ノート:河内源氏
記事中の記述について疑問 5点
[編集]「源義家(八幡太郎義家)の時に、前九年・後三年の役で、坂東武士を傘下におさめ」という説の実態は何を指しているのでしょうか。1961年においてすら安田元久氏は、源氏の基盤といわれる関東においても在地領主との間に所領支配に基づく主従関係は認められず、そうした関係は12世紀の義朝期まで下がらなければならないと「古代末期における関東武士団」でおっしゃってるそうですが。また近年、いわゆる「都の武者」の研究から義家が率いた直轄部隊のほとんどは「都の武者」であり、三浦、鎌倉両氏においても「京コネクション」であることが元木泰雄、野口実氏らによって明らかにされていますが。
「河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東へ下ったのは、頼信が兄の頼光の摂津源氏との活動基盤の競合を避けたため」というのは何方の説でしょうか。
次ぎに、「義家の四男源義忠が叔父・源義光の策謀で暗殺された」との説は確かに「尊卑分脈」にはありますが、あれは一次史料ではなく、またそれ以外には見あたらないと思いますが如何でしょうか。
「義朝は、勢力回復を企て、平治の乱を起こし」もあたかも義朝が平治の乱を企てたかのような印象であり、確かに武士の抗争だけで歴史を解釈する古典的な説(「平家物語」史観とも)ではそのようにいわれますが、実際には旧鳥羽院近臣のなかでの信西とそれに反発するグループとの抗争であったことが明らかにされています。Wikipediaでも平治の乱の項はその事情をしっかりと書かれていると思いますが。
「兄の義忠の死後、義時は河内源氏の棟梁を望んだ」というのは当時の史料にあるのでしょうか。
(--KTMCHI 2007年12月1日 (土) 17:04 (UTC)
- 情報 上記投稿で議論の対象となっているのは、主ページの2007年10月4日 19:31:11 (UTC)の版(固定リンク/15289129)です。ご参考までに。--Yumoriy(会話) 2024年4月21日 (日) 13:21 (UTC)