ノート:法勝寺

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質問[編集]

松尾剛次氏の『勧進と破戒の中世史 中世仏教の実像』(吉川弘文館、1995年、 ISBN 4642027505)によれば、法勝寺は嘉暦元年(1326年)に円観恵鎮)が後醍醐天皇によって勧進職となり同寺の再興に務めてその功績によってそのまま住持となり、特に暦応5年(康永元年)の火災を機に当時延暦寺とは一定の距離を置いていた天台宗の恵鎮門流の拠点としての地位を確立したとなっており、同年の火災で廃絶したのではなく、もっと後世のことではないのでしょうか?。--水野白楓 2007年9月1日 (土) 02:33 (UTC)[返信]

私が参照したのは『岩波講座 日本通史 中世1』(岩波書店、1993年)にある五味文彦「院政と天皇」で、1342年の焼失後法勝寺は再建されなかったとあります。ただこの論文は法勝寺に4ページ余り割いているものの、主題は寺院ではなく、特にこの再建されずの箇所は一文のみです。水野白楓さんが挙げた本によって書き直すのがよいと思います。--Kinori 2007年9月1日 (土) 03:15 (UTC)[返信]

松尾氏の著書を初め、『国史大事典』の「円観」及び「法勝寺」・『日本史大事典』「六勝寺」・『京都市の地名』(日本歴史地名大系27)の「法勝寺跡」の項目を参考に加筆しました。五味文彦氏の著書について拝読していないので軽々しいことは言えないのですが、円観以後「国王の氏寺」としての役割から離脱して、彼を中心とした天台宗の一集団の寺院にその歴史的役割を大きく変えており(勧進職が廃止された後も円観が引き続きの止住して個人として再建にあたっているということは、ある意味において朝廷による法勝寺への直接関与からの撤退とも解釈できます)、康永元年の火災をもって六勝寺の1つとしての法勝寺の歴史が終わったと見ることも可能ではないかと思われました。--水野白楓 2007年9月5日 (水) 11:29 (UTC)[返信]

ありがとうございました。他に加筆・改稿の必要がありましたらぜひお願いします。--Kinori 2007年9月5日 (水) 13:16 (UTC)[返信]