ノート:森一夫
小学校課程の理科教育法で森先生にお世話になった縁で、すこし加筆させていただきました。
Wikipediaにおいては、授業1回の関わりであっても関係者扱いになりますので、Wikipedia:自分自身の記事をつくらないを留意しつつ、執筆しております。また、連続投稿はサーバーに負荷をかけますので、プレビュー機能・サンドボックスなどを使い、できるだけ投稿回数を少なくするよう心がけております。
Wikipediaは「百科事典」という性質上、いろいろなガイドラインが存在しております。皆様、ご協力お願い申し上げます。
(追伸)「理科教育」の項、まだまだ中途半端なものになっておりますので加筆しようと思っておりますが、私自身もまだまだ力不足で、なかなか書き込めていない状況です。こちらをご覧の方で、もし理科教育にお詳しい方がいらっしゃいましたら、ご助力下さいますと大変たすかります。
9b-kitsune 2009年11月19日 (木) 04:19 (UTC)
小生、ひょんなことからある小学校で特別授業をすることになり、森先生の著書をいくつか参考にさせていただきました。大変な功績をお持ちの方です。「大げさな」表現をされなくても確実にこのページを読む読者には伝わりますし、大げさな表現はかえって森先生の御功績に傷がつくものと思います。また「履歴書」のような記述がありますが、これはいかがなものかと思います。とりあえず残してはおきましたが、「何年何月に何々」ではなく、せいぜい「何年に何々」で十分だと思います。一見まとまっているようですが、かえって雑多なものとなり、先生の御経歴がわかりにくくなってしまっています。「最終学歴」だの「職歴」だのといった表現については、見るに見かねて訂正させていただきました。--ENG0000 2009年11月19日 (木) 13:35 (UTC)
教官の出張報告なんぞ、事件にでもならない限り一般に公開されるものではありません。内部文書であり、大学側はこれを一般に公開することを簡単に許諾しますか?許可を得ているのであれば、その「明確な記載」も必要です。事実、大阪教育大学の公開文書をざっと確認しても、見当たりません。また特に大阪教育大学は個人情報の保護に関する法律の制定のはるかに前(学芸大時代)より、いわゆる個人情報の取り扱いについては厳格、私が取材に行った時も、あれこれと事前の調整が大変でしたが、同時に「教育大というところは、こんなに人を大切にするのか。」と感心し、非常な親しみを覚えたことをよく記憶しております。当時、天王寺分校、池田分校(の呼び方で正しいでしょうか?)にそれぞれお邪魔させていただいたのですが、私の出身校などとは大違い。正直、うす暗くぶっ倒れそうな木造校舎、学生運動のビラがべたべたとあちこちに貼られ、ヘルメットをかぶった運動家の姿がまだちらほらしているのに「トイレのきれいな学校」。強烈に印象に残っています。私見ですが、文部省べったりで、学内に日本庭園をつくり、今や産学協同と称して金もうけに走っている大阪のどこかのマンモス大学とは大違い、現在の大阪二国立大学の中でも際立ったカラーを持つ大学と評しています。このようなところが、およそ教官の個人情報について簡単に開示許可を出すとは思えません。
他、何年何月の記載が随所にありましたが、「何年」までは参考文献からわかりますが、「何月」まではよくわかりません。個人情報を含み法抵触の可能性が高いことから、ウラのとれない部分は全削除させていただきました。--ENG0000 2009年11月20日 (金) 02:43 (UTC)
--221.187.225.217 2010年1月6日 (水) 14:50 (UTC)== 出典の消去 ==
提示された出典が消され、新たに出典が加えられ、また消されるということは、記事全体の信憑性を疑わざるを得ません。また出典の「一部」とはどこですか?特に存命中の人物に係ることであります。曖昧な表現はお止めになり、明確にご提示願います。--SCCKAHAN 2009年11月22日 (日) 10:15 (UTC)
記事内容を正しく確認できる出典を消去する行為は極めて悪質です。Wikipediaはあなたの独占物ではありません。記事編集の手法、用いられている用語から、学術に携わられて久しい方と拝察致します。このような行為はお止めになってください。--SCCKAHAN 2009年11月22日 (日) 10:54 (UTC)
大変ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません。できる限り、ご指示に従おうとして(「年だけなく、月も入れよ」というご指示)、何とか努力してみたのですが、当方がパソコンが苦手で(お恥ずかしいことながら)、下書きではうまくいったように見えても、仕上がったものは、体裁も悪く、誠に申し訳ありません。 また、上記の出典を消したのは決して悪意からではありません。一番、正確で、誰でも閲覧できるReaDカテゴリー検索(研究者)で国立大学→大阪教育大学→森 一夫で検索すれば、履歴、活動歴、著書、論文等はもっと豊富に出て参ります。「これでもか!」といわんばかりの出典を並べたてるよりも、少しでも字句を減らそうと考えて、「大は小を兼ねる」方式のほがスッキリするし、パソコンさえあれば、どなたでも容易に確認できると考えたからにすぎません。しかし、そのように受け止められたとすれば、それはすべて私の不徳の致すところで、甘んじて非難をお受けします。しかし、事実を歪曲する意図は全くないことは、お手数ながらReaDカテゴリ検索によって、ご確認頂け、ご納得頂け--221.187.225.217 2010年1月6日 (水) 14:50 (UTC)--221.187.225.217 2010年1月6日 (水) 14:50 (UTC)るものと存じます。昨年から今年にかけて、別の件で多忙を極めていたとはいえ、もっと早く、当方の意図を丁寧に申し上げるべきだったと存じますが、いろんなことが重なって、思わぬ方向に悪化させていったことに、改めて驚くと同時に、申し訳なく存じております。著書や論文、教育雑誌等をできる限り、いろんな方に読んで頂き、それをもとに議論ができれば、教育界はもっとよくなると思ったことが、私の間違いだったのかもしれません。不愉快な想いをさせ、さらにご迷惑をおかけして、ほんとうに申し訳なく存じております。重ねて、心から、深くお詫び申し上げる次第です。
- ご事情、拝察させていただきました。おそらく上述のコメントは森先生であられるかと思いますので、誠に失礼ながらそうさせていただきます。
- 今回、ENG0000(これは私が現役時代の直属の上司でありまして「崩壊寸前にある日本の放送の記録を残すため、Wikipediaの執筆を行うように。」と無責任にも私に申しつけた者ですが。)が小学校の教壇に理科特別講師として立つ機会を得たため、先生のご執筆なされた本でにわか勉強、インターネットで情報を探しているうちに先生のページに行きつき、驚きました。はじめはいわゆる「荒らし」と感じたようですが、そのうちに「ちょっと違うのでは?」と思い始め、私のところに電話をよこしてきました。
