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ノート:樋上いたる

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「いたる絵」の節について

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「いたる絵」の節の一部記述が繰り返し除去されていますが(1回目2回目3回目4回目)、要約欄やノートでの理由説明を伴っていないため除去する意図がわかりません。問題の箇所を除去することが妥当だとお考えであればまずノートで理由を説明してくださるようお願いします。--貿易風 2011年7月21日 (木) 01:19 (UTC)[返信]

除去ではなく情報を追加した者です。「出典不明・不必要な肩書きの追記のため差し戻し」とのことで一度に二つの情報が除去されてしまいました。二箇所とも「出典不明」かつ「不必要な肩書き」と判断されたという認識でよろしいのでしょうか?--Andras 2011年10月14日 (金) 03:35 (UTC)[返信]
詳しく説明します。1点目の「差の絶対値による表現技法を確立」について、出典が明示されていません。2点目の「アートにおける創作行為の神秘性を否定した」について、本記事で出典が示されていないものの内部リンク先の黒瀬陽平の記事で出典が示されているので間接的にWP:Vを満たしていると解釈することはできますが、前後の文脈を抜かして「神秘性を否定した」という部分だけを記述するのは説明的とは思えません。かといってこの記事で黒瀬陽平の確立した表現技法についての出典をつけたり彼の芸術に対する信念についてもっと丁寧に説明すればいいというより、詳しいことは黒瀬陽平の記事に任せて樋上いたるの記事では最低限の肩書きだけ抑えておけばいいんじゃないかということです。--貿易風 2011年10月15日 (土) 02:03 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございました。まず「評論家」の部分にかかる記述についてですが、論評を理解する上で論者のスタンスを知っておくことは重要です。例えば論評の内容が評論家の思想と一貫したものなのか、あるいは例外的なものなのかで文脈はまったく異なってきます。黒瀬陽平による「いたる絵」の評論を十分に知っている閲覧者にとっては自明のことであるかもしれませんが、Wikipedeliaの記事を読みに来る閲覧者の多くは違います。論評の思想背景を抜かして記述することは誤った先入観を与える恐れがあります。詳細説明はリンク先にあるため本項では要約した形での記述を提案したいと思いますので「前後の文脈を抜かして」という点について具体的にご指摘願います。次に「美術家」の部分にかかる記述ですが、出典の記載が無かったことは当方の手落ちでありました。黒瀬陽平の美術作品は彼の評論活動における基本姿勢と一貫したものであり、言説と不可分のものであるためこちらも重要な情報と認識しております。こちらについては資料の精査および出典の記述のルールをよく確認した上で、別途提案させていただきます。--Andras 2011年10月15日 (土) 10:46 (UTC)[返信]
「前後の文脈を無視して、…、説明的とは思えません」と書いたのは(カオス*ラウンジ宣言における)「アートにおける創作行為の神秘性を否定した」という部分だけをそのまま書いても大半の読者はなにがいいたいのか、本題(いたる絵の評論)とどう関係しているのか理解できないということです。
Andrasさんは
論評の内容が評論家の思想と一貫したものなのか、あるいは例外的なものなのかで文脈はまったく異なってきます
黒瀬陽平による「いたる絵」の評論を十分に知っている閲覧者にとっては自明のことであるかもしれませんが、Wikipedeliaの記事を読みに来る閲覧者の多くは違います
と書かれていますが、黒瀬陽平やらいたる絵やらについての知識の無い人を読者として想定するWikipediaだからこそ、「神秘性を否定した」という前書きだけ単純にぽこっとつけてもそれが評論の内容と一貫しているものなのか例外的なものなのかを読者は判断のしようがありません。そもそも現時点では「黒瀬陽平は『いたる絵』と『情念定型』を結び付けて論じている」という客観的事実が書かれているだけで具体的な評論内容自体は記述されていない状態なわけで、出典元の批評文に「差の絶対値による表現技法」「アートの神秘性を否定する黒瀬のスタンス」といったことと関連性のある論点が含まれているとお考えでしたら、(WP:NORに抵触することなく)関連性が読者に伝わるような形でその部分を加筆した上で肩書きも追加するという手はあるかもしれませんが、現状のままで単純に肩書きに前書きをつけるだけでは読者にとって有益とは思えないです。また、
論評の思想背景を抜かして記述することは誤った先入観を与える恐れがあります
については、どちらかといえば(現状では本題とどう関係しているかわからない)「アートの神秘性を否定」というところだけをことさら強調するほうが読者に不要な先入観を与えるように思いますし、すでに述べたように具体的な評論内容自体が記述されていない現状では、読者が黒瀬の批評内容に関してなんらかの誤解をする余地は無いんじゃないでしょうか。--貿易風 2011年10月16日 (日) 03:21 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございました。少しお話が変わってきましたが、より問題点が明確になったということでひとまず話を進めさせていただきます。思想の説明が不足しているのではなく、評論内容と黒瀬陽平の思想背景との一貫性が分かりにくいのではないかということを危惧されているのですね。評論内で援用されている情念定型は、アートにおける視覚的な情動表現にフォーマットを見出す概念ですが、これは黒瀬陽平の「アートに神秘性などない。人間の知性も感性も内面も、すべては工学的に記述可能である。」という主張に沿うものです。したがって、「いたる絵」に対する評論と彼の持論との間に一貫性があると判断しました。
黒瀬陽平やらいたる絵やらについての知識の無い人を読者として想定するWikipediaだからこそ、「神秘性を否定した」という前書きだけ単純にぽこっとつけてもそれが評論の内容と一貫しているものなのか例外的なものなのかを読者は判断のしようがありません。
この点は確かに改善の余地があると理解しました。いきなり結論部分を引用するのではなく、後半部分の「人間の知性も感性も内面も、すべては工学的に記述可能である。」とした方が関連性がわかりやすくなりますね。--Andras 2011年10月18日 (火) 09:58 (UTC)[返信]

(インデント戻し)思想背景については、前書きをつけるなら後半の「人間の知性も感性も内面も、すべては工学的に記述可能である」というところを書いたほうが関連性がわかりやすくなるということに同意します。--貿易風 2011年10月19日 (水) 02:30 (UTC)[返信]

黒瀬陽平の「美術家」という肩書きは評論との関係が認められないため削除しました。--Andras 2011年10月25日 (火) 00:41 (UTC)[返信]