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ノート:清洲同盟

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「結ばれるまでの経緯」について、「関東の北条氏康や甲斐の武田信玄に対する抑えへの対抗策」とありますが、同盟締結時の東方における第一の驚異は今川氏であったはずでは?この時期は未だ武田氏の驚異は差し迫っていませんし、さらに東方の北条氏となれば尚更です。--211.10.139.99 2007年8月16日 (木) 23:52 (UTC)[返信]

それだけ信長と家康は今川は勝手に消滅するような家で別にさしたる脅威ではなかったのでそれだけ後のことを読めていたのでしょう。--おっかー 2008年3月19日 (水) 06:20 (UTC)[返信]

同盟関係の終焉について

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「清洲同盟」の終焉について、本能寺における信長横死による自然解消とありますが、これはどうでしょうか?信長死後も小牧・長久手合戦において織田信雄と家康が連携しているなら、同盟関係は持続していたとみることもできるのではないかと思います。武田氏では、武田信虎追放後や桶狭間における義元死後などにおいて同盟関係の確認という手続きが行われているのですが、信長と家康の同盟関係の場合はどうなのでしょうか?--でここ 2011年1月13日 (木) 23:26 (UTC)[返信]