- ENG0000も私も大阪教育大学の、その大学らしい雰囲気が大好きです。また上述の先生のコメントは私の知っている大阪教育大学の先生のお姿そのものです。ENG0000は東京でさんざん水かけをやった学校で8年を過ごし、その後ものずきにもさらに数年、東京の別の学校で過ごしており(そこまで大学に居たのだからそのまま学問の道を究めればよかったのに何を考えたのやら…)、仕事で大教を訪れたときに好きになったようですが、私は阪急石橋駅を最寄りとする学校で8年間を過ごし、大教とはその頃からです。大教の雰囲気は私の学校とは大違い。はじめてお邪魔させていただいたとき、まずキャンパス内を歩いているネコの人なつっこいのに驚き、「この違いは何なのだ?」と興味を持ち、早速、大教のあるサークルに所属、今でこそ申し上げますが、理科系の講義(教養ですが)を「潜り聴講」させていただき、さもありなんと感心。結局、石橋と池田の間をおよそ7年間、行ったり来たりして楽しく過ごさせていただきました。豊中での講義が終わると自転車(当時はオートバイなんて学生には無理。ただ176号線は空いていましたから、オンボロ自転車でも15分ほどでしたか…。)飛ばして大教のサークルへ。そこでの学生同士の議論は非常に楽しかったですし、そのつてで教授をご紹介いただき、「非公式に」私の大の苦手とする文科系論文の書き方まで丁寧に教えていただきました。これはその後マスコミで仕事をするにあたり、大変貴重なものとなりました。また、今でも当時、朝まで語り明かした大教のサークル仲間とは仲良くさせていただいております。おそらくは私の生涯の友になりますでしょう。
- 失礼ながら、先生と私はほぼ同世代であり、今回直感的にこれはまずいと感じました。表現に対する考え方は、根本的に日本と欧米で異なります。私たちは仕事として30年「表現とは?」と闘ってきましたが、とにかく日本には最高裁で出された「結論」があるため、欧米との違いをなくすことができません。この差はWikipediaにも少なからず出ています。ENG0000は無謀にも?日本のWikipediaに闘いを挑んでおりましたが…。
- 現実問題として、この違いが根底にあるため、現状、日本のWikipediaではアカデミカルな方ほど他の執筆者の「杓子定規な」突っ込みの対象となりかねません。また突っ込むことを専門としてしている輩も残念ながら存在します。僭越ながら、そうなることを心配させていただいたのです。
- Wikipediaは百科事典ですが、欧米の学術論文に近い執筆形態が求められています。しかし一方でWikipediaは学術論文とは大きく異なります。それは、Wikipediaは不特定多数の全世界の執筆者によってつくられるということであり、査読者もまた全世界の不特定多数であるということです。この執筆と査読のくり返しによって、洗練された百科事典を作ろうというのがWikiプロジェクトです。この目的からWikipediaには独特のルールが設けられています。
- 例えば一度示した記述の根拠となる出典については、誤りがあるのであれば別ですが、誤りがないのにそれを削除する、あるいは他のものにするという行為は、他の執筆者や査読者を混乱させるものとなりますので、認められません。複数の出典があるのであれば、示されている正しい出典は削除せずに新しい出典を加えていくという方法をとります。また出典は、厳密な内容になればなるほど脚注で細かく示すことが必要であり、特に精確を期す必要があるものは、同じ本でも第何版で、どのページにあるのかまで示す必要があります。個人の情報を含んでいるようなものについては特にそうです。法令によるものであれば、第何条何項まで示す必要があります。脚注で出典を示された文節を削除または内容を改ざんする(文章の意味を変える)行為も認められません。特に個人情報を含むものなど、あるいは法令によって規制がなされているものについては厳格で、何年何月何日、場合によっては時刻まで必要です。
- また独自研究によるものも認められません。独自研究を許すとそれがさらなる独自研究を生み、収拾がつかなくなってしまいます。それはWikipediaの査読者はレフリーではないからです。
- 以上のようなことは、執筆にあたって特に注意なさるべきことかと思います。
- また自分自身の記事を作らないというのも、ご理解頂けるものと思います。しかし自身の記事を作ることができないのかといえばそうではありません。「利用者ページです。」ここは利用者のためのページです。日本のWikipediaでは現状、ほとんどありませんが、欧米では実名で利用者ページを作られている方もおられます。
- ENG0000も私も、自身の専門とするところを執筆し、特に問題点については、出典をもって記載するように心がけております。これは放送業界でいうところの「裏とり」でありますが、先生が発表されておられる文献を拝見させていただきますと、今の日本の教育界に対する御指摘がたくさんあります。これをもって(出典として)、例えば御専門であるところの「理科教育」や教育関係の記事を充実させて頂ければ幸いです。これは自分自身の記事を作ることにはなりません。学術論文で自身がそれ以前に発表した成果を根拠とするのが認められているのと同じです。
- 私の勝手な想像ではございますが、先生はコンピュータを苦手とされているのではなく、編集に必要なコンピュータ言語にいささか不慣れでいらっしゃるのではないかと思います。そのためにおわかりになっていらっしゃっても難しいという事態に陥っておられるのではないかと思います。もしそうであれば、お望みの表示となっている他のページの「編集」をクリックされ、どのようなコマンドでどのような表示になっているのかを確認され、そのコマンドをコピーされればそれで問題なくご執筆をお続けになることができるかと思います。
- 長文、僭越な発言、何卒お許し下さい。--SCCKAHAN 2010年1月11日 (月) 17:42 (UTC)
- ご親切なお便りを頂戴して誠に恐縮至極に存じます。私も今まで何とか教育に関係して参りましたが、制度としての教育以前に、人間として生きるうえでの教育はどうあるべきか、この点について、自分なりにも迷いながら今日に至っております。そこで、今後、ネットであらゆる人たちと議論できれば、と考える次第です。その前に、悔いのある人生をもさらけ出しながら、それをたたき台とし、批判を甘受しつつ、人間的成長という意味で教育とは何かを話合っていくためにも、何らかの基礎資料があればと考え、本コーナを利用させて頂き、新たに「人間として生きるうえでの教育とは、どうあるべきか」を模索したいと考えた次第です。勿論、ディスカッションは互いのパソコンを利用しながら、対等の立場で、参加者の一人として私自身も更なる人間的成長が図ることができれば、この上ない歓びと考えております。しかし、この種のパソコン操作が不得手で、なかなか思ったように運ばなかったからといえ、結果として、ルール違反であることは事実で、この段、恥じ入るとともに、何よりも大変なご迷惑をおかけしたことに対しましては、誠に申し訳なく存じております。重々お詫び申し上げます。
