コンテンツにスキップ

ノート:流星 (航空機)

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「艦上攻撃機流星」が正しいのでは?--KZY 2004年7月2日 (金) 15:07 (UTC)[返信]

海軍では急降下爆撃のできる機体は「爆撃機」そうでない機体は「攻撃機」としていました。「流星」は艦爆に分類される筈です。「艦上爆撃機流星」か「流星艦上爆撃機」かはまた別の話ですが。martin 2004年7月9日 (金) 11:28 (UTC)[返信]
普通考えればそうですし、名称的にも星なのですが、一六試艦攻として開発されていてB7Aなので艦上攻撃機というのが正式と思われます。一般的に書籍でも艦上攻撃機としている場合が多いと思います。名称は機種が先に来るのが正式です。KZY 2004年7月10日 (土) 08:15 (UTC)[返信]
とんだ知ったか振りをしてしまいました。御教示ありがとうございました。martin 2004年7月13日 (火) 15:23 (UTC)[返信]
10年以上も前のノートにレスするのも何ですが、流星が艦爆なのか、それとも艦攻なのかについては海軍省と海軍とで見解の相違があるようです。海軍省の行政文書に内令兵というのがありまして、その昭和19年11月20日付 海軍省内令兵第87号(軍極秘)では、試製流星の記事として「艦上爆撃機(誉発動機一一型又ハ一二型装備)」と明記しています。一方海軍の組織である第一海軍施術廠(旧海軍航空技術廠)が連合国に提出するため昭和20年8月22日付で調製した『海軍現用機性能要目一覧表』(アジア歴史資料センター Ref.C08011006300)では、艦攻の欄に「天山一二型 B6N2」と「流星 B7A1」があり、艦爆欄には「彗星三三型 D4Y3」があるだけです。さらに同日付で同廠が併せて調製した『海軍試作機性能要目一覧表』では、艦爆欄に「試製流星 B7A1」と「試製流星改一 B7A3」があります。なお、どこを探しても記事本文にあるような「流星一一型」なる航空機名はありませんし、昭和19年以降に施行された海軍省内令兵では試製流星を兵器として採用したとするいかなる法令も存在しないことを付記いたします。219.116.110.18 2017年9月1日 (金) 17:24 (UTC)[返信]

流星が登場する作品[編集]

ただ単に出てくるだけでは載せるべき物ではないのでは?主役級以外は必要ないと思います。--123.230.200.149 2010年8月21日 (土) 04:26 (UTC)[返信]

量産型はB7A1か?B7A2か?流星改とは?[編集]

海軍省内令兵第87号(昭和19年11月20日)や、海軍試作機性能要目一覧表(昭和20年8月22日、第一海軍技術廠調製)のように敗戦時焼却を免れた海軍文書では量産型は試作機を含めB7A1と明記され、海軍機略符号一覧表(昭和20年4月、海軍航空本部)では「試製流星改B7A2」は誉二三型装備の発展型であると書かれています(歴史群像シリーズ 帝国海軍艦上機・水上機パーフェクトガイド 古峰文三 学習研究社 2006年)。 その一方で、愛知の資料では量産型はB7A2と書かれており(秋本実 本土防空の勇者を目ざして P292)、渡辺洋二の「重い飛行機雲(文藝春秋)」においても横須賀空・第二飛行隊の薬師寺一男大尉が実用テスト「流星改の主務を命じられた」(P199~P200)とあるように、流星改が紙面上の文字列ではなく、実体化していた事が記されています。また同書のあとがき(P345)には、『飛行機ファンに読んでもらうには背景になる「流星改」装備飛行隊の実写描写が不可欠だ。1981年に数名の元隊員に取材していたが不十分なので、あらたに搭乗、整備両方の方々に助力を願った。予想以上に充実した談話、資料の提供を受け、攻五ストーリーとしても読み得るものに仕上がった。』とあり、海軍公式文書だけを追いかける古峰文三とは一線を画する、入念な取材が行われていた事がわかります。これらの事柄を、海軍の公式文書に無いからと切り捨てるのは、歴史を扱う謙虚さ慎重さに欠け、一次資料の扱いについてwikipediaの公式見解に照らしても古峰文三の説より、渡辺洋二の説を取るべきと考えます。--ジーニハルト会話2024年6月3日 (月) 02:38 (UTC)[返信]

客観的に見て古峰文三の主張は、関係者が存命だった頃には見られなかったもので、関係者が寿命を迎える頃に広まり始めた。古峰文三がまだ雑誌記事を書く以前の無名時代にBUNの名前で warbirds Ans.q に書き込んだを内容を見ると既に同じ主張を展開しているが、あくまで記録書類を調べただけで存命関係者へ取材した形跡はなく、当時有名だった軍事ライターの秋本実を揶揄して邪推を書き、間違いであると断言している(下記抜粋参照)。
この事からも古峰文三には、関係者への取材に基づく書籍や、「量産型はB7A2」であると記した愛知の資料、また米軍進駐前に急いで焼かれた海軍書類等は念頭に無いのが明らかである。もはや自説の提唱者であり、利害関係の当事者であって公平な立場を失っている。
warbirds Ans.q の抜粋

http://www.warbirds.jp/ansq/1/A2000983.html

『流星改は間違い、ということはあの秋本実先生も認めており、最新の著書では「流星改として制式採用・・・」といった記述は姿を消し、何の弁明も無く「流星」と呼び始めています。私はAns.Qの初期の頃から、「流星改」は制式名称ではない、と主張してきましたが、そもそも流星改という名称自体が海軍の生産計画や試作計画に殆ど使用されていないのです。誰が調べようと、流星は流星改ではありません。むしろ流星改と言った場合、ハ43搭載計画を指す場合が多いようです。どちらにしても斯界の御大が手のひらを返して改められましたので、流星改の名もじきに廃れることでしょう。BUN』
古峰文三はまた、イカロス出版 ミリタリークラシックス 2022年6月号 で彗星の翼型について「翼根が旧来翼型、翼端が層流翼型」と設計者の解説と逆の事を書き、謝罪も訂正もしておらず信用できない。--ジーニハルト会話2024年6月13日 (木) 05:29 (UTC)[返信]
逆になぜ、戦後しばらくは『量産型はB7A2/流星改』論が広く受け入れられていたのかを考えると、海軍残存文書との矛盾からすれば一種のミステリーである。
関係者が存命で、取材はもちろん発行図書への指摘、反論が可能だった時期に長らく統一見解だった事は重く見るべきで、仮説として考えられるのは
『試作機審査の現場において過去の慣例、実績から量産型はB7A1ではなくB7A2に該当するという判断がなされ、現場では愛知を含めて共通認識となりB7A2/流星改と呼ばれたが、海軍上部機関への反映が遅れ、上部機関発行の文書には残らなかった』
通常この手の事は上層部が積極的に全てを把握するより、下からの報告を受けて吟味決定する場合が多く、また、誤記があれば軍に怒られる緊張感の中で書かれた愛知の資料も軽視するべきではない。なお流星一一型については重い飛行機雲P209において『一三一空は便宜上、書類に「流星」一一型と架空の型式を記している。』とあり、関係者への取材なくしては得られない貴重な情報となっている。--ジーニハルト会話2024年6月13日 (木) 07:19 (UTC)[返信]