コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:浅虫温泉

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

情報源についての要検証

[編集]

この編集で追加された下記文献について。

  • ふるさとの文化遺産『郷土資料事典』2、30頁、人文社

適当なテンプレートが見当たらず「要検証」としましたが、書誌情報が不足しておりちょっと特定できない感じです。書誌情報を求めます。(加筆をした利用者:パン粉とパン粉は無期限ブロックされたちょっと筋が悪い利用者なのですが、情報源的には「ほんとっぽい」感じはします。)

  • 「郷土資料事典 : ふるさとの文化遺産 2(青森県)」ゼンリン(1998)
  • 「ふるさとの文化遺産 第2巻」木戸書店(1985)

出版社が違うのでこれらではないでしょう。

人文社の「郷土資料事典」というのはあるのですが、「郷土資料事典青森県・観光と旅」というようなタイトルで版を重ねており、国会図書館でみると1970、1980、1983、1985のものが確認できます。が、これらには「ふるさとの文化遺産」とは冠されていない?ようです?1990年代のものは「 ふるさとの文化遺産郷土資料事典」というタイトルで刊行されているかもしれませんが、どこかの時点でゼンリンに移っているようです。

出典自体は温泉の効能についてのものなので、別の情報源で代替可能ならばそれでもいいです。

報告別情報源で代替し、解決。--柒月例祭会話2018年5月11日 (金) 12:28 (UTC)[返信]

善知鳥隧道について

[編集]

Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/浅虫温泉 20180711で指摘した通りですが、出典に明治期に作られた隧道の記述が見当たりません。おそらく、明治期は隧道を掘ったのではなく、単純に断がいを削って海岸沿いに道を通したのではないでしょうか?--切干大根Note2018年8月8日 (水) 15:06 (UTC)[返信]

返信 お返事遅くなりましてすみません。選考にかかっているのを見落としていたのと、しばらく留守にしていたのとで遅れてしまいました。すみません。じっくり読んでいただいたこと、ご指摘に感謝します。ひとまず「当座の」お返事をします。(最終的なお返事には少し時間をください。)

  • まず、ご指摘部分での私の出典の示し方にはたしかに不備がありますね。そこで示している情報源(陸奥新報)には「トンネル(隧道)」についての言及はないですね。
  • ただ、現時点ではこれは「私の記憶」でしかないのですが、参照したいずれかの情報源にはトンネルの事も出ていて、絵図面なんかも見たような・・・。
  • 当座のこととして、「信頼できる情報源」ではないのですが下記のようなものがあり、<「明治天皇が通るときにトンネルを掘った」という話がある>ことは私の妄想や誤読ではなさそうかなあと思います。
  • 個人ブログに現地看板の写真があり、明治9年の巡幸でトンネルが開通した由の記載があります。
  • (たぶん割と有名な)個人サイトにも現地探訪のことが。昭和8年のトンネルのこと、それに先立つ「明治初期」の「初代隧道」が「巡幸」に際して掘削された旨の記載。いずれのサイトでも、いまでは明治の隧道の痕跡も見当たらないようなことが書かれていますね。

報告まず、端的に「1876年(明治9年)にトンネルが開通」と明記されているものとして『青森県百科事典』p115「善知鳥崎」がありました。

  • 厳密には、そこには「明治天皇巡幸のために掘った」とは書いてはいないのですが・・・下記もあわせて、「巡幸のため」としてもいいかなあと考えました。厳密には「情報の合成」ですけれど・・・。
  • 『角川地名辞典』p163「善知鳥崎」 - 「明治9年明治天皇巡幸以前は梯を設けて通行した」
  • 陸奥新報 - 「天皇ご巡幸の前(中略)断がいを削って今の国道を通した」
  • 『角川地名辞典』には、明治24年の鉄道トンネルについての情報があったので、これをベースに表現を見直しました。
  • 『角川地名辞典』・『青森県の歴史散歩』にはこれを「善知鳥トンネル」と表現しています。が、「信頼できる情報源」ではないのですが件の(たぶん割と有名な)個人サイトによる現地写真等では「昭和8年竣工の善知鳥前隧道」、鉄道の旧「久栗坂隧道」が掲載されています。ここらへんも踏まえて「善知鳥トンネル」という固有名詞には触れない形にしました。そちらのサイトでは、鉄道の新トンネルの開通と、旧トンネルの国道供用には13年のタイムラグが有ることや、その間の利用方法についても言及があります。『とうほく廃線紀行』という文献に情報があるようです。
  • ちょっと紛らわしいのですが、いま現在は国道4号・青森東バイパスが通じていて、その「久栗坂トンネル[1]」というのがあるのですが、これは善知鳥よりも2kmほど青森寄りにあります。「久栗坂」という大字がだいぶ広いのですね。また現在の鉄道トンネルは「浅虫トンネル」です。
  • ここらへんのトンネルの名称・変遷については、私の手の届く範囲ではあまり詳述できませんでした。きっと鉄道系・道路系の執筆者の方の守備範囲だろうと思います。
  • これは完全に私の凡ミスですが善知「鳥」を「島」とする誤記を見つけてしまいました。--柒月例祭会話2018年8月10日 (金) 12:55 (UTC)[返信]
  • 報告『青森県史(九)』(歴史図書社発行、青森県編)、p.165-166の明治七年九月廿日の項目に、県が内務省に開削を請願した件が載っていました:

十四年前に村費を以て現今海岸の道二十八間余の絶壁切り開き通行致し候ところ、路幅わずかに三尺余にて人馬通路も難相成り、(中略)此度右岩壁打ち崩し道幅相広げ行く人の永利相起こしたく……

(このあと、図面と工事積算を添付したので官費で負担してほしいという陳情が続く。『県史』には該当する図表は付いていなかった。)
  • また、『青森県の近代化遺産:近代化遺産総合調査報告書』(青森県教育庁文化課編、青森県教育委員会発行、2000年)p.82によると、明治七年、県は内務省に岩を切り開くことを請願し翌年二月に許可された、旧道は幅五メートル程度で山側を削り海側を埋めたもの、とありました。(『近代化遺産』では、現地の案内板にトンネルを掘ったと書かれているがその間の事情は分からないと言及あり)
  • 『青森市・野内村合併二十周年記念誌 のない』(青森市合併20周年記念事業実行委員会発行、昭和58年1月)p.18によると、明治天皇行幸の時、とうまい の崎を回らせて崖を削り車が通れるようにしたと記述有り。
  • 二万五千分の一地形図『淺虫』(国土地理院,1913年(大正二年)発行)(大正元年測図)では、善知鳥前に隧道はなく、崎を巡るように国道が通っている。
  • 情報を総合すると、天皇行幸を契機として道路整備が行われたのは確かですが、明治9年の改修では隧道を作っておらず、拡幅を行ったもののようです。--煮凝り会話2020年8月14日 (金) 14:35 (UTC)[返信]