- いや、是非とも「理科教育」や「科学教育」「理科離れ」といった教育関係の分野に、例えばご自身がご研究され、ご発表になられているものへの対論があれば、それぞれ出典を示して、それぞれの主張を対比させるようにして、できるだけ中立にご執筆いただきたいのです。これは先生が望まれておられる「人間として生きるうえでの教育とは、どうあるべきかの模索」にはならないものでしょうか?。一番には、ご自身のプロフィールを「正式な」「森一夫」という項目に執筆されることがルール違反であり、それを他の執筆者の方も指摘されているわけです。ご参考までですが、私が主にまとめなおしました「放送禁止用語」や「表現の自主規制」などをご覧下されば、おわかりいただけるかと思います。これらの項目は、私の「悔いのある苦い人生の記録」でもあります。また、ENG0000は広島で被爆して九死に一生を得ておりますが「日本への原子爆弾投下」では、逆に自身の怒りを被爆者の共通の怒りとして記録するため、いわゆる軍事マニアの、被爆者の苦悩などさらさらわからぬ愚劣な記述を、史料を基に徹底して排除するといった執筆活動をしております。私は太平洋戦争の記憶はほとんどありませんが、新人時代のベトナムの記憶は鮮烈。偉そうに言う下士官ほど、いざとなったら塀の陰にかくれて「ママー」と震える。それどころか、部下を砲弾の飛び交う前線に自分の身代りとして押し出すのです。胴体が真っ二つに裂けた女性の死体、内臓が飛び出し、肋骨が露わとなりそれでも死ねずに苦しみもがく幼い子。これが戦場の現実。そしてそれを安全なところから「放送禁止になるから」と撮影しなかった私自身が一番許せない。パソコン操作が不得手で体裁が少しくらい悪くなっても、それは他の執筆者が直してくれることです。--SCCKAHAN 2010年1月14日 (木) 15:53 (UTC)
青木高校生様 有難うございます。一切、修訂正しないつもりでしたが、いろんなご批判に少しでもお応えしなければーという想いから、ついつい修訂正を繰り返して、結果的にご迷惑をおかけしました。頂いたご助言を今回は印刷して、今後に活かさせて頂きます。 ・2月になって「記事を箇条書きにすべきでない」など、その他、記述に関する批判がWikipedia側が出たので、それに対して真摯に対応すべく何度も修正をしたにも関わらず、今になって前言と全く矛盾する批判をするのは、本記事そのものに、予めなんらかの悪意をもって「削除したい」という予断と偏見があると感じざるを得ない。記事内容の正確性・客観性に関しても「検証可能にせよ」という要請があったため、それを証明できる資料も付加して、とうに示しているはずだ。今になってそれをいうのならば、一番最初の旧版に戻せば済む話である(その場合でも、少なくとも最小限の参考資料は示されていたはずだ)。Wikipedia編集関係者としては、予断と偏見を排して、少しでも内容・表現をよくして、一人でも多くの人に役立てようという建設的な姿勢で臨んで頂きたい。
・「森一夫」に関する類書を再度見直して、自分では、このWikipediaでは、内容的にそれほど問題でないという気持があったが、冷静に考えれば、他の人物の記述内容との関係等を勘案して、当人の意思とは無関係に、大幅に削除することにしました。一度、ご検討下さい。さらに付け加えると、本文に示されているReaD検索を用いれば、ここにある内容以上のものが示されるので、これほど検証可能性が確実なものはありません。事実、ここにある内容はReaD検索したものをプリントアウトして、その中から重要と思われる内容の一部(特に経歴・著書・論文等を含めて)だけを勝手に示したものにすぎません。他には、末尾にあるCiNiiも役立ちます。その他、Wikipedia記事に示された末尾の文献を重ねるだけでも、職歴に関する限り、この記事内容はカバーして余りあるはずです。ちなみに、ご承知かと思いますが、ReaD検索の内容は、著書や論文だけでなく、学歴はもとより、職歴、研究歴を含めた履歴の正確さが求められ、学内・学外から多くの検索があるため、万一記述に誤りがあれば、「研究者・教育者が虚偽の履歴をしている」ということで、在職中の有無を問わず、本人の所属機関(大学等)でも問題になります。したがって、ReaD検索は一般の誰でも検索可能であり、その内容が事実と異なることが明らかになれば、所属機関内でも無事ではすみません(退職していても、「大学の名誉を汚した」という理由で、名誉教授剥奪という可能性も否定できません。また、本人が知らないうちに事実でないことが書かれれば、当然、Wikipediaを含めて社会的問題になりかねません)。それ以上に当方が強い不満を持っているのは、ReaD検索やNACSIS CAT書誌検索で、経歴はもとより著書・訳書は誰でも容易に確認できるはずにもかかわらず(貴ページで、ReaD検索等を示している人物はないにもかかわらず)、当方にのみ「検証が必要」というのは、どういうことでしょうか。検証が必要と思えばこそ、誰でも検証できるReaD検索やNACSIS CAT書誌検索を当方でわざわざ添付したにもかかわらず、他の人物に対しては、著書・経歴等にそうした要求をせずに、「森一夫」にのみそれ以上を要求するというのは、実質的に「森一夫」について「書かせない」という強い意思が感じられ、それは一種の差別と考えますが、これについて、明確なお答えを頂きたいと思います)。なお、「森一夫」を知っているので、森一夫について書きたいと考えており、ペンネームも当人に近い名前を使ったことに関しては(本人の了承を得ていたとはいえ)、Wikipediaに対しても彼に対しても申し訳なく、反省しております。 要回答
