できる情報源の出典に載ってるなら掲載できるわけ。で、いつになったら信頼できないという理由を説明してくれるの?「ぼくが思ったから」は聞き飽きたんだが笑
>何億人味方につけるつもりなんだ笑。
返信 なんでそういう解釈になるのかなー?削除したいと言ってるのはあなただけ。その理由もあなたの感想だけ。で、あなたを支持してるのはこのノートで誰もいない。もっとシンプルに考えられない?
>ムーに「藤原定家は宇宙人である」って
返信 また可笑しなこと言い出したな。鎌倉時代の著名人の出典がムーで、藤原定家のことを記述するかも?と想像するのはあんたぐらいだよ。さっきから揚げ足取りに終始してるぞ笑。ムーの話を持ち出しても現行の出典がどこに問題あるのか説明になってないな。
219.106.59.68さんが最後に来たのが2015年4月28日 (火) 16:21。で、私が2015年5月8日 (金) 10:25と言った後から、あなたが2015年5月9日 (土) 09:01頻繁に来るようになったけど、議論中に強引に編集するし[13][14][15]、独自研究のごり押しやイミフなムーの例え話。とても第三者として中立に見えないんだけど?当事者になってるという理解でいいよね?ウィキペディアの三つの大事な方針である、中立的な観点で書く検証可能性を守る独自研究は載せないに、219.106.59.68さんの独自研究が従ってるのかわかりやすく説明してくれたほうがもっと説得力あるよ。ムーの例え話より笑。
すぐ返事できないときもあるけど、合意とれてない状況で強引に編集は二度としないでね。議論テンプレついてんだから。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 11:15 (UTC)
返信 揚げ足取り、ねぇ。まぁ「ムーが藤原定家のことを記述しない」っていうのは、キミの言い分によれば「独自研究」に過ぎないわけで、きちんと「ムーが藤原定家のことを記述しないという出典を示す必要がある」わけなんで、まぁ今後そういう主張する時はきちんと出典出すようにしてくださいよ。少なくともダブルスタンダードは良くないね。あと、「議論テンプレついてるんだから編集するな」といっているけれど、正確性テンプレートをつけていけないってのもまたキミの独自研究に過ぎないよね。本能寺の変なんかの記事を見ても、別に何らおかしいことじゃないってことがわかるよね。で、結局キミは一向に議論を行ってないわけだ。ここまで来るとキミは議論をする行為能力を持たない見なさざるを得ないね。残念だけど、そのように判断した上で行動することになるね。--ねだーらんず会話2015年5月11日 (月) 12:16 (UTC)
返信 ってことはまた強引な編集をするってこと?対応するだけだから、どーぞご自由に。本能寺の変を持ち出して許されるって、相も変わらず暴論しまくりだな笑。
>まぁ「ムーが藤原定家のことを記述しない」っていうのは、キミの言い分によれば「独自研究」に過ぎないわけで、
返信 つか具体例で説明してくれる?実際にムーが「藤原定家は宇宙人」と載せたわけ?それをウィキペディアに載せようとした編集者がいたの?おれがいつムーが藤原定家の二次資料(一次資料も含め)で信頼できる情報源と言いました?あなたが現行出典を藤原定家のムーと証明するべきでしょ。「ぼくは信用できない」じゃダメだって笑
あなたもう仲介者じゃないよね?当事者として対応していきますね。--125.192.220.141 2015年5月11日 (月) 12:36 (UTC)
コメント「コメント依頼から来た合意を促進する第三者」と言ってるが[16]」、何やってるの[17],[18]行為能力[19]自閉的,中学生でも知っている常識中の常識,小学生レベルの強弁って、まんまあんたのことじゃない?告知tmp残ってるのに。まず落ち着きなさい。--125.196.225.93 2015年5月11日 (月) 19:18 (UTC)

提案 議論とは別に一つ提案があります。この節の議論だけで大分テキストサイズが膨大となってきており、このままでは別件でこのノートを利用したい人々にとって大きな妨げになります。議論終結したのであれば過去ログとしてH:SBPに移動すればいいのですが、まだ続けられるのであれば、ノート:柳生一族の陰謀/変更の要点という本議論専用のサブページを作成し、そちらで続けることにしませんか?サブページに移しても、コメント依頼や各方針文書のノートページからもコメントは募れますよ。--Dooon会話2015年5月12日 (火) 04:47 (UTC)

