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ノート:清洲会議

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勝家が信孝を清洲会議で推したとする説について

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「織田信長家臣人名辞典」ISBN 978-4642027434によりますと「一般に清洲会議で勝家が信孝を後継者として推したとされるが、これは「川角太閤記」のみの記述であり、後に結果的に信孝と組む形になった事実からの憶測の可能性が高い」とあったのですが、太閤記以外で「勝家が信孝を清洲会議で推した」という記録はあるのでしょうか?別に前述の本の記述を全て鵜呑みにしているわけではないし、川角太閤記の信憑性がどうこうって部分を議論するつもりはないのですが、本当に信孝を推したとするなら、他の記録にもたくさんあっていいような重大な出来事だと思うので、ちょっと気になりました。詳しい方の補記をお願いしたいです。--ポテンシャル0 2009年10月20日 (火) 13:11 (UTC)[返信]

柴裕之氏の『清須会議』を元に加筆をしたのですが、同氏も『川角太閤記』の創作とする見解を取っております。柴氏の見解は元々織田信忠に何かがあれば三法師が継ぐ事は織田家中の合意が成立しており、(京都でも岐阜城でもなく)清洲城で会議が開催されたこと自体が、織田家の次期当主である三法師の前で今後の織田家の方針を定めた会議だから(信雄と信孝が争ったのは三法師が成長するまでの名代の設置に関するもので、後継者を争った訳ではない)と書かれております。--水野白楓会話2018年12月12日 (水) 12:26 (UTC)[返信]