・上記質問と関連しますが、本文では、著書・訳書関係はNACSIS CAT書誌検索で現れた市販書籍を挙げた上に、以前から本文末尾に研究開発支援総合ディレクトリのReaD検索に加えて、国立情報学研究所のCiNii検索まで記して客観性・検証可能を保障していたにも関わらず、貴社は改めて「客観性」「検証可能性」をなぜ求めるのか、全く不審(?)を通り越して不信(!)さえ感じられます。今回は、訳のわからない理由で、貴社に内容を大幅に削られましたが、今回も前回もReaD検索に基づいたものの一部だけのみを掲載したにすぎません。学位・経歴(履歴)はReaD検索、研究業績(著書・訳書・論文・論稿)はNACSIS CAT書誌検索に掲載されているものに限って掲載しております(逆に、掲載されていないものは、第3者として、貴ページに書きようもありません)。それゆえ、他の投稿者で、CiNiiやReaD検索をしないまま、Wikipedia本欄に記述するならば、それこそ、客観性・検証可能性という点で疑いをはさむ余地が十分にあります。誰でも閲覧できる(公開されている)ので、試みに記載人物全員(!)のReaD検索を試みて下さい。逆にいえば、貴Wikipediaga「森一夫」以外の他の人名のものは、果たして全員検証可能なのでしょうか。「森以外の他の人物は検証可能」というのならば、それが保障できる根拠は何ですか。逆にいえば検証可能性がある唯一のものは、正式に公開しているReaD検索済みの本記事(該当の同氏が勤務先の大学を通して、同ディレクトリに提出されていたと聞いております)だけということになりませんか(極論をいえば)。また、SiNiiは、本人の申告でなく、国立情報学研究所が独自のシステムで、刊行された著書・論文タイトル名と著者名をコンピュータで自動的に情報検索し、収集したものです。本文は前述したとおり本人(投稿者のネーミングを彼に因んで、近いネーミングにしたため、誤解があれば申し訳ありません)の許可を得てReaD検索をもとに、学歴・経歴・著書・訳書・論文等のごく一部だけを記入しましたが、森氏に限らず、一般に本人でさえ忘れていることが多く(年代や項目、はては自分の著書や詳しい職歴でさえ)、SiNii検索やReaD検索に勝る実証性(!)・客観性(!)を保障できるものがあれば、Wikipedia関係者にぜひともご教示願いたい(それは、当のご本人しかいないのではないか)。逆にいえば、Wikipedia辞書の人名(ただし、わが国の現存の研究者に限る)は、すべてREAD検索で確認しているのですか。もし、そうでなければ、学歴・経歴・著書等刊行物の真偽をどう保障するのですか。それは、書き手の善意に頼るだけですか(それこそ、本人が書いたという疑念も出るのではないでしょうか)。逆にいえば、NACSIS CAT書誌検索,ReaD検索、CiNIiを使えば、私に限らず、「森一夫」氏を全く知らない人物でも、本記事以上に詳細を書くことができるのです。今回、「森一夫」の記事に客観性を必要以上(!)に求め、「経歴」等の削除を求めるならば、他の研究者にも、ReaD検索以上の客観性を求めたのですか。もし、そうでなければ、森氏以外の人物には好意的で、なぜ森氏に対してだけは不信感を持ったのですか。彼に対する不信感や差別感情を抱く原因となったものは何なのか、ぜひとも教えて下さい。私が納得できれば、森氏にも伝えて、今後の戒めにするようにアドバイスしてあげたいと思います。Wikipeia編集関係者は、Wikipedia掲載の現代の作家・評論家・研究者(生存中の方に限って)等全員の著書・論文を改めてReaD検索をし、貴Wikipediaが重視され、求めてやまない(?)「客観性」を、ご自分で一度確認されることを重ねて要望します。そして、貴Wikipediaに望みたいことは、偏見を捨てて、公平・公正な態度で本ページを運営いて頂きたいということです。ー再度、要回答ー
・WikiPpediaから問題点が挙げられていますが、上記に記したことと併せて、大幅に改善したと考えております。本文でもしも不十分な点があれば、それはどこか、具体的にご教示下さい。誰でも納得する指摘であれば、当然ながら、貴意に従わなければなりません。しかし、具体的な箇所を挙げずに、極めて茫漠とした理由をもって、Wikipediaの指示に従わなかったという理由だけで、恣意的な措置に甘んじるわけには参りません。もしも貴Wikipedia編集部が抽象的な指摘だけに終わるならば、それは、Wikipediaが強調する「客観性、検証性、信頼性、公平性」に背馳することになり、自己矛盾を犯すことにつながらないでしょうか。ー再再度、要回答
・御返事がまだ頂戴できないので、再度、同じ質問を呈したいと存じます。もしも、貴Wikipediaが当方の記述に対して、今もってさらに信頼性、客観性、なかでも検証性を求められるならば、一度、貴Wikipediaがご自分で当方の「参考文献」に実際に当たってみられたら如何でしょうか。本記事にもあるReaD検索ならば、経歴(最初は「箇条書きはだめだ」、それを訂正すると今度は「無駄が多い」「冗長である」という意味の理由で、貴Wikipediaから、略歴もカットに追い込まれましたので、取り下げましたが、他の人物には許容されているにも関わらず、これこそ公平という点では、「客観性」を欠いたものと考えております)はもとより、「森一夫」の著書・論文・論稿(経歴まで)などすべて、誰でも閲覧できます。ReaD検索をすれば、これだけでもWikipediaに掲載されている「森一夫」の内容はすべてカバーして余りあります(また、出版社をとおして公刊された書籍ならば、NACSIS CAT書誌検索は誰でも、著者の名前を入れるだけで、検索できますー勿論、私版本は不可能です)。とはいえ、一般論としていえば、大した内容でないものを延々と書名・論文名を書き連ねるのも、「見苦しい」を通り越して、貴重なスペースを無駄にして、他の迷惑であり、それこそ、「大したものでないだろうに、ひけらかしてー」という悪感情をよぶだけであります。それは、もちろん、当方の好むところではありません。したがって、一応社会的にも認められていると考えられる必要最小限にとどめるのが、常識というものでしょう。私どもが理解に苦しむのは、貴Wikipediaが当方に「客観性」を求めてきたことであって、それに対して少なからず驚きを通り越して呆れているわけです。再度、質問します。他の人物の場合には、貴Wikipediaは著書の確実性の保障としてNACSIS CAT書誌検索も付されておらず、記述された経歴の保障としてReaD検索もないにもかかわらず、「客観性は保障されている」と判断する一方で、貴Wikipediaの「客観性を保障せよ」という要請に応えて、上記の検索に加えて国立情報学研究所SiNiiや、NACSIS CAT書誌検索までも引用して、誰でも当該人物の経歴・著書・論文名がわかるはずの「客観性」を高めている「森一夫」記事に限り、さらに、これ以上の「客観性」「再現性」を求める理由は何ですか。貴Wikipedia担当者の当方もしくは「森一夫」に対する何らかの好みや感情によって、特定人物の掲載の有無が恣意的に決まるのでしょうか。それとも、執拗に「これ以上”客観性”を求める」のは、「掲載したくない」何らかの理由があるからでしょうか。あるいは(考えたくもありませんが)、当方に対して何らかの感情的なことに起因する嫌がらせ(!)なのでしょうか。貴Wikipediaの信頼性のためにも、この点は避けて通れないと思いますので、貴社のポリシーに沿った内容(”客観性!”に裏づけられた内容)で、誠実なご返答を頂きたいものです。
