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ノート:検地

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急速に勢力を拡大した織田信長はその領国内で徹底してこの検地を行い、農業生産高とそれに基づく課税台帳の整備に力を入れた。

このことが信長の支配領域で特にその編入初期において「一揆」が多発する原因でもあった。   

との記述ですが。
検地が「一揆」が多発する原因でもあった。という点についてですが。
 
元もと信長の勢力範囲であった畿内とその周辺は中世末の一揆地帯といえるのではないのでしょうか。
私が学生当時に、検地と一揆について学んだ記憶としては次の通りです。
『侍をして国中にあらしむへからず』といった播磨の国の土一揆から、
山城国一揆を経て『百姓の持ちたる国』となった加賀、越前の一向一揆にいたるまで、
この地域は郷村制が発達し、地縁的な惣結合が成長を遂げ、大名権力の発展をはばんでいた。
 
特に一向一揆勢力は、阿弥陀を一向に信じる他は領主の権威を認めず、同朋思想によって横の連帯をつよめ、
主従的な身分階層秩序である封建領主権力と、正面から対立していた。
それゆえに、信長は天正2年(1574)伊勢長島の一揆を鎮圧するに際して、男女を問わず2万人を『焼籠』にし、
翌年の越前一向一揆の討伐には、自ら『府中の町は死骸ばかりにて一円あき所なく候』と報じるなど、皆殺し作戦をとり抵抗の根絶をはかった。
 
この在地に根をおろした一揆と対決するためには、戦国大名的な家臣団のあり方を変革する必要があったと考えられる。
それは、いくつかの家法にもみられるように、戦国大名と家臣団の関係は相互制約的であるか、
もしくは一揆結合の様相をのこした家臣団が下から大名を規制する形を取っていたと考えられる。
信長は安土城の建設とともに直臣団とその妻子を城下に集住させ、美濃・尾張の在地からの切り離しを強行した。
この都市に集結した彼ら家臣団への、経済的補給をどう維持するのかが経済政策の根幹をなす問題であったと考えられる。
  
また、天正3年(1575)の越前国掟に『何事に於いても信長申す次第に覚悟せよ』とか
『とにもかくにも我々を崇敬して、影後にてもあだに思うべからず、我々ある方へは足をもささざるように心持ち肝要である』
などと述べているように、信長に対する大名と家臣団の絶対的忠誠が要求され、かつ実行された。
そして、ルイス・フロストの手紙によると、信長は自らを創造主に比すべき地上の神に擬するにいたったとある。
安土宗論や本願寺対策から見ても、自己を法華、一向などの諸宗の上に立つ最高権威者と位置づけたことは疑いがないと思われる。
それは単なる専制君主化ではなく、朝廷、公家、寺社などの旧権門を超越し、
武家権力による、上から下へ貫通する強力な統一封建権力を創出しようとするものであったと考えられる。
 
そして、一揆体制の解体を推し進めたのは、検地であったと考えられる。
検地により中世のきわめて複雑な土地関係は一掃されて、そこに温存されていた余剰労働等(年貢・夫役等)を統一政権に吸収する性格を持った為、
土豪・有力農民は従来のように中間搾取して武士化、領主化できなくなり、経済的に兵農分離が推し進められたと考えられる。
結果、強力な力を持った信長に領地を安堵されれば、領主の地位は安泰であり、認められなければ追放や改易の憂目にあったと思われる。
検地は強力な統一封建権力を創出する為、経済的に兵農分離をはかる経済政策の柱であったと記憶しています。
 
後に秀吉も1594年の島津領の検地等に見られるように、大名家臣団の在地とのつながりをたち、
また大名の転封に際しては家臣団をひとりも残さず移させ、検地帳に登録された百姓のみを残すよう指示して、兵農分離の徹底をはかった。
徳川幕府も大名の転封を繰り返し行うことで、大名と在地との切り離しをはかったと考えられる。
 
検地については、単に農業生産高の把握と課税台帳としての整備だけでなく、統一封建権力の樹立(中央への権力集中)の為の命題でもあった。
と、そんな風に学んだと記憶しています。かなり以前のことなので史実でなければ失礼しました。

この項目では「検地」の概要を説明し、個々の有名な検地については別項目を立てて説明するのがいいと思います。Nerimaman 2006年6月17日 (土) 21:16 (UTC)[返信]