ノート:気
すいません、「漫画の気」とか題されている項目についてですが、これは気そのものを論じる記述とはなんら関係ありませんけどどうにかなりませんか。どうせ漫画の話だしそのまま除去しても構わないのではないのかと… ただ、こちらはよく嫌がられる「削除屋」じゃあないですからいちいち消したりはしませんけど、これは記事上全く意味をなしませんしどう考えればいいのやらなんですけど。--東京大仏 2008年7月20日 (日) 06:09 (UTC)
「漫画の気」と題されている項目についてですが、削除こそしませんが失礼ながら敢えてコメントアウトとさせて頂きました。漫画の話をする記事は違いますから… --東京大仏 2008年8月9日 (土) 01:17 (UTC)
現状、当該節は情報量が少ないのでコメントアウトでも構わないとは思いますが、漫画に関することだから重要ではないとか、事典的ではないとか、不真面目である、ということはまったくありません。サブカルチャーに関することでも、同様に記事の対象になります。したがってその点には大いに異議があります。そうではなく、漫画の気について記述するべき内容がそれほどあるのか、記述として発展性があるのか、という点から問題にすべきでしょう。--Clinamen 2008年8月9日 (土) 02:20 (UTC)
そうですねえ、気の説明に入って道家、儒家と来て、その後仏家かなと思ったら漫画ですから読んでて面食らったわけです。まあ記事の編集の対象になるのならこのままで良いかとも思いますが、受容があるならコメントアウトから外して記事中に受容しましょう。今は取り敢えずこのままにして置くという事で宜しいんじゃないでしょうか。 --東京大仏 2008年8月9日 (土) 03:32 (UTC)
欠陥か?
[編集]気#儒教の気にて
朱熹は、人間の死を気の離散とし、いったん離散した気は元に戻らないと考えた。しかし、弟子に「では、祖先祭祀はどうして行うのか」と問い質され、これは朱子学の重大な理論上の欠陥となった。
とありますが、孔子は「死後に霊魂は存在するか」と訊かれた際に「在ると言えば孝子が、無いと言えば不孝者が親を殺しかねない。」と答え、霊魂の存在は肯定も否定もせず、現世中心的・実利的な観点から祭祀を社会の骨組みとして位置づけています。そのような儒教の枠組みと朱子の論が矛盾するものではないと思われます。--Extrahitz 2008年11月3日 (月) 02:44 (UTC)