確かに、ご指摘のとおり、事実の羅列と列挙に終わっており、貴ページのご趣旨や性格に沿っていない感は否めませんので、他の貴ページでの人物紹介を参考にして、記述部分の必要最小限度を心がけながら、必要・十分条件を満たす形で付加させて頂きました。森氏の場合、経歴が一般の大学人に比して、極めて多彩(いろんな意味で)すぎて、多くなりがちになります。ある職種を記述して、他の職種を省略したとなると、彼の人物像が歪められる恐れもあり、彼が今でも年間数十篇もの教育論稿や教育図書を明治図書その他、多くの出版社(新聞社を含めて)から出しており、学校教師や保護者を含む多数の読者から、「彼は大学教授でありながら、なぜ、学校現場の事情に詳しいのだ。誰か、多数の中学・高校の教師などゴースト・ライターに書かせているのに違いない」という投書が明治図書や東洋館出版社等に年間にしてかなり多数、寄せられてきた、と聞いております。彼は、そのことを気にしていたので、私が代わって、彼の紹介を兼ねて、「彼が学校現場の実践者出身だからこそ、学校改革を含めて、教育全般を良くしょう」という真意を広く知って頂きたいために、貴Wikipediaのお力をお借りしようと考えたからに他、ありません。中学校や夜間高校教師や校長が、常識的にいっても、教授としてハクがつくなどと、誰も考えないでしょうし、本人もそのことを一番よく知っているはずです。教育改革を含めて、学校の先生方に学習指導に少しでもお役にたつ情報を年間ウン10編も発信している彼にすれば、かつて自分が教育界でそれなりに悪戦苦闘し、それから学んだことを伝える前提となる情報を、広く教育関係者に知ってもらうことは、彼の論説の理解に役立つと考えたからでしょう。貴Wikipediaからのご指摘に、これで応えることができたと考えております。一番大きな問題は、この記事を見た彼の知り合い(数名の)が、貴記事の内容でなく、表現の細部に意見をいったので、そうした細部の手直し(内容に一切かかわらないもので、実はどうでもよいトリビアルな表現)で、貴編集者にご迷惑をおかけしたことは、幾重にもお詫びします。なお、記事内容の客観性や検証可能性は、上記「意見」で申し上げたとおりで、彼自身、朝日、毎日、読売各新聞社を含めて一般教育界によく知られて、相当な知名度があるため、少しでも客観性や検証可能性を欠くことは、教育出版社の明治図書や東洋館出版社を含めた教育ジャーナリズム界で彼自身の「命取り」になります。したがって、貴欄に掲載された内容・事項のなかで、同じく貴欄に掲げた参考資料や文献検索にない内容や事項は、全くありません。
以上、貴Wikipedia編集部の当方に対する、いわれのない敵意・偏見・不公平さ・差別等に対する不満はありますが、それでも貴意を十二分に取り入れて、大幅に改善した積りです。もしも、これで「検証不十分」というのならば、他と比して、どこがどう「検証不十分」なのか、こんどは貴Wikipedia側が具体的な裏漬けをもって「検証!」して、その説明責任を果たさなければなりません。「出典を示せ」というならば、前から「出典」を示していたはずです。当方は他の投稿者よりも、出典をキチンと示し、読者の誰でも,当方が明示した検索方法で「検証」(!)できるはずです。それでも、貴Wikipedia編集担当者がまだ前言に固執するならば、貴Wikipediaのポリシイである「検証可能性」どころか、説明責任すら果たしていないことになるのではありませんか。
青木高校生様 他の仕事もあったとはいえ、また、本ページを少しでも良い形にしなければと、しかも、昼間にご迷惑をおかけするよりも、夜間に編集をして、昼間に点検して頂ければーと、独りよがりな思い込みが、逆に思わぬご迷惑をおかけしていることを遅まきながら知った次第です。大変なご迷惑をおかけしまして、心が痛む想いをしております。知らなかったでは済まされず、ほんとうに申し訳ありませんでした。このページ作成中は、貴Wikipedia様にも、ご負担をおかけしていることに、今更ながら気がついて、自責の念に耐えません。改めて重々お詫び申し上げます。重大な内容ならばともかく、瑣末な文言や句読点の修正でも、関係者に大変なご迷惑とご負担をおかけしていることを知り(私の無知は、当然ながら私の責任です)、今になって、穴があれば入りたい心境です。今後は、余程の大幅な身分異動でもない限り(その場合でも、必ず日中に「手紙」で、ご相談させて頂きます)、手を加えないように致します(今更のことで、気がつくのが遅すぎましたが)。重ねて、お詫び申し上げます。
文章を改変したり書き加えることは、上述した内容に背馳するため、ルール違反なので、今回もまた書き加えたり、文章を変えるのでは絶対なく、貴Wikipediaからの「出典」「検証」に関する注意点(当方にとって心外であるとはいえ)に極めて忠実に、しかも誠実に他の誰からも疑問の余地がないくらい検証可能にする必要があると考えて、さらに貴意の要請に沿った積りです(しかし、貴Wikipedia掲載でここまで「出典」と「検証可能性」を徹底しているのは、本記事のみではないでしょうか。また、当方に「出典」と「検証」を求めるのならば、公平・公正を期するためにも、他の記事に対しても要求されるべきではないかと考えられます)。要は、新しい情報を付け加えるのでなく(ましてや改変するもので決してなく)、ご注意頂いた点(当方には不本意ですが)に関してのみ、ただただ「検証可能性」を満足する形で、さらに貴意に忠実に、また誠実に応えようと努力(!)したものにすぎません。これ以上に、「出典」「検証可能性」を徹底した記事は、本誌以外にないと自負しております。--221.188.251.245 2010年2月24日 (水) 15:18 (UTC) 2月についたタグの注意点について、修・訂正を試みた積りです。--221.188.252.72 2010年2月25日 (木) 13:19 (UTC)
- 出典の明記、ありがとうございました。--青木(おおぎ)高校生 2010年2月28日 (日) 12:05 (UTC)
10人の教育者(幼・小・中・高・大学の先生)がいれば、客観的な評価として、教育者として、その優劣で順番をつけるのは、よほどヒドイ教師か、よほど優れた(人格的もしくは教え方等)教師ならばともかく、その間に位置する教師間の評価は、人によっても、なかなか難しいというのが実態でしょう。しかし、「研究者が10人(全員とも専門が違っていても)いれば、おそらく1番から10番まで優劣の序列が簡単につく」というのは、大学や学会での常識です。研究成果を見れば、簡単です。研究成果といっても、中身は、第一級の研究者でも、自分と同じ研究分野ならばともかく、一歩、自分の研究領域から外れると、たちまち門外漢となるため、その研究内容の良し悪しの判断がつかない、というのが実情です。にもかかわらず、その研究内容の優劣は、どうしてわかるのでしょうか。それは、研究者である彼もしくは彼女の論文がどんな研究雑誌に掲載されているか、研究誌名を見れば、一発でわかります。研究者が争って読む研究雑誌(それが権威ある学術誌)は、それだけ投稿数も多いため、掲載される数も限られます。