無駄にページが肥大するのは私も望むところではありませんので、Dooonさんのご提案に賛成です。
返信 (Nederlands2さん宛) Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかにも「ただし、ノートページで個人的な理論について議論することは、あまり歓迎されないでしょう。」とあるので、個人の持論を延々と話す場ではないと思い、今まで一次資料や二次資料を見たり読んだりの個人的な意見は言ってきませんでした。ねだーらんずさんが編集者の資料を読んで、そこから読み手の独自研究で議論をするのはありと言われるので、私からも独自研究を言います。ねだーらんずさん自身が本作について門外漢と言われてるので、この作品を簡単に説明します。1つめは『「裏柳生」という企画を提出』という個所をねだーらんずさんは疑問されてますが、私は全く気になりません。というのも映画が公開された同年テレビで柳生一族の陰謀#連続ドラマ(一次資料)が翌年まで39話放送されましたが、こちらは柳生十兵衛が完全に主役の内容で、十兵衛に率いられる根来衆が裏柳生という忍者集団になっていくのが描かれています。私が思うに千葉真一の企画は映画よりもテレビドラマのほうの比重高いと思ってます。ただハッキリと記されてる文献やネットを私の見た範囲ではないので、これを当該記事に書いてしまうと独自研究になります。映画に千葉の企画が全て反映されたと思ってませんし、千葉自身や他の関係者からもそのような証言はありません。ただ今日現在ここに載ってる出典では千葉が企画を深作に提出したというのは細かい表現は文献により異なりますが、複数出典で証明されてます。219.106.59.68さんが「(深作欣二が亡くなり)死人に口なし」ということを言われてますが、219.106.59.68さんがいろいろな文献を調べてその中での個人の感想ですからいいんですけど、映画と連続ドラマを見てるほうからすると、裏柳生という企画が千葉から出ていたことはそれほど疑念を抱くことだと思えません。近年東映チャンネルで何度か全話が放送されており[20]、ドラマを見る機会がもしかしてあれば納得されると思います。2つ目は1981年の映画『冒険者カミカゼ』の公式パンフには、企画でクレジットされてる日下部五朗から「好きな映画を作っていい」と言われた千葉が企画を出したという内容が載っています。でもクレジットタイトルの企画には千葉の名前はなく、日下部五朗になっています。いみじくもこのノートでYhiroyukiさんが言われてることだと私は思います[21]Dooonさんも言われてる、千葉が企画を出してても結局企画担当者がいろいろアイデアを出し合って作り上げていくことが内容になってるので[22]、それほど目くじらを立てることなんでしょうか?映画は明らかに企画会議で話し合ったメンバーがアイデアを出し合ったということが現状の内容ではきちんと反映されてると思います。ねだーらんずさんが219.106.59.68さんの独自研究を信じられるなら、私の独自研究も信用してほしいですね笑。本来そういうことで載せる載せないを決めることじゃないですが。--125.192.60.32 2015年5月12日 (火) 15:47 (UTC)

コメント 「このノートが合意を提案する場所であるなら」という219.106.59.59さんの言葉が全てでしょう。コメント当初から述べていることですが、現状では記事の信頼性について疑問が呈されているにも係わらずその信頼性や改善についてなに一つ議論が行われていません。そして記事にはなんら改善や同意あるいは未検証である旨が反映ないし表示されていない。しかし125.192.60.32さんに信頼性についての議論を行うべきと勧めても「独自研究には与しない」なる態度が示されるばかりです。今後も彼は「出典のある記事に対して信頼性を問うのは独自研究だ」なる言説を中心に、空疎な自己の独特の主張を堂々巡りを繰り返しながら喚き立てるだけであり、議論、あるいは会話が成立することはないでしょう。もし議論にて解決が図れるとすれば、それは125.192.60.32さんを除外した場が提供される場合かもしれません。いずれにしろ、Wikipediaというプロジェクトの思想及び信頼性を鑑みて、現在の当該記事を了承することは出来ません。概括すれば、「本記事についてなんら合意を得られていないばかりか、議論が行える状況ですらなく、合意を得られる見込みもない」ということです。--ねだーらんず会話2015年5月12日 (火) 19:00 (UTC)

コメント それと一つ。そもそもの問題とは別の事柄ですが、125.192.60.32さんが正確性テンプレートを無断ではがす行為を行っているが辞めて頂きたい。正確性テンプレートはそもそも許可が必要なものではないし、少なくとも現状では、ノートにて正確性についての疑問が提出されており、それが未解決であるのは間違いがない。これについて彼は冒頭に告知があるからそれで十分だと独特の主張をしているが、本記事は記事として大部に属する物であり、具体的に摘示しなければどれが問題なのか読者が理解できない。「テンプレートを張ることは議論を無視する行為だ」なる言説もまた彼自身の独特の主張に過ぎず、全く根拠も公益性もない行為なのでやめるように。--ねだーらんず会話2015年5月12日 (火) 19:21 (UTC)