したがって、よほど優れた内容のものでなければ、掲載されません。その場合の審査員は当然、学会を代表する権威者集団のはずです。森氏の場合、誰でも驚くのは、自然認識の「発展」と形成に関する研究を「科学史研究」「科学哲学」誌に掲載していることで、プロの科学史家や哲学者でも、紙面の全ページ数は限られているにもかかわらず、両誌とも投稿数が極めて多く、したがって競争率がきわめて高いのです。余程、優れた内容でなけば掲載してもらえません。とりわけ、私個人が驚嘆するのは、自然認識の「発達」に関して、日本心理学会のJapanese Psychological Research誌(海外の心理学者に読んでもらうための海外版)や「心理学研究」、さらに「教育心理学研究」等、これだけでも、プロの心理学者として教授で勤まるはずです。彼は、さらに「科学史研究」(日本科学史学会編集で、これに掲載されたならば、科学史家として中堅以上)や日本科学哲学会の「科学哲学」にも、査読委員会から「価値あり」と認められて掲載されているわけです。また、教育学者ならば、「教育方法学研究」(日本教育方法学会)に掲載されることを誰もが望むはずです。大学教員の人事審査(採用、昇任)は、論文を読んで判定するのでなはなく(読んでも、専門が少し違えば理解が困難です)、その論文が掲載されている学会誌名を見ればよいのです。その点、森氏のように「自然認識の発達と発展」というテーマで、多方面で教育関係、科学史関係、科学哲学関係を代表する学術誌に掲載されているのは、その内容が各分野でも第一級のもので、彼が理科教育界の第一人者というだけでなく、関係分野でも優れた業績をあげて、国際的によく知られた人物であることを例証するものではないでしょうか。このことは、貴Wikipediaを見た読者ならば誰でも、理解することでしょう。だからこそ、よほどの大家でなければ、総説を書かせてもらえない『科学』(岩波書店)に依頼原稿を掲載し、他の有力学会である日本化学会の「化学と教育」にも寄稿を依頼されたのでしょう。したがって、理科教育・科学教育関係の大学・高校・中、小学校の先生ならば「森一夫」の名前はよく知っていることと思いますが、貴Wikipediaに示された「森一夫」の項目を見た他の読者は、他の人名録(世界でも最も有名なアメリカのマーキス人名録とまでいかずとも、国内の人名録を含めて)にはウン十年前から必ず「森一夫」の名前が掲載されているのに、彼が本Wikipediaに今まで掲載されてなかったことに、逆に驚くのではないでしょうか(この逆の場合の人物はきわめて多いでしょうが)。 そこで改めて質問させて頂きますが、「主な学会活動」で示したように、森氏が研究成果や研究活動に関する幾つかの受賞をしている事実、これこそが「特筆性」と思いますが、そうではないのですか。貴Wikipediaのご見解を承りたい。曖昧な用語で、記事を没にする口実という姑息な手段として使っていらっしゃらないことは、勿論、理解しておりますが、貴Wikipediaに示された「特筆性」こそが、貴Wikipediaが排撃してやまぬ「曖昧な言葉」に思えてなりませんので、もう少し、わかりやすく説明して下さい。
- 特筆性を証明する出典の追明記、ありがとうございました。私はあまり森先生についてよく知りませんでしたが、すごいお方だったのですね。特筆性を疑ってしまい申し訳ありませんでした。--青木(おおぎ)高校生 2010年3月1日 (月) 11:56 (UTC)
青木様 「これ以上、迷惑をかけないようにしよう。そして、できる限り、貴意に沿いたい」と四苦八苦しながら、もがいているうちに、五里霧中に入ってしまい、暗い迷路から抜け出せなくなってしまいました。青木様のお助けがなければ、ひょっとすると泡を吹いて、ひっくり返っていたかもしれません(もっとも、このようなクソ真面目というか、偏執狂的というか、我ながら、空恐ろしく、自己嫌悪にさいなまれております―もっとも、研究者の場合、失敗することの方が多いですが、自分でも驚くほどの斬新なアイデアが浮かぶことも、稀にあります。もっとも100に一つあるかないか、ですが)。お助け頂いて、感謝の他ありません。ほんとうに有難うございました。重ねて、御礼申し上げます。青木様がだんだん天使に見えてきました。 青木様 今まで大変ご迷惑をおかけして、お詫びの申し様もありません。お蔭様で、すっきりした形で仕上がりました。森氏も「自分たちの時代はすでに終わった。次の世代は、これを批判し、否定し、これを乗り越えることによって、新たな創造の契機にしてほしい」というメッセージの一助になれば、と喜んでいると思います。重ねて、青木様とWikipediaに感謝申し上げます。 ほんとうに申し訳ありません。わかっているのですが、完全なものをーということで、ついつい手が出てしまいます。自重します。--221.188.251.73 2010年3月6日 (土) 06:17 (UTC) ご指摘どおりに従いました。ただ、森一夫氏の膨大な著書・学術論文(できるだけ数を減らす努力をした積りでしたが)・論稿(同じく)は最小限にとどめる、精一杯の努力をした積りです。彼は一応、教育評論家としても研究者としても一応、知名度も高いので(朝日新聞社『知恵蔵』や『読売人名録』その他の人名録にも、そのように紹介されていますので)、この程度はご勘恕願います。また、本来他の人物の事例を持ち出すのは差し控えるべきですが、貴Wikipedia掲載の人物(教育界でも知名度の低い人物)で、その記述全部が箇条書きになっており、主語と述語から成るはずの文章がほとんどないものもあり(お問い合わせがあれば、具体的にお答えします)、また別の人物で(文豪のような人物は別として)、著書・論文(しかも、ほとんど全部が分担執筆)が延々と書き連ねているものもあり(お問い合わせがあれば、具体的にお答えします)、その点で、森一夫氏の場合は分担執筆など一切排除しているにもかかわらず、しかもNACSISCAT等、一般の誰でも検証可能であるべき書のみ挙げているにもかかわらず、貴Wikiの編集基準がダブル・スタンダードでないかという、印象を与えかねないのは誠に遺憾という印象を拭いきれません。口が過ぎましたならば、ご寛恕願います。 *報道的な価値という点で、確かに、トリビアルなことをわざわざ書き加える必要はないと存じます。したがって、原則的には以前の内容にとどめるべきだったと猛省しております。ただ、これは本記事に限ったことでなく、他の人物のページの場合にも問題になるかもしれませんが、○○助教授という場合は、現在では○○準教授というように呼称が変わっているので、注釈が必要かと思ったことも確かです。しかし、これとても固執する気持ちは全くありませんので、元に戻しても、一向差支えありません。いずれにせよ、今回、余計なことを書き足す必要は全くないので、すべて旧に復させて頂きたいと思います。お手数をおかけして大変申し訳ありませんでした。また、結果的にしても、編集の方に不快な念を与えてしまったことは申し訳なく、心から深くお詫び申し上げます。 :出典も明記して、記事内容の独自性を主張しているのだから、これでよいのではないか。