返信 まだ勘違いしてますね。Wikipedia:信頼できる情報源というのは出典の内容が事実かどうかでなく(Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)、一次資料や二次資料がWikipediaの方針を満たしてるかということ。現状の告知テンプレートはもともと貼った[23]219.106.59.119さんであり、その人から合意を得てないのも問題。正確性に疑いがあるという割にはねだーらんずさんは、自ら出典を調べてる様子全くなし。ただ219.106.59.119さんの独自研究を支持してるだけ。あなたひとりでなく多くの編集者から正確性に問題があると言われるまでは賛成できませんね。ねだーらんずさんはもはや第三者でなく、異なる見解を論じ合ってる立場ですから。
だいたいテンプレの張り替えに執着するよりも、お互いの言い分を整理して新たな節を作り、コメント依頼したほうが早いでしょ?これ提案だけど聞く耳ありますか?--125.196.222.69 2015年5月12日 (火) 20:49 (UTC)
返信 単にコメント依頼を出すだけでは、先述の通り解決を見ることはないでしょう。そこで、その提案が解決に向けたものであると信じて、私からもそれを補足する形の提案があります。それは「長文を繰り返すのではなく、あらかじめ争点を絞り、争点についての主張を提示したうえでその妥当性についてコメントを仰ぐ」ということです。おそらく今回の争点は「本作のベースとなる企画『裏柳生』を[15][16][17]、深作欣二へ提出していた[13][14][15][16][17][18]。」という記述の妥当性でしょう。そちらの主張は、「1.検証可能性を満たしているので記述は正当」「2.出典についての信頼性について議論をふっかけてくるのは独自研究」というものが骨子となるのでは? 一方、219.106.59.119さんの主張は「1.記述の出典のほとんどは信頼がおけない。」、「2.信頼が置ける出典には当該記述はない。」「3.『千葉真一が深作に「自身が柳生十兵衛を演じたい」という旨の企画書を提出しており、』という記述ならば合意できる」あたりでしょうか。このようなスタイルでしたら解決を見ることも不可能ではないかと思いますし、また効率的かとも思うのですがいかがですかね?--ねだーらんず会話2015年5月23日 (土) 14:54 (UTC)
返信 単にコメント依頼なんて一言も言ってないでしょう?「お互いの言い分を整理して新たな節を作り」と言ってるんですから。あなたとは論点もずれてるんだから、それも第三者に判断してもらえればいいだけです。あなたは第三者でなく、もはや当事者ですから。それにあなたが私の言い分を代弁することはないです。あなたは私の主張をいい加減に省略していますから。ではあなたが219.106.59.119さんの言い分を支持する理由は上に書いてあるとおりということですので、私の言い分を整理し、見出しを追加してコメント依頼を出します。あなたの主張を追加されたいなら、第三者がわかりにくくならないように箇所を指定してますので、そこへ追加されるようお願いします。--125.196.229.206 2015年5月23日 (土) 18:11 (UTC)

2つの主張でどちらが適正か?

[編集]

以下2つの主張がありますが、どちらが適正かご意見のほど、よろしくお願いいたします。議論となってる個所を柳生一族の陰謀#企画から抜粋しました。

== 企画 ==
別の時代劇を検討している矢先[1]千葉真一は「時代劇をやりたい」と柳生十兵衛三厳を演じ[1][2][3]、本作のベースとなる企画『裏柳生』を[3][4][5]深作欣二へ提出していた[1][2][3][4][5][6]
  1. ^ a b c 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(初版第一刷)文藝春秋(原著2013年11月15日)、358頁。ISBN 4163768106 
  2. ^ a b 春日太一「千葉真一 柳生十兵衛の殺陣」『役者は一日にしてならず』(初版第一刷)小学館(原著2015-2-28)、45 - 46頁。ISBN 4093798699 
  3. ^ a b c JJサニー千葉『千葉流 サムライへの道』ぶんか社、2010年、59 - 61頁。ISBN 4821142694 
  4. ^ a b 千葉真一、深作欣二の初時代劇の教えに感謝”. アサ芸+. 徳間書店 (2012年11月28日). 2013年1月1日閲覧。
  5. ^ a b 裏YAGYU”. 第1回公演. Project JAX. 2015年4月16日閲覧。
  6. ^ 関口裕子「千葉真一インタビュー」『映画監督 深作欣二の軌跡』キネマ旬報社、2003年、22 - 27頁。 

ねだーらんずが支持する219.106.59.119の主張
「1.記述の出典のほとんどは信頼がおけない。」、「2.信頼が置ける出典には当該記述はない。」「3.『千葉真一が深作に「自身が柳生十兵衛を演じたい」という旨の企画書を提出しており、』という記述ならば合意できる」

125.195.16.221の主張
  1. 6つの出典は信頼できる情報源、一次資料もしくは二次資料である。一次資料は「ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけで、信頼できる出版元によってその情報が入手できる状態になっていること(Wikipedia:信頼できる情報源#情報源)」と「信頼できる公表ずみの一次資料はウィキペディアでの使用が許され、事実について率直な記述を行う場合のみであり、特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合に限られる。一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけない(WP:PSTS)」をクリアしている。
  2. 当該記事で一次資料を削るなら、今議論になってる箇所だけなくすべてを削るべき。今ある出典の7割近くが、当該映画の関係者の著者や製作会社東映の公式本、公式サイトである。
  3. 6つの出典で一次資料と言えるのは千葉真一の著書『千葉流 サムライへの道』のみ。『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』『Project JAX』『映画監督 深作欣二の軌跡』の3つは、219.106.59.119さんが持ってきたもの。「1.記述の出典のほとんどは信頼がおけない。」「2.信頼が置ける出典には当該記述はない。」でないと言われるなら、なぜそのような出典を219.106.59.119さんが持ってきたのか?
  4. 219.106.59.119さんは6つの出典やこれら以外の文献を読んだ結果、出典とその文献の内容が信用できないと主張されている[24]。これは独自研究であり、検証可能性にも反している。上の#変更の要点で議論してきたが、複数の第三者から「独自研究であり、検証可能性に反してる」と指摘されている[25],[26]
  5. 6つの出典のうち、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』『アサヒ芸能』『Project JAX』の3つは当該記事の他の個所の出典にもなっており、同一出典でAという内容は信用でき、Bという内容も信用できるが、Cという内容は信用できないという判断を編集者がするのは、独自研究に該当する。
  6. Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかには「ただし、ノートページで個人的な理論について議論することは、あまり歓迎されないでしょう。」と載っており、ノートは独自研究で議論する場ではない。しかしねだーらんずさんは編集者の独自研究での議論はありと主張されているので[27]、私から独自研究を一度だけ主張したが[28]ねだーらんずさんは聞く耳なし。本来独自研究は聞くべきものでもない論外であり、なぜ219.106.59.119さんの独自研究だけ信用できるのか?
  7. ねだーらんずさんは「出典の信頼性について意見を言うのは別に独自研究じゃないよね」「前にも述べたとおり私はその信頼性を判断できる立場にはありませんので、」「インタビュー等は出典としては信頼性が低い。」と発言され[29]ねだーらんずさん自身が6つの出典を検証した形跡はない。しかし「『あからやつら』はタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)でもなく、二次資料」という主張はおかしくて、」と、ねだーらんずさんが判断した相反する発言をされている。
  • 「出典の信頼性について意見を言うのは別に独自研究じゃないよね」は、信頼できる情報源の基準を満たしているかどうかを話し合うのならともかく、その基準をクリアした出典の内容を事実かどうか話し合ってはいけない(検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)。具体的な数字などが明らかに違うならともかく、それでも信頼できる情報源なら異なる論を書けば良い(中立的観点)。
  • 「門外漢の私から見ても信頼性に対して疑問に思いますから。[30]と発言されてるが、219.106.59.119さんが複数文献を読み、その意見を基にした持論(独自研究)を#変更の要点で展開し、これを読んだねだーらんずさんの感想や意見であって、出典が信頼できる情報源かどうかとは全く次元の違う話である。信頼できる情報源のどこに反してるのかの説明が全くない。ハッキリしてるのはねだーらんずさんが219.106.59.119さんの独自研究を支持してるということ。
  • 「インタビュー等は出典としては信頼性が低い。」と思うのはねだーらんずさんの主観であり意見である。他の関係者の著書も一次資料で当該記事では使われているが、これらも信用できないのか?

双方の言い分をここにまとめましたが、議論の経過は#変更の要点にあります。--125.196.229.206 2015年5月23日 (土) 18:11 (UTC)--125.196.229.206 2015年5月23日 (土) 19:28 (UTC)--125.196.233.214 2015年5月24日 (日) 01:51 (UTC)