内部リンクとプレビューについて
[編集]複数回記述されている内部リンクの編集を行ないました。また、複数回に分けて記述を反映させるのではなく、記述を反映する前になるべく「プレビューを表示」を使用して投稿することをおすすめします。--218.228.200.176 2010年4月11日 (日) 14:37 (UTC) ご指摘のとおりに従います。慣れぬとはいえ、最初によく検討すべきところを、それが甘く、幾つかの出版社の依頼原稿に追われて詰めが甘くなり、ついつい手が出たことを申し訳なく、反省しきりです。これをもって最終稿にいたします。今後、手を加えれば、どんな措置をも甘受します(実例は控えますが、箇条書きの件は、まるで履歴書のようなものも、少なからずあり、名前は控えますが、もっとひどいのが多々あるのを実際に目にしておりますので、かなり自負していたつもりですがー。ただ、著書・論文・論稿の類は職業柄、まだまだあるところを、最少限度に抑えた積りです。他の多くの実例と比較して頂ければ、ご理解頂けるものと存じます)。なお、箇条書き云々の件ですが、今回の件に関していえば、本職の内容はどうしても、著作(論文を含めて)ということになります。著書といっても分担執筆の場合は、表紙等に執筆者の名前が出ないのが普通ですが、その著作物に対して直接の責任を持たねばならない単著はもとより、共著(普通は2名、多くて3名まで)の場合も、洋の東西を問わず、著者ということで認められます。NACSISCAT等で著者名が検索可能な場合は、普通、作家や学者の場合、これを著作としていますので(洋の東西を問わず)、この点もよろしくお願いします(「箇条書き云々」というご指摘はおそらく、著作物の数を減らせよとうことでしょうが、分担執筆ならばともかく、一応、当人も一応、その道4では教育評論家とか研究者として名前が出ているものなので、ご勘恕の程願います。 ・今回、実にすっきりした形式になって目を見張りました。今までの表記では、ダラダラしており、メリハリがないため冗長の感は否めなかったが、全く一新したという印象です。貴ウィキペディアでもあまり、このような例は目にしたこともありませんでしたが(見た例が数十という少数だったのかもしれませんが)、ウィキペディア・ファンの一人としても、大幅に改良して頂いたことに深謝の他ありません。 ・編集サイドの「独自研究」というのが何を意味するのか、いささか不明だが、本文はあくまでも森氏にかかわる社会活動や研究活動の「独自性」を客観的資料に基づいて述べたもので、学会で賞を得ている以上の主観的評価(具体的にには「森氏の研究内容や活動のレベルで、Wikipedia掲載に該当するか否か」)は、読み手が判断すればよいことではないか。本文の記述は、そのデータを最小限度に示すものに過ぎない、と思われるが、この点、如何。もう少し「独自研究」の意味を明らかにすべきでないか。さもなくば、編集子の主観と価値観によって投稿が左右されるという疑念も生じかねまい。
整理させていただきました
[編集]百科事典、特に人に係る記述は「公にされている事実であること」が「絶対」です。そこに編集者の主観云々は決して許されません。そもそも情報の全て、即ち「内容」が「真実」であるか否かは、情報の受け手が判断することであり、特に人については、「正しい」あるいは「真実である」と客観的根拠をもって複数の第三者が検証し、それが公にされている場合を除き、「真実性」については記述してはならないものであり、勝手に記述した場合には当然、Wikiで言うところの「独自研究」とされます。
これが他の執筆とは決定的に違うところであり、これはWikiに限ったことではなく、全ての百科事典でそうであり、世界的に共通した見解です。最悪、人に係る独自研究を記述した場合、所謂、名誉棄損で裁判に到ることもあります。
私は、Wikiの様々な難解な制約に、元ジャーナリストとして不満を持っていますが、これは全く同意です。それは全ての文献、即ち「表現」の全ては「主張」であり、そこに「完全なる客観性」は存在しない、従って人に係る公開文書に対する「評価」は、閲覧者によって「肯定」もあれば「否定」もあり、そこに少しでも自らの考え(主張)を入れるならば、被記述者の意に反する閲覧者の「過剰な肯定」と「過剰な否定」を「誘導」してしまうことになる。事実、所謂「事件報道」は「否定的主張」を入れ、読者の「過剰な否定」を呼ぶことにより、犯罪者を制裁し、類する犯罪を抑制する目的を持ちます。これが「報道による社会的制裁」ですが、社会的制裁を受けなければならない人以外について、「過剰な肯定」と「過剰な否定」の「誘導」は決して許されるものとはならないからです。
これだけの著書、論文などがある、生年月日や学位も公にされているのに、7年経っても論争のある、人に係る記事というのは珍しく、それは後世にわたり、被記述者の名誉を著しく損じるものになりかねません。私が執筆したひと方は、例えば最終学歴は東京大学修了、博士所有者ですが、おそらくは何かの事情があって一切公表されていない、即ち私を含めて「身内しか知らない」ことから、特に注意して執筆しています。特に存命の方については、ご本人の公開されている事実、また、ご本人の了承を得て公開されている「事実」が「絶対」であり、さらに業績等については、決してそこに主観を入れず「平易明確な事実」として、より多くの読者に「事実」を情報として「できるだけ正しく伝える」のが、編集者に課せられた責務です。
別件で大阪教育大学出身の方の記事をまとめていて(この方は、物理学のある分野をひっくり返すほどの業績、実際、その新知見は今、世界中の皆さんがお持ちのPCやスマートフォンにあまねく搭載されていて、知る人は知っていますが、森氏とは全く異なり、「必要最小限の」特許、論文等以外に自らの業績は一切、「公」にされていない、写真もたった1枚だけ公開のありさまですから「いかに周知の事実であっても、指名して書くと」えらいことになります。このため、公開されている範囲で慎重にまとめて記述しています。また大阪教育大学以降の学歴についてもご本人が公開されていない、ところが別の文献にそれが載っていて、これが公開されていることから、直接、ご本人に記載の可否について確認、ご相談の上、大学名を伏せて記載しています。それぐらい配慮する必要があるのが「人に係る記述」です。他、例えば「オセルタミビル」(インフルエンザ特効薬であり、まさにノーベル賞級の発明ですが。)の発明者は誰?なども、発明者ご本人の了承が得られていないことから、公にされておらず、記述されていません。)、本記事のことを思い出して閲覧してみると、まだそのままです。話になりませんから、今回バッサリ、手を入れさせて頂きました。精査したつもりではありますが、もとがもとだけに加除に苦戦、結果、編集において重要な内容=事実を落としてしまっているかも知れません。そこはご面倒ですが再精査の上、訂正して頂ければと思います。
森氏を敬愛される方の熱意ある執筆であるとは思いますが、即ち、「主観」、「大言」、「雑多難解不明確」などは、かえって敬愛する方の第三者からの業績評価(これが「将来的客観評価」になっていきます)を未来永劫、落としてしまうことになりかねません。ペンは「直接の凶器」となります。慎重の上にも慎重にご執筆なさるべきであると考えます。--SCCKAHAN(会話) 2017年8月24日 (木) 10:18 (UTC)
差別記述の削除
[編集]2015年2月7日以前の記事にあった、
~森から国際的にも初めてシンガポール側に提案。この新指導要領に基づき、具体的な自然の事物・現象で、子どもが問題意識を抱き、興味を持って問題解決活動に取り組むことにより自然認識の深化・発展が図れることを期待した学習展開の具体例を示したのが、新理科国定教科書である。その教科書下で実施された国際理科学力テストの結果、以前は9位以内の1桁台順位にも入れなかったシンガポールが一躍、世界第1位に躍進した。~
すなわち「俺のおかげで直接に教育後進国シンガポールの生徒の理科の学力が上がった」と読者がとることのできる記述を削除しました。シンガポールの生徒の学力向上、世界第一位は、シンガポールの無名無数の人々の努力の結果であり、森の貢献はそのうちのごく一部です。これは他の文献からも明らかな「事実」です。
特に「以前は9位以内の1桁台順位にも入れなかった」とは何でしょう。呆れかえります。事実ではありますが、たかだかペーパーテストの結果、しかもこれは「10位以内でなければ優秀ではない」の裏返しであり、これは全くもって根拠がないのは周知の事実、森の卑しい「人間判断基準」であり、こんな程度の低い者が社会的に高く評価されるようでは、日本の教育は終わりです。
そもそもシンガポールの国民にそのような辛苦を強いることになった原因には先の戦争もあり、従って日本国にもその責任があります。日本国の国家公務員、それも高官として赴任した者として不勉強にも程があり、日本国の恥です。すなわち、断じて許し難い、言語道断の記述です。この差別記述は教育学者、それ以前の教師としての経歴すらも全て無にするほどの重大な問題記述です。
本稿には文献精査しても出てこない内容、およそ本人しか知り得ない記述が随所にあったことから、本稿は本人記述の可能性が極めて高いと判断、このまま問題記述を放置しておこうかとも思いましたが、友人、知人による記述の可能性もあり、削除しました。
教育学者、いや…全世界全ての教師の基本中の基本であり、人間としての基本中の基本です。--SCCKAHAN(会話) 2017年8月25日 (金) 16:30 (UTC)
追記
大体、教師は、生徒に、教科書「を」教えるのではない。教科書「で」教える。=教科書を「使って」教えるもの。つまり「教科書なしでも」教えるのが教師であり、よって教科書は「何でもかまわない」。執筆者さん、教職課程でそう学ばれませんでしたか?大切なのは「教授法」ですよね。国定教科書だろうが、各先生のお手製の教科書だろうが、それはどうでもいい。いくらあれこれと専門的な難しいことを書いたところで、例えば数学の教師が、1+1=2、そう定めている理由を説明できないようではまるで話になりません。本稿の内容はそんなところでした。
この記事、直感的に胡散臭さを感じ、さらに文献精査を進めてみると、「事実の記述」までも細かく違うし…苦労しました。
私は、ジャーナリストと教師は決して不当な差別を許してはならない、まして決してしてはならない職業と若いころから徹底して叩き込まれてきました。実際のところ、教育の世界はどうなのかは知りませんが、ジャーナリストの世界では、根拠のない確信的な不当な差別をした、それを公開した者は、いかにすばらしく優れていても、一発で抹殺され、全ての業績を消され、生涯にわたり挽回することはできません。それほどまでに「差別」は重いのです。
この記事、手を付けなきゃよかった。自分の馬鹿さ加減に呆れています。--SCCKAHAN(会話) 2017年8月30日 (水) 16:05 (UTC)
特筆性がどうにもみつかりません
[編集]とは言え、手をつけた以上は何とかと思い、
シンガポールの学校理科教育に貢献。 1984年3月、政府派遣教育制度改善専門家(エキスパート)としてシンガポール教育省カリキュラム開発研究所にて、日本で言うところの理科学習指導要領及び国定理科教科書作成指導とその開発研究並びに現職教育や実践研究のありかた等について同国の校長や視学官への指導と講演に従事した。
とここまではまとめたのですが、いくら探しても信頼できる第三者(この場合にはシンガポール教育省やシンガポール政府、その関係者などということになりますが)からの、「森がシンガポールの理科教育を変えた」といった記述のされた文献が見つかりません。以前あった「森から国際的にも初めてシンガポール側に提案。」も米国の文献で覆ってしまいました。(それ以前からシンガポール教育省は検討しており、森が世界初ではなかった。)さらには、森が派遣されたのも、もともとシンガポールが理数系教育に熱心であった、それを受けての当時の文部省の判断、森は一役人として派遣されており「森でなければならない」ではなく、「森が適任」で派遣されたこともわかりました。(つまり、別に森でなくてもかまわなかった。仮に森が断っていれば、別の学者が派遣されていた。)それからこれらについて「森が賞賛された」といった記事も以前にありましたが、これらはどれも「森本人が記者に語っている」「関係者が記者に語っている」ことからであって、いわゆる一次資料であることがわかりました。
次に受賞記録ですが、日本理科教育学会では、大きな賞として、学会賞、研究奨励賞、功労賞があり、その点では特筆性があるになりますが、他の同賞受賞者でWikiの独立記事となっている方については同賞受賞に対する第三者、関係のない方による一般評価があちこちにあり、特筆性を満たしていますが、森のそれには見当たりません。つまりこれも一次資料になってしまいます。
すなわち、有意、特筆性を証明する第三者による二次資料が全く見当たらないのです。どなたかご存知であれば加筆下さい。私はもうギブ・アップで、どうにも特筆性を証明できません。
個人的には上述の酷い差別記事があったことから、本来は無関係の第三者から評価されるだけの業績を有しながらも評価されていないのではないかと感じます。--SCCKAHAN(会話) 2017年9月14日 (木) 16:34 (UTC)
2017年秋の叙勲、瑞中章を受章なさったことにより解決です。人物に関する記事はいつまでも妙なタグを張られているだけでも、ご本人の名誉にかかわります。よかった。--SCCKAHAN(会話) 2017年11月11日 (土) 01:57 (UTC)